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[第7話]

宮古島の英雄、仲宗根豊見親をモチーフにした長編歴史ファンタジー第7話目。

稀代の英傑か、それとも……。


あくまでパラレルなミャークの英雄物語として楽しんで頂けましたら幸いです。

第1話の扉絵は嵐山晶 様に描いて頂き、ご本人の許可を得て掲載・使用しております。


※無断転載を禁じます※

※本作は[pixiv]様にも重複投稿しています※



 太陽が、眩しいほどに海底の白砂を照らし出していた。

 風に揺れる澄んだ水。目の前に広がる、浅瀬の美しい海。空から降り注ぐ鳥の声。

 そして、そこに投げ出された、無残な命の消えた体──。

 永遠にも思える時間の中で凍り付いていた人々の沈黙を破ったのは、対岸で悲鳴のような声を上げたイラブ島の若者だった。

「……大殿様!」

 その声に、弾かれたようにイラブの男たちがざぶざぶと海に駆け込み始めた。みな、蒼白の顔をして、それでも大殿の躰に手を伸ばしていた。

「それに触ることは許さん!」

 白昼の浅瀬に、雷鳴のような声が響いた。

「死体は引き上げるな! 日が落ち、また昇るまでそのままにしておけ!」

 続いたびし、と鞭打つような声に、イラブの民が棒立ちになる。

 小さな背中が──いや、今や漲る覇気を纏って何倍にも大きく見えるその後ろ姿が──有無を言わせない声を発していた。


 これは──誰だ?


「イラブの民は一人残らず捕縛しろ。逃がすな」

 もう一つ振るわれた声の鞭に、共に唖然と見つめていたミャークの男たちが我に返るのが目の端に見えていた。

「吐かせろ。鉄の技、海の道……その男が残していったものは、全て」

 ぴしゃ、と鞭打たれたように、ミャークの男たちも海に入って行く。その様子に、対岸のイラブの島民たちが蜘蛛の子を散らすように逃げて行くのが見えた。


 その背中は獲物を仕留めて満足し切った猫のように、ゆったりとその光景を眺めていた。やがて、気だるげな瞳で振り返る。

「ああ、養父上(ちちうえ)──」

 やけに静かな、水鏡のような瞳。いつの間にか大人の男の無骨さを備えた手を──朱く染まった手を、その姿は伸ばしていた。

「見ていてくださいましたね。空広は上手くやったでしょう?」

「……あ……」

 思わず喉の奥から掠れた声が漏れた。

 まるで、縊られる直前の鳥のような哀れな声。自分の意思とは関係ないところで、踵がもうひとつあとじさっていた。熱い砂に沈む足を、ざり、と嫌な感じが包む。

「こ……殺せとは言わなかった! ただ脅して追い払えと……」

 老いて萎びた、情けない声が口から零れ出ていた。自分でもみっともないと思える、腰が引けた声。それを肯定するように、またあの地を這うような笑い声がした。豊かで、雄弁な大人の男の声。

「まさか本気で追い払うだけで済むと思っていたわけではありますまい。あの男が生きている限り、イラブの民は鉄の技にも、新たなすべにも口を割りますまい。それどころか、我らに歯向かう機をじっと待ったでしょう。

 思想というものは人の心に巣食うもの。完膚なきまでに叩きのめさねば、必ずまた鎌首をもたげてくるのが世の習い……」

 もう一歩、空広が足を進める。

「ミャークを侵す害毒は、この空広が成敗いたしました」

 ──これは空広なのか? 自分が知っていた、委縮してぼろをまとった汚れた子供なのか? 

 熱を纏った紅い瞳がこちらを、そして少し離れた所に立ち尽くす普佐盛を見つめていた。

「あなたたちの考えそうなことだ」

 また一歩、ざり、と砂を踏む音がした。

「ミャークの島々は資源が乏しい……差し出すものが無いからこそ、我らは中山の属国に甘んじ、頭を下げ、富を知恵を請い願うしかなかった」

 ──ああそうだ。真佐久の代にはっきりと作られた主従関係。ミャークの白い砂浜に乗り上げるシュリの交易船。島の人々の薄い着物をせせら笑い、独特のミャーク言葉を嗤う王府の役人たち。固く握りしめて、下ろす場所もなかった拳。

