世事放談:政治には生け贄が必要である
政治には生け贄が必要である――
この表題を読んで「ふざけるな!」と思った人がいると思いますが、私も同感です。
自分でも声を大にして「ふざけるな!!」と言いたい。
でもちょっと待ってください。
生け贄を必要としない政治というのは簡単なようでいて実のところは非常に難しい。
昨年、大阪で地震が起きた際にコンクリートブロック塀が倒壊して女子小学生が死亡しました。
この事故を受けて全国の自治体では危険なブロック塀を無くそうという動きがまた広まってきていますが、ブロック塀の危険性については以前から指摘がありました。
でも、世論も行政もそんなには動かなかった。
なぜ?
目に見える犠牲が出ていないからです。
もしもあの大坂の地震でブロック塀の倒壊に巻き込まれたのが巨漢プロレスラーで、仮に死んでいたとしても世論はそんなに動かされなかったでしょう。
弱者として記号化される傾向の強い、女、子供が犠牲になるという絵面はそれだけ世論に対して扇情的効果が高いということです。
ましてや犠牲になったのは女子小学生で、女属性と子供属性という最強コンボ。
これ、悪い言い方をすれば、世論を動かすファイアースターターには少女の犠牲が最適だという意味になります。
湾岸戦争当時、クウェート人少女がアメリカ連邦議会でイラク軍の「蛮行」を証言してアメリカの世論を動かしました。
「イラク兵がクウェートの産婦人科に乱入して新生児を床に叩きつけて次々に殺すのを見た」と、この幼いクウェート人少女が証言したわけですが、
この少女、実は、駐米クウェート大使の娘だったとかなんとか。
ワシントンDCに居た少女がどうしてクウェートの産婦人科の様子を目撃できたんでしょうか?
多分超能力少女だったんだと思います。
もしもアメリカ議会で証言したのがくたびれたおっさん医師だったとしたら、少女が行った偽証言ほどの説得力は持ちえなかったでしょうね。
「大衆は(感情で動く)女である」と看破したのはヒットラー、それともゲッベルスでしたっけ……?
人間という生き物は基本、血を見るまでは何も理解できない。
という理性的限界を持った生物種なのかもしれませんね。
(そりゃぁ戦争が無くならないわけだ……)
政権交代で政権を握った政党が「コンクリートから人へ」と訴えて政権を取りましたが、
「百年に一度の災害に備える予算に何の意味が有るんですか!?」と事業仕分けをした結果、
天災大連チャンで「コンクリートガラが人へ」という素晴らしいオチです。
基本的に東北北海道の土建屋に冬の間の建設工事はありません。
冬にコンクリートを打設したら、セメントが乾くよりも前に水分が凍結しますので土木建設なんかできません。
ドカ雪の降る中、木造住宅を建てる馬鹿もいませんし。
なので豪雪地帯の土建屋が食い繋いでいくためには冬季の除雪作業は不可欠。
そこで事業仕分けだなんだで除排雪予算をカットされたら土建屋は死にますがな。
翌年度に予算増やしても倒産した土建屋と散り散りになった土木作業員は元には戻りません。
「もう一度やらせてみてください。ダメだったらまた選挙で落とせばいいんです」
評判や都合が悪くなったらコロコロ党名を変えたり、
離合集散繰り返しでの
新 党 詐 欺
を常習している政治屋はそれでもいいでしょうけど、壊されて死んだ社会システムは元には戻りません。
覆水盆に返らずとも言いますね。
あの時、事業仕分けを支持しいていた人たちは防災関係予算をカットして子供手当や福祉予算に回してもいいと思っていました。
なぜなら、災害による損害が発生していなかったから。
人間の半数は平均以下の知能しかないといいます。
現実化していない災禍への対策予算を損失とは見ずに、必要なコストと認識できる人がどれだけいるでしょうか。
現実化していない災害による損失は、現実化していないヴァーチャルな仮想現実に過ぎませんので、現実においては不可視のものです。
なのでその対策に対して使われる予算をバラ撒き、無駄遣いと考える向きは多い。ムダ金だと。
でも災害が現実化してから対策したところで最早手遅れなのですが、
災害対策を無駄遣いと批判していた層ほど、いざ災害が現実化すると「政府はなぜ対策しなかった!」と批判するものです。
そして災害が現実化して犠牲が出て初めて行政が動くような空気が醸成されると。
だ か ら 政治が動くには生け贄が必要なんですね。
それが嫌なら、未だ起きていない災禍に備える予算を、ドブに捨てる無駄金と感じる感性を捨てなきゃならない。
それが出来なきゃ、生け贄ありきの政治は永久に不滅です。