73. ユーティラファニア
あの夜、泣き疲れたのか眠ってしまった子供を衛兵に預け、それきりだ。
泣き慣れていないのか、泣いたことがなかったのか。あの時は大きな目を真ん丸にしてポロポロと涙を零していたが、今日は半眼がちで眠たげである。
否、眠たげとは言ったが、人が変われば“涼しげである”と評するかもしれない。
子供の容姿は非常に整っていた。曇り一つない白い髪に肌、感情の見えない紅碧の瞳も相まって、まるで精巧な人形のような印象を受ける。
「なんだ、何か用か?」
「…………」
『こいつ、何しに来たんだ?』
狼人に似た耳に、狼人のものではない雲のような大きな尾。数日しか経っていないのに腰より伸びた髪は謎だが、獣人族なのは間違いないはずだ。
子供は喋らない。年の頃は5、6歳程度に見えるので、口が利けないことはないだろうが――。
「お、おいセレッ、お前平気なのかっ!?」
「は? 何の――……何してんだゲオルグ」
「い、いや、その子供……なんか変じゃねえか!?」
ゲオルグだけではなく、店にいる店員、客、全員が壁際に体を寄せていた。
変、と言われても。確かに変わった子供ではあるが――ゲオルグの、観衆の目に浮かぶのは“怯え”。子供に向けるものではない。
子供の様子は変わらない――少し俯いて、服をぎゅっと握っている。セレが頭を撫でてやると、ゆっくり顔を上げた。大きな目が、零れ落ちそうなほど真ん丸だ。
「ゲオルグ、何が変だと感じる?」
「な、何がって……体がゾワゾワして、そんで……あっ、アレに似てる! デケェ魔石とか、怪魔の素材を触った時の感じだ!」
「魔石、怪魔……魔力か? お前、魔力をどうにかできるか?」
「…………(フルフル)」
初めて反応が返ってきた。しかし、望んだ応えではない――そもそも、子供自身がどうにかできるなら、こんな事態にはなっていないだろう。セレは頭を捻った。
『魔力のせいならよ、俺と同じように影纏付ければいいんじゃね?』
「――ゲオルグ、エナと同じのでいいから、影纏を持ってきてくれ」
「か、影纏か。なるほどな、わかった!」
ゲオルグが前のめりに駆けていくのを見送る。
あの時、子供は魔力を盗まれていた。だからなのか、周囲の人々は特に反応しなかった――数日の間に子供の魔力が回復し、こうなったのだろう。
それにしても、エナの時とは周囲の反応がまるで違う。“魔力の大きさ”に対し、精霊には“違和”、人には“恐怖”――魔力の質、精霊と人の差なのだろうか。
「何の用かは知らんが、もうちょっと待ってろ。まずはお前の魔力をどうにかしてからだ」
コクン、と子供が小さく頷いた。いつの間にか、セレの上着の裾を控えめに摘んでいる――セレは子供の柔らかい髪を、少し乱暴にかき混ぜてやった。
「どうだ?」
「ああ、今は何ともねえ。俺はセレみてえに強くねえからよ、ビビって悪かったな嬢ちゃん」
「…………(フルフル)」
『嬢ちゃん? こいつ、男じゃねえのか?』
「……ゲオルグ、これは“嬢ちゃんじゃない”って言いたいんじゃないか」
「…………(コクリ)」
「エッ…………マジかよ……」
子供の首にはエナと色違いの影纏。黒のチョーカーに銀の金具、付いている石の色は青色だ。
というか、男だったのか――衝撃を受けるゲオルグほどではないが、セレも内心驚いていた。当の本人はといえば、首元を触りながら、そわそわと周囲を見回している。その表情は、僅かに人らしい色が付いていた。
「間違えて悪かったな、坊主。影纏、俺の奢りだ」
「いいのか? 一応商人だろ」
「バッカ、子供から取れるか。大人のお前ぇから徴収すんだよ、酒奢れよ酒」
「“耽溺の赤”ならあるぞ、注いでやるよ」
「秒で潰す気かよ!」
『俺も飲むからな!』と突いてくるエナを宥めつつ、セレは子供の手を取った。探索者ギルドは今日でなくてもいい。ならば、次の予定は、エナの機嫌を取りがてらの屋台巡りでいいだろう。
真ん丸の紅碧いっぱいにセレを映す子供は、やはり何も喋らない。しかし、その鏡のような瞳には、確かに感情の色を宿していた。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇
美しい子供は思いのほか行人の耳目を集めた。街の喧騒の片隅でひそりと食うのも嫌いではないが、今回ばかりは広場から少し離れた、人通りのない木陰のベンチに腰を下ろすことにした。
屋台で買った皿料理を子供と二人、ベンチに並んで黙々と食む。
じゃがいも、バター、分厚いベーコン。軽く塩を塗しただけの一皿料理がセレは存外に好きだ。じゃがいもに染みたバターと肉の脂、なんならそれだけで食える。どの町に行っても大体材料が手に入るので、まれに自炊する際にもよく作る。いわゆる“外れるはずがない組み合わせ”である。
バターと程よい塩味の染みたじゃがいもを口に放り込む――美味い。もしこの世界の“美味”の基準が大きく違っていたら、さすがにセレも精神的に堪えていたかもしれない。
エナも機嫌よく小皿の芋を啄んでいる。森で食べる機会のない温かい料理が特に好きらしく、体の半分もありそうな芋にも怯む様子はない――保温皿はいい仕事をしているようで、しばらく経つが湯気が立ったままである。
「美味いか」
「…………(コクリ)」
あの場に居続けるのもよくないだろうと了承もなく連れてきてしまったが、子供は特に気にした素振りもなく、与えられた皿を黙々と食べ進めている。
出会ってから、と言うほどに時間は経っていないが、その様子に人形めいた無機質さは見受けられない。“表情に乏しい子供”が、目を輝かせて飯を食っている。
「それで、私に何の用だ?」
「…………」
「……わからない、か?」
「…………(コクリ)」
このような様子には覚えがある。おそらく自分の意志を言語化できないのだろう――この年頃だと、言語化できない苛立ちから癇癪の一つでも起こしそうなものだが、この子供はかなり大人しい。空になった紙皿を見て現実へ戻ってきたのか、また俯いてしまった。
セレにこの子供に付き合ってやる義理はない。偶然巻き込まれた事件で、偶然助けた、それだけの関係だ。だが――。
「今日だけだ。元々屋台を見る予定だったからな、その間は付き合ってやる」
「…………っ!(コクン)」
この子供は“危うい”。何処にいたのか、何故捕まっていたのか、何を目的に会いに来たのか――何一つとしてわからないが、これだけは解った。
セレは自分を善人だとは思っていない。しかし、足元すら覚束ない、薄氷の上に立っているかのように不安定な子供を放っておくほど薄情ではない。
「ああ、そういえば――私はセレ・ウィンカー、こいつはエナ。お前は?」
「…………、……――ュ」
「……ユ?」
「…………っ」
無機質、無表情、大人しい――“人との関わり方を知らない”のか?
“喋らない”というよりは“喋り方を知らない”。自分の名前にすら詰まるというのは、年齢を考慮しても――黙っていると、子供はもごもごさせていた口を開き、ようやく“言葉”を吐き出した。
「――――ユーティラファニア」