 それでも頭を下げ続け、顔を上げたときに飛び込んできたのは幼い恵照の軽蔑しきったような瞳。王府の役人に媚を売るようになった妻。全てが屈辱だった。

 場違いなほどに鮮烈に頭に弾けた冷たい情景が意識を飲み込みかけていた。

 そう、あんな冷たい実の息子などより、この養子の次男の方が何倍も良かった。物静かで従順で、一言も反抗の言葉など口にしない子供。何より、この由緒正しい血を引く子供を飼っておくのは気分が良かった。寛容な大立大殿。敵の子すらも才知を認め、家に迎え入れる大人物。久しく手の届かないものになっていた称賛を、この子供は与えてくれたのではなかったか。

 空広の深い声が、否応なしに現実に引き戻す。

「長年に渡る屈辱の立場を捨て去るために、誰もが同じ事を考え、それでも犯すことのできなかった禁忌。それを、ついにあなたたちは犯した」

 ……やけに奇妙な瞳が、自分と普佐盛との上に注がれていた。妙にてかてかと光り、そのくせつぶらで、純粋さに溢れた──……これは、何だ?

 空広がすぐ近くまで近づいて来ていた。本能的な恐怖が、全身を満たす。

 ──あの時、恵照は何と言っていた? 

 大立大殿は頭の中で反駁する。

『上手く使えばよいのです』

 月の晩に捕まえた奇妙な子供をなんとか籠に納めようと、普段の軋轢すら脇に置いて熱っぽく語っていた恵照。

『我らは中山の手垢が付き過ぎました。中山の富と引き換えに、我らは隷属の籠に捕らわれてしまった。変えなくてはなりません。ミャークはミャークのもの。中山に屈しない強い、新たなミャーク……その旗印が必要です』

 だからと言って根間の子供を家に入れることなどまかりならん……そう声を荒げたとき、恵照から返って来た憐れむような瞳。

『もう体面をどうこう言っている場合では無いのです。このままではミャークは中山に飲み込まれる。中山の威光にすがる、惨めな我らのままで良いのですか? 我らにあって彼らにないもの。それを上手く使わせてもらえば良いのです。正当な血──遥かな昔より連綿と続く、竜宮の神と睦んだ竜の民の血を」

 ばかばかしい、それは物語だ、犬も食わない“概念”だ、と鼻で笑おうとした父親に、息子は何と言ったのだったか。

『その概念こそが、民を動かすのです。血。同胞。一族。形無きものは、形が無いからこそ人の心に浸み入り離れない。目には見えないが何にも勝る強力な象徴──この不安定なミャークを支え、中山の支配から解き放つのに、これほどうってつけのものはありますまい』

 何年かぶりに面と向かって覗き込んだ息子の瞳の、なんと暗かったことか。

『あの子供は口がきけない。だから……我らが与えてやれば良いのです。語るべき言葉を。何を語り、何を目指せばよいのかを。一枚岩のミャーク。二つに分かれたミャークの和合の子。私がやり遂げて見せます。あの子供を、新しいミャークの象徴に仕立て上げてみせます……』


