5. <業>と忌堕[side.O]
コツ、コツ、コツ――。
大理石の敷かれた廊下を進む。機械的に動く足はすっかり往復に慣れたもので、迷うことなく目的の扉の前にたどり着いた。
「――失礼します。今朝の分の報告書をお持ちしました」
「おー……なんかいい報告ありそう?」
「軽く目を通した限りでは、特に変わりないかと」
「……はぁ…………」
「総長ともあろうお方が、そんな情けない顔をしないでください」
「今日もマリアちゃんはキビシーぜ」
ギシリ、と上等なデスクチェアを鳴らす上司は朝だというのに陰気臭い。撫で付けられた茶髪はパラパラと前に垂れ、いかにも気が抜けているという有様だ。
普段の豪快さが鳴りを潜めて数日。そろそろ鬱陶しくなってきた頃合である。
「あなたがどれだけカビを生やそうが別に構いませんが、そうしたところで何も解決しませんよ。ついでに仕事も進みません」
「だぁーってよお、一大事だぜ? 七黒星が行方不明なんてよ」
七黒星の巨獣狩り、セレ・ウィンカーが忽然と姿を消した――。
報告によると、セレはその日殼竜種の解体護衛を終え、その足で報告書を提出しに巨獣狩り組合支部に立ち寄った。そして衆人環視の中、光の渦に包まれて消えてしまったという。
周囲を捜索しても見つからず、戻ってくる気配もなく――何より目の前で起きた超常現象に、かの辺境支部は一時恐慌状態になったらしい。
「ウィンカー様の件は今も調査中でしょう。最も、得られた証言を鑑みるに、事態の究明は難航しそうですが」
「それだよそれ! “光る渦”だの、“眩しくて見えなかった”だの、“ついに肉体を捨てた”だの、意味わからねぇ証言ばっかじゃねえか!」
「ほとんどただの閑談ですね」
「大体最後は何なんだよ、あいつまだ人間辞めてねえだろ……あれ、辞めてたっけか? まあ辞めてるようなもんか……」
「今の言葉、ウィンカー様が戻られましたらお伝えしておきますね」
「やだなぁ冗談に決まってんだろ、だから言わないで次こそ殺される」
「わかっているなら余計かつ軽率な発言はお控えください。……私見ですが、失踪や誘拐はまずないと思います。ウィンカー様は巨獣狩りの職務に誠実な方ですし、ウィンカー様を誘拐できる人間がいるとも思えません」
セレ・ウィンカーは最も強い堕欲者――七黒星保持者の一人だ。巨獣狩りとして優秀なのは言うまでもなく、確実に巨獣を屠るその実力から、堕欲者連盟の上層部からの信頼も当然厚い。
七ツ星は他にもいるが、マリアはセレが一番優秀な堕欲者だと思っている。これまでに何度か仕事上関わることがあったが、彼女から感じる安定感は他の誰にもないものだ。それを本人に伝えることはないだろうけれど。
「それには俺も同意見だぜ。あの【不死身】がそう易々とやられるわけがねえ」
「なので私は、“総長の執拗なストーキングにいよいよ耐え切れず、ストレスから突然瞬間移動能力が開花し、どこか手の届かないところへ無意識に逃げてしまった”説を推します」
――――…………。
「――もはや説じゃなくて妄想じゃねえか! てかそれどっから出てきたんだ!?」
「ウィンカー様があなたの所業によってどれほど迷惑を被っていたかは連盟本部まで届いていますからね。状況証拠から、今はこの説が最有力となっています」
説の真偽はともかく、セレがストーキングに辟易していたのは事実だ。それは彼女のここ数年の足跡を辿ればすぐにわかる。マリアとてどれだけお詫びの品を贈ったかわからない。
軽蔑を隠すことなく視線に込めると、向けられた男はがりがりと頭を掻き、髪を撫で付けると居心地の悪そうに息を吐いた。
「しょうがねえだろ、俺はあいつを後継にしてぇんだからよ」
「ご本人が嫌がっているのに押しかけるのはどうかと思いますが」
「一度でも頷いちまえばこっちのもんだ。あいつは面倒事は全力で避けるが、引き受けた仕事は絶対に最後までやりきるからな」
「最低ですね。死ねばいいと思います」
「なんて直球な罵倒なんだ……俺上司なのに! 上司なのに!」
マリアはいち堕欲者としてセレを尊敬している。そして、この上司の執拗なストーキング行為を心底軽蔑している。
有志を募り、いよいよこのパワハラ総長を粛清すべきか――そんな思考が伝わったのか、忌むべきストーカー男はすっと姿勢を正した。
――堕欲者の長、“元七黒星”ラスティ・ローエンの顔に変わる。薄青の目がマリアを射貫く。
「俺だって嫌がらせをしたいわけじゃねえ。知ってると思うが、堕欲者の総長は強くなけりゃ話にならねえ。頭は他で補えばいいが、周りに守られる総長なんざ誰も付いてこねえからな」
「強さだけなら他の方でもよろしいでしょう。七黒星はあと二人いるのですから」
「確かにあいつらも間違いなく強ぇよ。【凶刃】は拒否するだろうが、【聖人】ならむしろ快諾してくれるだろうさ。だがな、必要なのは強さだけじゃねえんだ。“誰よりも強い”ことは最低条件だからな」
「…………」
