春
会社のデスクのパソコンで作業し始めて12時間経とうとしている。休憩をはさむこともなく食事を取ることも忘れてそれでも集中力は途切れなかった。今日ほど自分がプログラマーでよかったと思う日はない。はるなんのデータを取り込んでいく作業は何時間やっていても苦じゃなかった。おかげで任されていた顧客管理システムの開発は明日までの納期に間に合わなくなったがそんなものどうでもいい。今自分は好きなことを仕事に出来ている。SNS上での使用言語、時間と場所。活動実績。はるなんのビッグデータから遺伝的アルゴリズムを使って解を導く。抽出されたキーワードの中でもさらに関連が深いものを特定しそれを繰り返すことでもっとも有益で最適な解にたどり着ける。カバンから取り出した銀紙の包みを破って今日初めての食事を開始する。冷え切ったおにぎりを頬張りながら画面を凝視すると最適化まで92%完了となっていて、仮にこのシムテムが完成したらこれを「春」と呼ぶことにしようと考えた。「春」はきっと自分に足りない何かを見つけてくれるに違いない。
真ん中のはるなんの写真はチェキ会の時にツーショットで撮ったものを切り取ったお気に入り。その周りに統計学で導き出した最新の関連ワードが5分おきに更新されて、はるなんの周りを埋めつくしていく。関係の浅いものは小さく深いものはより大きく表示される。ある程度累積したところで画面下にある「演算」のボタンをクリックすると、その時に出てるすべてのワードを組み合わせたもっともはるなんと関係があるものを導き出し一覧で表示される。それによって「春」が最初に導き出した答えはボタニカルという女性向けに人気のシャンプーだった。これはちょうどはるなんが美容院へ行ったことをSNSに載せた時期と100ぐらいの少ない関連ワードで演算ボタンを押したタイミングが重なったためだと思われる。「春」は関連ワードが少数のうちに計算するとよりタイムリーで実況的な解を、多数であれば表面的な事象に左右されないより本質的な解を導いてくれる。「春」を稼働させてから2週間以上経つが、思うような結果はまだ得られていない。「春」が出す解は全部すでにぼくの知っている解だった。使い始めて3日目には十万ワードを超えた。それでも思うような解にはたどり着けなかった。会社では、とあるファミレス業界から発注されたタッチパネルで注文できるシステムの開発を任されていたが、全く集中できなかった。このファミレスがやってるCMにはアイドルが起用されているのだが、違うグループの子で、その会社のシステムに携わるということは、はるなんに対する裏切りなんじゃないかと思えて仕事が手につかない。このことは次の握手会で正式に謝らなきゃいけないだろう。定時の17時丁度に会社を出た。すぐイヤホンを耳に詰めて欠乏したはるなんを体に充てんする。帰りの電車ではスマホではるなんのライブ動画を、目と耳をはるなんで塞ぐ。
「春」は八百万語もの関連ワードを表示させ、それは真ん中のはるなんの写真を覆いつくす程だった。いつもなら会社から帰ると真っ先にシャワーを浴びているところだが、そのままパソコンにかじりついた。「春」から初めて見るワードを見つけたからだ。
「死体」「殺人」
僕がはるなんから一度も想像したことがないものを「春」は見つけていた。演算ボタンを押す。「春」はスクロールしきれないほどの膨大な量の殺人事件の記事を僕に見せた。事件はすべてここ三カ月以内に都内で起きたもので、現場はどれも握手会やはるなんのイベント会場の近所で起きていた。どの事件にしても犯人が捕まっていることが不幸中の幸いだがこの最適な解は次の握手会が自分にとって重要な日になることも教えてくれていた。
今日の握手会では鍵開けはあきらめなくてはいけない。リュックから突き出た丸めたポスターの中に隠してある包丁はもしもの時のための護身用。会場を中心に半径一キロの円を掻きその円周上をパトロールする。その円をだんだん小さくしていって17時15分の受付最終時刻までに会場周辺のすべての安全を確保して、それから整理券を受け取る。当日の朝からぐるぐるぐるぐる歩き続けて少しずつはるなんに近づいて行くのは、はるなんという星に、周りを公転する僕という彗星が何百年かに一度最接近するみたいな現象に似ていて、いつもより今日の握手会はロマンチックだなと思えた。体力的にきつくなると途中で近くの喫茶店に入った。その時もなるべく窓のある方の席に座って外の様子に目を配った。会場エリアに入ってからも整理券をもらわずに周りをぐるぐる回った。敵はどこに潜んでいるかわからないわけで、いざとなったらポスターを抜く覚悟は出来ていた。17時15分ギリギリに整理券をもらった。でもまだ終わりじゃない。列に並んでいる最中も周囲に目を凝らした。並んでいるやつらも警備員さえも疑った。一時間何も起きずにあと数人で自分の順番になった。ポスターの中の包丁は柄と刃が着脱式で一旦取り外した刃はズボンのベルトが来る位置に穴をあけてそこに隠し金属探知機鳴ってもそれはベルトに反応しているように思わせた。持ち物検査は数秒で通り抜けられた。これじゃあ敵の思うつぼじゃないか。自分の順番が回ってきた。はるなんは僕を見るなり手を振って会心の笑顔になった。
「ありがとう」
はるなんはいつもどおりに僕の手を握った。
「はるなん大丈夫だった」
はるなんは何のことかわかってないようでただ僕の顔を見た
「近くで殺人事件がずっと起きてるよね」
「え?」
「はるなんが怖がるだろうと思ってずっとパトロールしてたんだそれなのに肝心の警備がこれじゃはるなんを守れないよ」
リュックからポスターを出して輪ゴムを取るとゆるんだポスターの隙間から包丁が落ちた。金属の音が鳴って刃が照明で光った。
「きゃあー」
はるなんが悲鳴を上げると同時にどこから湧いてきたのか何人もの大人が僕の体を捕まえに来た。
「おいなんだよ、こんなざるみたいな警備ではるなんが守れんのかよ」
僕は初めての感覚に襲われていた。自分の体が大人たちによって導かれる方にあの部屋があったからだ。僕ははるなんの横をすり抜けた。僕はついにはる隠しに遭った。