父親
地に伏せる。顔が、視界が、透き通る青の煌めきのさざめきに滲んで行く。鉱物の海が波立って、意識までもが曖昧になっていく。
誰の声だろう。懐かしい女の声が二つ。この世界で生きるための支えの彼女の名前を必死に声にしようとするも、果たして響いてくれただろうか。
曖昧だった意識の底から見上げる世界にはクラゲがいて、更に向こう側には魚たちが泳いでいて、それらを纏め上げるのは誰だろう。魚の群れに混ざって泳ぐ王冠を被ったクジラは堂々とした佇まいと如何にもといった姿をしているものの、彼らの動きの軌跡からは統率の影は尾を引いた感じを見て取ることが出来なかった。
「俺の意識ははっきりとしているのかそれと」
言葉の先は空に透けて消え去ってしまう。曖昧なのか、誰にともなく訊ねたかったそれは声にすらならない。そもそもここで口にしているつもりの言葉がリニやマルクに届いているか、それさえ分からない。
クラゲたちが傘を寄せ合って行く。互いに触れそうなまでに距離を詰めた次の瞬間、ジェードルの脳裏に電撃の如き衝撃を瞬かせる。
隙間に、空気の中に電気を放って互いの意志を伝わらせているよう。ジェードルの頭脳に電気が言葉となって入り込む。
――そこの電気信号が揺れている女を狙おう
――拳銃を持った女
更に異なるクラゲたちもが身体を寄せ合い情報を共有していた。走る電撃を目で捉えるだけで彼らの会話がつかめてしまう。
――もう一つ微量ながら強い気配
――地面にあるな
それは盗み聞きのような心地で軽い罪悪感をもたらすものの、恐らく回数をこなせば罪を認識する感情も薄まっていく事だろう。クラゲたちが共有し合っている対象がメリーの事だと気が付くや否や手を伸ばして立ち上がるものの、視界が収める景色は何一つ変わらない。斧を構えてみても重みの心地は変わることなく、走り出してもなお目に映る景色は変わらない。
感覚だけを頼りにクラゲの傍に来たのだと思いながら斧を振り下ろす。
遠く感じる至近距離の金属の殻は鈍い音を立てて割れ、更に蒼黒い斧を振り回すと共に固い傘は凹み、歪な姿を見せながら砕け散っていく。
地面を這う鉱物生命体のヤドカリを目にして飛びつくように迫っては斧で地を抉るようにヤドカリを斬って、飛び散る土と青く透き通る結晶の水しぶきを目にして命が崩れる音を耳にして、ジェードルは意識を落ち着かせる。
気が付いた時には世界と己のズレは収まっていた。生々しい痛みが蘇り、すぐ傍で治療を施している人物がいるものの、その人物から掛けられる声は耳に蓋を被せているような心地を得る程に聞き取りづらい。
やがてその人物が立ち上がった事を気配で見て、更なる言葉が飛んで来るものの、それもまた聞き取る事など叶わない。
ジェードルは脳に大きな疲れを感じてそのまま意識を透き通る鉱物の海の中へと埋めてしまった。
ジェードルがクラゲに刺されて倒れた時の事。あまりにも明るいそこでは目に見えないものは速度だけ。ジェードルがあっさりと敗れてしまう事が想定の中に無かったのか、慌ててリニが駆け寄る。
「ちょっ、私の大事な人を奪ってんじゃねえ」
ジェードルを再び襲おうとしているクラゲに手早い一撃を与える。蒼黒い残像はクラゲを叩いても震えることなく、しかしリニの身体はいつもと異なる心地を踏んで均衡を崩す。
更に寄って来るクラゲが太陽の光を纏いながら触手を持ち上げ、リニの方へと狙いを定めたその時、大きく不快な爆発音が響いた。金属が内側から弾ける鈍い音はクラゲの活動を止めて地面へと落としていく。
「危なかったんじゃないかしら」
長い金髪を左手で掻き上げながら寄って来るメリーを睨み付けるリニの姿がこの上なくみっともない。
「大事な人を守るためにこそ冷静にいるべきよ」
「んな心の無い理想論、私じゃ形にできないね」
メリーがため息を吐く。重ねるようにため息を吐く声には男の音が窺えた。そこからすぐさま空気を破る怒鳴り声に二人揃って肩を震わせた。
「二人とも感情を抑えて立ち向かえ」
マルクの恫喝は彼の感情由来というよりは二人の感情に訴えかけるための行為のよう。メリーが再び拳銃を構える頃にはリニは足を踏み出しクラゲに斧をぶつけていた。
「感情を抑えろ、感情を抑えろ、感情を抑え」
繰り返し呟く姿を見てメリーはマルクの本当を知った。彼の話によれば血は繋がっていない。とはいえ大切な息子である事には変わりないのだ。
ジェードルの脇腹を観察し、ピンセットを取り出して肉に刺さっていたり残っている土や金属片を取り除き、告げた。
「これから緊急的な手段を取る」
「たかだかわき腹怪我しただけじゃない」
不満を露わにして放たれたメリーの言葉に言葉を塗り付ける。
「ジェードルには必要なのだ」
沈黙が流れる。メリーはマルクを数秒間見つめ、頷いて拳銃を構える。戦場ではその数秒間が命を落とす原因になってしまう事もあるのだと諭したくなる気持ちを抑えてマルクは目を閉じる。
――結合よ、強固たる姿を取り戻せ
マルクは祈りを見えない空に捧げながら、瞼の裏に描いた偽りの大空という己の世界を作り上げ、そこへと向けて意志を固めて呟く。
