A:崩壊世界①
コンビニから10分ほど歩いたところに、古びたマンションが建っていた。外壁にはヒビが入っていないし、傾いてもいない。他の建物よりは比較的安全そうに見える。
「この中に俺の仮住まいがあるんだ」と、レンが言った。
古びた外観だったが、彼の部屋はメンテナンスがなされていた。フローリングのワンルームだが、広めのキッチンがあり、洗濯機とバストイレ付き。住み心地はよさそうだ。
「おじゃまします」
シーナがレンに続いて、部屋に入ると、
「遅かったわね。どこで寄り道をしていたの?」と、声が上がった。
何と、同居の女性がいたのだ。キチンと挨拶しなくっちゃ、と思ったシーナだったが、彼女の顔を見て、「ええっ」と驚いた。
「望先生、何だって、ここにいるの?」
シーナの担任教師である門元望である。学校で見慣れたスーツ姿ではなく、タンクトップにホットパンツという露出の大きな装い。特に、小玉スイカ並みの豊かなバストは衝撃的だった。はちきれそうな胸元は女性のシーナでもドキドキしてしまう。
「何だ、レンくん、まだ彼女に説明していなかったの?」
「それどころじゃなかったんだよ。ミルコ」
「ミルコ?」と、シーナは首を傾げる。レンは確かに、門元先生をそう呼んだ。
「立ち話も何だから、ほら、山崎さん、遠慮なく中に入って」
そう彼女から言われて、話の続きは奥の部屋の中に移ってからになった。コンビニで手に入れた飲み物を手に、思い思いに腰を下ろすと、彼女が口火を切った。
「ごめんなさいね。門元望というのは芸名みたいなもので、今の名前はミルコなの。苗字はなし、ただのミルコ。まぁ、これも偽名なんだけど、とりあえず、そう呼んでね」
「は、はい。ミルコ先生?」
「だから、先生じゃないって。高校教師に扮していたのは、世間をあざむくため。意外と楽しかったけど、本当の職業はレンくんと同じキョウカイモリよ」
「キョウカイモリ?」
ミルコの説明は、意味不明なことばかりである。説明と同じ文字数の質問がしたくなるほどだ。これはもしかして、シーナの理解力が足りないのだろうか?
「レンくん、まだ何も、彼女に教えていないのね」
「ミルコの方が、説明するのは得意だと思ってさ」
「まぁ、そうだけどね」ミルコは苦笑しながら、シーナの方に向き直る。「私たちはちょっと変わった自警団みたいなものなの。山崎さんが暮らしていた平和な世界と、この荒れ果てた世界の境界を守るのが、メインの仕事。文字通り、世界の境界を守っている、というわけ。それが〈境界守〉。はい、ここまでは理解できた?」
「え、ええ、まぁ」
「よく聞いてね。あなたが見た化け物だけど、クラスメイトが化け物になったがわけじゃないの。化け物がクラスメイトの振りをしていたわけ。山崎椎菜、あなたを手に入れるためにね」
「……えっ」シーナは何を言われたのか、まったく理解できなかった。
ミルコは続ける。
「だから、私は山崎さんの担任になって、春先からあなたを守ってきたし、そろそろヤバいかなって思ったから、このレンくんを呼び寄せたわけ」
「どうして、私を守るんですか?」
「さっきも言ったように、化け物が狙っているから。狙っている理由は、この崩壊した世界にとって、あなたは重要な存在だから。正直言って、VIPといっても過言じゃないの」
「……」
「ああ、ごめん。今はわからなくていい。おいおい理解してくれれば、それで充分だから。あと、これだけは言っておかないと。山崎さん、あなたの両親もクラスメイトも元の世界では無事だから」
「えっ、そうなんですか? 母も父も、千春もですか?」
「もちろんよ。さっき言ったように、千春さんが化け物になったんじゃなく、化け物が千春さんの振りをしていたわけだからね」
「そうなんだ。よかったぁ」シーナは安堵の溜め息を吐いた。「この世界と元の世界は似ているけれど、まったくの別物なんですね」
「いや、そうとも言い切れない」と、レンが口を開いた。「二つの世界は微妙に影響を与え合っているらしい。例えば、一方でビル火災が発生すれば、もう一方でも同じことが起こる。そういう事象が数多く報告されている」
こちらの世界ではイケメンで逞しいレンだけど、話し方は荒っぽくて堅苦しい。
