家族の分水嶺
戦後昭和史の内容を盛り込みながら展開する話ですが、
登場する人物、企業名は架空のものです。
歴史上のできごと以外もすべてフィクションです。
1.
いったい、どこから、私たちは『家族』たりえるのか。
私たちの身体に流れる血を川とたとえるなら、どこから家族と、そうでないものへと分かれるのだろう?
家族を決定づける分水嶺はどこにあるのか。
奇妙なことを問われている、と感じられれば幸いだ。
私自身も、そんなことに疑問など感じないことが一番だと思っている。
家族は、何の疑問も、問題もなく、ただ『家族』と受け入れられればいいはずの、単純なものであるべきだから。
ただ、私は自身の出自において、そうは受け取ることのできない事情があった。
私の母、はるが井端彦三郎に嫁いだのは、昭和21年のころである。当時、母は18歳だった。
一方で、彦三郎は母の3倍ほどの年齢であり、すでに老齢といってもよかった。
彼にはもともと妻があったが早くに亡くし、母は後妻だった。
なぜ、彦三郎が母を後妻に迎えたのか。彼には恭一郎という息子がいたが、恭一郎は戦時中、南方へ出征していた。戦争は終わったが、恭一郎は帰ってこず、消息もわからないままだった。
彦三郎は跡取りを生んでもらうため、母を自分のもとへ嫁がせたのだ。彦三郎は『井端精密』という会社を経営していた。『井端精密』は主に時計部品の製造を行なう会社で、大手の時計メーカーに部品を提供する老舗の会社だった。彦三郎はその会社を継がせる男子を欲していた。
そう。母は子どもを産むために井端家へ嫁いだのだ。
今のご時世であれば、とんでもないことだと憤られる方もおられるだろう。しかし、昭和の、戦後間もないこのころであれば、それは特別に異常なこととされなかった。ただ、母がそのことにどう感じていたのか、私は知らない。
母が嫁いで一年。井端家に跡取りの生まれる兆しは見られなかった。
当時のことで、彦三郎は何も言わなかったそうだが、周囲の親戚たちは屋敷を訪れるたびに「跡継ぎはまだか」と母に問い続けたらしい。そのころのことについて、私は親戚からの思い出話のついでに聞くだけで、母からは何も聞かされていない。おそらく、思い出したくもないことなのだろう。私も母に聞こうとしなかった。
事態が変わったのは翌年、恭一郎が帰ってきたときだった。
恭一郎は南方でアメリカの捕虜になり、しばらく捕虜生活をしていたのだ。当時の通信環境では自分の無事を伝える手段がなく、帰国するまで家族の誰にも報せられなかったそうだ。
彦三郎は非常に喜び、恭一郎をすぐ跡取りとして会社に迎え入れた。
母は跡継ぎを生むという役目から解放されたが、彦三郎は母を手元に置き続けた。
彦三郎が世を去ったのは、恭一郎が戻って、わずか半年後のことだ。脳溢血だったらしい。
屋敷には母と、恭一郎のふたりが暮らすことになった。ほかには、年老いた家政婦が通いで掃除や洗濯などに訪れるぐらいである。
私は昭和25年に誕生した。名前は春彦と名付けられた。母の名前と彦三郎の名前が含まれた名前だ。
しかし、彦三郎が世を去って2年余り過ぎていた。つまり、当然だが彦三郎の子どもではありえない。
では、誰の子どもか。
親戚たちは、そのことで疑問を口にすることも、うわさすることもなかった。少なくとも私が見聞きできる範囲では。
母はほかの男性とほとんど接点がなく過ごしていた。屋敷にいたのは恭一郎だけである。
どれだけ鈍い者であっても、私の父親が誰であるか明らかだった。
恭一郎と母は年齢が近く、夫婦となるにはお似合いであった。しかし、母は彦三郎の妻であり、恭一郎は彦三郎の息子である。たとえ後妻でも、ふたりの婚姻は法的に認められなかったのだ。
同じ屋敷に、ふたりだけで暮らしていれば、互いに情の湧くことはあるだろう。その結果、母が私を身ごもったとして、それは無理からぬことだと思う。それが、社会的に許されない関係だとしても。
私の父親が誰であるか周知であるが、私の戸籍は父親の欄が空欄のまま届けられた。
2.
私と母との関係は、いたって普通の、ありふれたものだったと思う。
幼いころの私は母によく甘え、母は笑顔でそれに応えてくれた。
広い屋敷でわんぱくに走り回って、そのことで叱られることはあっても、私にとって母は優しいひとだった。
私を生んでから、母は屋敷の離れで暮らすようになった。誰からも強制されたわけではなく、母自らがそうしたのだという。母は恭一郎と距離を置いて生活することにしたのだ。
そのことを恭一郎は何も言わず受け入れたようだ。
一方で、恭一郎は私と顔を合わすのを避けていた。
あまり口をきかないし、笑いかけることもない。私が母屋にあがりこんで暴れ回っても、怒られたこともなかった。
あのころの恭一郎は私を疎んじていたのではないか。
私が生まれるまで、ふたりの関係はおもてに出ることもなく、背徳だが甘美な時間を過ごせたはずである。
しかし、私の存在がふたりを引き離してしまった。
『子はかすがい』などという言葉がある。
しかし、恭一郎にとって、いや、母にとっても、私はふたりの絆を結ぶ存在になりえなかった。
そんなことを知らない私が無邪気に遊び回っている姿を恭一郎が見れば……。
胸の奥に湧き上がったのは憎悪か、嫌悪か。たとえ、そうでなかったにせよ、私の誕生を恭一郎は喜べなかったに違いない。
年齢を重ねるにつれ、私は自分の家庭環境がよそと違うことに気づき、さらに分別がついて思考力もあがれば、自分が誰の子であるかなど、容易に想像がついた。
幼いころから、私にとって恭一郎は「恭一郎さん」であって、「父」ではなかった。母からそう呼ぶように教えられ、私は何の疑いも持たずそう呼んでいた。
自分の父親が誰であるか悟ってからも、私は恭一郎を「恭一郎さん」と呼び続けた。それは一種の意地だと言っていい。
そのころになると、私は私で、恭一郎の存在を腹立たしく思うようになっていた。
自分のことなのだが、その心境を詳しく説明するのは難しい。
恭一郎は私に対してひどいことをしたことなど決してない。
昭和時代の父親というものは、言うことの聞かない子どもをよく殴っていたものだが、私は一度たりとも殴られたことはなかった。せいぜい、母から手の甲をひっぱたかれたぐらいである。
しかし、私は恭一郎から愛情を感じたことはないし、自分の存在を認められた感じもしなかった。
私は『井端』を名乗ってはいたが、一族の者ですらない印象であった。
私が恭一郎に感じていたのは「よそよそしさ」である。
私という存在を認めていたのは、むしろ親戚たちだった。
私は彦三郎の息子ではないが、彦三郎の血を引いている。井端家の跡を継ぐのに、彼らからすれば何の問題もなかったのだ。
親戚たちは屋敷を訪れるたび、私にお菓子や本などをくれ、可愛がってくれた。一族のタブーとなっているのか、私の父親は誰であるかなど、彼らがひと言も触れることはなかった。
私に対し、親戚たちが気を遣ってくれていたのは感じられたし、わかる。
一方で、彼らは母に冷たかった。まるで「もう、お前の役目を終わった」と言わんばかりだ。
母も理解していたようで、親戚たちが訪れたとき、茶菓子の用意はするが、彼らと会話することもなく、あまり姿が見えないよう離れに去っていた。
あからさまな親戚たちに不快な気持ちを抱くこともあるが、私が何よりも憤ったのは恭一郎の態度だった。
少年期の私でさえ、母の不遇を悟ることができたのだ。恭一郎がわからなかったはずはない。
しかし、恭一郎は母をかばうことも、親戚たちをたしなめることもしなかった。手を触れたくない問題だったようだ。
私には、それが母に対する裏切りに映った。こんな男が私の父親であるはずがない。おそらく、私が恭一郎に憤っていたのはそれだけではないと思う。ただ、明確に語れるのはそれである。
思春期の私は、ただ憤り、私に優しくしてくれる親戚たちさえも疎み始めていた。
自分の周囲がすべて忌まわしく、息苦しかった。
私が大学進学を機に上京を決意したのは、そんな息苦しさから飛び出したいと思ったからだ。
母は私の決意を聞くと、素直に「淋しい」と言って涙を流したが、恭一郎の反応は「まぁ、頑張りなさい」と予想通りのものだった。
昭和43年から44年あたりの日本の大学は、学園紛争でかなり荒れていたころである。
入試に臨む学生たちのレベルがどれほどのものであったか。私はそれほど優秀な成績でなかったにもかかわらず、あっさりと入試に合格できた。
昭和44年、春。私は心配そうに見つめる母に背を向け上京した。屋敷の庭では、まさに桜が咲こうとしていた。
3.
