[第5話]
宮古島の英雄、仲宗根豊見親をモチーフにした長編歴史ファンタジー第5話目。
稀代の英傑か、それとも……。
あくまでパラレルなミャークの英雄物語として楽しんで頂けましたら幸いです。
第一話の扉絵は嵐山晶 様に描いて頂き、ご本人の許可を得て掲載・使用しております。
※無断転載を禁じます※
※本作は[pixiv]様にも重複投稿しています※
「──血の匂いというものは独特ね」
柔らかい声が愛撫する。
「甘くて苦い。おぞましさに思わず顔をしかめても もう一度嗅ぎたくなるの」
「──そう、血の匂い……。あの時から、染みついてしまった……」
目を開けなくてもわかる。声の主はきっと笑っている。奥底に閉じ込めた記憶に触り、脈打つ痛みの甘い震えを感じながら。
「さあ はじまるわ あなたの物語……本当の 物語が」
白い顔。血を失った、死者の顔。
布団に寝かされたおじの遺体の傍らでは、おじの妻が俯いて放心していた。
何年かぶりに見る二人。かつて空広を短い間育ててくれた男と女。もはや魂の抜けた叔父はぽかりと口を開けていて、全く知らない男の顔に見えた。おじの妻は以前知っていたよりずっと小さくなってしまっていて、かつては豊かだった髪の毛が萎んだようになっていた。
ぷ―……ん、と飛んできた小虫を手で払いながら、空広はその眺めから目を離せなかった。
死んだ顔。布団から覗く死装束。そして、張りを無くした首に巻かれた血の滲む手巾。
――薬魚を買おうとした。
おじはそのために死んだのだという。おじが病に倒れたという話は聞いていた。父と大して年は変わらなかったから、まだ若かった。そんな男がまだ生きていたいと、万病を癒すという薬魚を買おうとした。それを誰が責めることができただろう──。
おじが責められるべきは、と空広は目を伏せる。魚を売りに来たイラブの民に金を払わなかった。おじは決して金に汚い男ではなかった。根間大親と呼ばれたヒララの名士。金がないはずは無かったのだ。それが、どうして──。目の前の開いた口は答えてくれるはずもない。
分かっているのは、激怒したイラブの民とおじの部下がもみ合いになり、止めに入ったおじは命を落とした。
おじの妻に悪いと思いながらも、身を乗り出した空広は首を覆う手巾に手を掛けた。おじの妻はうつむいたまま微動だにしなかった。
その跡は、はっきりと示していた。鍛えた鉄。今まで村人達には手に入りようも無かった鋭利な刃……それが、命を一瞬で奪ったのだと。
「……恐ろしいことよ」
再び布を元に戻す空広の後ろで、大立大殿が呟いた。振り向けば、大殿の傍らの普佐盛も頷いている。
「かつて目黒盛豊見親が成し遂げたミャークの統一このかた、我らは均衡を保ってきたというのに」
普佐盛が後を引きとる。
「民に武器を与えるなど、我らの先祖が築いて来た平和への愚弄そのもの。無駄な知恵などつけなければ、イラブの村民も抗うことなど無かったろうに。しかも彼らを煽り立てているのが外来のならず者だとは、なんとおぞましい」
板の間に座した二人が暗く見つめ合う。
「しかも、まさか──」
嫌悪感をあらわにした大立大殿に、普佐盛がわざとらしく声を掛ける。
「ああ、あのおぞましい薬のせいですぞ。いや、恐ろしいことだ、ヒララだけでなく辺境の村にまであの薬を使っているものがいるそうな……」
薄暗い部屋の空気が歪んだ気がした。
「民を煽り」
「毒を撒き」
大立大殿と普佐盛の声が反響する。
空広の肩を掴んだ普佐盛が覗き込んだ。
「空広、お前も悔しかろう。大恩ある義父を殺されて」
「なんという不遜な余所者か。配下の者を使い、目黒盛の直系の根間大親を手に掛けるなど」
わぁん。わぁん。
耳に腐水のように溢れる男たちの言葉。
──殺したのはあくまでイラブの島民で、あの男は関係ないのではないか?
──その証拠に、叔父が死んだ時、あの男はどこにいた?
