B:老人の戸惑い
老人の頭の中は今、エムによって支配されていた。
無意識のうちにエムに助けを求めていたことにも驚いたが、エムが突然あらわれた時の自分のうろたえようにもショックを受けていた。これまで自分を支えてきたものが、あまりにも脆弱だったと思い知らされたからだ。
「それにしても、不思議ですね」青年は肩をすくめた。「どうして、僕にはエムが見えなかったのでしょう。僕はあなたの分身なのだから、僕の眼はあなたと変わらないはずなのに」
「さぁね。同一人物であっても個体差があるのかな」
「うーん、納得できませんね」青年は首を横に振る。「わからないといえば、どうして、ここにエムが現れたのでしょう」
老人は少なからず、居心地の悪さを感じる。
「まさか、あなたがエムを呼んだ、ということでしょうか?」
「さぁ、どうだろう。君という分身がここに現れた理由が、私の無意識によるものなら、エムの場合も同様かもしれない。そういう見立てかね?」
「僕とエムの大きな違いは、滞在時間ですね。あなたの言葉を信じるなら、エムはすぐにどこかへ消えてしまった。僕は今でも、ここにとどまっているのに」
「……」
「エムというのは、何なのでしょう。いえ、エムの意味はわかっているのですが、実際には、それをはるかに超えた存在であるという、もっぱらの噂です」
「ほぉ、それは興味深い。一体どんな噂だね?」
「いえ、何の根拠もない戯言ですよ。だから、噂の域を出ないわけですが」
「いいから、言ってみたまえ。なに、その噂に関しては、うすうす想像がつく」
青年は少し考えてから、口を開いた。
「わかりました。エムとは何なのか、とことん追及した専門家がいたそうです。誰もが納得できる答えを求めて、考えに考え抜いた結果、その人物は一つの結論に辿り着きました」
「もったいぶらずに言ってみたまえ」
「エムとは神を生み出した存在ではないか? この世界を7日で作り出したものが神なら、その神を産み落としたエムは文字通り〈神の母〉です」
「エムとは〈Maria〉のMということかね。つまり、聖母マリア」
青年は笑顔で、
「イエス」と言った。受けを狙ったのか、いささか得意げである。
しかし、その狙いは不発に終わり、老人は失笑しただけだった。
「それは、笑えない冗談に思えるね。エムは厳密に言えば〈エムツー〉だから、エムが二つ、つまり〈マグダラのマリア〉かもしれない」
〈マグダラのマリア〉とは、イエスの弟子の一人だ。イエスの処刑と埋葬を見守り、かつイエスの復活を最初に知った女性である。イエスと結婚していたとか、娼婦だったという説もあるが、歴史的な裏付けはない。
(私がイエスやマリアのような存在であれば、こんなに迷わないだろうし、他のものの助けを求めなかっただろう。例え、それが無意識であったとしても)
そう考えて、老人は苦笑した。