とにかく故郷から離れたい――。
進学の動機がこんなものだから、上京してからの私はかなり自堕落なダメ学生だった。ろくに講義に出ることもなく、朝から酒を飲んで騒いだり、毎晩のように麻雀を打ったりしていた。
当時は7歳も年上の、水商売の女性と同棲していたこともある。ただ自堕落なだけの生活を、当時流行っていた『ネオ・ダダイズム』に勝手に重ねて、悦に入っていた。ちなみに、『ネオ・ダダイズム』は芸術として、既存する概念の否定や破壊を目指す運動なので、当時の私の理解はひどい我田引水である。
ただ、ウルトラマンの『ダダ星人』のダダもダダイズムが由来で、『ダダ星人』の姿を考えるに、日本人のダダイズムの理解は、私と似たり寄ったりだったのではないかと思う。
それはともかく、私は大学3年生になり、進路について考えるころになっていた。相変わらず麻雀などに明け暮れる日々であったが、メンツが揃うまで喫茶店で過ごしたとき、ぼんやりと天井を見上げることが増えていた。当時、店内ではガロの『学生街の喫茶店』がよく流れていたのを覚えている。
普段は女の部屋に寝泊まりしていたが、講義用の本を取りに行くなど、ときどき下宿には戻っていた。
ある日、下宿に戻ってみると、「井端さん、井端さん」と、大家のおばさんが駆け寄ってきた。
「あなたに電報」
礼を言って受け取ってみると、差出人は恭一郎だった。
上京して以来、私が恭一郎と顔を合わすのは正月に帰郷するときだけになった。母に顔を見せるのが目的だが、井端家のあるじである恭一郎に挨拶をしないわけにいかない。反抗するように家を出たが、学費の大半を払ってくれているのは恭一郎である。ただ、私が新年の挨拶で頭を下げると、「うん」と言ってうなずくだけだ。会話も続かないから、そのまま退散するのだが。
これほど互いに接点を持つまいとしていたのに、その恭一郎から電報が届いたのだ。
私はいくばくかの不安を抱きながら電報を読んだ。
電報には、母が病で倒れたことがカタカナ混じりの文面でつづられていた。
私は大家のおばさんに「これは、いつ、ここへ!」と、思わず大声で尋ねてしまった。私の剣幕に大家のおばさんは怯えながらも、「おとつい」とだけ答えた。
どうやって実家に戻ったのか思い出せない。
翌日の昼には私は実家の門前に立っていた。
屋敷に恭一郎の姿はなく、通いの家政婦さんを捕まえて病院の場所を聞き出すと、私は大急ぎで病院に向かった。
病院に着くと、母が恭一郎と並んで出入口から出てきたところだった。私は大慌てでふたりに駆け寄った。
母は、私の姿を見つけると、「まぁ」と口だけでなく目も大きく開いた。私が駆けつけたことに驚いたようだ。
「僕が電報を打ったんだ」
恭一郎がささやくように説明すると、母はふたたび「まぁ」と言った。ただ、そこにはどこか怒ったような感じがした。
「驚かせてごめんなさいね」
母は私に笑顔を向けた。
「大したことなかったの。突然、めまいを起こして倒れちゃったんだけど、お医者さまはどこもおかしいところはないって。
念のため、今日まで検査で入院していたの。
でも大丈夫。けっきょく何も見つからなかったから」
私は無言で恭一郎に視線を向けた。恭一郎に笑顔はなかったが、彼はうなずくと「はるさんの言った通りだ」と言った。
私はふたたび母に視線を向けた。母はこのころ40代の半ばを過ぎたあたりだが、かなり痩せて、おかげでだいぶ皺が目立った。まるで50代になったかと思われるほどだ。半年前の正月に帰ったころはそれほどでもなかったように思う。母の急な変化に、私は疑いの目を恭一郎に向けた。
「本当ですね?」
恭一郎が口を開く前に、母が進み出た。「本当ですよ。あなたはもう心配性ですね」
母にここまで言われれば引き下がるしかない。私は「わかりました」とだけつぶやいた。
恭一郎は自分の車で病院に来ていた。私は母と一緒に屋敷まで送ってもらった。
その夜、私は何年かぶりに母と並んで寝ることにした。気恥ずかしい気持ちがなかったわけではないが、母がねだってきたのを断ることができなかった。
枕に頭を預けて、真っ暗な天井を見つめていると、ごそごそと身動きする気配があって、「春彦さん」と、私を呼ぶ母の声が聞こえた。
「何です?」
私は天井に顔を向けたまま聞き返した。
「あなたは来年卒業でしょう? 卒業したら、ここに戻ってくるのよね?」
私はすぐに答えられなかった。
「会社のことは聞いているかしら。最近、いろいろと大変なところなの」
母は「大変」と言ったが、このころの「大変」は意味が違った。昭和30年代から始まった高度経済成長はこのころまで続いていた。
大卒の初任給は年々上がり続け、私が進学したころは4万円弱だったのが、私が卒業するころには6万円を超える見込みだった。わずか4年で50%の上昇率である。大卒の初任給は20万円を超えるまでは上がり続けたが、バブル崩壊以降頭打ちとなり、千円、つまり、わずか0.5%上げることすら困難な時代になった。それと較べれば、当時がいかに異常な時代であったかうかがえるものだと思う。つまり、物価の上昇率が半端でなかったのだ。
物価が毎日変動する時代にあっては、企業側が対応に苦慮するのは当然で、その年の売り上げなどまともに予測もできない。赤字が出なければ『良し』で、正直、どの企業も自社が儲かっているのかどうかわからなかったのではないか。
この状態が終わるのは間もなくのことで、翌年の10月に第四次中東戦争が起こると、世界中に『オイルショック』の嵐が吹き荒れて、世界経済は一気に冷え込むことになる。
もちろん、来年に起こる非常事態のことなど知る由もない私には、実家の会社のこともそれほど大変だと思わなかった。
少なくとも実家の会社に入ろうなど、まるで考えていなかった。
「忙しいのは儲かっているってことで、いいことじゃないか」
私の返答に、母は顔をしかめたようだった。
「なんですか、そんな他人事のように」
「母さんは、僕に会社を継いでほしいのですか?」
これまであえて尋ねなかった話題を振ってみると、今度は母から答えが返ってこなかった。
恭一郎はこれまで縁談を勧められたこともあったようだが、今日まで独身を通して来た。当然だが子どももなく、親戚たちも『井端精密』を継ぐのは私だと思っているようだった。
恭一郎もそうだが、母も再婚することなく過ごしてきた。私は、そのことが互いを愛しているという証にしていると思った。ただ、その『縛り』を私は嫌悪していた。どうしてそうなるのか。そうすることを選んでしまうのか。どこか大声で喚き散らしたい衝動に駆られるのだ。
母に対して憎悪も嫌悪も抱いていないが、恭一郎との関係において、私のなかには怒りに近い感情が渦巻いていた。
「恭一郎さんは、そう望んでいます」
母はやっと答えを返したが、どこか弱々しい小さな声だった。
「僕は母さんがどう思っているか聞いたのです」
私はそう言い返すと、母から背を向けて目を閉じた。
声の調子で私が背を向けたのがわかったようで、母は小さくため息をつくとごそごそと身体の向きを変えた。私と同様、背を向けたらしい。
翌朝、駅まで送るという恭一郎の申し出を断って、私は東京へ戻った。あれから母とはほとんど会話しなかった。
4.
