A:ゾンビもどき
アニメにおける転校生とは定番のイベントだし、転校生を校内に案内する、というシチュエーションはボーイ・ミーツ・ガールの基本である。
シーナは昼休みになると、レンを連れて校内を案内することにした。バカな男子どもが冷やかしてきたが、全然、気にならない。すまし顔で聞き流すことができる。
なぜなら、そんな些細なことより、レンに対する好奇心からの方がずっと勝っているからだ。
「ふうん、シーナの好みって、ああいう感じか」とは、親友である千春の弁。「最初は意外だったけど、よく考えたら納得できるかも」と、ニヤニヤと笑っていた。
おそらく、シーナの気持ちを誤解したのだろう。いや、シーナがレンに興味津々なのは誤解じゃないのだが。
とりあえず、渡り廊下を通って、体育館、図書室、視聴覚教室、購買部、自動販売機コーナー、保健室……と一通り案内した後で、
「ね、レンくんの前の学校はどこ?」
「えっ、あの、ええっと」
「あっ、レンくんって呼んじゃったけど、西牟田くんの方がよかった? 珍しい苗字だね。どこかの地方では多かったりするのかな。他人の名字に申し訳ないけど、少し言いにくいね。ニシムタニシムタ、ふふっ、早口言葉みたい」
我ながらバカな言い草だと思ったが、シーナは相手の口数が少ないと、つい言葉数が多くなってしまう。でも、沈黙が続くより全然ましだろう。
「ニシムタニシムタニシミュタ。はは、噛んじゃった」
「山崎さんって面白い人だね」レンは白い歯を見せて、朗らかに笑った。
「あっ、私のことはシーナって呼んで。その方が言われ慣れているから」
恥をかいた苦労は報われた。レンの笑顔は、子供っぽくて可愛かった。夢の中の笑顔とそっくりである。
やはり、同一人物なんじゃないの、これって運命的な出会いなのかも、とシーナは内心ドキドキした。
それは確かに、運命的な出会いだった。ただし、シーナの理想とは、かなり違っていた。
二人が教室の前に戻ってきた時、なぜかレンがシーナの腕をつかんで、
「ちょっと待って。今は教室に入らない方がいい」と、言ってきた。
「えっ、どうして? もうすぐ授業が始まっちゃうよ」
シーナが振り返った時、そこには顔を引き締めたレンがいた。それまでの気弱そうな印象はすっかり消え失せている。
「そのドアを開けると、シーナさんには想像もつかない厄介事が待っている」
「もしかして、異世界が口を開けて待っているとか? ふふ、レンくんって、そういう冗談が言える人だったんだ」
そう言って、シーナはドアを開けてしまった。
教室の中は無人だった。昼休みがもうすぐ終わるというのに、クラスメイトは一人もいない。これは明らかにおかしかった。まさか、午後の授業が何らかの事情で、急遽中止になったのだろうか?
「シーナ、遅かったね、どこかで転校生と乳繰り合ってるかと思ったよ」
振り向くと、いつのまにか後ろに千春が立っていた。これもおかしい。本来、こんな皮肉っぽい言い方をする千春ではないはずだ。シーナは怪訝な表情になって、
「やだ、変なことを言わないで。ねぇ、他のみんなはどうしちゃったの? 何か大変なことが起こったの? まさか、どこかの国が東京に向けて、核ミサイルを発射しちゃったとか?」
「はっ、そっちの方が、シーナにとっては、まだましだったかもね」
千春は突如、腹を抱えて笑い転げはじめた。白眼をむき、口から涎を垂らしている。
「シーナさん、下がって。彼女に近寄るな」と、レンが叫んだ。
しかし、シーナは反射的に、千春に駆け寄ってしまう。
結論から言うと、レンの言葉は正しかった。千春は既に、千春ではなくなっていたのだ。
顔色が土気色に変わったと思ったら、つややかな黒髪が束になって抜け落ちた。虚ろな眼をした彼女は首を傾げたまま、シーナの方に向き直る。
その顔はもはや人間ではなく、ホラー映画でお馴染みのゾンビそっくりだった。真っ赤な口を開くと、同じ色のものを勢いよく吐き出した。
レンに腕を引っ張られていなければ、シーナは異様なものによって、額を貫かれていただろう。千春だった化け物の口から伸びているのは、槍のように長くて硬質な舌だった。
「いやーっ! 千春、どうしちゃったのよ!」
「ダメだ。もう君の知っている彼女じゃない」
