52. ぶらりデアナ歩き~ボニーのグラス~
(さて……時間にはまだ早いな。夕飯でも行くか)
『宿に戻るのか?』
(いや、ダニエラには夜まで戻らないって伝えてるから、外食だな)
『外食か! 何食うんだ?』
(んー……ちなみに、お前は何がいい?)
『わかんねえ! 美味いモンがいいぞ!』
(だよなぁ…………どうするかな)
南エリアを抜け、中央広場近くの繁華街エリアを散策する。デアナはトゥルサ共和国でも有数の規模の町であると同時に、東の隣国・フォルテナ帝国から最も近い交易拠点でもある。
北は自然素材の宝庫であるボレイアス大森林、南の町からは海産物、東西を通してトゥルサとフォルテナの品々が行き交い、デアナには様々な物が溢れている。
時刻は夕方過ぎ。太陽もすっかり見えなくなる時間だが、人々の往来が絶えることはない。
夜の部への呼び込みに熱心な曲芸師が噴水前で飛んで跳ねる傍ら、客引き達が街路からするりと抜け出してくる。行き交う人々も、纏う雰囲気を塗り替えて――昼間とは違う騒がしさ。夜の気配が近付き、繫華街の裏、歓楽街が賑わい始める頃合いである。
街の気配が変わりつつあるからか、肩に乗るエナがそわそわと落ち着かない様子だ――そういえば夕方以降、夜に動き回る機会は今までなかったか。エナ自身、夜深くまで起きていられないというのもあるが、今日だけは何とか耐えてほしいものである。
道行く人々がそれぞれ気に入った店に吸い込まれていくのを暫し眺める。中央広場を埋めるようにして並ぶ屋台で済ませるのもいいが、歓楽街で腰を落ち着けて食事をするのもいいかもしれない。
今日は主に買い物しかしていないとはいえ、財布にポーチ、伝言鳥に本屋、拡張バッグや魔導テントの店を覗き見し――滅多にしない長い買い物だったので普段はない疲れもある。
ふむ、と一つ頷くと、セレは広場から伸びる街路へと足を向けた。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇
北西通り近くの歓楽街にある“ボニーのグラス”。以前、ダニエラにおすすめの飯所を尋ねた時に聞いた店である。従魔連れでも問題なく、追加料金で従魔の食事も出してくれるそうだ。
少し入り組んだ場所にあるからか、地元でも知る人ぞ知る隠れ家的な店であるらしい。飯所、というよりは酒場だが――逆さに吊られたワイングラスに刻印された店名を横目に、重厚なオークの扉を引いた。
カラン――――。
「いらっしゃい――おや、珍しい。見ない顔だね」
「宿の女将に聞いたから来た。“この町で一番美味いワイン煮込み”が食えるとか」
「ほう……その宿はさぞ繁盛してるんだろうね。いいよ、食わせてやるよ――一応聞くが、あんた成人してんのかい?」
「100からは数えるのが面倒でな、すぐ忘れる」
「ヒヒッ、なら安心だねぇ! 適当に座りな」
愉快そうな老人――男か女か判別ができないが、店主に言われ店内を見渡す。
温白色のランタンで照らされた店内にはカウンター席が五つに卓席が二つ、奥に長卓席が一つ。少し時間が早いからか、客はカウンター席の奥に一人。ゆったりと赤のグラスを傾けているのが見えた。
特にこだわりもないので、セレは一番近い手前のカウンターに腰掛けた。重剣を下ろし、フードを脱いで息をつく。従魔はどうするかと問われたので、同じ内容を少なめで、と返した。
『スンッ……なんか嗅いだ覚えのある匂いが……』
(匂い?)
