53. 濡れた黄金の見る夢は
「――今夜はとっても楽しかったわ。別れるのが惜しくなっちゃうくらい」
「それはよかった。あんなくだらない話でも、酒のつまみ程度にはなったかな」
たわいないやり取りをしながら外へ出ると、頬を撫ぜる風が少し冷たく感じた。酔うことはないとはいえ、平時より体温の上がった体には気持ちのいい気候だ――セレはうんと伸びをして、清涼な空気で肺を満たした。
「ふふっ……とっても美味しいお話だったわ。くだらないなんて言って、あんなにたくさん出てくるなんて――私の勘は当たってたわね。あなたの愉快な知り合いにも会ってみたくて堪らないわ」
「……あの馬鹿のことを言ってるなら、やめた方がいいぞ。むしろやめてほしい――あいつは老若男女なんて関係ない、救いようがない色狂いだ」
「うふふっ、セレったらすっごく嫌そうな顔!」
「当たり前だ、今まで何回面倒事に巻き込まれたか――美人はもれなく大好物だから間違いなくシャーリィに飛びつくし、そうなると私は知り合いを辞めたくなる」
落ち着く酒場、美味い酒に美味い飯。そして、思いのほか弾んだ会話は心地の良い充足感を与えてくれた。セレが語り、シャーリィが相槌を打ち、時には立場を入れ替え――冒険譚が好きだからか彼女はとても博識で、予期せず有意義な時間を過ごすことができた。
運よく他の客が来ず貸し切り状態だったのもつい口を滑らかにさせた――店主にとってはありがたくない話かもしれないが。こんなに自分の話をするのはいつ以来だろうか。
「……セレは私を美人だって思ってくれてるの?」
「うん? ……ああ、美人だと思うぞ。美女と飲む酒は美味いなんて聞くが、確かに美味かったな」
「ふぅん……どれくらい美人だと思う?」
「どれくらい…………今まで会った中では、一番上等な部類、かと」
「あら……一番だとは言ってくれないの?」
「人に順位付けできるような立場じゃないしな……そもそも比べるものだとも思ってない。シャーリィにはシャーリィの良さがあるだろ」
「……ふふっ。セレのそういう飾らないところ、私好きよ」
街の喧騒が遠くに聞こえる。街路から隔たれた、人気のない石畳の上に二人。
暗闇を申し訳程度に滲ませる街灯に照らされて、美しい女は翠玉色の長い絹髪を翻す――いたずらめいた色を宿す琥珀の双眸は、真っ直ぐにセレを捉えていた。
「ねえ、セレ。この後予定があると言っていたけれど――すっぽかして、私に拐われてみない?」
「……生憎と、かなり前からの約束でな。これ以上先延ばしにしたら怒られる」
「あら、妬けちゃうわ。……私、あなたのこと本当に気に入ったのよ? 好きなお酒を一緒に飲めて、落ち着いた話もできて、しかもとっても面白くて――近付きすぎない配慮もできる女の子」
つう、と長い指が頬を伝い、薄紫の髪を弄ぶ。頭一つほど高い位置から、黄金の瞳に覗き込まれる――溶けた蜜色に、違う色が混ざるのが見えた。
「セレのことをもっと知りたいわ。私と同じ色をしたあなた。隙間がなくなるくらい近付いて、私のことも知ってほしいの――ねえ、だめ?」
「――……私が男で美人に弱かったら、一発で堕ちてただろうな。とんでもなく凶悪な口説き文句だ」
呑まれそうな黄金を、瞬きの一つで切り離す。
シャーリィは美しい女だ。それはただの事実である。セレに少しでも色気があれば釣られていたかもしれないが――。
「堕ちてくれないの……? 私、本気なのに。自信をなくしちゃいそうだわ」
「シャーリィは間違いなくいい女だから、自信はなくさなくていい。ただ、口説く相手を間違えて――よりにもよって相手が私だったからな」