「竜宮の祝福を受けた島。不死を叶える薬魚を産し、七星の王の血を引く男子を頂き……。なかなか耳触りの良い物語ではありませんか。ですが──」

 その瞳が、砂浜に立ち尽くしていた男たちを射た。

 その瞳は──。

「ああ……!」

 今度こそ情けない声と共に、大立大殿は砂の上に尻もちをついていた。

 ──鯖だ。決して恨みと屈辱を忘れない、賢く残虐な、鯖の瞳だ。

 茫然と見つめた白い砂が、目を焼いた。





 砂浜の上で情けなく震える養父にどこか哀しそうな視線を投げてから、その姿はゆっくりとこちらに視線を移して来た。

「──ですが、神を愚弄した代償は大きい。それは我らミャークの民が太古より胸に刻んできた掟……。そうですね、普佐盛御祖父様(おじいさま)?」

 孫の額にも頬にも、べったりと返り血を含んだ前髪が張り付いていた。うっとおしそうに髪を払う仕草だけがやけに幼くて、おぞましさを際立たせていた。

「これで褒めて頂けますね、御祖父様? 空広はあなたの望み通りにしたのです」

 今まで一度もそんなことをしたことはなかったのに、まるで菓子をねだる子供のように両手を伸ばす。血に染まった手と、幼児のような無垢な微笑み。

「あの男はもういません。あの男が残した鉄の技も、新たな知識も海の道も、全て我らのものです。……喜んでは下さらないのですか?」

 普佐盛の固い瞳を跳ね返すように、空広は無邪気に小首を傾げる。

「……纏う狂気すらも武器にしようとは、強かな子供よ」

 ひや、と切り返した言葉に、うっすらと空広の唇の端が上がる。

「それもまた、あなたの計画の一部だったのではないですか?」

 ほんの数歩のところまで近づいていた空広は、低く笑った。

「目黒盛の血。正当なるミャークの支配者は誰か──。いくらその身を白川の一族の中に置こうとも、だれがこの地の王なのか……それをミャークの民の目に焼き付けること。あなたが私に託した大役です。空広は上手に演じてみせたでしょう?」

 こちらに向けた顔。その立ち姿。首から背にかけての優美な曲線など、何と良く似ていることか。それに、その懐かしい瞳。だが──。

「我が愚なる弟、伊嘉利……竜宮に心奪われた、哀れな男。お前はあやつに似ているのかと思っていた……」

 もう一歩、空広が進む。

「だが、それは私の見立て違いだったのかもしれぬ」

 また、あの笑い声が響いた。これ以上ないほど雄弁で、耳に心地よく、そして場違いなほど邪気の無い笑い声。

 不思議に澄んだ瞳のまま、空広は懐を探っていた。やがて、握りしめた拳を突きだす。ゆっくりと開かれた掌の上で、小さな欠片が太陽の光を受けて輝いた。

 真珠色の鱗。からからに乾いて、銀の光を反射する、親指の爪程の小さな体の一部。

 今度は普佐盛が嗤う番だった。

「……どこで見つけた?」

「あなたが養父上の所に来た日に。まさか、あの魚のものとは思いませんでしたが」

 ふふ、と思わず呆れ声が漏れる。

「この詰めの甘さよ。だから任せてはおけぬのだ……あの一族にミャークは」

 空広の顔から、いつの間にか笑顔が消えていた。どこか膜がかかったような瞳が哀しそうに俯く。

「御祖父様……あなたはずっとイラブを取る機会を伺っていた。きっかけが欲しかった。ミャークの権力の頂点に返り咲く日を待っていた。だが……あなたがそこまで守ろうとしているものは何なのです? 海を売り、肉親までも売り……」

 上げた瞳は、底無しに暗かった。

「おじ上を捨て石にしたのは、子供を作れなかったからですか? これ以上“一族”に貢献しないと分かったからですか? 殺されることでミャークとイラブの堰を破ることが、あの人に課せられた最後の大役だったのですか?」

 視線を彷徨わせてみれば、はるか遠くにゆらゆらと揺れる躰が見えていた。赤い筋が水に溶けて、真紅の水が煙のようにたゆたう。

「政とは非情なものだ。あれはもう、長くなかった」

「だから?」

 空広の声がひどく切羽詰まった響きを帯びた。雄弁さと、無邪気さと、不安と……全てが未熟な躰の中で混じり合っているのが見えた。

「では聞こう、我が孫よ」

 今度は空広が一歩あとじさる番だった。きっと自分もまた、奈落のような瞳をしているのだろう。

お前が( 、、、)そこまでしがみつこうとしているものは何なのだ?」

 空広の唇が震えるのが見えた。

「お前が信じたがっているものは幻想だ。いつか分かる。自分が自分であるために、ただ自分が動いて、息をしていることを確かめずにはいられなくなる。何かを目指し、熱狂に身を任せることでしか生を感じられなくなる日が、いつか来る」

 長い間、空広は俯いて黙っていた。やがて、砂浜を吹き渡る風に、弱々しい言葉が乗った。

「──……」

 何を言ったのか、と怪訝に思った時──空広の顔がぱっ、と上がった。

 弟の嗤い声が聞こえた気がした。そして、深く理解した。空広の瞳。静かで、誠実で、妙なる光を放つ瞳。空広は似ていなかった。深き海の幻想に飲み込まれた弟にも、策謀に身を落とした自分にも──誰にも似ていなかった。

