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[第4話]

宮古島の英雄、仲宗根豊見親をモチーフにした長編歴史ファンタジー第4話目。

稀代の英傑か、それとも……。

あくまでパラレルなミャークの英雄物語として楽しんで頂けましたら幸いです。

第一話扉絵は嵐山晶 様に描いて頂き、ご本人の許可を得て掲載・使用しております。


※無断転載を禁じます※

※本作は[pixiv]様にも重複投稿しています※




 夜の庭にばしゃ、と水が弾けた。

「わあ、なんだ空広、やめろ!」

 ふわふわした声で抗議する兄の着物をはぎ取りながら、空広は水瓶に突っ込んだ手桶の中身を再び叩き付けた。

 月明りに照らされる、酒に染まった白い肌。浮かび上がる、華奢な骨格。

 ほのかな朱色をなんとか洗い流そうと、空広は何度も何度も手桶の水を兄の上にぶちまけた。

 もう何を言っても無駄と悟ったのだろう、恵照はやがて水浴び場の床の上でけらけらと笑いだした。

「ああ、おかしいなあ、もう……。空広は本当に面白いよね」

 膝を立てて座りこんだ、歌うような兄の声。ほんのりと赤い頬を、びしょ濡れの髪がまだらに隠していた。

「だんまりで冷静かと思えば、いきなり癇癪を起こす。賢いのかと思えば、変なところで世間知らず……」

 どこか空虚な笑いを漏らした恵照はふらふらと立ち上がった。おぼつかない手が湿った着物を取り上げ、だらしなく纏う。そのまま、一歩、二歩と進んだ兄はひどく体勢を崩した。思わず駆け寄り体に腕を回した空広に、酒臭い息が当たった。

「……おまえは、いい子だね」

 恵照の黒目がちの瞳。まるで潤んだ月のような──。いつもならその瞳に魅せられて、抗わない素直な弟に戻っていただろう。だが、空広に警告を発するものがあった。その吐息に混じる、ほのかな、どろりとした甘い匂い。酒の匂いではない、何か。

 空広の瞳から逃げるように、恵照は闇が落ちた屋敷の中へと進んで行った。仕方なしに寄り添う空広の腕から逃れるように寝室によろめきこむと、糸が切れたように布団の上に倒れ込む。そのまま片腕で顔を隠すと、天井に体を向けた。