あの男は。あの男は──。
ぱち、と何かが弾けた。
見つめ返した空広の瞳に、大立大殿も普佐盛も、息を飲んだように見えた。おじの妻までもが顔を上げてこちらを見た。
──そうだ、あの男は──。
頭の中で何度も回る言葉を遮るように、普佐盛が言った。その声が、何かを取繕うようだったのは気のせいか。
「空広、これは仇討ちじゃ。そしてそう、成敗じゃ」
大立大殿の声が被さる。
「そうよ、我らがミャークを浸す害毒の成敗よ」
焦るような声で言いつのる二人の男。空広は嗤っていた。声は無くとも、心の中で。いつかのように。いや、いつかの時よりもずっと深い冷たさと軽蔑を纏って。
──大恩ある養父の敵討ち。
──我らがミャークを侵す害毒。
──失望させる。どんなに優れているように見えても、きっと。
それが、空広の復讐の始まりだった。
「空広!」
屋敷に帰れば、血相を変えた恵照がすがりついて来た。
「どうだった!? ちゃんと誤解だと分かってもらえたろうね!?」
ひんやりと見つめる大立大殿を無視して、恵照は空広の袖を引き千切らんばかりに掴んだ。絶対に恵照はついてくる。それが分かっているからこそ、空広は無言で廊下を進んだ。
兄と顔を合わすのは随分久しぶりに思えた。
──おじの家に駆けつけて、状況を見分し、今後のことを話し合い……その間、この兄は、何をしていたのだ? 自然と空広の唇の端は上がっていた。何もかもが滑稽だった。
空広は大股で恵照の私室の戸を開けると、足音を立てて踏み入り、追いかけて来た兄の鼻先で戸を閉めてやろうとした。
「空広!?」
兄が驚いたような、心外だとでもいうような声を発する。必死で戸を押さえた兄は律儀に空広についてきた。
夕暮れだった。明かりの灯らない部屋に、橙色の光が溢れていた。
小ぎれいに整えられた兄の部屋。書棚には中山からはるばる手に入れた巻物が整然と並べられ、小机には年季の入った、だが品の良い硯が置いてあった。
この部屋で、幼い空広はどれだけの時間を過ごしただろう。綺麗な装丁の巻物を注意深く広げては、意味を教えながら読み上げてくれた優しい兄。おぼつかない手元を後ろから支え、一緒に字を書いてくれた優しい兄。
──それも皆、全て……この黄昏の光のように、闇に飲まれて消えるのだ。いや、元々光など、無かったのだ。
部屋の奥の飾り棚の前で歩みを止めると、空広はくるり、と兄に向き直った。
「空広……? どうした……?」
ただならぬ雰囲気を感じたものか、空広から数歩のところにいた恵照があとじさった。
空広はまた、声のない笑みを浮かべた。
──かわいそうな兄。怯え切った瞳。まるで、いつか森で狩った小さな温かい獣のよう。
じり、と進めた一歩に、兄がまた一歩あとじさる。
兄が薄く唇を開き、息を飲むのが薄闇の向こうに見えた。
空広は見たかった。兄の瞳が今、どんな光を宿しているのか。満月なのか。新月なのか。それとも──。
踵を返そうとした恵照の手首を、空広は捕まえていた。
離せ、と抗う声に、もはや嗤いを押さえることができなかった。
──小鳥。ふわふわしてやわらかく、ひねれば堕ちる、哀れな小鳥。
空広はもう一方の手に持っていたそれを煽った。
飾り棚の奥に注意深く隠してあった、異国の小瓶。
恵照が、こっそり啜っていた小さな硝子瓶。
──向き合う勇気がないのなら、
空になった瓶が床に落ち、割れるのが聞こえた。
乱暴に頭を捕まえる空広の腕から、恵照は逃れられなかった。
──見なければいい。正気の淵から、転がり落ちてしまえばいい。
その言葉は恵照に、それとも空広自身に向けられたものだったのか。
苦くて甘い、毒の味。
それは二人の舌を、脳を、甘く蝕み堕した。
「空広、準備はよいか」
黙って視線を返した義理の息子に、大立大殿はぎくりと身をすくませ、逃げるように馬にまたがった。
その背中を一瞥すると、空広も茶色い馬の手綱を掴む。忠実な空広の愛馬は怯えたように小さくいなないた。いつもなら鼻先を叩いて落ち着かせるくらいはしただろうに、無言で背にまたがった主人に馬は哀しそうに身をよじった。
ぞんざいに腹を蹴ると、馬があきらめたように歩きだす。きっと馬は分かっているのだ。これから、何が起きるのかを。
「……恵照は、うまく黙らせてくれたか?」