昭和48年。私は東京を駆けずり回るサラリーマンになっていた。
けっきょく、実家には帰らなかった。就職したのは、家業とも縁のない医療機器の販売業である。私はそこで営業として働いた。学生時代に同棲していた女性とは別れ、私の生活は一変していた。
学生のときは年に一度、正月に帰っていたが、私は年賀状を送るのみにして帰らなくなった。母の体調は気になったが、親戚から届く手紙から母の様子を知ることができた。手紙によれば、入院したのはあれきりで現在は元気に過ごしているとのことだった。
私はそれを実家に帰らなくてもよいという言い訳にしていた。そういうことを私は何年も続けていたのだ。
本当に、最低の話だ。
そのことを思い知ったのは、ある日、外回りから帰って、営業事務の女の子から声をかけられたときだった。
「井端さんあてにお電話がありました」
「どこから?」
そのときはどこの得意先からだろうとしか思っていなかった。
「井端と名乗っておられました。井端さんのお父さんじゃないですか?」
ちょうど額の汗を拭っていたときだったが、私の手が止まってしまった。「何だって?」
「そのう……。お母さまの容体が悪化したとのことで、どうか、病院まで来てほしいと……」
私はもう一度「何だって」と声に出してしまった。怒気の含んだ「何だって」だ。営業事務の女の子は怯えたような表情になった。
「す、すみません。あの、病院はこちらに……」
彼女はきちんと病院の名前と所在地も書き留めてくれていた。一枚のメモを手渡そうとしてくれている。ただ、心のなかが千々に乱れた私は、彼女に礼を言うことすらできなかった。それこそ、ほとんどひったくるようにしてメモを受け取ると、私は上司のもとへ駆け寄り、たどたどしく事情を伝えると、そのまま会社を飛び出してしまった。
メモに記してあったのは、地元でもっとも大きい総合病院だ。私は最終の新幹線に乗り込み、電車を乗り継いで、その夜遅くには病院へたどり着いた。
警備員に話をしたが、どうしても病院には入れてもらえない。仕方がなく、私は近くの居酒屋に入ると、酒を飲みながら夜が明けるのを待った。その夜、どれだけ酒を飲んだのか思い出せない。味も覚えていない。ただ、朝には酒が残らないよう控えめにしようと考えていたことだけは覚えている。
面会が許される時間になると、私は受付に向かい、母の病室を確かめた。私が病室に入ると、意外にも恭一郎が先に着いていた。私の顔を見るなり、「やぁ」とだけ言って笑みを見せた。憔悴して目が落ちくぼんでいる。私に向けた笑顔は無理に作ったものだとわかった。
「春彦さん……」
恭一郎の陰から小さな声が聞こえ、そちらに視線を向けると、痩せ衰えた母の姿があった。ついこのあいだ元気だと伝え聞いたのとはまるでかけ離れた姿だった。
「どういうことです? 体調は悪くなかったんじゃないですか?」
私の責めるような声に、母は弱々しい笑みを浮かべた。
「ごめんなさいね。あなたに心配かけまいと周りに黙ってもらうようお願いしてたの」
母は目だけを動かして恭一郎に視線を向けた。
「でも、どうしても恭一郎さんがあなたを呼び寄せたいと言って……」
「ガンなんだ」
恭一郎は短く言った。
「あのとき、倒れたときもガンだと診断されていた。ただ、あのときは治る見込みもあったから、あまり心配かけまいと君には教えないでおこうとなった。治ってから笑い話にするつもりだった」
「転移したんですね」
私も短くつぶやいた。仕事の関係上、こうした病気のことも多少は知識がついていたのだ。
恭一郎は無言だったが、その沈黙が答えだった。
「恭一郎さん」
母は恭一郎に話しかけた。「春彦さんとふたりだけにしてもらえる? とっても悪いんだけど……」
恭一郎は無言でうなずくと立ち上がった。私のかたわらを通り過ぎるとき、「タバコを吸っている」とだけ言い残して出て行った。
私は恭一郎が座っていた椅子に腰を下ろした。
シーツがごそごそ動くと、母が手を伸ばしてきた。母の手はすっかり肉が落ちて骨の形がわかるほどだった。私は一瞬恐怖心に囚われ、その手を見つめた。
「春彦さん……」
母の声で我に返ると、私は母の手を取った。がさがさの皮膚で、幼いころつないだ手と同じ手だとはまるで思えなかった。
私が母の手の感触に動揺していると、母は私の手をゆっくり握った。
「春彦さん……」
母が繰り返し私の名を呼んでいる。私はのどの奥に何か詰め込まれているような苦しみを感じながら、「何? 母さん」と声を振り絞った。
「ごめんなさい。本当にごめんなさい」
その瞬間、私の頭のなかはカッと燃えるように熱くなった。どうして、どうしてあなたが謝るんですか!
しかし、私の憤りは言葉にならなかった。ただ、母の痩せ衰えた顔を見つめるだけである。
「あなたには本当に苦しい思いをさせました。私のことも恨んでいるでしょう。本当にごめんなさい……」
もう、私には母を正視することなどできなかった。私は顔をうつむかせると、「違うんです、違うんです、母さん!」と叫んだ。
「僕は誰も恨んじゃいないんです。本当です。誰も恨んでいないんです!」
私の手からは母の震えるのが感じられる。
「僕が母さんに怒っているような態度を見せたのは、母さんが幸せになろうとしているように見えないからです。僕のことも、井端の家のことも捨ててしまってもいいから幸せになってほしかった。
ずっと我慢しているような母さんを見ていることが悔しかった!」
「春彦さん……、違うんですよ……」
母の声は小さかったが、それでも私が顔をあげてしまうほど力のある声だった。
母は私の顔をしっかりと見つめていた。その表情には、さきほどまで感じた弱々しさは消えている。
「私は我慢なんてしませんでした。
だから、あなたを生んだんです。あなたを生まない選択なんて我慢できなかった。
『幸せになろうとしなかった』も間違いです。
私が井端の家に残ったのは、それが私の望む幸せだったから。
私は、本当に幸せな人生を送れました」
私はぼんやりと母の顔を見つめた。これまで聞いたことのない、母の告白だった。
「ただ、どうしても自分を許せなかったのは、私が自分の都合ばかりであなたを生んだこと。あなたを生めば、あなたが親戚中からどんな視線を浴びるか容易にわかっていました。それで、どれだけ苦しむことになるかも……。
でも、私は自分の感情を優先させてしまった。
あなただけではない。恭一郎さんも苦しめてしまった……」
母は握る手に力を込めた。
「あのひとは本当に献身的で、私とあなたを愛してくれました。
でも、本当の父親として接することのできない苦しみを与えてしまいました。
私が招いたことなのに、あのひとが一番苦しんでいたのです。
あのひとは、あなたのことを優先的に考えてきました。
進学先についても、就職先についても、あなたが望むのであればと何も反対しませんでした。そのことで会社を他人に譲ることになっても厭わないつもりなのです……」
そこで母の力が弱まった。私は慌ててその手を握り返す。
「春彦さん……。
私の最後の我がまま、聞いてもらえますか?」
「何です?」
「井端の家に帰ってきてくれませんか?