 薄く開いた唇から、けだるげな吐息が洩れた。そして恵照は、ゆっくりと腕を顔から外した。ぱたん、と腕が布団に落ちる音がする。

「おいで」

 月明りにきらめく瞳が、枕元にひざまずく空広を捉えた。満月にも、新月にも光を変える不思議な瞳。

「一人じゃ寝られないだろう?」

 その腕が、布団の上に空いた場所を示していた。

 そう、この年になっても空広は兄と一緒に寝ていた。もう昔話はしてもらわなかったが、それでも寄り添う温もりが無ければ、眠りにつくことができなかった。

 だが──。

 手の甲に触れた白い指を、空広は弾かれたように振り払っていた。

 ひどく意外そうな視線から身をもぎ離すように、空広は立ち上がる。

「空広?」

 声が足に、耳にまとわりつくようだった。

「空広?」

 空広は床を蹴り、闇の中に走り出た。

 甘い声が、淀んだ瞳が振り切っても振り切っても、絡みついていた。




 闇は変わらず空広を迎えてくれた。

 蝙蝠の羽ばたき、互いに触れ合う葉のざわめき。

 漆黒の闇を走り抜ける少年の耳に、かつて別れを告げたものたちが囁きかけていた。

 ──ほら、帰ってきた。

 ────やっぱり、帰ってきた。

 喜んでいるのか。蔑んでいるのか。

 かさかさ、かさかさ、と耳の奥で小さな音たちが騒めきあう。

 蹴り上げた礫が地に落ち、湿った葉をかき分ける音が混じり合った。耳を満たす混沌に、空広は思わず走りながら耳を塞いでいた。

 夜目の効く子供でなければできなかった深夜の行軍──その果てに空広がたどり着いたのは、懐かしいあの水の口だった。

 開けた闇に空広は息を飲む。その場所は様相を大きく変えていた。池を守るように生い茂っていた緑はすっかり刈られ、死んだ枝や草が折り重なって地面に倒れていた。

 荒く編んだ魚網や魚籠が、踏みにじられた地面に散乱していた。

 小さな虫の歌も、夜の鳥の声もしなかった。花弁が地に落ちる音も、やどかりの足音もしなかった。

 上がった息の音だけが闇に響いていた。月に照らされた静かな水面だけが、昔と変わらずこちらを見つめ返していた。その白い煌めきに引き寄せられるように、水の鏡を覗き込む。

 そして長いこと、空広は絶句していた。

 見つめ返すのは、青ざめた顔と、険のある瞳。ざんばらに乱れた髪。そして、ざっくりと切り裂かれた顔。夜風が揺らした髪が、顔の上に走る傷に不気味な凹凸の影を落としていた。

 そう、それはまるで……。

『化物』

 わぁん、と頭の中に声が響いた。

 息を飲む目の前で、水面に何かが浮かび上がろうとしていた。

 魚──。銀色の長い背中をした、そこらでよくとれるありきたりの魚。

 だが、その魚は水の下から空広を見つめると、まるで人間のように水面で直立した。

 ぱしゃ、と水滴が落ちる。そして、魚はぱかり、と口を開けた。

『──化物 猫の子 いらない子』

 歌うようなその声は、魚の口から出ているのではなかった。

 魚の口のその奥で、ちいさな顔がこちらを見つめて歌っていた。握りこぶしほどしかない、赤ん坊の顔──それは、見覚えのある顔だった。

『──兄さん嫌い 人のもの。空広使う いやな人』

 赤子の唇が歌い続ける。

 耳を塞ぐ手などお構いなしに、わぁん、わぁんと呪いの歌が反響しつづけた。

『──バツの子 だめな子 いらない子』

 そして空広は、意識を失った。





「──あれは“予備”だったのです」

 祖父の声。

「何の因果か、あれの方が生き残ってしまいまして」

 普佐盛。いつも何かを図っていた男。

「だめなのですよ、あれ(、、)は」

 後ろ姿でもわかる。きっとその目には蔑みが滲んでいる。

 向かい合う大立大殿が曖昧に笑っている。

「我らの一族には時々生まれるのです……、ああいうの( 、、、、、)が」

 ああいうの(、、、、、)

「恥ずかしながら、私の弟もそうでしてな。父の死を境におかしくなって、三年も遁走しまして……」

 忌々しそうな声。

「帰ってきたと思ったら、“竜宮に招かれていた”などとうそぶく始末。挙句の果てに父の墓所で服を脱いで踊りはじめた」

 それはそれは……と相槌を打つ養父の声には、隠しきれない優越感が滲んでいた。

「ですから……あれはあなた様を失望させますぞ。どんなに優れているように見えても、きっと」

 普佐盛は、空広を取り返すためにそんなことを言ったのだろうか。

 とてもそうは思えなかった、あの声。

 あんな話は……聞かなければよかった。聞きたくもなかった。





「空広」

 しわがれた声に目を開けると、穏やかな瞳が見つめていた。

 頭巾に隠れた顔。

 声の出ない口を開けた空広は、思わず顔をくしゃ、と歪めた。

 それは、空広のもう一人の祖父だった。大立大殿の父で、恵照の祖父──かつては泰川大殿と呼ばれたミャークの猛者。今はこの小さな集落でひっそりと暮らす老人。いつかの昔に、空広の命を救ってくれた老人だった。

 頭巾の奥の瞳の光が、優しく空広を包んでいた。口数の少ない老人だったが、言葉には頼らない無言の愛情が、いつも小さな姿からにじみ出ていた。

 見守る瞳の前で、空広は寝かされていた布団の上で正座し、言葉なく俯いた。

 変わり果ててしまったかつての住処。

 不気味な魚。

 兄のこと。

 色々なことがごっちゃになって、空広はただ、拳を握りしめた。

 やがてぽと、と涙の粒が落ちる。

 理由を聞く代わりに、老人は黙って席を立った。

「今日の魚は良いぞ」

 戻って来た老人の手には、素朴な土の皿があった。皿の上には、焼いた魚が三匹ほど。てかてかと光る、焦げた体──。おぞましい魚の歌が脳裏をかすめ、空広は思わず顔を引きつらせた。