当然のごとく無言を貫く空広を確かめるために、大立大殿は振り向くしかない。小さく頷いてやると、老いた養父はつかの間の安心を手に入れたように卑屈に笑った。
「あれがついてくると厄介だからな。まったく……」
そのまま良い言葉が見つからないとでも言うように、大立大殿は空広から目を逸らすと、ぐるりと視線を巡らせ、そしてまた背を向けた。
馬が土を蹴る音だけが響く。
大立大殿と空広と、館の男達。大立大殿の一派は今、徒党を組んで馬を進めているのだった。
誰もが無言だった。
一団は小高い土地にある町に差しかかり、姿を現した根間の一派と合流する。
馬に乗った男たちの先頭にいるのは相も変わらず鋭い目をした普佐盛。その傍らには久しぶりに見る父の姿もあった。根間の男たちもまた、固い表情で群れに加わった。
土の街道沿いで、島民たちが不穏な瞳で見上げている。
小さなミャーク島のことだ。この会談のことは、もう島中に知れ渡っているはずだった。
あれから──当然のごとく、イラブ島から使者が来た。
──誤解。不幸な誤解。事故。イラブ島はミャーク島に立てつく意図などない。
必死で弁明するイラブの民を、居丈高に大立大殿と普佐盛は追い返した。
──話は改めて。頭目同志で。そう、お互いの中間地点で話し合いを──。
空広は思わず、声は無くとも嗤ってしまったものだ。ミャーク島とイラブ島の中間地点など、海の真ん中ではないか。だが、そこは老獪な普佐盛のことだ。潮が大きく引く日には、二つの島の丁度中間あたりに砂州が出来る。そこがミャーク側が指定した話し合いの場所だった。
人を一人殺めてしまった引け目もあって、イラブ側はその条件を飲まざるを得なかった。
今、島の端に向けて向かう大立大殿と根間の一族の一団の上には、引き攣れた緊張が漂っていた。イラブはミャークよりはるかに素朴な島だった。だが、二つの島を阻む海のおかげで、どれほどあの鉄の技が行き渡っているかは分からない。ミャークの侍たちがこうして集まってはいるものの、あれほど優れた鉄を手にしているものはそういないのである。もし、イラブ方が総出で襲い掛かって来たら……。そう思えば、ミャーク方の緊張は嫌が上にも高まるのだった。
黙って駒を進める空広に、近づいて来た馬がいた。その背には、懐かしい父が乗っていた
空広の横に馬を付けた父は言葉を探すように口を開き……そして長いこと無言だった。面倒くさそうな視線を返した空広はしかし、父の戦装束の胸のあたりに猫の毛がついているのを見て思わず笑ってしまった。
控えめに手を伸ばし、茶色い毛をつまみ取った息子の姿に、父はバツの悪そうな顔をして、やがて控えめに笑みを浮かべた。
「……空広」
長い沈黙の後に、父は呟くように言った。それからまた父は視線を巡らせ……そしてようやく、ぽつりと言った。
「無理はするな」
空広はつまんだままだった茶色い毛に視線を落とし、細い毛を何度か指でひねってみた。
やがて二本の指を離すと、柔い毛は風に攫われて飛んで行った。
その行方をしばらく目で追ってから、空広は父に視線を戻した。
久しぶりに見る父は年を取っていた。目元と口元の皺が増えて、髪に白いものが混じっていた。そしてその瞳は、少しだけ空広に似ているような気がした。
返す言葉を持たないまま、空広はじっと父を見つめ──そして控えめに笑みを返した。
──父も自分も、不器用なのだ。どうしようもないくらいに。
馬を進めて離れて行く背中を、父親の気遣わし気な視線がいつまでも追って来ていた。
上げた視線の先には、広がる海の色があった。砂の白色と混じり合った、緑がかった水の色。それは、恐ろしいまでに美しい海だった。
「感じるわ」
「……何を」
「あなたの魂が固く 凍り付くのを。あなたの心が 深みに隠れて行くのを」
「ならば、触れなければ良い」
もう慣れっこになってしまった、あの甘い笑い声。
「いいえちがうわ 人間の男。
あなたは触れて欲しいのよ。
いまも絶えず血を流し 絶えることなく泣き叫ぶ
あなたの底の 深い傷」
「…………」
「私はよく 知っているわ このさきを あなたは 語れない。
だから私が ここにいるの あなたのために歌いましょう。
閉ざされた物語 竜宮の寵児──」
<第六話に続く>