あなたに、恭一郎さんを支えてほしいのです」
私はすぐに返事ができなかった。
「あなたに、わだかまりがあるのはわかっています。
あのひとをお父さんと呼んでもらわなくてもかまいません。ですから、どうか、あのひとのそばに。私の心残りは、あなたとあのひとのことなのです……」
「心残りだなんて! そんな遺言みたいなこと、言わないでください……」
私の悲痛な声に、母は笑みを浮かべた。
「そうですね。まるで遺言みたい。でも、私はまだまだ頑張るつもりです。ですから、そんな顔しないで。でも、もし、私にもっと頑張る気持ちを出させたいなら、さっきのお願い、考えてもらってもいいですか?」
私は泣き笑いのような顔になった。「母さん、それはずるいです」
「そう、私はずるいんです。
ずるい女だから、こんな病気になったのかもしれませんね……」
母はそう言うと私から視線をそらし、窓の外に向けた。
窓からはなだらかな稜線を描く山が広がっている。実家の庭からも見える、故郷を象徴する山だ。山の緑はどこか弱い、濁りのあるものに見える。
季節は夏の盛りを過ぎ、秋に向かおうとしていた。
東京では季節の変化はなかなか感じられないが、故郷では山の景色から季節を感じられる。そんなことに私は初めて気がついた。
……あの山が赤く染まる前に……。
私はすでに故郷へ帰る決意をしていた。
東京へ戻ると、私は慌ただしく動いた。会社に退職の意志を伝え、取引先の引継ぎを後輩に行なうなど、実家へ戻るまでにするべきことは山のようにあった。
同僚たちは私の退職を惜しんでくれたが、私の決意は鈍らなかった。
何より、母の容体がずっと気になっていた。母はあれから良くなったり、悪くなったりを繰り返し、予断の許さない状態が続いていたのだ。
身辺をすべて整理して東京を後にしたとき、故郷の山はすっかり紅葉に染まっていた。
私は母に「ようやく帰ったよ」と伝えると、母は無言でうなずいた。そのころの母は鼻にチューブをつけるようになり、声を発するのもままならなかった。それでも、母は笑顔を見せてくれた。無邪気な、心から喜んでいるような笑顔だった。
母の容体が急変したのはその夜のことである。母は私や恭一郎が見守るなか、世を去った。昭和55年。日本が80年代と呼ばれる時代に入ろうとしていたころだった。
5.
私は実家に戻ったが、恭一郎との関係に大きな変化はなかった。
私は相変わらず「恭一郎さん」と呼んでいたし、恭一郎は私を「春彦くん」と呼んでいた。
ただ、会社のことで互いに意見を言い合うなど、これまでになかったこともあった。その点では大きな変化があったと言える。
会社のことで議論になったのは、会社の方向性のことである。取引先である時計メーカーが、デジタル時計……液晶表示の腕時計を製造するようになり、これまで納品していた部品の量が減っていたのだ。売り上げの大幅な減少は、今後の会社の運命を決めようとしていた。
つまり、細々と時計部品製造を続けていくか、それとも、新たな道を見つけるか。
恭一郎と私との間で、そのことが議論されていたのだ。
「昨今、どのメーカーも中国に工場を作り、部品はそこで製造するようになってきた。価格面では安価な中国製には勝てないだろう。日本は今後、どこもそういう流れになっていく」
恭一郎は腕を組んでつぶやいた。彼は『井端精密』も中国に拠点を作り、価格面でメーカーの需要に応える考えだった。
一方、私はその考えに反対の意志を示した。
「うちの会社の強みは、誰にも真似のできない精密な部品製造です。いわば職人の仕事です。中国に工場を置いたところで、ここまで精密な製品を作ることができるかどうか。
もし、それが可能であったとしても、そこまでのレベルに到達できるまで何年もかかることになります」
それに……。私は予感めいたものを感じて続けた。
「それに、安価だからといって、中国に部品製造を依存する形になると、将来的に、もし中国で政変など起こり、部品の納品を止められる事態になれば、日本は立ち行かなくなる……。そんな危険もあります」
もちろん、その当時にそんな考えをする者は日本では皆無だった。私でさえ、その危険がすぐ現実のものになるとは思っていなかった。しかし、一方で日本の製造技術を衰えさせてしまうような時代の流れには抵抗したい気持ちもあって、そんな発言をしてしまっていた。
「君の考えはわかった。しかし、では我が『井端精密』は何を造ればいいのか?
もう、これまでのように時計部品の製造だけでは先細りしていくのが目に見えているんだ」
「医療機器の製造はいかがでしょうか?」
私は少し考え込みながらつぶやいた。私の答えに恭一郎は驚いた表情を見せた。「医療機器だって?」
「医療機器の先端はアメリカ、そしてドイツです。日本製の医療機器はありますが、性能においてまだまだです。ですが、本来、精密で極小の部品を製造するのが得意なのは日本です。
もし、日本製の医療機器にアメリカやドイツ並みの信頼を獲得できれば、現在、アメリカ製やドイツ製を使用している各医療機関に売り込む余地はあります」
「なぜ?」
「メンテナンスに時間とコストがかかるのです。どのメーカーも日本に営業所を設けていますが、サービスの質においては問題が多いのです。日本の医療機関は我慢しながら海外製の機器を使用しているんです」
それは、前職からの知識だ。あのころ、私が売り込んでいたのはアメリカ製やドイツ製の医療機器ばかりで、日本製は扱っていなかった。価格に見合うだけの製品の信頼性が劣っていたからだ。メンテナンスの対応の悪さはそれ以上だ。
営業しながら感じていた。日本製品がなぜ勝負できないのだと。
それは、競合の少なさからくる危機感の薄さ、大型工場での大量生産こそが日本の製造業だという『勘違い』がまん延しているからではないか。
精密な製品を完成させられるのは、昔ながらの職人気質に裏打ちされた日本の『ものづくり』の精神だ。今の我が社には先進性は足りないが、一方で、創意工夫や仕事をやり通すことに頑固なまでのこだわりを持つ、優秀な社員たちがいる。彼らであれば、この方向転換にも対応し、これまでにないような高性能の医療機器を製造してくれるはずだ。
新しい分野に進出することは、それだけでもリスクだ。恭一郎はなかなかふんぎりをつけられなかったが、最後には「君の考えでやっていこう」と決心してくれた。
社長は決心してくれたが、社員たちの反応はどうか。私は多少の不安を覚えていたが、社員の多くは、社の方針転換に賛成してくれた。彼らもまた時計部品製造に行き詰まりを感じており、このままではダメだという空気が広がっていたのだ。
それからの数年間、私は会社の立て直しに忙殺された。新しい分野に進出するとひと言で言っても、それが容易でないのは当たり前のことだ。新しい設備の導入。新製品の開発、製造。これまでのように下請けではないので、販路そのものを自ら開拓しなければならない。
新しいことを始めるのはリスクがあるし、多くの困難があるものだ。
しかし、私にとって、いや会社にとってはいくつもの幸運に恵まれた。
そのひとつは『ひと』の存在である。
私が医療機器の製造分野に目を向けたのは、母のことがあったからで、恭一郎に説明したのは正直、後付けだった。
当時の医療機器は大きくて武骨なものが多く、それらを使った検査などは患者や被験者に大変な苦痛をもたらすものだった。
母は我慢強い性格だったので、母からの不平不満を耳にしたことはなかったが、はたで見た私のほうが苦痛に感じた。さぞ苦しかっただろうと思っていたのだ。
器具が小さくなればなるほど患者への負担は軽減できる。ただでさえ、病魔との戦いで体力を消耗するのだ。検査や治療で体力を削られるのは抑えたい。
実家に戻る準備を進めていたとき、そんな考えがふと頭をよぎり、片づけの手を止めたことがあった。実家に戻らず、今の仕事を続けるべきでないか。そんな考えも頭をかすめたのだ。
だが、当時働いていたのは商社であって、メーカーではない。私が理想とする機器を開発してもらうよう働きかけられる環境になかった。
だから、理想の医療機器を『井端精密』で――と考えたわけではない。そのときは、それ以上考えるのをやめて荷造りを進め、東京を離れるのみだった。
実家に戻って『井端精密』の現状を知り、この会社の未来をどうすべきかと本気が考えなければならなくなったとき、あのとき浮かんだ考えを思い出したのだ。
