怪我
青の輝きを放つ部屋には時間を伝える役割を果たすものが数字と動く針を収めた円盤以外に存在しない。外を照らす光すら断絶した空間は人類の野性を鈍らせ時間の感覚を奪い去ってしまう。
ジェードルは針の動きによって日付の変更を確かめ、ねじを巻き始めた。学問の一分野として纏められた資料の中には電池で動く時計というものもあるようだがそれはもはや前時代の高等技術、失われた文明と呼ぶ有り様。
「電力を蓄えた小さな缶なんて便利にも程がある」
喉から手が出る程欲しい利便性は今の世界の在り方では資源の供給が追い付かない。時計の材料は外出調査員の中でも採掘部隊が担うためジェードルたちは無縁なのだとユークが告げていたものの、かかわりの刃を指につまんで落とす事も可能ではないだろうか。
そのような考え事に耽っていたジェードルの隣で膝を抱えて座るリニが顔を近付けて。髪が肌を撫でる感触がこの上なくくすぐったくてどこか愛おしい。
「そろそろ寝るか、ここに泊まっていいか」
リニの自由奔放な声にマルクは眉間にしわを寄せて目を細め、ジェードルとリニの二人を交互に見つめながら静かに告げる。
「規則だ、帰って寝ろ」
「これから毎日一緒なのにか」
「俺の睡眠に異常をきたしそうなんだよな」
それぞれが異なる視点からの意見を述べ、結果としてジェードルとマルクの提案する結果が一致した。
「申し訳ないけど自分の部屋で」
「ジェードルなら味方になってくれると思ったのに」
「俺こそ正気でいられないんだよな」
「じゃあいい、外出調査でも助けてあげない」
傾いた機嫌の塔の壁に沿うように言い残したリニの声はどこか悲痛でジェードルの中に得体の知れない罪悪感を残すものの、引き止めてなどいられない。
「仕方ないよな」
「規則も守れないなら取り消されるかも知れないぞ」
マルクの脅しのような言葉はリニの背中に追い付くことが出来ただろうか、そのような気配など見られず、確かめる術も扱うことが出来ないままベッドにもぐりこみ布団を被る。
マルクは電気を消してベッドに掛けられた梯子を上り、上の段で睡眠を取り始めた。
晴れ渡る空を瞳に収めたのは果たしていつが最後だっただろう。数日前の事のはずが実感が湧かない。日々の仕事という習慣によって遠い過去へと持ち去られたように感じられた。
「どうした、辺りを見回しなんかして」
ユークが静かな声でジェードルに問いかけている中でタルスは軽く首を振りながら声の端に合わせて繋ぐように言葉を嵌め込む。
「敵がいないか見ているのだろう。そうも見えないがそれすら技術か」
「まさか、美人でも探しているのでしょう、年頃の男だもの、目の前の美人じゃ満足できないのかしら」
メリーは二人の反応に冷ややかな視線を向けながらため息をつき、荒れ地という場に不相応な妄想を垂れ流していた。
――こいつらみんな一思いに斬っていいかな
ジェードルの中にちょっとした苛立ちが募っていた。ユークにはそのつもりはないのかも知れないが煽っているように見えてしまう。タルスの発言からは性格の悪さが滲み出てしまっている。メリーに至っては男と言う生き物に対する偏見があまりにも強すぎる。
「ジェードルには私って女がいるのにどうして」
「リニもあんな輩に乗るなよ」
彼らに緊張感は無いのだろうか。そこまで考えてジェードルに掛けられた疑問の原因にも緊張感が乗っていない事を思い返して冷や汗をかいてしまう。
「慣れてるんだろうけどみんな気を抜いて大丈夫か」
ジェードルの言葉に対してマルクの啓発が花を開く。土と蒼黒い金属の欠片が散りばめられた無機的な地に形無き彩りを与える。
「無感情が理想とは言え集中は最低限にしなければいざという時に気疲れを自覚する羽目になるぞ」
つまるところ切り替えが重要。当然の話ではあったもののジェードルの頭の中から消え去っていた考え方。
「だよなだよな、私も思うよずっと集中してたら疲れるじゃんねって」
そうした会話の果てに日光が射し込みこの場の安全を保障する中でタルスの重々しい咳払いが響く。
「今日の目的は分かっているだろうか」
「知らないよ」
リニが勝手に代表して告げた言葉の通り、本日から加わった三人は目的すら知らされないまま外を歩いている状態だった。
「連絡文書を受け取るためだ」
「連絡ってどこからだよ」
リニが訊ねる中、マルクとジェードルは知識を指に引っ掛けて理解を手繰り寄せ、ジェードルがリニに伝える。
「他にも地下都市があってそこからの連絡だろうな」
「そんなの教科書に載ってたっけ」
素っ頓狂な声に阿呆が丸出しな顔の組み合わせでコミカルの化身となったリニを見て笑いながらマルクが答えた。
「地下都市では余計な事は教えないからな。必要な時しか知らされないんだ」
そんな会話を耳にしながらユークは鞄を開いて紙の束を手に取り見せつけるように振って言った。
「こちらの伝達文書は上から受け取っている」
再び鞄に仕舞われる紙。その動作はあまりにも迅速で如何に大切な物か、挙動だけで充分に思い知らされた。
見渡す限り変わりのない景色。人々が自然と呼んでいた姿などとうに失われてしまっている。太陽の煌めきが地面に透き通る青の金属片を輝かせて遠くへと逃げ行く水の如き揺らめきが地上の海を錯覚させてはリニから言葉を引き出していく。
