母の待つ家
家でくつろいでいると母からラインが来た。
「お誕生日おめでとう」母のお気に入りのムーミンのスタンプである。
寝転がってスマホを見ていた麻美は思わず起き上がって首をかしげた。
今日は誕生日じゃないのに、母はどうかしてしてる。誤送信だろうか?すぐに「今日誕生日じゃないよ」と返信する。5分ほどしてやっとが返信が来る。「ごめん、新しいスタンプ使おうとして誤送信しちゃった」
「返信おせーし。まじで心配になった。」
「休みの日にごめんね。」の後、ムーミンのごめんなさいスタンプが送られてきた。
ホッとして麻美はスマホをおくと立ち上がった。せっかく休みで12時まで眠って目覚めてからダラダラしていたのにびっくりして目が覚めてしまった。朝、昼兼用のご飯にするかと袋めんを手にとると鍋に湯を沸かし始めた。
麻美の母、真美子はスマホを置くとホッと一息ついた。娘を怒らせていないといいが、せっかくの休みに変なラインを送ってしまった。麻美は大学を卒業して就職を機に独立して賃貸アパートで一人暮らしを始めた。一人娘ということもあり父親は一人暮らしに大反対したが、真美子は何とか説得した。そのまま親と暮らしていても自由がないし、ずるずると介護要員になるのは忍びない。一人暮らしをしてみて合わないようであれば帰って来るもよし、親が助けを必要としたらその時にまた考えるのも良いと思ったからだ。ただ娘が一人暮らしをするようになってから真美子自身はだらしなくなった。まず見た目に構わなくなったし、なにをするのも億劫で睡眠時間がながくなった。1日は24時間だが10時間ぐらいしか起きていない感じだ。
「14時間も寝てるのかしら?まさかね。」と独り言をいうと夕飯の仕度のためにたちあがった。
麻美の父、真美子の夫である正弘が帰ってきたときに真美子はまだ夕飯の支度をしていた。以前は帰宅した時にはもう夕飯はできて、正弘がテーブルにつくタイミングで温められ並べられたのだが、最近はテーブルについてからしばらく待ってやっと夕飯になるという感じである。
正弘は大体、夜8時には帰宅する。最近の妻は体調を崩して夕方、横になっているのかもしれないと思っていた。テーブルに着きテレビをみているとキッチンでドスという聞きなれない音と妻の「あっ」という小さな叫びが聞こえた。正弘が妻の方を見てみると妻の足の甲に包丁がささっていた。慌てて妻のそばに駆け寄り脚元を確認する。包丁は甲を突き破り床にまで刺さっている。正弘が静止する間もなく妻が何気ない様子で包丁を抜いた。血があふれ出す。
「失敗しちゃった。ごめんね」と妻が言う。正弘はタオルで傷口を押さえながら
「救急車呼ぶから、タオルでおさえてて」と言って慌てて119番通報をした。
病院で処置を待つ間、正弘はいつもの妻だったら悲鳴をあげて、もしかしたら失神するような怪我なのに今日の妻の態度はひどく冷静だったと思いながら、なんでもないように包丁の柄をつかんで抜いた妻の姿を思い出していた。妻は全く無表情に包丁を抜いていた。抜いたあとも痛いそぶりはみせずぼんやりしていた。どうしたのだろう?人はあまりショックだとああなるのだろうか?いつもの妻ならキャーキャーと大騒ぎしたはずなのに、なにか知らない妻の一面を見た気がした。包丁は幸い神経と骨を外れて刺さって大事には至らなかった。次の日、正弘は無理に家事をしないように妻に言い聞かせると出勤した。
その女は老人ホームの正面玄関から入ってくると部屋にまっすぐむかった。部屋に入ると壁際に置かれたベッドにまっすぐむかっていった。ベッドには老女が横たわり、女を見ると
「ごはん、まだ」と苛立った声で話す。
「呆け老人が」と言うと女は老女の枕を引き抜き顔に押し当てた。簡単に済むと思っていたのに老女は、どこにこんな力がというほど全身をバタつかせ抵抗した。渾身の力を込めて枕をおさえつける。10分くらいに感じたがもっと短かったかもしれない、老女がおとなしくなった。女は枕を元に戻し、老女の衣服の乱れを直すと布団をかけ直した。部屋を出ると入ってきた時とは違う部屋の近くにある非常口からそっと出ていった。
正弘が帰ってきた時、真美子はベッドで横になっていた。
「なんか食べた?」
と話しかけると真美子は眠っていたらしく、ぼんやりと
「今、何時、ずっと眠っちゃた」
と答えた。正弘が
「8時。晩飯買ってきたから食べよう」
と答えながら着替えて戻ってくると妻は起き上がって食卓についていた。
正弘がコンビニ弁当を2人分温めて妻と自分の前におくと妻は嬉しそうに
「いただきます」
と食べ始めた。
「熱出たりしなかった?」と正弘が尋ねる。妻は食欲もあるようでコンビニの焼肉弁当を食べながら
「平気だった。ごめんね。心配かけて。明日はもう起きるから」
と言う。正弘は妻はこんな時でも謝って無理しようとするので
「大丈夫だよ、ゆっくりして、足治して」