新製品開発に向けて、最初に取り組んだのは既製品のサイズダウンだ。私は従来品の半分以下にしたいと開発担当者に伝えた。2割や3割程度のサイズダウンでは商品としてのインパクトが弱い。無名企業が新分野に殴り込みをかけるのだ。古参企業が蒼ざめるほどの商品を造らなければ、競争にすらならないと考えたのだ。
こんな無茶な注文を、開発者たちは面白がってくれた。彼らは私が出した『半年』という期限も大幅に縮めて、3か月で試作品を見せてくれた。
そこから不具合、さらなる改良点を検討して、従来品の半分以下にサイズダウンした製品を完成させた。こうして、『井端精密』は医療機器分野に参入を果たすことができた。
もうひとつの幸運はバブル経済の到来だった。
大まかな説明になるが、昭和60年前後にあたる1980年代は造ったものがどんどん売れる時代であった。天井知らずに上昇する株価。傾く気配を見せない経済に誰もが熱を帯びたように夢中になった時代。
それに加え、精密な医療機器へのニーズが私の素人考えを上回るほど高かったことも大きな追い風となった。
容易とは思えなかった海外販路も開拓でき、輸出で業績は大きく伸びた。簡単には決まらないだろうと思っていた商談が嘘のように決まり、『井端精密』は医療機器メーカーとしての地位を高めていった。
昭和62年ごろには、医療機器製造の部門で年商50億円の売り上げを達成し、中小企業としては全国にも知られる存在になった。
こうして、会社としては順調だが、私個人の私生活はそうでもなかった。私はすでに30代後半になっていたが、未だに独身で家庭を築けていなかった。
母の遺言めいた『恭一郎を支える』ことに力を注いだため――は言い訳だ。実際は、私が家庭を築くことに抵抗があったからだ。私は今でも恭一郎を父と認められないでいる。父とは何か。家庭とは何か。そもそも『そうでない』こととの違いは何か。
そんな疑問に囚われている私には家庭を築く資格などないように思えた。だが、付き合っている女性がいないわけでもない。メイちゃんという、20歳を少し過ぎたあたりのナイトクラブで働く女性だ。何度か性交するほどの関係だが結婚までは考えていなかった。家庭に目を向けない私にとって、私生活はそれぐらいで充分だった。
6.
ある日、私が取引先との打ち合わせを終えて会社に戻ると、事務の女性が蒼い顔をして駆け寄ってきた。
「専務、お話しが……」
私が足を止めると、彼女はうつむきぎみに一度大きく息を吐いた。気持ちを落ち着かせようとしていたようだ。それでも、私に向けた表情には動揺の色が残っていた。
「あの……、社長がお倒れになりました……」
「えっ! いつ?」
恭一郎とは今朝のミーティングで顔を合わせている。そのときにも健康に不安があるようには見えなかった。
「お昼前のころです。救急車で総合病院まで運ばれていきました。病院には相談役が行かれています」
相談役とは彦三郎の弟で、私にとって大叔父にあたる人物だ。かなりの高齢だが今も現役であり、長年会社を支えてきた重鎮でもある。
「相談役から連絡は?」
「まだ何も」
「わかった。僕も病院に行ってみる」
私は取引先に同行していた部長に振り返った。
「聞いての通りです。すみませんが、この資料の整理と見積もり作成の手配を頼みます。それと、打ち合わせにあった改良のアイデアを開発部に」
部長は私の後ろで目を白黒させていたが、私の言葉に自分を取り戻したようだった。
「お任せください。資料と見積もりは今日中に、改良の件は高見君にお願いしてみます」
「頼みます」
私はそれだけ言うと会社から飛び出した。総合病院は会社からそれほど離れていない。ただ、信号が多く、車で10分はかかる。これだと走っても大して変わらない。
それに、車で向かうことに恐れを感じていた。今の私は自分の運転に自信が持てなかった。誰かに運転してもらうことなど考えてもなかった。それだけ私の動揺は大きかったのだ。
病院に着くと、ロビーの脇に大叔父の姿があった。最近こしらえられた喫煙ルームでタバコを吸っている。喫煙ルームはガラスで四方を区切られ、病院のなかなのに、そこだけ切り取られた空間のように見えた。
私が喫煙ルームに入ると、大叔父は私に気がついた。
「おお、春彦君。騒ぎになったな。だが、まぁ、あいつは大丈夫だ。どうも過労で目を回しただけらしい」
大叔父はのんきにそんなことを言った。当時は『過労死』という言葉が市民権を得ていなかった。過労で倒れても、寝てれば数日で治る。それが当時の認識だった。
ただ、私も多少はその認識に近かったので、少しほっとしてしまった。
「お前も吸うか?」
大叔父は1本勧めてきたが私は首を横に振った。「僕はもともと吸わないんです」
「そうだっけか」
大叔父はつまらなそうにタバコを箱に戻すと、喫煙ルームに据えられた喫煙用の集じん機を忌々しそうに睨んだ。当時としてはこのような機械は珍しく、病院など一部のところでしか見られなかった。
「どうもタバコを吸う人間が減ったせいか、喫煙者にきつく当たる時代になってきた。国鉄の時代は車内でいくらでも吸えたのに、なんだ、あの、そうだ。JRとか名乗るようになってからだ。あれから、車内で吸うなときた。病院もそうだし。おい、春彦君。まさかうちの会社もそうするつもりじゃないだろうね?」
「どうでしょう。開発部は設備に影響があるので、すでに禁煙にしています。いずれ営業部も同じになりますかね」
「ああヤダヤダ、時代ってやつは」
大叔父は大げさに首を振った。「まぁ、俺もだいぶ生きてきたし、これ以上窮屈にならんうちにこの世からおさらばするかな」
私は苦笑した。「病院でそんな冗談はやめてください」
「冗談なもんか。俺はもうすぐ米寿だぞ。どうも世の中長生きするもんが増えて、それが当たり前みたいでいけねぇ。長生きってのはあまり見かけないから尊いんだ。周りがじじいばばあばっかりになってみろ。どいつもじじばばのシモの面倒できりきり舞いさせられることになるぞ」
大叔父の毒舌は収まる様子が見えない。私は大叔父をなだめながら恭一郎の病室を聞き出し、喫煙室を出た。
過労で寝ていると聞いていたので、ノックはせず、そっと病室の扉を開いてのぞいてみると、恭一郎はベッドの上で半分身体を起こして窓からの風景を眺めていた。
そっと開けたつもりだったが、わずかな音に気づいたらしい。恭一郎は私に振り返った。「君か」
「過労だと聞きました」
私は病室に入ると、近くの椅子に腰を下ろした。
「そうだってな。僕も目を覚ましたときに医者からそう言われた。ただ、念のため検査を受けるようにとも言われている。あと数日はここから出られそうにないな」
恭一郎はつまらなそうに肩をすくめた。
「いい機会です。ゆっくりと休んでください」
「君もそんなことを言うか」
恭一郎は苦い表情を見せた。
「ほかに誰か言いましたか」
「相談役だ。僕より、あのひとのほうがゆっくりしていいのに」
「相談役は元気ですね。もうすぐ米寿だとおっしゃってましたが」
「たぶん百まで生きるだろう」
珍しく、恭一郎が冗談を言った。おかげでだいぶ場がなごんできた。実家に戻って以来、私と恭一郎はまともに会話するようになったが、それはあくまで会社のなかだけのことで、こんな私的な場所で冗談めいた会話をすることはなかったのだ。
そのせいか、私たちの会話はそこから先に続くことがなく、お互い沈黙してしまった。
こうなってしまうと、ここにいても居心地が悪いだけだ。私は「思ったより元気そうで安心しました。私はこれで失礼します」と言いながら腰を上げようとした。
すると、「いい機会かもしれない」という声が聞こえた。顔をあげると、恭一郎は私から視線をそらし、窓の外を眺めていた。恭一郎は窓から見える山脈を見つめながらつぶやいたようだ。ふいに、私は母のことを思い出した。病室は違うが、母もまた、このようにベッドの上から故郷の山を見つめていたのだ。
「何がです?」私は椅子から立ち上がりながら尋ねた。
恭一郎は私に振り返り、
「君に社長を譲る時期だと思ったんだ」と答えた。
私は棒立ちになった。
いずれ、そんなときが来るかもしれない――。漠然とだがそう思ったこともある。しかし、このときの私にとっては不意打ちのような言葉だった。
「……少し、結論を急ぎ過ぎじゃないですか……?