『スンスンッ……あっ、あれだ!』
「エナ? ――あっ、おい!」
カウンターを滑るようにエナが移動する。止めるのも間に合わず――エナが吸い寄せられたのは、隣人の傾ける赤のグラスだった。
「――あら、可愛い子。……あなたの従魔?」
『これ、あの赤い実の濃い匂いだぜ! あの――そう、サニアの実だ!』
「――はあ……すまない、こいつはサニアの実に目がないんだ。邪魔をしたな」
「ふふ、見かけによらず、なかなかいい舌を持ってるのね。……もしかして、主人もコレ、いける口だったり?」
葡萄酒ではなく、“耽溺の赤”だったようだ。先日飲んだ時、エナはそういえば半寝だったな――隣人がグラスを回しながらセレに視線を投げかける。
――その瞳は、吸い込まれるような黄金だった。
長いまつ毛に縁取られた切れ長の双眸。楽しげな色を宿す蜜のような琥珀は真っ直ぐに薄紫を捉えている。緩く弧を描く唇がなんとも艶やかで、瞳に惹き込まれた視線を強引に現実に引き戻す。
上品に整えられた目鼻立ちに、白く滑らかな輪郭に垂れるのは見事な翠玉色の絹髪。腰ほどに伸ばされたそれは、いつかに見た風光明媚な都を流れる運河を思い出させた。
薄暗い店の奥にいたので気付かなかったが、なんとも美しい女である。どこかちぐはぐな目立たぬ装いはお忍びか何かか――央人族のように見えるが、何かが勘に引っかかる。わかるのは、この女がかなりのやり手だろうことくらいか。
一席付き合うくらいならいい、それ以上関わるのは“深入り”だ――瞬き一つと半分ほどでそう結論付けると、セレはなんでもないように見覚えのあるボトルに視線をやった。
「この前、知り合いに振られて飲んだことはある。かなり強い酒だって聞いたが、随分と美味そうに飲むもんだな」
「私、このお酒大好きなの。でも、なかなか出す店がなくて……この店はいつでも置いてあるから、デアナに来たらここに来るのよ。料理も美味しいし」
「ふぅん……美味いとは聞いていたが、ますます期待できそうだ」
「あら、この店は初めて? ……私、“耽溺の赤”を飲める女の子って初めて会ったの。よかったら付き合ってくれない? 代金は私が持つわ」
「夜は予定があるから、それまでなら」
「あら、残念」
店主に声を掛けグラスを貰うと、女は容赦なくボトルを傾ける。たっぷり注がれた赤の半分ほどで喉を潤すと、女は嬉しそうな声を上げた。
「ふふ、いい飲みっぷり。久しぶりに来た店で初めて店に来たあなたに出会えるなんて、私、今日は運がいいのかもね。可愛いあなたは――はい、この小皿なら飲めるかしら?」
「ぴゅい!」
「いいお返事ね。エナ、だったかしら……私のことはシャーリィと呼んで。ねえ、あなたは?」
「セレだ。エナ、飯が来る前に飲みすぎるなよ」
「セレ、ね。……セレは探索者なの?」
「シーカー?」
「話してるとこ悪いね――ほら、この町で一番のワイン煮込みだよ。冷めないうちに食いな」
言葉を繋げる前に料理が並べられた――メインは深皿に盛り付けられた“魔牛の赤ワイン煮込み”。濃厚なソースに沈む大ぶりのすね肉を中心に、手のひらほどもあるマッシュルームを輪切りにしたものが縁に並び、人参や玉ねぎに混じった果実らしきものが彩りを添えている。サイドは大きくカットされたパンが数切れ、野菜スティックの添えられたポテトサラダのようだ。
赤ワインを強く感じる濃厚な香りにほう、と声が出る。エナの前にも小皿に乗った同じものが並べられると、見るからに柔らかそうなすね肉を揃って口へ運ぶ――口の中で溶ける肉、肉の強い甘味とワインの酸味。鼻を抜けるバターとニンニク、ワインの風味。それらが濃密に絡まった一皿は当然のように美味かった。女将がイチオシと言うのも頷ける。
魔牛とは魔素の濃い場所で後天的に魔物化した牛を家畜化したものらしい。怪魔ほどになると食用には適さないが、程よく魔力を残した魔牛の肉は非常に美味。魔物肉のような硬さや野性味はなく、普通の牛よりも体格が良いので食いごたえも抜群だという。
ただ、半端とはいえ魔物だけあって飼養管理が難しく、その分値段も高くなるらしい。しかし、多少値段が上がったとしても納得の味である――十分に味わった最初の一口の余韻を、セレは赤で飲み込んだ。口の中がリセットされ、いくらでも食べられそうな気持ちになる。