「ジェードル、逃げ水だ、追いかけようぜ」
「余計な体力使うなよ」
決して追いつくことの出来ないそれは瞳の中で踊る熱の幻。余裕を持って外の景色を眺める機械に長らく恵まれなかったがためか、リニの足取りは少々弾んでいるように窺える。
「ところでこの青いの踏んでも問題ないのか」
リニの疑問にジェードルは沈黙を保ったまま頷いて。そんな姿勢にため息で返すメリーの意思になど耳を傾けることなくマルクは土に混ざった異物を掬い上げる。
「この物質は急速に金属と絡み合い結合する性質がある」
「私たちの斧もそうだっけ」
親指を背に向け蒼黒い斧を示して確認を取るリニに言葉を差し出し会話を紡いだのはタルスだった。
「そうだな。他にも植物の殻のような姿を見ただろう」
「この前の」
魚の雨が降って来たあの日の事。勢いよく降り注ぐそれを打ち返しながら逃げ遅れた男を助けたあの日の焦りと外出調査員を初めてその目にした時の衝撃。ジェードルの記憶にも新しかった。
「植物内の金属成分を自分たちは侵食するまでも無く吸い上げる程だ」
脳の表面に焼き付いた鮮やかな感情と映像。その中から草木を掻き分け休憩所へと向かうシーンを取り出しては草木の形を模した鉱物に浸る。
ジェードルの顔に油断の気が塗り付けられている事を悟ったようでユークは声を尖らせる。
「ここからだ」
「ああ、遂に来たな」
同調するタルス。説明不足に首を傾げる二人の新入りに説明を施すことなくメリーは拳銃を取り出しセーフティを解除する。
「構えて」
「一体何事だよ」
リニは声を荒らげて説明を仰ぐものの、先ほどまでリニと同様の反応をしていたジェードルすら押し黙って斧を構え始める。マルクはリニの斧を引き抜いてリニに手渡す。
「この前の狩りの境界線を越えた。もう少しすれば危ういだろう」
境界線、地面に盛られた土の塊を目の端で捉えてリニは斧を受け取る。
「今までの場所は危ないと記憶してしばらく寄り付かなかったのだろうが」
「あいつらにそんな知性あるのか」
ユークが歯を食いしばりながら口にした言葉にジェードルが挟んだ疑問はタルスによってほどかれた。
「人間の思う知性とは形が違うが」
強く狭い風が尖りを効かせながら迫り来る。ユークがそれを断つと共に風は砕け、透き通る青の触手が独特の質感を残しながら跳ね回る。
「本能と結びついた思考、理性の無い生存の為の生物的プログラムは遺伝子に宿っている」
鉱物とはいえ声明を持った一つの種である事には変わりがない。そんなクラゲの触手が迫って来た方向を睨み付け鞄を下ろし、その先にあるはずの攻撃の根源へと向かってユークは足を滑らせながら飛び出して行く。
ただ斧を構えて立っているだけの新入り二人にタルスは指示を出していた。
「俺とメリーはここで軍医を守るから新入りは向かえ、戦いを迎え入れろ」
「了解だぜ、実質リーダー」
リニの行動は素早く、ジェードルは置いて行かれてしまう。握り締めた斧に力を込めた途端、頬を撫でる風が流れを変える様と全てを散らす金属の衝動を耳にした。
リニの攻撃と触手が落ちる音。攻撃の音にはいつものキレが見られずにジェードルは一つの違和感を抱いてしまう。
「行けば理由は分かるわ」
メリーは静かに告げて目を閉じ、顔を微かに動かして何度か動きを止めては目と口を共に開く。
「ブレインブレイク、コーディネイト、103、845、310、803」
引き金は柔らかな指に加えられた力によって飾りのない音を、銃の本体は弾が込められていないのだと示すように軽い音を立て続け、時間を置くことなく遠くで金属のひしゃげる音と破裂する音が顔を出す。
音の連鎖について行くようにジェードルは勢いよく足を踏み出し、力の行き場を感じて目を見開く。
「慣れろ、人が滅多に足を運ばない所での戦いは常にこうだと思え」
マルクの一言に背中を押されてジェードルは駆け出す。その時にメリーが微かに眉を動かしマルクを睨んだ事に気が付いた者は誰一人としていなかった。
ジェードルが踏み出した荒れ地、太陽から注がれる光に呼応して煌めく金属はジェードルの足を滑らせ動きと心情、認識に微細にて多大な差異を生み落とした。
――まさかこれがリニを困らせる原因
斧を持ち上げて空の蒼に溶け込むことのない黒みに浸かり切った蒼を透き通る硬質な頭に打ち込み脅威を討つ。
「ジェードル、斧が上手く使えないな」
「合金の石ころでバランスが取れてないんだ」
方向もタイミングも不揃いな攻撃を飛ばしてリニはクラゲの頭を即座に、ジェードルは頭にまで届かないクラゲの触手を落とした。二人並んで戦う姿を目にユークは鼻で笑っていた。
「無線機のサポート無しだから隊長の助け舟無しだ」
ジェードルは言葉で確認しながらクラゲの、鉱物生命体の持つ性質を確認した。強い電波へと引き寄せられる彼らは生物を微弱な電気信号で感知しているものだという仮説。
有力な研究資料の事を思い出している内にジェードルは迫り来る風の動きを察知したものの、見た時には既に手遅れ。
戦闘に於いては手遅れの状態に置かれた身体に遅れて走る痛みと力無き嗚咽。自分の身体から伸びる触手と滴る赤い液体を目にして今の己の状態を知った。