お医者さまも、ただの過労だとおっしゃってたんですよね?」
私は気を鎮めながら言うと、
「今回の件はただのきっかけにすぎない」
恭一郎はきっぱりとした口調で返した。
「ずっと考えていたことだったんだ。ただ、僕は……、ためらってしまっていた……」
恭一郎は急に苦しそうな表情になった。具合が悪くなったのかと私が身構えると、恭一郎は手をあげて私を制した。
「君にまた辛い思いをさせはすまいかと。僕はそれがずっと気がかりだった……」
恭一郎の言葉に私は心の内で首をかしげた。辛い思い――? 恭一郎が、どの部分を指して言っているのか私にはわからなかった。
「君が井端の家を快く思っていないことは知っている。
それなのに、私は君に家を継がせようとしているんだ……。
……本当に、本当にすまない」
それを聞いて、私の頭に一瞬で血が上った。
私は自分でわかるほどの怒りの形相で恭一郎を睨んだ。
「あなたも、あなたも……、そんなことを言うんですか!」
私はここが病室だということも忘れて大声で叫んでいた。
「春彦くん……」
「そういう呼び方もやめてください!
僕は、そう呼ばれるのも嫌いなんです!」
私はくるりと身体の向きを変えると、そのまま振り返ることもなく病室を飛び出した。
扉には私の大声を聞きつけた看護師の女性の姿があった。彼女から無言だが抗議の視線を感じながらも、私も無言のまま足早にその場を立ち去った。
病院の出入り口では、大叔父がようやく喫煙ルームから姿を現したところだった。
大叔父は私を見るなり、「おお。あいつの様子はどうだ?」と問いかけてきたが、私はここでも無言のまま、大叔父の脇をすり抜けて病院から飛び出した。
逃げ出したい――。
私は本気でそう思いながら、会社に戻らず、街の中心に向かって歩き出していた。
7.
数時間後、私はとある店に顔を出していた。
メイちゃんが働いている店である。
私は、ひとりで飲みたいとき、その店に通っていた。『井端精密』の「井端春彦」ではなく、何の肩書も持たない、ただの「春彦」として酔いたいときがあったのだ。
その店は、金払いさえ良ければ、どこの誰が客であろうが詮索しない店だった。私は自分のことを詳しく話さなかったし、店の者たちも聞こうとしなかった。私が自分の姓を忘れられる時間……。町をさまよっていた私がその店に行きつくのは必然だったと思う。
「あら、ハルさん! お久しぶり!」
店のマダムが私の姿を見つけ、上機嫌な大声で迎えてくれた。
「ああ、本当に久しぶり。空いてるかな?」
私はマダムの肩越しに店内をのぞいた。談笑する男たちの大声が聞こえている。店は繁盛しているようだ。
「大丈夫ですよ。いつものお席も空いています」
マダムの案内で、私はお気に入りの席に連れていってもらえた。
席に座ると、私はあたりを見回す。
この店はきれいな女性が多く働いているが、目当てはひとりしかいない。
「ハルさん、お久しぶりー。1か月ぶり?」
私の前に姿を現したのはケイちゃんだった。この店の看板だと言えるほどの人気者だ。ケイちゃんは私の横に座ると、さっそく飲み物を作り始めた。
「ケイちゃん。メイちゃん来てる?」
私は小声で尋ねた。
「いないよー」ケイちゃんの答えは短かった。
「お休み?」
「んー、そんなとこ」
私はものすごく落胆した。彼女に会えれば、今、私の胸の奥に巣くっているもやもやした気持ちを吹き払ってもらえる……。そう思っていたからだ。
このひと月あまり、私は彼女と会えずにいた。
医療機器の製造部門は私が立ち上げたものであり、その責任上、業務のすべてに私は関わっていた。業績が良いということは忙しいということでもあり、彼女のことに時間を取ることが難しかった。
本当は、この日も予定がいろいろと詰まっていたが、私はすべて放り出していた。ただ、部長には公衆電話から連絡を入れ、あれこれ頼むだけの理性は残っていた。彼は私と同年代で会社では先輩にあたる。新規事業の立ち上げから私とともに働いてくれていた。私は彼に一番の信頼を置いていたのだ。
私と恭一郎とのやり取りを知らない部長は、社長の付き添いで会社に戻れないものだと解釈したようで、「どうぞ、こちらのことはお任せください」と頼もしい返事をくれた。本当の理由は言いたくなかったので、私は彼の勘違いを訂正せずに電話を切ったのだった。
「何か面白くないことでもあったんですか?」
グラスを手渡しながらケイちゃんが尋ねてきた。私はドキリとしたが、平静な表情でグラスを受け取った。「別に。どうしてそう思ったの?」
「ハルさん、珍しく口を『へ』の字にしてたから」
「へ?」
「そう、『へ』」
ケイちゃんはそう言いながら自分の口を『へ』の字に曲げてみせた。美人の変顔に私は思わず苦笑いを浮かべた。
「そんな顔してたか?」
ケイちゃんは笑顔でうなずいた。「それに、眉間に縦ジワ」
「ずいぶん、ひどい顔してたんだな」
私はグラスの液体を口に運んだ。
そうだ。こんな顔をリセットしたいがためにここに来たんじゃないのか。
私は酒を一気に飲み込むと大きく息を吐いた。空になったグラスはケイちゃんに渡す。
ケイちゃんと一緒にいるのは不快ではないが、やはり、メイちゃんがいないのが辛い。彼女に会いさえすれば、嫌なことも忘れられたと思っていたのに……。
私はこの店に長居する気持ちが失せて、あと数杯口にしただけで店を出ることにした。
勘定をすませていると、すぐそばに小柄な女性が近づいてきた。店ではユミちゃんと名乗っている。メイちゃんとは仲のいい友だちだ。
「ハルさん、もうお帰りになるんですか?」
「さぁ、どうしようかとは思っているけど」
「あの、今夜、時間いただくことできませんか?」
思いがけない言葉に、私はユミちゃんの顔をまじまじと見つめてしまった。「……メイちゃんのこと?」
私の質問に彼女は小さくうなずいた。私はそれ以上質問をせず、「『ミモザ』にいる」とだけ言って店を出た。
『ミモザ』は1ブロック離れた角にある喫茶店だ。この界隈では唯一、夜中まで営業している店で、私がメイちゃんと待ち合わせしたときに利用していた。
『ミモザ』でブラックコーヒーを飲みながら、私は彼女のことを思い出していた。