教室から出ようにも、いつのまにか、前と後ろのドアは塞がれていた。顔が土気色のクラスメイトたちで埋め尽くされていたのだ。
「もう何なのよ、これっ!」
シーナはヒステリーを起こしかけていた。
レンは顔色一つ変えずに、シーナを抱きかかえると、
「ここから逃げるぞ。シーナさん、しっかり捕まっていて」そう言って、躊躇いなく走り始めた。
レンが向かったのは廊下とは反対の方向だった。つまり、開け放たれた大窓の方である。
「待って待って、ここは三階だからっ!」
シーナの叫び声とレンが窓枠を蹴ったのは、ほぼ同時だった。
10mの高さからコンクリートに叩きつけられるより、かなり早く、シーナは柔らかい衝撃を覚えた。レンが窓の前にあった校旗掲揚用のポールを両足の裏で蹴ったのだ。ビリヤードの玉のように二人の身体は跳ね返り、空中で反転したレンの両足の裏が今度は校舎の壁面をとらえる。
さらに跳んだ二人は、葉の生い茂ったクスノキをクッションがわりにして、グラウンドに降り立った。その際、レンが全身の関節を使って、すべての衝撃を吸収したらしい。シーナはほとんど痛みを感じなかった。
「怪我はないか?」
シーナはレンの問いに答える余裕がなかった。クラスメイトがゾンビもどきになったこともショックだったが、目の前の情景は負けず劣らず異様なものだった。
創立十周年を迎えたばかりの校舎が無残にひび割れていて、今にも崩れ落ちそうなのだ。まるで、夢に出てきたゴーストタウンのビルそっくりだった。
「これって何? 一体どうなってるの? ねぇ、もしかして夢?」
「その質問に答えるのは、彼らから逃げ延びてからにさせてくれ」
レンの視線の先を辿ると、昇降口のあたりから、ゾンビもどきの群れがこちらに向かって、四つん這いで走ってくるのがわかった。
「ひいっ!」
「逃げるぞ」
シーナはレンに手を引かれながら、懸命に走り始めた。
校門を抜けて少し走っただけで、運動不足のシーナは息が切れてしまう。
すると、レンは彼女を抱きかかえて、驚いたことに、そのまま走り始めた。三階から飛び降りた時もそうだったが、彼は人間離れをした身体能力をもっているらしい。
自己紹介の際、おどおどしていた彼とは、まったくの別人である。痩せてはいるが、底なしのエネルギーを秘めた筋肉質の肉体だ。背筋は伸びているし、顔つきだって引き締まっている。
獠ちゃんみたい、とシーナは思った。獠ちゃんとは、もちろん『シティーハンター』の冴羽獠のことである。子供の頃に再放送で見て、一目ぼれをしたのだ。新作劇場版の公開は最高にうれしかった。
それはともかく、今の状況はホラー映画のようである。新世代のゾンビは全速力で走るから厄介だった。ゾンビもどきと化したクラスメイトたちは、執拗に追いかけてくる。
しかし、四つん這いの態勢に慣れていないのか、一人、また一人と脱落していき、しばらくすると最後の一人も見えなくなった。
レンは周囲に気を配りながら、速度をゆるめると、近くにあったコンビニの前で立ち止まった。
「ここで待っていてくれ。水と食料を調達してくる」
「一人にしないで。私も一緒に行く」
「いや、ここで奴らが来ないか見張っていてくれ。もし、一匹でも見かけたら大声で叫ぶんだぞ」それでも、シーナが一緒に行こうとすると、「何度も同じことを言わせるな。俺の言うとおりにしろっ」と、一喝された。
見かけだけではない。レンは性格まで一変していた。状況的には仕方ないのかもしれないが、粗野で荒っぽい印象を受けた。
「そういえば、一人称が〈僕〉から〈俺〉に変わっていたな」
シーナは駐車場の木陰に座り込み、レンに言われた通り、道路を見張ることにした。
逃げる際に通ってきた道路は大地震の後のように、ところどころアスファルトに亀裂が入っていた。裂け目から水が湧き出ている場所もあったし、水路沿いには崩落しているところもあった。
逃走中には、一人の人間も見なかった。シーナの知らないうちに大地震があったとしても、無人ということはありえないと思う。
「やっぱり、ここはゴーストタウンなの?」
ゾンビもどきになったクラスメイト。ひび割れた校舎。夢の中そっくりのゴーストタウン。すべてはシーナの想像をはるかに超えている。
もし、これが夢なら、一刻も早く覚めてほしい。でも、夢ではないことは明らかだった。