ハー・マジェスティ
男は女から、金融会社から五十万円借りるから連帯保証人になってくれ、と頼まれた。悩んだあげく、男は彼女のことを愛していたし、頼まれたら嫌と言えない程優しい性格だったので五十万円くらいなら、と軽い気持ちで契約書にサインをした。しかし二ヶ月も経たないうちに金融会社から催促状がきた。貸した女に連絡が取れなくなり、所在も分からないから代わりに貸した金を返せと言うのである。男は驚き、女に電話をしたが音信不通になっており繋がらず、彼女の知り合い達に聞いてみても女の所在は分からないというのである。その中の一人から、彼女はどうやら男と逃げたらしい、という話を聞くと、男はいよいよ自分が騙されていたことに気がついた。男は落胆したが、こうなることも考慮に入れて保証人になった自分が悪い、と見切りをつけ金を返済しようとした。手元に大金は無かったが、利子だけでも返して、本金は次のボーナスで返そうと金融会社へ乗り込んだ。しかし金利がやけに高いことに気づき、また女が五十万ではなく五百万円もの大金を借りていたことを知ったのである。家に帰って以前の契約書を見てみると、そこには確かに500,0000円と記載されてあったのだが、数字のコンマが普通千単位で区切るところ、万単位で区切られていた為うっかり桁を見間違えていたのだった。地元の消費者生活センターに相談したところ、それは本人の過失だから救いようがない、と言われ男は泣き寝入りすることとなった。男は親や友人に迷惑をかけたり、自分の情け無い姿を露呈させたくなかったのでこの問題を一人で抱え込むようになった。更には借りた会社もあまり良いところではなく、利息の期日を過ぎると脅迫まがいの催促が何日も続くようになり、男は精神的に追い詰められた。知人にはいつも通りの表情で接したが、心中は切迫させられて、ひどく怯えていた。そして金融会社の脅しの恐怖から、男は目先の利益しか頭に浮かばなくなり、とうとう強盗を思いついたのである。
狙った店は年老いたじじいが経営する金券ショップだった。この店は人通りの少ない路地裏に店を構えていて、セキュリティーも緩かった。それに老人ならうまくいくと思ったのである。男は夜、店が閉まる寸前に店内に乗り込み、老人に刃物を突き付け、金を要求し、奪い逃走する、という計画を立て、手袋や覆面、刃物を用意し車に乗り込んだ。男は時間が来るまで近くの空き地に車を駐車させ、店の様子を窺った。寒さと緊張から車のエンジンをつけ暖房を入れた。さらに気分を落ち着かせようとカーラジオをつけた。若そうな男の声が飛び出してきた。
「さぁ今日は年に一度のビートルズ全曲放送、という訳ですが、ラストアルバム『アビー・ロード』中でオンエアーする残りの曲も僅かになってしまいました。涙無くしては語れないメンバー内の解散までの道筋やエピソードもまだまだ放送しますからねー。それからビートルズへの熱い思いや、ビートルズを交えた自分との思い出、出会い、印象に残っていることなど、こちらも時間の許す限り何でも受け付けて放送します。それではここで一発いってみよう!」
流れてきた曲は、静かだがジョンのディープな狂気を伝える「COME TOGETHER」だった。男はボルテージを上げる為には最高の曲だと思い、音量を上げ車内を音響で満たし意気込んだ。店の看板のライトが消えるのを確認すると、男は興奮状態を保ちながら車を発進させた。頭の中はジョンの狂気が伝染して、力が漲ってくるようだった。今なら人殺しだって出来そうな気がした。
車を店の駐車場に置くとカーラジオは曲を終え、CMに入った。早くしないと店の入り口の鍵を掛けられてしまうと男は焦ったが、次の曲が始まったら出て行こうと決心した。中古車販売のCMが明けると、ひとりぼっちにされてしまったような悲しいピアノのコードが溢れてきた。そして泣き震えるポールの声。男は急に自分がしでかそうとしている事の重大さに気づき呆然とし、手が震え涙が出てきた。
(ああ…おれは何をやろうとしていたんだ)
男は恐ろしくなって呼吸が乱れ、内部から寒気を感じた。ポールの声は段々と力強くなっていく。そしてメンバーの合唱へと繋がると、男は声をあげて泣いた。
「今お聞きいただいたのは『ゴールデン・スランバー』、『キャリー・ザット・ウェイト』そして『ジ・エンド』でした。」
男に以前の優しい気持ちが蘇り、罪への衝動にストップがかかった。男はヘッドライトを点け、アクセルを踏んだ。
「続きましては、解散後のアルバム『LET IT BE』です。このアルバムは『アビィ・ロード』よりも先に出来上がっていたんですが、フィル・スペクターによって編曲されることとなり発売されるのが遅れてしまったのです。プロデューサーのジョージ・マーティン曰く、このアルバムは失敗作だ。またポールもフィルのアレンジに不満を持っていて、後に『LET IT BE NAKED』として、アレンジのかかっていないバージョンを発売しました。まあ、解釈は人それぞれと言ったところでしょうか。それでは一曲聞いていただきましょう。アルバム『LET IT BE』より『GET BACK』!」
(「ジ・エンド」)