「強いことよりも大事なのは“絶対に殺されない”ことだ。特に人間に殺されちまうのはだめだ。理由は、マリアだってわかるだろ?」
「……<業>、ですか」
<業>――堕欲者が堕欲者である所以。切り離せないもの。
肉体の限界を破壊し、圧倒的な生命力と解放された本能を纏い超常の力を得る――堕欲者の“異能”。
「ああ、そうだ。堕欲者の大半は<業>を飼い慣らしきれてねえ。だからどうしても本能に引きずられる――堕欲者の頂点に立つ者は、堕欲者の中で一番の強者でないと従えねえってな。割り切ることができねえんだよ」
「……そうですね」
「だが、一番強ぇはずの総長が万が一殺られちまったらどうなる? ほとんどの堕欲者は当然納得できねえはずだ、“一番強いはずじゃなかったのか”ってな。そうしたら、その下に付いた連盟も信用できなくなる。従う理由がなくなる。そうなると、どうなる?」
「連盟の意義がなくなるでしょうね。堕欲者達の統率が失われます」
「そうだ。従うべき総長と連盟による規則が機能しなくなる。連盟ができる前に戻っちまうな。そしたらどうなる?」
「堕欲者達の枷がなくなり、“忌堕”が増えるでしょうね」
<業>とは堕欲者の振るう異能。その闘気は肉体を大幅に強化し、時には人智を超えた能力さえ発現させる“業”。
かの巨獣と人間が渡り合えるようになったのも、この強力な力を人間が編み出したからに他ならない――だが、その強力さゆえに、力に振り回される者もまた多かった。
<業>に支配され忌堕となった者は、まるで本来屠るべき巨獣の如き様相で人に牙を剥いた――人を人たらしめる理性が、本能によって食いつぶされたのだ。
「そういうこった。忌堕が増えると、やっと良くなってきた堕欲者全体の印象もまた悪くなるだろう。理性の蒸発した“獣”を生み出す存在なんざ普通の人間に受け入れられるわけがねえ」
「…………」
「そうなると、いよいよ堕欲者は巨獣に並ぶ人類の新たな脅威になっちまう。だから“絶対に殺されない支配者”が必要なんだ」
人を守るための力が人を傷付けては意味がない――堕欲者の忌堕を防ぐために創られたのが堕欲者連盟だ。
<業>とは言わば本能の発露。他者を屈服させ、そして支配しようとする獣としての人の側面をより克明にさせる――“序列”に非常に敏感になるのだ。創始者達はその性質を逆手に取った。
絶対的な強者を“頂点”とし、“序列下位”としての立場を明確に認識させる。さらに人の世に適合した規則を敷き、“人である”という意識を強く持たせることで<業>の抑制の一助とした。
最後に<業>を繰り手のことを“堕欲者”と呼称を定めることで、人間の社会の一部に組み込んだ――人の益となる存在として。
最も強い堕欲者を頂点に据えることから発足した目論見は、ようやく堕欲者達を纏めることに成功したのだ。
「俺はウィンカーが一番相応しいと思ってる。総長推薦の最低条件は<業>を完全に飼い慣らしてる“七ツ星以上”。七黒星に七白星の連中も含めりゃ候補はまだいるが、なにせあいつは【不死身】だからな。“死なない”ことに関しちゃあいつが一番だ」
「対人を考慮するならクロガネ様の方が相応しいのでは?」
「【凶刃】は賞金狩りだ。確かに対人戦闘なら一番だろうが、人の恨みを買いやすい職業よりは巨獣狩りとしてわかりやすく貢献してるウィンカーの方が受けもいいだろう。何より、その【凶刃】と正面から殺りあってるのがウィンカーだぞ」
「……そういえばウィンカー様とクロガネ様は相容れない関係でしたね」
「ありゃあもう水と油どころじゃねえ、拳と拳だ。間に入ったら殺気ですり潰されるぜ……。とにかく俺はこのままウィンカーを推すからな。マリアは不服だろうけどよ」
「私はただ、嫌がっている相手に迫るのはどうかと思っただけです」
マリアは別に、セレが総長になること自体に反対しているわけではない。
ローエンの言ったことはただの事実だ。自分の上に立つのは自分よりも強者でなければ――己の<業>が訴えるそれを、マリアも正しく感じ取っている。そして、その強者が自分の尊敬する人であれば尚更いいに決まっている。
「そりゃあもう俺が頑張って頷かせるしかねえ。それに外堀は埋めてってるしな」
「外堀?」
「あいつと会うたびに喧嘩するんだが、現役総長と互角以上にやりあえるとなれば周りはこう思うだろうぜ。“今よりさらに強い堕欲者だ、きっと次の総長なんだ”ってな……あいつは気付いてなさそうだけどな、クックック」
「最低ですね。死ねばいいと思います」
「二回目!?」
「しばらく行方不明のままの方がウィンカー様にとってはいいかもしれませんね」
「いやそれ無茶苦茶困るんだけど!?」
セレ・ウィンカーは最も強い堕欲者の一人だ。たとえどこにいようと、易々とやられるはずがない。尊敬する背中が斃れる姿などありえない。
小賢しい上司の布石の効果が抜けるまで、せめて心穏やかに過ごしていれば――マリアは信じてもいない神に静かに祈るのだった。