A:呉越同舟①
アシュタルの転移によってレンとシーナが元の峠に戻った時、SUVは同じ場所にあった。空を見上げれば、太陽の位置はほとんど変わらない。アシュタルに連れ去れていたのは、ほんのわずかな時間に思われた。
「シーナ、身体は何ともないか?」
「うん、頭がクラクラするぐらい」
「乗り物酔いの薬が薬箱にある。飲んでおくといい」
「それよりもアシュタルさんは、どこに行ったの?」
「心配しなくても、すぐそばにいる」その声は、シーナの頭の上からした。「約束通り、おまえたちと同行するからな」
アシュタルは身体を十数分の一に縮めて、シーナの髪の毛の上で胡坐をかいていた。
「いわば、おまえたちのお目付け役だ。しっかり敬意を払ってくれよ」
「いや、立場は対等だ。それより、そのサイズでずっと過ごすのか?」
「目立たないように気を使っているつもりだが、レン、何か不服か?」
「いいや、そのサイズで構わない。その方が燃費の節約になるからな」
こうして、レンとシーナの旅路は、アシュタルを加えて再開した。一同を載せたSUVは快調に峠を下り、さらに山々の奥深くに進んでいく。ただ、夕暮れが近づくにつれ、山道は次第に闇に飲み込まれていった。
「あの、何か出そうな雰囲気になってきましたね」
「シーナ、そういうことは口に出さない方がいい」と、レン。
「口に出すと、聞きつけた連中が姿を現すからな」と、アシュタル。
「それって妖怪ですか? それとも幽霊、魔物?」
「まぁ、妖怪だな。魔物は俗物だから目的で動く」と、レン。
「何だ、その言い方は、喧嘩を売っているのか?」と、アシュタル。
レンが急ブレーキを踏んだ。シーナはシートベルトをしていたが、前につんのめり、アシュタルが頭から落とされまいと、思い切りシーナの髪の毛を引っ張った。
「痛い痛い、アシュタルさん、痛いって」
「文句ならレンに言え。このクソ運転手」
「言葉が汚いな。育ちの悪さが知れるぞ」
そう言いながら、レンは車外に出た。ヘッドライトに照らされた行く手には、何もない。
「気がつきませんでしたが、タヌキかキツネでも飛び出してきたんですか?」
シーナが訊ねると、レンは右手を上げて、前方のやや上を指さした。
「こいつが見えないのか? よく目を凝らしてみろ」
レンの指さした方に、シーナは目を凝らす。最初は何も見えなかったが、やがて、巨大な壁のようなものが浮かび上がってきた。
「噂では聞いていたが、実際に見るのは俺も初めてだ」
それは壁というより、いびつな小山だった。表面がゴツゴツとしており、切り出したばかりの岩に似ている。
「レンくん、これは何なの⁉」
「こいつは、〈ぬりかべ〉だよ」
「アニメの〈ぬりかべ〉とは全然ちがうね」
シーナが発言は言うまでもなく、日本で最も有名な妖怪アニメのそれである。作中の〈ぬりかべ〉は主人公の仲間であり、姿かたちは文字通り、巨大な壁。無口で朴訥としたキャラクターだった。
目の前の〈ぬりかべ〉も見かけこそ朴訥としているが、一旦動き出せば凶暴な獣のような力強さが伝わってくる。
レンはスタスタと〈ぬりかべ〉に歩み寄っていく。シーナが少し離れて見守っていると、レンは手を伸ばして、それに触れた。だが、いびつな岩には手応えがないらしい。半透明であることも相まって、シーナにはホログラフィーのように見えた。
「レン、何をしている。そんな妖怪なんか突っ切ってしまえばいい」
しかし、レンはアシュタルの言葉をスルーして、〈ぬりかべ〉の中に入っていく。
「バカ、車で突っ切れと言ったんだ。おまえが突っ切ってどうする」
「レンくん、どこに行くの?」そう言いながら、シーナはレンを追いかけた。硬そうに見える〈ぬりかべ〉だが、すんなり通り抜けてしまう。