「再生を、高速再生せよ」
静かながらに重々しい呟きがこの世に零れ落ちる。在りもしないはずがいつの間にかそこに出来ていた静けさに一つの波紋を立てていた。
メリーはまぶたをひくひくと攣るような感覚で動く様を、張り付いた空気感と一つの大きな磁場の発生を全身で捉え、リニに言葉を投げかける。
「全力でお守りなさい、クラゲは今から私とジェードルとマルクを狙うわ」
リニは大きく頷きながら斧を振り回していた。言葉を挟み込む余裕すらない事を窺いながらメリーは固唾を飲んで瞳を閉じる。
「ブレインブレイク、コーディネイト、834、021、3863」
目を開いて引き金に掛けられた指に力を込め、その度に爆発音が生まれる。その数六つ。その事実にメリーは驚きを得てしまう。
「数が合わないわ」
四発しか打たなかったはずの弾が生むはずの無い破壊を生んでいるように見受けられた。
「私じゃない」
頭が砕けて地に倒れているクラゲだった鉱物を四つ数えて座標の視界の範囲外へと目を移そうとした時、視線の目標地点が破裂を起こした。
――この磁場、何が
土が舞い、薄青く透き通った金属が水しぶきのように散る。それと共に鉱物生命体のヤドカリが殻を破られ本体が砕ける場面に遭遇。拳銃を握る手に込めていた力が緩んでしまう。指の隙間から逃げ去るような心地は意識の外側を漂っていた。
「あのクラゲ」
二つ多めに倒されたそれは明らかに斧で斬り付けたような鋭い傷と周辺の凹みを力を受けた跡として頭に残している。
「縦に一発と横薙ぎ一つ」
口にして状況を理解に落とし込んでいるメリーの後ろで金属同士が打ち合う時に起こる独特で不快な鋭い音が弾けた。
「何ぼーっとしてんのさ」
厳しくも温かな声がリニのものだと示してくれる。彼女は踊るようにひたすら斧を振り回し、青空の下に濁りのような蒼の残像を描いて。しかしながらそれはすぐさま空に溶かされて失われ、引き換えにクラゲの死骸を増やしていった。
マルクがジェードルを背負って駆け始める姿を目にしてメリーも共に進み始める。引き金に指を掛けて座標を定めて幾度となく例の言葉と共に引いた後、ジェードルを観察する。
倒れた男にはわき腹以外に目立った外傷はないものの、息が浅く、肌から温度感が失われているよう。
「こんなにだなんて、もしかして私と同じ」
短く三度、息を吸ってジェードルに纏わりつくような磁場、ジェードルから溢れ出るそれを感知して斧に目をやり記憶との違いを即座に認識した。
「確かジェードルが狩ったクラゲは」
今回の戦いに於いては頭を一つ叩き触手を斬っただけ。硬度は大きく変わらない斧は硬い敵を一度討てばすぐさま跡が残ってしまう。そんな武器に出来た歪みは見慣れたものが三つに小さなものが一つ。
「やっぱりそうなのね」
柔らかで一度や二度断ち切った程度では跡すら残さない触手を除けばメリーの知らない歪みが三つ。外出調査員の重要任務と言うだけあり斧は新調しているはず。
メリーの想像はあの不可解な現象の正体を予測して美しき顔に表情の変化を生み出した。
休憩所に潜り込み、暗闇を薄っすらと青く照らす程度の頼りない明かりにリニは大あくびを隠しながらも止めることが出来ない。抜けた力は張り詰めた背筋を緩ませて姿勢を崩してしまう。
ユークはたどり着いた休憩所の壁に張られたラベルに目を向け拳を叩きつけた。
「分かっていた確かにそうだと」
細められた目に込められた力と尖った感情が青く色付いたクルミ色の瞳に重い油を注いでいるようだ。
「第二休憩所にしか贅沢品を置いてなかったんだ。音楽が聴けねえ」
リニは肩を落とし心の上澄みにて漂う呆れを掬い上げてはユークの先輩としての在り方に嵌める。リニとジェードルが初めて彼らに出会った日に立ち寄った休憩所、そこが第二なのだろう。タルスもまた、精神的な疲れを隠すことなく身体をふらつかせながら進んで行く。
リニは奥まで進んでため息を吐いた。室内は埃被っていて思わず息が詰まってしまいそう。瞳が捉える事の出来る物など保存の効く完全栄養ショートブレッドと無菌水の入った缶によって成された群衆のみ。
「これは参って当然じゃんね」
最低限度の生存用。恐らく彼らにとっても拠点として扱う事の珍しい場所なのだろう。辺り一面に積もった埃の雪景色が明らかに居心地の悪さを感じさせた。
「ジェードル怪我してんのにな」
衛生上の問題を遠回しに告げながらリニは救護室に置かれたベッドに布団を敷く。続くようにマルクはジェードルを寝かせ、隣にリニが寝転がる様を見つめつつも止める事は無い。
「これから二人きりとは言えケガ人だから手荒な行為はよすのだぞ」
「おじさんそんな事言うなよ、私女の子」
「男だったら言わないさ」
引き攣った頬と鋭い視線を目の端に捉えながら立ち去るマルクの背はあまりにも逞しく、ジェードルの細く引き締まった身体に目を向けて本当に血の繋がりが無いのだと改めて確かめる。
「ジェードル、彼はちゃんと本物の親父さんやってんね」
口を閉ざし、埃が空気を舞って喉を微かに締める決して心地よいとは言えない空間の中で心地よい沈黙の時間を泳ぎ始めた。