 空広が地面を蹴るのが見えた。

 太陽を背にした、しなやかな影。猫──いや、獅子。

 そしてその頬を染める血を洗い流すように、伝う一筋の涙。

 首元を絞めるのは無力であることを止めた少年の指なのか、それとも古い楔を噛み千切る獣の牙なのか。

 周りの男たちが必死で空広を引き剥がそうとする声が聞こえていた。だが、段々と薄くなってゆく空気に喘ぎながら、それでも込み上げる笑いを押さえることが出来なかった。

 ──束縛を越えるのは常に逸脱。因習を焼きはらうのは、新たな時代の狂乱の熱風──

 閉じた瞼の向こうに、うねる真紅の波が迫っていた。血。一族を繋ぐ血。一族を縛る血。全てを飲み込む紅い波。

「お前が断ち切るのか? 我らの凝った血の楔を? おまえが開くのか? 新たなミャークの時代を?」

 笑いたくて仕方がなかった。この孫のために。ミャークのために。





 ──夢。そう、これは夢だ。夢だと分かっているのに、覚めない悪夢。

 いつも不思議に思うのは、夢の中の光景はいつも色が無い。そのくせ、見たいと思ったものだけは、まるで慌てて取って付けたように色を纏う。

 ほら、今見下した波打ち際も──……。

 あ、と息を飲む。

 真っ赤な海。真っ赤な波。どろりと足に絡み付く、ねばねばした海。

 助けを求めようと目を上げれば、遠浅の真紅の海のずっと先に、見慣れた姿が手を振っていた。思わず安堵の声が漏れる。もう大丈夫だ、あの姿に駆け寄って、あの温もりを確かめれば。あの腕に抱かれれば……。だが、次の瞬間、絶望が体中を満たす。哀しそうな顔をした姿が、水平線から押し寄せた赤い波に飲み込まれる。無念だ、と言わんばかりに曲げられた手指が、ほんのわずかの間だけ見えて、波間に消えた。

 夢の中の自分は叫ぶ。その名前を力の限りに。だが不思議なことに、夢の中では一切音が聞こえない。きっと自分は泣いているはずなのに、しゃくりあげる音さえ聞こえない。

 もう一度足元を見下せば、粘る波が渦巻き始めていた。赤い波がうごめいて、やがて体の長い魚に変わる。うつぼのようなそれは足首に絡み付き、脛を這い上がり……そしてぱか、と口を開けた。規則正しく小さな牙が並ぶ奈落。その奥から見つめている顔は──……

「あにうえ」

 上げたはずの悲鳴さえ聞こえない。なのになぜ、この小さな顔は自分を見つめて手を伸ばし、話しかけるのか。

「あにうえ」

 ねちゃ、とその小さな顔は魚の口から這い出ようとしていた。血の羊膜に覆われた、赤ん坊の手。ぽちゃぽちゃして、水を含んだ胎児の指。

「そらびーはここにいます。そらびーはないています。そらびーをだきしめてください」

 腰のあたりにしがみついたそれ。例えようもなく醜悪で、弱々しく、哀れなそれ。

 ──そうだ、これを……これを……殺さなくては!

 力一杯むしり取って、砂浜に叩き付けたそれ。そう、その──。


「恵照様!」

 開けた目の先で、ぐにゃあ、と視界が歪んでいた。

 見下ろしているのはじいやだ。顔が引きのばされて、太陽に苛め抜かれた証の皺がひどく伸びて見える。

 ぼんやりと何が起きたのかを思い出す。

 空広のおじが死んで……それから……。

 朦朧とした頭で唇に触れてみる。やけにひりついて腫れた唇は血の味までした。

 忌々しげに起き上がろうとすれば、体が全く言うことを聞かなかった。体を支えようと付いた肩肘が、ぱたんと華奢な骨組みのように崩れる。

「恵照様……起き上がってはなりません、どうか今しばらく……」

 霞んだ目で、それでもじいやを睨み付ける。今しばらく? 今しばらく……何だというのか。

 なんとか立ち上がると、じいやを押しのけて戸を開ける。伝い歩きで進む廊下すら蛇行して見えた。体に引っかかった着物がずるずるとはだけ、半端に絞められた帯がひどくうっとうしい。横でじいやが何かを騒ぎ立てている声など、まるで耳元で蠅が唸っているようではないか。