と言った。正弘がコンビニ弁当を食べ終わった時、携帯電話が鳴った。
「え、いつですか、いえこちらこそ。とりあえず直ぐ向かいますので」
と言って電話を切った。
真美子が不安そうに見つめていると
「お義母さんが亡くなったって、俺とにかく今から施設に行っていくる、真美子は来なくていいから」
「へ?死んだの?いつ、なんで?」
「詳しいことはわからないけどベッドの上で、死んでたみたい、色々手続きもあるからこれから行ってくる。」
「私の母親なのに行かなくていいの?」
と真美子が立ち上がりかけると、正弘が
「その足じゃ、無理しない方がいいよ、手続きだけだから、あっどうしても会いたいとかならつれていくけど」
と言うと真美子は
「ううん、いい。じゃあ夜遅くに申し訳ないけどおねがいするね」
と言って腰を下ろす。
正弘がバタバタと出かけた後、残りのコンビニ弁当を食べながら真美子はぼんやりと母親のことを思い出していた。
やさしい顔を思い出すことができない。思い出すのは鬼のような顔で布団叩きを手に向かってくる姿だけだ。真美子は物心がつく前から、お前が悪い、だからお前を撲って躾けているんだ、と母親に言われ続けて育ってきた。正弘と結婚して義母に会うまでは世の中の母親は子供を殴るものなのだと信じていた。義母は真美子に優しく怒ったことは一度もない。正弘も殴られた記憶はないと言っていた。義実家を見ているとこれが普通の家庭で、母親は威張りちらさないと知った。同時に真美子は自分が悪るかったから殴られていたのではなく、母親の機嫌で殴られたのだと知った。それでも自分はダメで出来ない子だと言う思いは今でも真美子を苦しめている。母親との関係は結婚後、正弘に話したため正弘も理解してくれて、施設との窓口になってくれている。
あの母がとうとう死んだ。死んだら涙が出るのだろうかと思っていたが、涙は出なかった。ふたり分の弁当を片付けて正弘を待とうとソファに横になると足の包帯に血が滲んでいた。包帯を変えたら急に足がジクジクと痛み始めた。痛み止めを飲む。
「ただいま」という正弘の声で眼が覚める。もう朝だった。知らぬ間にソファで眠ってしまったようだ。正弘は流石に疲れた様子で、葬式の手配をしてきたこと、母は葬儀社の安置所に移ったことを話した。
「何から何までありがとう」
と真美子が言うと
「苦しまなかったらしいよ。誰も見ていない時に眠るようになくなったらしい。弱った様子もなく突然だったから施設の人も驚いたらしい」
不公平だと真美子は思った。苦しんで死ねば良かったのに、真美子が考えこんでいるのを見て正弘は真美子なりに悲しんでいると誤解した。複雑なおもいもあるだろうから1人にしておいてやろうと思い
「少し眠るから、真美子もゆっくりしてて、葬儀は明日だから」というと自室にむかった。
その言葉にハッとして真美子は自分を恥じた。あの人と同じになってはいけない。ドス黒い気持ちは捨てなくては。
葬儀は簡素なものだった。真美子は一人娘だったから参列者は家族3人だけ。長い老人ホーム暮らしで弔問におとずれるものもない。92歳で死んだとなれば大往生で突然死でも死因を調べることもなく遺体は荼毘にふされた。焼いている間お清めの食事をしていると真美子の様子がおかしい。正弘と麻美は流石に悲しいのだなと思ったが真美子は急に大声で
「これを見て」と言い右手の手のひらを見せた。
「この曲がった親指、あの人に折られたのよ。赤ちゃんだった私の指を持ってポキと小枝でも折るように折った。私の人生の最初の記憶よ。この指を見るたびに思い出す。お前が悪いんだ。私を怒らすから殴らずにはいられない。お前が良い子だったら殴らないのにっていつも言いながら死にそうになるまで布団叩きでなぐってきた。私は抵抗も出来なくてお母さんを怒らせた自分が悪いって思いながら殴られ続けた。おばあちゃんが同居してからはすこしマシになったけど、おばあちゃんまでなぐられることもあった。あの人は怒り出すと姑だろうがみさかいがなかった。怒り出すのは服を汚したというようなつまらないことばかり。許さない。死んだって許さない」
狭い焼き場で真美子の怒りは異様だった。他の葬儀の家族まで息を呑んでみまもっていた。
麻美も正弘も真美子の指の話は初めて聞いたので衝撃を受けた、生まれつき曲がっていたと聞かされていたのだった。
「おかあさん」
麻美の言葉で真美子は我に帰ったようで、ぼんやりと椅子に座った。3人とも黙りこくり、気まずい時間がながれたが遺体の火葬が終わったという焼き場の職員の声で3人は骨上げをし、火葬場をあとにした。そのころになると真美子はすっかりいつも通りで、心配だから実家に泊まると麻美がいうといつも通りの笑顔をみせた。
その晩、足が痛み出した真美子が早くに寝ると正弘と麻美は2人きりで今日の真美子の様子を話し合った。2人とも思っていたより真美子の心の傷が深いことにショックを受けていた。正弘が様子を見ていつまでもおかしいようだったら心療内科に連れて行くことで話がまとまった。