 怪訝な顔の老人を安心させるように、空広はあわてて魚を取った。そのまま齧れば、じゅわ、と滋味の溢れる汁が口の中に広がる。

「秋の魚は美味いものよな」

 もぐ、もぐと味の濃い魚を噛みしめる孫の姿に、老人は目を細めた。

 空広が大立大殿の養子になると決まった時、一番喜んでくれたのはこの老人だった。家族が増えるのだから、と強硬に言い張る恵照に折れて、あの日だけは大立大殿と恵照と空広とが、三人で老人を訪れた。

 まだひどく痩せてはいたが、髪を切り、さっぱりとした着物を着せられた空広を見て、老人は手を叩いて喜んだ。頭巾の奥の目が光っていたのを、空広はよく覚えていた。

 季節の食べ物や着物、王府との交易で手に入れた珍しい品──二人の孫たちが欠かさず運ぶ品々よりも、老人はなにより恵照と空広の顔を見るのを楽しみにするようになった。

 二人が来る日は白んだ朝のうちから荘園の入り口に立ち、そわそわと落ち着かない小さな老人のことを聞くたびに、空広はこの人里離れた集落への愛着を深めて行った。

 最後の魚を食べ終えようとする空広に、老人はそっと言った。

「……難しいものよの」

 怪訝な瞳を上げた空広に、老人は静かに首を振る。

「近しければ近しいほど、相手のことを分かった気になってしまう。相手に期待する。意に沿わないと、裏切られた気がしてしまう」

 じっと押し黙った空広に、老人はふ、と息を吐いた。

「……家族というものは、の」

 あの日、大立大殿と老人は一言も喋らず、目も合わせなかった。

 空広の膝の上に置かれた空の皿を取り上げると、老人は立ち上がった。

「まだ朝も早い。腹も膨れたろうし、少し眠りなさい」

 やがて頷いた空広を認めると、老人は静かに去って行った。



 気持ちが落ち着くまで、空広は老人の荘園に留まることにした。

 どのみち恵照にも大立大殿にも知れているだろうし、脳裏にちらつく兄の瞳に今は向き合いたくかった。

 いつかは空広をマジムンといって追いかけ回した村人達も、今は空広を温かい目で見守ってくれていた。ミャークの権力闘争から遠く離れているからこそ、伝説の目黒盛の血を引くという少年に対しておかしな先入観が無かったのかもしれない。

 水場から水を運び、黙々と漁の網を繕う少年に人々はそっと煎った豆や干し魚を渡してくれるのだった。

 今日も荘園の人々に混じって、空広は畑に屈み込み、小さな木のへらで固い土を耕していた。握りこぶしのように固まった白っぽい土をへらの先で突き崩していると、不思議と心が落ち着いて行くのだった。

 ──もともと、

 空広は自分に言い聞かせる。

 ──自分と兄には血のつながりがない。それに、兄はもう大人だ。

 へらの先についた、鈍く光る金板が乾いた土を砕く。

 ──兄が何をしようが、誰と会おうが、どうこう言う筋合いなどない。それが分からないほど、自分は子供ではない。

 砕いた塊から土埃が舞い上がり、目に入った。手の甲で拭ってみても、小さな土の欠片はなかなか目から出て行かず、ひどくごろごろした。

 一つ一つ順番に考えたい、と空広は思っていた。まずは気持ちを落ち着けて、それからあの魚のこと、水の口のこと、兄のこと……。

 今はまず目を洗いに行こう──、そう思って立ち上がった視線の先で農民たちが何やらもみ合っていた。

 野良着の若者がもう一人の若者の胸ぐらを掴み、怒声と共に何かを奪い取ろうとしている。空広の怪訝な視線に気づいたものか、止めようとしていた村人が二人の若者に警告の声を発した。その目がひどくおどおどしていたのを空広は見逃さなかった。

