B:老人の来訪者
真っ暗闇だった。
普通の人間なら、鼻をつまんだ相手の顔さえ見えないだろう。
しかし、常人ならざる老人の視界は、極めてクリアである。老眼はもちろん、近視や乱視の気配もない。その気になれば、闇の中でも読み書きができるはずだ。
だから、ランプを点けたのは、自分のためではない。来訪者のためだった。マジックアワーが終わった頃に、その人物の接近を察知したのである。
遊牧民の一人だろうか? いや、ここは人類が滅びて久しい世界だ。普通の人間がいるはずがない。
日本では昼と夜の境目を「逢魔が時」というらしい。文字通り、魔物と会いやすい時間帯である。だとすれば、老人の元にやってきたのも、そうした類のものだろうか。
「仮にそうであったとしても、追い返してやるだけだがな」そう言って、老人は微笑む。「いや、退屈しのぎに少し付き合ってやってもいいか」
しばらくして、「やぁ」とも「おぅ」ともつかぬ声をともに、長身の男が老人の目の前に現れた。
「助かりましたよ。光が見えたので、ここまで辿り着くことができました」
若い男の声だ。ランプの光を受けて、彼の顔がはっきり見える。20歳前後に見える美青年だった。両頬にえくぼができる屈託のない笑顔を浮かべていた。
「すいません、水を一杯もらえませんか?」
老人は美青年の方を見向きもせず、「わかっていないな」という風に、首を横に振った。
「オアシスの水は私のものではないし、誰のものではない。おまえさんの好きなだけ飲むがいいよ」
素っ気なく言って、彼の顔をジッと見つめた。睨みつけたと言ってもいい。
しかし、美青年は笑顔のままだった。
「わかりました。そうさせてもらいます」そう言って、笑顔を浮かべたまま、水場の方に歩いていった。
とりあえず、敵意はなさそうだったが、本心がどうであるかはわからない。物腰の柔らかそうなタイプだが、明らかにただ者ではなかった。どことなく危険な香りが感じられる。
今、オアシスにいるのは、老人と美青年の二人だけだ。何が起こったとしても、咎めるものはいない。完全犯罪など、簡単にできてしまう状況である。
もっとも、もし争いになったとしても、老人に負ける気はさらさらなかったが。