葬儀から2週間経ち、麻美もアパートに帰り、いつもどおりの生活が戻ってきた。真美子も落ち着いているようでみんながホッとしたところに真美子が交通事故に遭った。自転車で買い物中に出会い頭に軽自動車と接触したのだった。
骨折などはしていなかったが頭を打ったらしく意識が戻らなかった。麻美はゾッとした。おばあちゃんがお母さんを一緒に連れていくつもりなのだ。お母さんだけが幸せになるなんて許さないと認知症になってから、よく叫んでいた。お母さん抵抗してもう子供じゃないんだよ、おばあちゃんの言うなりにならないでとベッドの脇で祈った。祈りが通じたのか丸1日たって真美子は眼をさました。
「麻美、私どうして?ああ車にはねられて」というと自分の身体を一通りさわり不思議そうに手をながめている。
「お母さん、心配したんだよ」麻美が言うと初めて麻美に気づいたようににっこり笑いかけた。そして麻美を抱きしめた。ちょうどトイレに行っていた正弘が帰ってくると3人で抱き合った。
念のため検査入院をが終わり、特に問題がなかったため無事退院になった。自宅で3人で乾杯し正弘は大喜びで言った。
「一時はどうなるかと思ったけど良かったなあ、麻美なんて号泣してるし途方にくれたよ」
「まだ無理しちゃ、ダメだよ。意識不明なんて大変なことなんだからね」
と麻美がいう。真美子は言った。
「2人ともありがとう お母さんも夢みたい、あー死ななくて良かった、生きてるっていいね、すごくいい」
それを聞いて正弘は涙ぐんで感動していたが麻美は何か違和感を感じていた。
日常が帰ってきた。麻美は続けて不幸があった母を心配してアパートをひき払って来月にはかえってくる。真美子は最近のダラダラとした日々が嘘のように正弘が帰宅するまでに食事を整え、ガーデニングに精をだしている。
昼間、暖かいリビングにいて真美子は思った。自分の身体があるってなんて幸せなんだろう。麻美が家を出てからねてばかりの真美子の意識を乗っ取り家で過ごしているのとはまるで違う。真美子が目を覚ませば自分はもう意識下に押しやられてしまう。それが今ではずっと私1人の身体なのだ。私には名前がなかった。時間の感覚も日付もわからない。
ただ真美子が母親に虐待されているときだけ代わりに殴られ、蹴られ、水をかけられた。真美子は母親がむかってくるところまでしか記憶がないはずだ。実際、殴られていたのはいつも私だった。真美子は直ぐに怖がり、泣くしかできなかった。私は泣かなかった、怖くなかった、ただ憎かった。私は真美子の代替人格というらしい。耐えられないほど酷いことをされた子どもなどが生き残るために虐待を代わりに受けるためだけの人格。自分で出てくることはできないが最近の真美子が寝てばかりだったため交代することが多くなっていた。包丁を足に刺した時も痛い思いをしたのは私だった。
そして真美子の母を老人ホームで殺したのも私だ。真美子はいつも泣くばかりでなにもしない。だから代わりに殺してやった。あの老人ホームは入る時、ドアの暗証番号さえわかっていれば入るのは楽だった。暗証番号も数ヶ月変わらない。変わっていれば諦めるつもりだった。だが入口は開き、誰にも見られず侵入できた。入ってしまえば、もしみられても施設の職員と似たポロシャツとズボンを履いていれば入れ替わりの激しい施設職員と思われる。朝食後は認知症の入居者はベッドで寝かされている事も知っていた。そしてなによりも施設で変死は嫌がられる。よほどのことがなければ病死か老衰で片付けられることもわかっていた。それは上手くいったのに焼き場で失態を見せてしまった。その上、真美子が母親の死に動揺して自転車に乗っている時に人格交代を起こして、事故ってしまった。すんでのところで自分に置き換わりブレーキをかけたおかげで大事故にならずに済んだ。しかも目が覚めたら真美子が消えて自分になっていた。あれから2週間が経つが真美子がでてくることはなかった。今は自分が真美子なのだ。
麻美は母に違和感を感じていた。大きな事故の後だからよくあることだというが何かが以前の母とは違う。快活すぎるのだ。父は母の変化を良いこととして捉え心療内科に連れて行く話も立ち消えとなったが焼き場での母の告白を忘れることができなかった。あれほどの心の傷が消えることなどあるのだろうか?専門家の助言が必要なのではと思っていた。しかし明日には母の待つ家に帰るのだ。その後、様子を見てゆっくり先のことは考えれば良いか、と麻美は思った。今のところ調子は良さそうなのだから。
真美子は麻美が帰ってくるのを心待ちにしていた。赤ちゃんの頃から可愛らしく、今でも自慢の私の娘。真美子がいなくなって独り占めができるのだ。気がつくと鼻歌を歌っていた。
心の奥の方で真美子がた、す、け、てと言っているのがわかる。知ったことか今は真美子となった女はその声を無視した。