「私はセレの好む美人じゃない? それとも、女は趣味じゃなかったのかしら?」
「好みだとかはわからないが、シャーリィは華やかな美人だとは思う――仕事漬けで、色とはとんと縁がない人生だ。男も女も関係ないさ」
白い指を離そうと手を添え――逆にするりと絡め取られた。悲しげに眉尻を下げていたのが一転、なんとも艶を含んだ微笑みに変わる。
――これはいけない。直感がけたたましく警戒音を鳴らす。手繰られた指先に柔らかな唇が触れた。
「ふふ……夜に約束なんて、そういう相手かと思ったけれど。違うのね」
「――…………」
「でも残念。実は私も今夜中にデアナを発たなくちゃいけないの……できれば、セレも私の国に連れて帰りたかったけれど」
些かスケールの大きすぎる“お持ち帰り”をされるところだったと――文字通り拐われそうになっていたのに愕然としていると、セレの様子を見たシャーリィが楽しそうに笑う。
「今夜はちょっと浮かれて先走りすぎたわ。次からは手順を踏んで――お友達から始めましょ?」
「……できれば、お友達のままで止まってほしいんだけども」
「ふふっ、それは駄目。一度欲しいって思っちゃったもの――ねえ、伝言鳥交換しましょ?」
「……酒の席の話題も付き合いも、次の日には持ち越さない主義なんだ」
「あら、残念。……今回はいいわ、諦めてあげる。セレとはまた会える気がするから――私の勘、結構当たるのよ?」
手の甲に柔らかい感触。楽し気に細められた黄金にセレは何の言葉も出てこない――“只ほど高いものはない”とは誰の言葉だったか。一席の酒が、とんでもなく高くついてしまったような気がする。
美しい女は名残惜し気に手を離すと、その鮮烈な翠玉色を優雅に流す――街灯の淡光を映した長い絹髪が、まるで彼女に付き従う炎のように煌めいた。
「またね、セレ――素敵な夜を」
◇ ◇ ◇ ◇ ◇
――宝物箱を覗くのが好きだった。
自分だけの素敵なものがたくさん詰まった小さなそれは、どれだけ眺めても飽きることはなくて。
偶然見つけた美しい鳥の羽に、刻印がとても綺麗だったコルクのコースター。子供の頃に集めたそれらは今も小さな宝物箱の中、大切に大切に保管してある――幼い自分と“過去”を共有する、愛しい物言わぬ友人達。
大人になって、ふと他人の宝物が気になった。
別に他人の物が欲しくなったわけではなくて、ただ、彼らにとって素敵なもの――彼らの“記憶”を知りたかった。彼らの宝物箱を覗かせてほしかった。
いつしか好んで人の話を聞くようになり、ひと際強い熱を持つ“冒険譚”に心惹かれるようになった。過去と未来を織り交ぜたそれは、あまりにも魅力的な宝物だったのだ。
夜風が髪を攫っていくのをそのままに、狭い街路を迷いなく進む。
遠くで誰かの笑い声がする。あちらの路地には楽し気に杯をぶつける男二人組――そんなたわいないことですら、今は特別な出来事を彩る装飾で。
楽しそうな彼らに、自分の見つけた“宝石”のことを教えてあげたかった。とびきり自慢して、こんなにも素敵なものなのだと共有して――否、しばらくは自分だけで楽しむのだ。見つけた喜びも、その“宝石”の美しさも。
「――……ふふっ」
滅多にない強い気配が隣に来たのを感じ――シャーリィの黄金に映ったのは、金色を纏う女だった。
自分の知らない異郷の空気を纏う女。女、というには幼く見えて、でも気配はあまりにも重くて――揺るぎない金色に、内と外の大きな隔たり。興味を引かれないわけがなかった。