 ──お前ばかりが、

 どこか浮き上がったような声で二人の男は怒鳴り合う。

 ──お前ばかりが楽をしやがって、

 詮議をしようと大股で歩み寄ろうとした目の前で、片方の若者の手に握られたそれが太陽の光を受けて煌めいた。

 は、と息を飲んだ視線の先で、赤い飛沫が躍った。

 男の手に握られたへらの先端──しんしんときめの細かい鉄の板が、男の頬を切り裂いた血に染まり輝いていた。

 ミャークに鉄の技が無いわけではない。だが、遠い昔に外つ国から伝来した技が産み出す鉄は粗く、材料の砂鉄も交易だのみの貴重品だった。鉄の農具など農民たちはなかなか手が届かず、貧しい者の中には未だに木や石や、磨いた骨の農具を使っている者もいるというのに──今空広が見ているのは、へらの先で躍る鍛えられた鉄だった。ぬめり、血を吸う──……『そう、あの時天太を殺したような』

 頭の中で過去をささやく声を振り払うように、空広は男たちに飛びかかる。

 二人の男が胡乱な声を上げてこちらを見た。その瞳が、酒に酔ったよりももっと濁っていた。

 順繰りに頬を殴り飛ばすと、仰向けに地面に転がった男からへらを奪い取る。

 じっ、と厳しい目でそれを見つめる空広を、農民たちが遠巻きにしていた。

 やがて厳しい視線を投げた空広に、諦めたように一人の男が小突かれながら前に出て来た。

「あ……あの、もらったんです、それ」

 誰に、とねめつけた空広に震える声が返って来た。

「あの……イラブの、大殿様に……」

 途端に瞳を厳しくした空広の傍らで、先程まで争っていた二人が身を起こそうとしていた。だらしなく漏らした声に混じるその臭いを、空広の敏感な鼻はとらえていた。あの匂い。甘くて苦い、あの匂いの痕跡を。



 空広は屋敷に駆け戻る。

 必死の形相で突きだされた鉄のへらを見た祖父は、こともなげに言葉を返した。

「ああ……イラブの大殿がくれたへらじゃな」

 苛々と地団駄を踏む空広をなだめるように、祖父の柔らかい声が続いた。

「何を怒っておる。鉄は貴重じゃ。そのへらのおかげで、村人たちは大層助かっておる。今までのへらとは大違いじゃ」

 老人は空広の手からへらを取り上げて、眺めた。

「見よ、この純な鉄──。大殿はな、新たな鉄の技を運んできたのじゃ。外の世界では、鉄の技は日々進んでおる。あんな池と引き換えに、このようなものをくれるとは……。噂では外つ国から来たならず者ということだが、細かいことには構うまい。我らは大層助かっておるのじゃから」

 そう言った老人の語尾もまたどこか、ふわふわしていた。必死に見つめた先の祖父の目は、胡乱だった。

 空広は理解する。そう、鉄は貴重だった──だからこそ、必要なはずだ。それに見合う代償が。





 ──浅瀬を渡って、

 地面を蹴って駆けながら、空広は農民達を絞め上げて聞き出した言葉を反駁する。

 ──浅瀬を渡ってくる。ヒララとイラブの島を繋ぐ海を。

 イラブの大殿。イラブ島の英雄。

 ある日イラブの島に流れ着いた、若く勇壮な美丈夫。

 反った刃で人食いざめを切り伏せ、イラブの島を守った男。鉄の力で海を征した男。

 素直で素朴な、イラブの人々。時折訪れるヒララの町人(まちびと)たちに、困った顔で笑いながらも静かに漁場を明け渡していた村人たち。そんな彼らに、イラブの大殿は教えたのだという。