メイちゃんは背が高いわけでも低いわけでもない、あまり特徴のある女性ではなかった。目や鼻などが小さく、可愛らしい顔立ちではあるがケイちゃんのように目立つ容姿でもない。店ではパッとしない女性だった。接客についてもなかなか慣れることができず、一生懸命ではあるが、客たちの評判が高いわけでもなかった。
初めは、私も彼女のことをあまり気にかけてもいなかったが、やがて、彼女のひたむきさを感じるようになった。下手な接客であっても、細やかな気遣いを見せてくれるし、その態度に『うらおもて』がないこともわかる。私は彼女のうらおもてのない態度に安心感を抱くようになったのだ。いつしか、私のお気に入りは彼女になって、彼女目当てで店に通うになっていた。
彼女は自分目当てで通ってくる私の存在を単純に喜んだ。自分に自信が持てず、そんな自分を変えたくてこの仕事に就いたのだが、これまで自信につながらなかったそうだ。
だから、私がメイちゃん目当てで店に来ていると伝えると、彼女は「私のファン第1号さんですね」と言って嬉しそうな笑みを見せた。その無垢な笑顔に、私は彼女のことがますます好きになってしまった。
彼女も私のことを好きになってくれて、深い仲になるのにあまり時間はかからなかった。
ただ、私は自分が何者であるか、詳しいことは彼女に教えなかった。いや、教えられなかった。
私の戸籍は今でも父親の欄は空白だ。私は、このことを彼女に知られるのが怖かった。いや、違う。そうじゃない。私は彼女と家族になることを恐れたのだ。私のなかには理想とするべき夫や父親の姿が存在しない。自分がどんな夫や父親になるか想像できないのだ。
私という存在の血潮が彼女のものとつながったとき、それが流れゆくさきは『家族』という大海なのか。その分水嶺は違うものに流れを変えてしまうのではないか。
彼女のことを愛しながらも、あと少し彼女に踏み込むことができなかったのは、その分水嶺の存在だった。
そもそも、そんなことを思い悩む者が家庭を築けるわけがない。私はそう思っていたのだ。
何杯目かのコーヒーカップが空になったころ、ユミちゃんが姿を現した。
「すみません、なかなかお店を出られなくて」
ユミちゃんは詫びながら私の向かいに座った。
「お疲れ様です。コーヒーでいいかな?」
私はユミちゃんにねぎらいの言葉をかけると、コーヒーの追加を注文した。
年取った店主がコーヒーカップを持ってくるまで、ユミちゃんは無言で座っていた。うつむきぎみの姿勢で、私にどう切り出したらいいか思い悩んでいる様子だった。店でユミちゃんに声をかけられたとき、小さな不安を感じていたが、今ではその不安はかなり大きなものに変わっていた。
しかし、私はユミちゃんがコーヒーを口にするまで、我慢強く待つことにした。
「で、話って?」
ユミちゃんがコーヒーカップをソーサーに戻すと、私は話を切り出した。
ユミちゃんはすぐに答えなかった。まだ半分も減っていないコーヒーカップに視線を落とし、どこか上の空のようだ。
しかし、本当に上の空だったわけではなく、やがて、「実は、メイちゃん。お店を辞めたんです」と答えた。
「辞めた……」
意外にもあまりショックを感じなかった。心のどこかで、「やはりそうか」と思ったぐらいだ。
理由も想像できる。煮え切らない私を見限り、私の知らないところへ行ってしまったのだろう。
「いつ?」
私の問いは単なる確認のものになっていた。事実を事実として受け入れる。ただそれだけの質問に……。
「ほんのこのあいだです。月曜に」
その日は水曜だから、たしかに『ほんのこのあいだ』だ。いや、曜日はすでに木曜に変わっていた。
「そう」私は言葉少なにつぶやくだけだった。やはり、ユミちゃんは私とメイちゃんの関係を知っていた。それが確信できた。そのとき私に理解できたのはそれだけだった。
「メイちゃん、実家に帰るそうです」ユミちゃんは話を続ける。ただ、私はそこから先の話をあまり聞きたいと思わなかった。
「そうか……。わざわざ教えてくれてありがとう」
店のことを教えてくれるのは異例のことだ。ケイちゃんも答えをはぐらかしていたのだから。私はユミちゃんの気遣いに感謝した。
「あの……」
立ち上がりかけた私に、ユミちゃんは声をかけた。いかにも言いにくそうな顔をしている。私は伝票を持つ手を止めて彼女の顔を見つめた。「どうかしたの?」
「実はメイちゃん、おなかに赤ちゃんがいるんです」
私は尻餅をつくように椅子に座り込んだ。「赤ちゃんだって?」
彼女の言葉が脳内に染み渡ると、やがて、私の全身は震え出した。「まさか、まさか……」
ユミちゃんはゆっくりとうなずいた。
「メイちゃんは、はっきり言いました。父親はひとりしかいないって……」
覚えのある私は額から汗を流し始めていた。「そうなのか。でも、なぜ……」
――私に教えてくれなかったのか――。
「ハルさん。奥さんとかお子さんとかおられるんですよね?」
「え?」
「だって、ご家庭のこと絶対しゃべらなかったじゃないですか」
まさか、私が妻帯者だと思って……?
「メイちゃん、言ってました。ハルさんには迷惑かけないって。
でも、どうしても生みたいんだって……」
私は自分でもわかるほど真っ青になっていた。「彼女がそんなことを……」
「メイちゃん、一途な子だから……」
ユミちゃんの言葉はある意味、宣言と同じだった。私は立ち上がって身を乗り出していた。
「な、なぁ、ユミちゃん。メイちゃんの実家ってどこだ? 知らないか?」
ユミちゃんは無言で首を振る。
私が立ち尽くしていると、ユミちゃんは私から視線をそらしたまま、「ひょっとしたら、実家にはまだ戻っていないかもしれません」とつぶやいた。
「本当か?」
「お店を辞めるのは急に決めたことのようなので。
引っ越しの手配とか、いろいろ片づけごととか残ってるんじゃないですか?
メイちゃん、いつもきちんとしてるから。この街を離れるにしても、そのままほったらかしていなくなるって考えられないです」
私はそれ以上突っ立ったままでいられなかった。
私は「ありがとう」と言うと同時に、財布から抜き出した数枚のお札をテーブルに置いて『ミモザ』から飛び出していた。
8.