自分の好む酒を水のように流し込む女。柔そうな外見とは裏腹に実直な性格のようで、シャーリィの質問にも一つ一つ律儀に返してくる。見つめるのに逸らさず返してくる赤紫の瞳は、彼女のその性質をよく表していた――自分ただ一人を見てくれているのがよくわかり、心の柔らかい部分が満たされるのを感じた。
それでいて、存外にふざけたことも平然と話す。しかし、言葉選びは慎重で、ぼかしつつも噛み砕いた言葉をゆっくりと紡ぐ。彼女が自分のペースを乱すことは一度もなかった――そのテンポがなんとも心地よくて。
(こんなに綺麗な月の夜にフラれちゃったわ)
真っ直ぐな赤紫の奥に見えた色を思い出す。
その身に纏う金色は“檻”だったのだ。確固たる意思と静閑な金色の檻に封じられた中身――あまりにも鮮烈で苛烈な金色の“獣”。
月の淡さなど話にならない。自身の持つ黄金すら生温い。狂飆を人の形に押し込めたような、意志を持った生命の奔流――あれを平然とその内に飼っている彼女は一体何なのか。その胸を焼くような強い金色を思い出すと、シャーリィはどうしようもなく己の胸が高鳴るのを感じた。
(最後まで、気付かないフリをしてくれてた)
宝物箱の中、お気に入りの魔鉱石の原石を思い出す。光をその内で乱反射させて煌めく中、揺らめく魔力が重なって美しくて、一目で心が奪われた。
彼女は――セレはその魔鉱石に似ている。強固な身体に閉じ込められた金色。揺らめきというには激しすぎるが、シャーリィの心を捉えるには十分すぎたのだ。
(本当、拐ってしまえればよかったけれど)
別れの際、大きな目をぱちぱちさせて、呆然としたセレの様子を思い出す。近付きすぎない心地よい距離を弁えた彼女。それがもどかしくなって一足飛びで距離を詰めてみたが、ものの見事に逃げられてしまった。
別にシャーリィはセレとそういう関係になれなくても構わないのだ。ただ、距離を縮めるのはそれが一番早いと思っただけで――女は初めてだったが、セレならいけそうな気がしたからそうしただけで。
(今度はゆっくり、焦らないようにしないと)
――否、叶うならば、彼女とは誰よりも深い間柄になりたいものだ。
幸い、時間だけならいくらでもある。央人族らしき彼女の短い時間を引き延ばすことも決して不可能ではないし、同じ時間を共にすることで変化する感情もあるかもしれない。
一夜限りの情熱で満足していた自分が、未練がましく“もしかしたら”と情を望むとは。追い縋られた過去をふと思い出し、彼らの気持ちをやんわりと理解する。
セレと未来を共有するのは、きっとこの上なく楽しいことだろう。あの小気味いいテンポでどこまでも会話を紡いで、飾らない瞳は真っ直ぐに自分を見つめて――宝石のような彼女を宝物箱に閉じ込めることはできないが、傍らに置いておくことはできるのだ。
「――……ふふっ」
楽しい会話の中、セレの零した言葉を思い出す。
“旅”――いつ、どこに、などといった情報は漏らさなかったが、そういう予定があるのだと言っていた。今は狩猟者をしているらしいが、シャーリィの話す冒険譚にも興味を引かれているようだった。
ならば、いつかはまた会えるだろう。その時は約束通り“友人”から始めるのだ。
「――お、おぉっ……お姉さん、ご機嫌だねぇ!」
「ほぉ……へへっ。な、なあ、暇なら俺達と――」
パキンッ――――。
「――ごめんなさい、今そういう気分じゃないの」
煌めく細氷霧を纏い、美しい女は夜道を往く。
今の彼女の前では石畳ですら未来を祝福する花道で、月明かりに照らされた氷の華は福音をもたらすヴェールなのだ。
何度想い敗れても、最後に側にいればいい――心を躍らせる未来に浮かされながら、翠玉色は夜黒に溶けていった。