 抗うこと、断ること、戦うこと。

 いつしかイラブの人々の目には強い光が灯るようになった。

 イラブの大殿。イラブのまれびと。

 空広の知らないうちに、その名前はヒララの街のあちこちでささやかれるようになっていたという。

 知恵を与えるだけでなく、大殿は新しい鉄の技を人々に伝えているという。

 まずは農具。それから、鍋や銛……そして次は。空広の脳裏で、あの記憶が明滅する。刀。鈍く光る反り刀。 

 海賊。そんな風に大殿をいうものもいた。遠き地から渡って来た海の猛者。ミャークでは手に入りようもない、不思議な品々を携えて……。鉄。知識。そして毒。

 甘くて苦い香りが、空広の体の内側を染め上げて行くようだった。





 息せき切って掛けつけた視線の先に、ついに空広はその姿を認めていた。

 島の端、潮が引く日にはなんとか歩いて対岸のイラブ島に渡れる海辺……そんな場所の小高い岩場に、二つの影があった。息をひそめた空広は、そっと物陰に身を隠す。二つの影から、目を離すことができなかった。

差羽(タカ)が渡って行く……」

 甘ったるい兄の声が、すぐ横の姿に話しかけていた。

「あの鳥を、あなたの国では何と呼ぶの?」

 風に乗って、その姿が空広の知らない響きを返すのが聞こえて来た。耳馴染みの無い、異国の言葉。

 二人は、暮れて行く橙色の空を見上げていた。 

 視線の先の大空に、差羽の群れが飛んでゆく。

 もう一度、兄はその姿に呼びかけた。おそらくそれが、その男の名前なのだろう──だが、空広の耳はその名前を聞き取ることを拒否していた。

 涼やかな秋の夕風が、兄の艶のある黒髪を風に舞い上げる。傍らの姿──イラブの大殿──がその髪の一房を捕まえて、兄のきれいな顔のすぐ横に戻してやっていた。

「……あんなふうに飛べたら、いいだろうね。こんな小さな島を離れて、海を渡って、ずっとずっと、遠くまで」

 そうだな、と大殿は若々しい張りに満ちた声で返した。きれいな頬骨と、黒々とした睫毛の男だった。

「だけど、ずっと飛び続けるってのも疲れるさ」

 そうかな、と返す兄の声に含まれた媚。

「……まさか俺が、こんな南の島に腰を落ち着けることになるとはな」

「それは、僕のせい?」

 くすくす、と笑う兄は、もう空広の知っている顔ではない。大殿がくしゃっ、と兄の髪をかき混ぜた。

「ばーか。……まあ、堅気の仕事もいいもんだ。俺がまさかイラブの島で、鍛冶仕事だの、村人に学を教えるだのをやるとは思わなかったがな」

 視線の先で、二人はしばらく見つめ合って、それから笑った。

 また空に視線を戻し、飛び去る鳥達を見つめていた恵照が言葉を続ける。

「……あの魚、とれた?」

「ああ。意外と頭がいいから苦労したけどな。やっと何匹か捕まった。お前が漁場のこと、話を付けてくれたおかげだ」

 そう……と恵照は呟いた。また、声に闇が絡み始めている。

「売れるといいね」

「売れるさ。あれに千金を積む奴は世界中いくらでもいる。あんな農具と引き換えでいいなんて悪いくらいだな。ミャーク人の世間知らずには驚いたぜ」

「僕らは素朴……だからね」

 二人はじっと黙り込む。やがて大殿が言葉を紡ぐ。

「あの薬……飲みすぎてないだろうな?」

「心配ないよ」

 おい、と大殿が兄の手首を掴んで顔を覗き込む。

「真面目な話なんだぞ! 何度も言っただろ、あれは量を過ぎると……」

 兄は乾いた笑いを返した。

「大丈夫だってば。良く効いてるよ。気持ちが明るくなる……。それに、あなただってあの薬、便利に使ってるじゃない」

 大殿が気まずそうに頬を掻く。

「まあ、余所者に対する警戒心を和らげるのには便利だけどな」

「じゃあ、おあいこだ。もうこの話はおしまい」

 また沈黙が落ち、夕風と、見つめる空広のひそめた息の音だけが聞こえていた。

 兄の顔をじっと見つめていた大殿は、やがて切り出した。若く凛々しい顔の瞳に、真剣な光が灯っている。

「なあ恵照……。お前、もし俺がまた船を出すって言ったら、一緒に来るか?」