「シーナ、こらっ、止まれ」
アシュタルが頭の上から怒鳴ったので、シーナは慌てて止まろうとする。しかし、勢いあまって前につんのめってしまった。
「あわわっ」
「シーナっ」
レンが彼女の腕を掴んでいなければ、大変なことになるところだった。薄暗いのでよく見えなかったが、彼女の足元に漆黒の闇が口を開いていたのだ。
〈ぬりかべ〉とは本来、人間が夜道を歩いている際、前に進みたくても一歩も進めなくなる、そのような状態のことを指す。その状態に大きさと形を与えたものが、妖怪〈ぬりかべ〉の成り立ちらしい。
地方の伝承によると、〈ぬりかべ〉を克服するには棒で足元を払ったりする方法がある。だが、レンたちが出くわしたそれは自由に通り抜けられるので、従来の〈ぬりかべ〉とは違うものなのかもしれない。
レンは暗黒の大穴を覗き込み、
「深いな。全然、底が見えない」
「辺りが暗いせいじゃないの?」と、シーナ。
「いや、この穴は地獄に直行だ」と、アシュタル。「文字通りの意味だぞ。普通の人間が穴の中に落ちたら確実に死ぬ、という意味じゃなくて」
「まさか、穴の奥底では怨霊がたむろしているということか?」
レンの問いかけに、アシュタルは笑顔で頷いた。
「私たちにとっても厄介な連中だ。すぐ立ち去ることを勧める」
「アシュタルさんって、その怨霊さんとの関係はどうなんですか?」と、シーナが訊いた。
「どうとは、どういう意味だ?」
「親しかったりしないんですか、怨霊さんと」
「怨霊に〈さん〉づけをするヤツは初めて見たな。おまえら人間と昆虫の関係より縁遠いと思うぞ」
「……そうなんだ」
レンがシーナに向かって、
「俺たち〈境界守〉の間では、こういう穴を〈デビル・ポータル〉と呼んでいる。〈絶対に近寄るな〉が鉄則だ。怨霊は生きている人間を目の敵にしているからな」
アシュタルは愉快そうに、言葉を続ける。
「二人なら、尚更、つけ狙われるぞ」
「なぜ、私なんかを狙うんですか?」
「シーナ、おまえが〈エムツー〉だからじゃないか」
「さっきも話に出ましたね。〈エムツー〉って何ですか?」
しかし、レンは無言でSUVの方に引き返し、アシュタルも苦笑をもらすだけである。シーナは首をひねっていたが、何か言いにくい理由があるのだろうと、それ以上は二人に追及しなかった。
いつのまにか〈ぬりかべ〉は姿を消えていた。レンによると、ほとんどの妖怪は気まぐれで、その真意を理解することはできない。ただ、ある程度の推測は可能だ。「この先に大きな穴が開いているよ」というメッセージを伝えて納得したのだろう、と考えられる。
「レンくん、これからどうするの?」
「大穴を飛び越えられない以上、バックするしかない。5キロメートルほど戻れば、もう一本の道がある」
そんな二人のやりとりをアシュタルの咳払いが遮った。
「レン、どうして私に助けを求めない。私が巨大化して、この車をひょいと摘まみ上げれば、あんな穴ぐらい」
「……アシュタル、俺たちを助けてくれるのか?」
「おいおい、何だ、その言い方は。下手な芝居はやめてくれ。最初から私に手伝わせるつもりだったくせに」
レンはシーナと顔を見合わせ、「まさか」という表情で、外国人のように肩をすくめた。
「そんなつもりはなかったが、助けてもらえるならありがたい。ムダな時間を省くことができるからな」
「ふん、手間のかかる連中だ」
アシュタルは、それ以上は何も言わなかった。約20メートルへの巨大化を果たすと、指先でSUVを摘まみ上げた。地面と平行を保ったまま、ゆっくりとSUVを運んでいく。
その時、真下にある穴で異変が起こった。何の前触れもなく、真っ黒な塊が勢いよく次々と穴から噴き出してきたのだ。