『これ美味いな! 今までの“肉”と全然違う感じだぜ!』
「――うん、美味いな。今まで食べたワイン煮込みで一番かもしれない」
「ヒヒッ、そりゃあよかった。邪魔したねお二人さん、ごゆっくり」
愉快そうな店主がカウンターの奥に去ると、シャーリィが「それ、美味しいわよね。私も好き」と楽しそうに微笑んだ。
「ねえ、ボトルの追加を頼めるかしら――ここのワイン煮込み、“耽溺の赤”ととっても合うのよね。そう思わない?」
「ああ、料理の味が濃いから、葡萄酒よりさっぱりしてていいな――ところで、さっきのシーカーってなんだ?」
「あら、探索者を知らないの? セレはこの町の雰囲気とも違う感じだったから、てっきりそうかと思ったわ」
「この町の出身じゃないのは合ってるな」
「ふふ、惜しかったわね」
探索者――文字通り“探索する者”。探索者ギルドが掲げる理念は“困難への飽くなき挑戦”、“未知の探求”であり、狩猟者のようにパーティーを組んで旅をすることが多いという。
語り継がれる伝説の財宝に、忘れ去られた御伽噺の真実に。時には未踏の領域を目指し、閉ざされた異界の神秘を求め――“宝”を手に入れるまで、その歩みは止まることはなく。己の世界を“探索”する職業であると。
「主要七ギルドではないし、根無し草だなんて馬鹿にされるけど……盗賊王の根城だった地下監獄だとか、亡国の王族の財宝が眠る王墓だとか、ロマンがあるじゃない? 私、そういう冒険譚を聞くのが好きなの」
「ふぅん……ロマン、ね。私とは縁がない言葉だ」
「あら、そうなの?」
口慰みに人気のあるジャンルだろうとは思う。タイトルすら思い出せないが、冒険をテーマにした絵本や劇などが存在するのも知っている。
主人公の財宝狩りが宝の島に行き、たくさんの巨獣を倒すとかなんとか、道端で子供らがごっこ遊びに興じている姿も見たことがある。
しかし、そういう熱を帯びた作品を好みそうな若年期は鍛錬に夢中であったし、大人になり、たまに何かを読みたくなった時に選ぶのは、勉強を兼ねた短編集――その土地や国の風習、文化がわかるものが多いのだ。
「……随分と経験豊富そうだと思ったけれど。私の勘、結構当たるのよ?」
「仕事柄、拠点を移動する機会は多かったが、やってることは同じだったからな。ひたすら……魔物なんかを狩るだけだ。今は狩猟者をしてる」
「ふぅん……ねえ、移動する機会が多かったってことは、いろいろ面白い話を知ってるんじゃない? 大層な話じゃなくても噂話とか――例えば、探索者ギルドの依頼には“伝説の鍛冶匠が手掛けた魔剣の収集”だとか、“希少な魔物が守る幻の宝石の調査”だとか、実在するかもわからないような話もあるのよ」
伝説、幻――十分大層である気がするが。セレは少しばかり思案する。
幻、というと、夢中でポテトサラダを突いているそこの精霊はそういう扱いであるらしいが、さすがにそれは話せない。そもそも、そういった類で思い出せる話がない。
「んー……冒険譚ってわけじゃないが、どっかに忍び込んだとか、妙なことに巻き込まれたとか、そういうのはありか? ロマン、かはわからない」
「もちろん、経験談も大歓迎よ。その方が聞いていて楽しいし、どんなことでも冒険だと思えば冒険なのよ」
にっこり笑うシャーリィはどこまでも本心であるらしい。それならば――。
「そんな話でいいなら、大層な話じゃない――今となっては笑い話にもならない、くだらない話ならいくつかあるな」
「本当? ねえ、どんな話があるの?」
「そうだな……“知人の爺さんの形見が盗まれて、取り返すのに巻き込まれた話”、“知人の痴情の縺れのせいで、貴族のお家騒動に巻き込まれた話”……“借りてた部屋の地下が妙な場所に繋がってた話”とか」
「やだ、全部気になるわ!」
美しい琥珀を子供のように煌めかせるシャーリィに苦笑する。高価な酒の代わりになるかはわからないが、一晩にも満たない付き合いくらいなら構わないだろう。
空になったグラスに注がれた酒精で喉を湿らせると、セレは普段は思い出すこともない、古びた記憶をゆっくりと捲る。
「そうだな……まずは知り合いの、腐れ縁の馬鹿野郎に巻き込まれた話にしようか――」




