54. ぶらりデアナ歩き~レゴリック曲芸団・前~
「――――…………はぁ」
――途方もない、脱力感。
疲れた。とても疲れた――あの内臓まで見透かされそうな黄金が脳裏に蘇り、体を震わせる。気持ちよく飲んでいただけだというのに、どうしてこうなったのか。
セレは己の直感を信用している。それは巨獣狩りの仕事に関してだったり、食べ物だったり、道だったり――もちろん人相手にも適応されるもので。
シャーリィは決して悪人ではない。敵意なども一切なく、むしろ好ましい部類の人だろう。杯を交えての歓談は楽しいものだったし、色気などないセレをして“美人である”と思わせる美貌は、場末の酒場に大輪の華を添えるものだった。
『ンー…………ァフアァ――んん? 外か?』
「……よく寝てたな」
『おう、おはよう! ン~、十分寝たし、これで寝落ちはないぜ! ……あれ? セレ、なんでんな疲れた顔してんだ?』
「ああ……いや、気にするな、うん」
『ええ…………あ、もしかして“飲みすぎ”ってやつか? あの女にいっぱい“酒”貰ったしな。あれ、美味かったな!』
「……そうだな。酒は美味かったな」
最後にとんでもない劇薬を飲まされたわけだが。たっぷり仮眠をとって準備万端なこの精霊に言うことでもないだろう。
シャーリィは“好ましい人”だった――ただ、性質の一部がセレとは極端に合わなかっただけである。
「さて……依頼を挟んで結構空いたけど、行くか」
『おうっ! へへ、いよいよ“曲芸”だな!』
頼りない街灯に照らされ、白く浮き出た石畳に足を踏み出した。深くフードを被り直す――視界の端に見送った逆さのワイングラスが、黄昏時よりも冷たく輝いている気がした。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇
(へえ……意外と人がいるな)
『フフン、俺が目をつけただけあって人気だな!』
中央広場から少し離れた場所にある中規模広場。ワインレッドの巨大な天幕に陣取られたそこは、繁華街近くの街路の先にあった。
広場、天幕、それを囲う設営物――目に映る全てがカラフルな魔導灯で装飾されている。中でも目を引くのは“レゴリック曲芸団”と大きく書かれたひと際煌びやかな看板で、蝙蝠をモチーフにしたデザインが印象的だ。
ニコルに聞いた通り子供は見当たらず、主に繁華街の裏、歓楽街から流れてきたと思わしき客――腕を組む若い男女、異性混じり・同性のみで纏まったグループが多く訪れているようだった。営業接待らしき壮年のグループもちらほら混ざっているが、全体的に夜らしい華やかさに満ちた場所である。
頭に乗ったエナもそわそわ動いて落ち着かないようだ。その様子に苦笑しつつ、セレは人が流れるのに紛れて広場に足を踏み入れた。
『なあなあっ、あの派手なやつは何だ!?』
(んん……? あれは仮面だな。顔に着けるアクセサリーみたいな……ほら、あそこにいるみたいに、目の部分だけ隠すやつだ)
『じゃあ、あっちは何だ!?』
(ぬいぐるみに、キーホルダーに……いろいろあるな。土産屋じゃないか?)
開演時間まで多少余裕があるのでエナの指すままに移動する。広場の入口付近から伸びる出店はなかなかに盛況そうだ。
全体的にカラフルな店先には、天幕の模型、団員らしき派手な服装をした人形、普段使いもできそうな可愛らしいマグカップなど、土産物でよくあるラインナップが並んでいる――イラストやぬいぐるみのモチーフは魔物か何かだろうか。少なくとも普通の猫や兎ではなさそうだ。
(……このぬいぐるみは普通の猫に見えるな、ただ服を着せただけの)
『“猫”って街の中にいるあれだろ? 服着てるとこなんか見たことねえぞ』
(それはあれだろ、ほら……デザインってやつだ)
『フゥン……俺の方が可愛いな!』
燕尾服に似た服装の、二本足で立つ猫のぬいぐるみを見やる。この世界にはいわゆる“普通”の動物も存在する。こちらの世界の生物は全て魔力を持つらしいので、セレの知るものと同一とは言えないかもしれないが。
確か、普通の動物から進化したのが魔物で、精霊から進化したのが人だったか――記憶を捲りつつ、以前に資料室で読んだ内容を思い出す。
精神体で生まれ物質体を持たないままこの世界に存在できる唯一の種族であり、多様な姿形を持つという精霊から、形貌・知性・魔法の一片を下げ渡されたもの。精霊の特徴を色濃く受け継ぐ妖魔族・鉱魔族は“魔人族”、続く央人族・獣人族・亜人族は“人族”といい、双方を合わせて“人”と呼ぶらしい。
広く“魔物”と呼ばれる生物はその逆と言えるもので、その実態は知性なき獣が存在進化した果て――強靭な器を獲得し、知恵を獲得し、魔力を、一部は魔術をも獲得した存在。上位存在たる精霊から与えられた“人”とは違い、生きるために下位から超克したものを“魔物”と呼ぶらしい。
だから“知性”はなく、“文明・文化”もない。普通はそういうものであると。一部の例外以外は――。
「――やあ。今夜は雲一つない、いい夜ですニャ」
「本日はご来場いただき、感謝感激ですニャ。可愛いお二人に、吾輩達が一つ、いいことを教えてあげますニャ」
「今ならまだ最前列で観られるかも? お土産は後にして、早めに入場するのがおすすめですっ」
「ぴ、ぴゅっ?」
「あ、ありがとう……?」
「初めてご来場のお客様には、こちらのレゴリック曲芸団オリジナルバッジをプレゼントですニャ」
バッジを差し出す手――もとい、肉球は綺麗なピンク色。白毛に包まれたそれに乗る蝙蝠デザインのバッジを、セレは反射的に受け取ってしまった。
現れたのは、華やかなドレス風の衣装の女性――と、猫。黒の燕尾服風の衣装に身を包んだ、二本足で女性の肩に立つ猫だった。
“人”とも“魔物”とも言えない“例外”――獣の血を色濃く残したまま、獣とは言い難い知性を持ち、独自の文明・文化を築く存在。目の前にいる猫のような生物は、まさしく“人擬”と記されていたものである。
見た目はぬいぐるみにそっくりで、セレには二足歩行をする少し大きい猫にしか見えなかった。
本には“人と共生するものもいるが、しばしば本能に引きずられ暴走することがある”、“人と敵対するものも存在し、一概に無害とは言い切れない”と書かれていたが、この猫は共生する側なのだろう。近年では両者を区別するために前者を“小獣人族”、“小亜人族”などと呼ぶこともあるらしい。
彼らは広場にちらほら見える演者達の仲間のようだ。猫は気取った所作でエナにもバッジを渡すと、黒のシルクハットを気障に浮かせて女性と共に去っていった。
『な、なかなかダンディじゃねえか…………このバッジも悪くねえな』
(気に入ったんだな……)
『よしッ、あいつらの言う通り早めに入ろうぜ!』
エナに急かされ、広場で話し込む人々の隙間を縫って歩く。
このような娯楽は数えるほどしか経験がないが、不思議と懐かしく思うのは子供返りなのだろうか――滅多にない感覚を抱きつつ、セレは赤い天幕を見上げるのだった。