「……うるさい」

 ようやく言った一言も、まるで自分の声のような気がしない。声自体に苦い味がするようだった。唸るように悪態をついてみる。あんな夢を見たせいだ。そう、あのひとはどうしただろう。ひどい誤解。自分を支えてくれる大切な柱。あのひと……あー のー ひー とー…… は……。とうとう頭の中まで歪んでしまったのだろうか。腹立ちまぎれに舌打ちをする。

 薬……のせいなのだろうか。霞んだ頭が反駁する。


 ──なんどもいっただろ。あれはりょうをすぎると……。

 

 思い出せない。どんな声だっただろう。どんな顔をしていただろう。あのひと、あのひとは……。ああ、もうどうでもいい。あのひとに会えば分かることだ。あのひとに触れてみれば分かることだ。

 三人で未来を変えると。輝かしい夢。ほんの少し嘘はついたかもしれないけれど、弟だって分かってくれるはずだ。これがあの子の幸せのためなのだから。

 そう。弟。空広。

 不意に何かが頭の中で引っかかる。

 あの夢はどんなだったか。……夢? そんなものを見たのか? それはどんな夢だったのだ──?

 思考に気を取られて、何も無い所で躓いてしまった。伸ばした手が間に合わず、強かに廊下の床に顔を打った。ずきずきと顔の横が痛む。

 呻きながら起き上がろうとしていた時……不意に視線を感じた。

 縁側の向こうから見つめるその姿。夜の庭。咲き乱れる夜の花と、白い月の光。そしてそこに立っているのは……。

「あにうえ」

 ──喋った! 

 茫然と見つめる横で、じいやがまた何やら騒いでいた。騒ぎ立てるだけでなく、体をぐいぐいと押して、そこから遠ざけようとしている。放心したまま、じいやを脇に押しのける。

 ──喋った。空広が。

 この一大事に、じいやは何をやっているのか。よく見て確かめなくてはならない。あれは本当に、口のきけない小さな弟なのか? 

 ああそうだ、よく知っている整った面差し。少年と大人の間をふらふらする、危なっかしい美しさ。痛々しい十字傷。甘い唇。自分の哀れでかわいい弟。だが──。何かが違う。何かが……。

 ふと、視線が弟の足元に止まった。

 がば、とじいやが胴に組み付いて来た。


 ──ミテハナリマセン ミテハナリマセン!

 

 やけに遠くからじいやの声が聞こえた。見てはなりません? なぜ? だっておかしいではないか。あの異様なもの。粗末なむしろがぐっしょりと水を吸って、なにやら膨らんだものが突き出ていて。ほら、あれは──。

 空広の長い指がむしろをつまんで、引いた。見覚えのある柄。ぼろぼろに引き裂かれて、かろうじて引っかかっているだけの布地。


 ひゅわー、と奇妙な音がした。調子はずれの笛のような、ふきっさらしの風のような。それが自分の喉から出た声だと理解するまで、随分長い時間がかかった。


 綺麗な顔を曇らせた空広が、手を伸ばして近づいてくる。

「兄上……喜んでは下さらないのですか?」

 甘い弧を描く唇が動くのが見える。

「空広は喋れるようになりました。戦もちゃんとできました。兄上が望んだ空広に、やっとなることができました……なぜ、そのような目で見るのですか?」

 しなやかな腕が伸ばされるのが見える。

「兄上……逃げないでください」

 その背に負った黒い陽炎。暗く、のっぺりとした瞳。絶望の息を漏らした先で、陽炎が波に変わる。真紅の血の波から、漆黒の波へと。そう、この幼虫は羽化したのだ……空広から、空広でないものへと。宿主の躰を食い破って。たっぷりと血を貪って。

 ぐにゃ、と綺麗な顔が歪むのが見えた。肌の上の十字の溝に影が巻き込まれて、綺麗な顔立ちを不気味な凹凸に飲み込んだ。

「……近づくな!」

 声が、耳の中で爆発していた。

 ああ、見ろ、これは──。籠に捕らえた鳥などではない。美しく哀れな鳥などではない。

 その瞳。底無しの、ぽっかりと空いた暗い二つの穴。

「寄るな……触るな……この、化け物……!!」

 そして意識が──漆黒の波に、飲まれた。



 <第八話へ続く>


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