 兄が黙ったまま視線を返す。

「お前、言ってただろ。こんな狭い世界はうんざりだ、おかしくなりそうだって。俺と一緒に行かないか?」

 表情を消した兄はしばらく黙り、俯き……そしてまた顔を上げた。その横顔に、皮肉っぽい笑みが浮かんでいる。

「なんだ……結局堅気の仕事には飽きちゃったんだね。僕を海賊の一味にしようっていうの?」

 違う、と返す大殿の声は真剣だった。

「そうじゃない。俺は見せてやりたいんだ。お前に広い世界を。ここじゃない場所。ミャークも中山も関係ない、もっと広い世界を」

 兄の顔から作り物の笑みが溶けて消え、甘い唇がうっすらと開いた。やがてそこから、掠れた声が零れる。

「駄目だよ」

「何で」

 間髪を入れずに問う大殿に、兄は力なく首を振った。それから視線を遠くに投げる。

「僕は何から何まで母親似なんだ。体が弱いのも、多分長く生きないのも、ね」

 すっかり浅くなった水面に、波が寄せては返している。

「僕は船旅には耐えられない……中山に行くのだって、無理なくらいだもの」

 兄の華奢な首が俯く。

「段々、体の調子が悪くなっていくのが分かるんだ。元々、生きる力が弱いのかもね」

「恵照、お前は疲れてるんだ。だからそんな風に思うんだ。気持ちが元気になればきっと……」

 駄目だよ、と兄はまた首を振った。

「それに、僕には空広がいるもの」

 その言葉に、息を詰めて見つめる空広の心がぎゅう、と絞め付けられる。

「かわいそうな子だよ。口もきけないし、顔にはひどい傷があるし」

 空広の心の臓が早鐘のように打つ。

「知ってた? あの子、あんなに大きいのに、僕と一緒じゃないと眠れないんだ。実の親にも捨てられて、僕がいなけりゃ行くところも無い。哀れな子だね」

 頭の中で湯が煮えるような感覚に、空広の足が震え出す。

「手のかかる子だよ。あんなにちやほやしてやってるのに、まだしゃべりもしない。僕の代わりに、中山で媚を売ってもらわなきゃいけないのにさ……」

 兄の瞳が、知らない色に染まってゆく。

「その割には調子に乗っちゃってさ。神童だの、目黒盛の生まれ変わりだの……」

 恵照、と咎めるような声がしていた。兄の声がイラブの大殿を遮る。

「あの子には役に立ってもらわなきゃね。この島の年寄り連中にはまかせておけない……。これからは、僕とあなたと、空広とでこの島を変えていくんだ。あなたの異国の技。空広の根間の血。そして僕らの一族が持つ中山の後ろ盾。すぐには無理でも、いつかこの体制をひっくり返すんだ。僕たちは中山の飼い犬じゃない……!」

 真っ白になった脳裏の向こうに、イラブの大殿が兄の頭をかき抱くのが見えていた。

「……お前は疲れてるんだ。疲れてるんだよ」

 空広は踵を返した。

 その先を、見るのも聞くのも体が拒否していた。

 ──恵照は月だった。新月にも、満月にも顔を変える月だった。





 それからどうやって帰ってきたものか。それでも、無我夢中で駆け戻った先が大立大殿と恵照の屋敷だったことに空広は歯噛みをしていた。

 屋敷の庭で上がった息を整えながら拳を握りしめる空広に、駆け寄ってきた姿があった。

「空広坊ちゃま!」

 じいやが蒼白の顔で空広の手を握りしめる。

「ああ、ご無事でしたか……じいやは、よもや坊ちゃままでもがと……」

 そのまま庭にへたり込んだじいやの後ろから、大立大殿も大股で近づいてきていた。

「空広! どこをほっつき歩いていた!」

 顔を上げてみれば、屋敷全体がざわめきに満たされていた。

 恐怖。動揺。そして──不思議な高揚。

 怪訝な顔で視線を巡らせた空広の顔を、大立大殿ががば、と覗き込んだ。

「大変なことになったぞ!」

 ──なぜ、その瞳は爛々と輝いているのか。

「殺された! おまえのおじ上が、イラブの者に!」




<第五話に続く>





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