「……そうなんだ。こっちの世界が化け物だらけになれば、元の世界でもそうなる可能性が高い、ということ?」
「何だ、にぶい性格だと思っていたんだが、意外と飲み込みが早いんだな」
おまけに口が悪い、とシーナは思った。
「どこで境界を越えてしまったのか、シーナにわかるか?」
「世界と世界の境界? それはやっぱり、学校の中じゃないの? 元の世界の学校で、レンくんが転校してきて、授業を受けて、昼休みに校内を案内してから教室に戻ってきたら、あら不思議、いつのまにか境界を越えていた、みたいな」
「境界を越えた自覚はないわけだな」
「ないよ。全然ない」
レンはミルコに向き直り、
「ミルコ、やっぱり人違いじゃないのか? 彼女が目的の人物だとは、どうしても思えない。こいつのどこがVIPなんだよ」
「こら、本人の前で、そんなことを言わないの」
ミルコとレンが言い争っている間、レンの言葉を反芻していた。どうやら、特別な能力の持ち主と思われていたらしい。『ジョジョの奇妙な冒険』に登場するスタンド使いの類だろうか? そんなもの、ありふれた女子高生のシーナは持ち合わせていない。
「先生」シーナは律儀に右手を上げた。「あの、質問してもいいですか?」
「先生じゃないんだけどね。学校では教師と生徒だったけど、今はタメ口でいいわよ。そんなに歳は離れていないし、その方が私も話しやすいから」
「いやいや、離れているでしょ、ミルコ姉さん」と、突っ込むレン。
「ほら、こんな奴もいるわけだから、山崎さんも気にしないで」
「あ、それなら私のことも『シーナ』と呼んでください。その方が言われ慣れているので」
「OK、シーナ。で、質問は何?」
「あ、そうでした。あの、できるだけ早く、元の世界に戻りたいんですが……」
ミルコとレンは顔を見合わせた。
「元の世界は近くにあるんだが、戻るとなると、なかなか難しいんだ」と、レン。「手を精一杯伸ばした地点から、ほんの5ミリ先にあるだけなんだが、普通の人間には決して手が届かない」
「たった5ミリだけなのに?」
「試してみるといい。精一杯伸ばした地点から、5ミリ先だ」
シーナは前方に手を伸ばしてみるが、そこにあるのは空気だけなので、指先が何かに触れるような感触はまったくない。
「シーナ、悪いんだけど、元の世界に戻るのは、しばらく待ってもらえるかしら」と、ミルコが言った。
「でも、私がいなくなると両親が心配するし、また化け物に襲われたりしたら……」
マンションの窓から下を見下ろすと、例のゾンビもどきがうろついているのが見えた。どうやら、この世界では野良猫と同じぐらい見慣れたものらしい。
「境界を越えるには複数の条件が必要だ。現時点ではまだ一つもクリアしていない。無能力のおまえなら尚更だ」
つっけんどんな言い方に、シーナは今度こそカチンときた。
「言ってみなさいよ。それって、どんな条件よ」
「誤解するな。おまえが無能だと言ったわけじゃない。俺たちはこの世界を〈クラッシュ・ワールド〉と呼んでいる。文字通り、崩壊した世界だからな。元の世界、つまり現世から〈クラッシュ・ワールド〉に来るのは、比較的簡単だ。自動ドアを抜けてデパートに入るのと何ら変わらない。もっとも、デパート側が出入り禁止にしていれば、話は別だがな」
「そうそう、逆の見方をすれば、シーナが入ってこられたのは、化け物サイドがそれを望んだから」と、ミルコが口添えをする。「化け物サイドが特定の人物に狙いをつけ、強い力で引き込もうとすれば、否応なしに〈クラッシュ・ワールド〉に招かれてしまう。ほら、〈神隠し〉ってあるじゃない。毎年8万人以上の人間が行方不明になっているけど、その一部はこっちに来ているんじゃないかな」
「……あの、話半分だとしても、私には信じられません」シーナは呆気にとられていた。
「ああ、そうだろうな。俺たちの話を初めて聞く奴は皆、おまえと同じこと言うよ。信じられないなら信じなくてもいい。ただ、思考と行動を放棄して、投げやりになるのだけはやめてくれ。〈クラッシュ・ワールド〉は言ってみれば、戦場だ。警察も自衛隊もいない。孤立無援で、誰も頼れない。おまえを守るのは俺たち〈境界守〉だけだ。わかったか?」
「……わかった」
レンとミルコの表情が真剣なので、シーナはそういうしかなかった。