都会とは違い、私の故郷の真夜中は静かだ。
もっとも大きな駅前でさえ、人影はまばらで数えるほどしかない。
終電の時間はとっくに過ぎ、ホームは真っ暗で、駅の正面に明かりが灯っているだけだった。
それでも街は完全に眠りについたわけでなく、終電を逃した客目当てか、いくつかの居酒屋は煌々と明かりを灯し、ガラス越しに見える店内では賑わっている様子がうかがえた。
私は駅前のロータリーを大回りすると、バス乗り場そばの電話ボックスに駆け込んだ。緑色の受話器を手に取り、小銭を探そうとポケットをまさぐった。
どうにか小銭を取り出し、いざ電話をかけようとプッシュボタンに指をかけたあたりで私の手が止まった。
私がかける先に彼女はいないかもしれない。いるかもしれない。
しかし、こんな深夜になってかけてきた相手に彼女は受話器を取るだろうか。
事情を知った私がかけてきたと思ったら、彼女は電話を取らないのではないか。
なにせ、何も知らせることなく、彼女は私の前から姿を消そうとしているのだから。
私はごとりと音を立てて受話器を戻すと、電話ボックスから飛び出した。ロータリーには居酒屋の客目当てだろう、何台ものタクシーが停まっている。
私はその1台に乗り込むと、彼女の住所に向かって走らせた。
彼女がまだいるのか、いないのか。
直接確かめるしかないが、その後のことを私はまるで考えられなかった。
運転席のシートの肩に手をかけ、呆然と前方を見つめるだけである。
私はそれだけ動揺していた。
そんな私だが、明確な言葉となって理解できたこともある。
それは私自身の心のことだ。
私は病床の母に怒り、似た状況で恭一郎にも激昂した。
ふたりとも私に詫びていた。その言葉に私の心は大きくかき乱されたのだ。
あのとき、なぜ、私の心は乱れたのか。
わかってしまえば簡単なことだった。
私はふたりに謝ってほしくなかったのだ。
私がこの世に生を得たことが、ふたりの罪悪感であってほしくなかった。
私が存在することに苦しんでほしくなかった。
私に向けられるであろう周囲からの不しつけな視線で、私が苦しめられると思ってほしくなかった。
私がこの世に生まれたことを恨んでいると思ってほしくなかった。
そう。私はこの世に生まれたことを恨んでいない。私を生む決断をしてくれた母に感謝することこそあれ、恨むことなど決してない。
ただ、私に向けられる両親の目が、愛情だけでなく苦悩に満ちたものであることが許せなかった。
私がこの世にあることに、ただただ喜んでほしかった。私が望んだのは、たったそれだけだったのだ。
どういうものが正しい親子のあり方なのか。私はそのことに答えを持っていないし、たとえ考えがあったとしてもそれを誰かに主張しようとは思わない。
しかし、メイちゃんの決意を知ったとき、私は情けなくもうろたえてしまった。両親に対して偉そうなことを考えていたくせに、当の私が愛する女性に母と同じことをさせようとしていたからだ。
何をしているんだ、私は!
家族の形はひとそれぞれだし、そこに正統も邪道もない。それでも私は彼女の決意を認めるわけにいかなかった。認めたくなかった。彼女はすでに私の一部になっていた。彼女を失うことは身体のどこかをもぎ取られるに等しかった。
早く、早く彼女に会わなければ。
どうか、どうか間に合ってくれ……。
私に急かす意図はなかったが、気がつけば運転席のシートをぱたぱたと叩いていた。
運転手は冷静な運転で、とくにスピードを出すこともなく彼女のアパートの前に私を送り届けてくれた。
「待ちましょうか?」
何かを察したのか、運転手はそんなことを申し出てくれた。年配の人物で、いかにも人生経験が豊富に見えた。私は運賃を払いながら「いいえ。ありがとうございます」と答えるにとどめた。
彼女のアパートはクリーム色したモルタル壁のアパートで、単身者向けの小さなものだった。
私は階段を駆け上がり、彼女の部屋の前に立った。当然ではあるが、室内に明かりの灯っている様子はない。
呼び鈴のブザーに手を伸ばしかけたが、力なく下ろしてしまう。ここまで来て、私の心はくじけかけていた。いなければ反応はない。だが、もしも、いたとしても、訪ねてきたのが私だとわかれば……。
こんな時間に押しかけてくる人間なんて私しかいないだろう。彼女はドアを開けてくれないかもしれない。全身が震えてくる。これ以上にない恐怖だった。
いや、このドアが開くことがなかったら、それは私への罰だ。私はこの罰を受け入れなければならない。
私は目をつぶってブザーを力いっぱい押した。
室内からひとの動く気配がし、ドアのすき間から明かりが漏れた。いる――! 彼女はまだ去っていなかった!
明かりはのぞき窓からも見えていたが、そこが急に暗くなった。おそらく彼女がのぞいているのだ。
「……ハル、さん……?」
戸惑ったような声がドア越しからかろうじて聞こえる。
私はうなずいた。「そうだ。僕だ」
「どうして……、急に……」
「ユミちゃんから事情を聞いた。それでここへ来た」
「そう……」
「君の顔が見たい」
「え?」
「僕は君に……」
――謝りたい――。
私はその言葉を飲み込んだ。違う。私は彼女に謝りたくて来たんじゃない。私は誰よりも大切にしたいひとに、その気持ちを伝えたくて来たのだ。たとえ、それが彼女に受け入れられなくても。ついさっき、罰なら受け入れると腹をくくったばかりじゃないか!
「僕は君に、大切なことを伝えに来た」
「大切な、こと」
「僕は君を愛している。誰よりも」
「うそ」
「嘘じゃない。ただ、僕はあまりに臆病だった。僕は誰かと家族となることができない人間だと思っていたんだ。家族を造る資格なんてないって。それで、ずっと独り身だった」
ドアからは声がなかった。
「それが態度にも表れていた。我ながら最低だよ。君からの愛情を望んでおきながら、家族になることを望まなかったなんて。
そんな、どうしようもない男なのに、君は僕の子どもを産むことを望んだ。
おかげで目が覚めた。
家族になるのに資格なんて必要ないんだ」
そして、家族とそうでないものに分ける分水嶺も。血潮の流れはただ人びとの間を流れていくだけなのだ。家族と、そうでないのを分けるのは血潮ではなく、互いが望むかどうか、認め合うかどうか。ただそれだけなのだ。
「僕は君を失いたくない。君に出会わなかったら、僕は独り身でいることに何の疑問も持たずに生涯を終えただろう。
でも、今は違う。君のいない人生なんて考えられない。どうか、君の顔を見せてほしい。
君に触れたい。抱きしめたい。ずっと、ずっと……」
カチリと音が聞こえて、ドアがそっと開かれた。
パジャマ姿の彼女が、私の顔を静かに見つめている。
私は彼女の身体を引き寄せると、そっと抱きしめた。これ以上、下手な言葉は不要だった。
私の肩が彼女の手につかまれるのを感じた。彼女の手は細かく震えている。それでも二度と離さないと思えるほど強い力だった。
私は、それで彼女の答えを得たと思った。
9.
夜が明けると、私は病院を訪れ、父、恭一郎と面会した。
結婚するつもりでいること。子どもが生まれること。そして、父に対してわだかまりがないことを伝えた。
嘘の気持ちではない。私に憑りついていた何かは、それこそ嘘のように消え失せていた。父が不器用でも誠実に私を愛してくれたことを、私はわかっていたからだ。わかっていながらわからないふりをしていた。つまりは私自身の心の問題だったのだ。
私の話を聞いて、父から出た言葉は「そうか」だけだった。
ただし、父は何度も「そうか」を繰り返し、「そうか」とつぶやくたびに涙を落とした。
私は父の涙を見て、すべてが決着したと思った。
昭和63年の暮れ、私はメイちゃんこと桂木芽衣子さんと結婚した。
当時は昭和天皇の容体が思わしくなく、この時期の結婚式は自粛する空気が強かった。しかし、私は彼女との結婚を遅らせたくなかったし、式場の予約も入れやすかったので、この時期に式を挙げた。
翌年1月、昭和天皇崩御。
年号が変わって平成元年5月に長女、さつきが誕生した。さらに翌年、長男、恭彦が生まれ、私はふたりの父親になった。
ふたりの誕生を誰よりも喜んだのは父である。
父は、まるで『タガ』が外れたかのように、ふたりをとにかく可愛がった。その可愛がりようは形容も難しいほどで、私は妻と顔を見合わせて苦笑いするしかなかった。
孫たちに対する、父の、このとんでもないほどの溺愛ぶりは、80歳で生涯を終えるまでまったく変わらなかった。
いつのことだったか、若い後家と義理の息子が恋仲になるが、
法律的に婚姻できないという話を聞いた。
もし、その二人の間に子供出来たらどうなるだろうと考えたことがきっかけで
この物語はできた。
そういうわけで、具体的なモデルは存在しない。
僕自身は主人公の『私』とまるで世代や時代が異なる。
昭和史のエピソードを混ぜたのは、人物の動きにリアリティをもたせるためだ。
昭和時代に記憶のある方がお読みになれば、
細かいところで間違いなどあるかもしれない。
ご指摘いただければ幸いである。