[第3話]
宮古島の英雄、仲宗根豊見親をモチーフにした長編歴史ファンタジー第3話目。
稀代の英傑か、それとも……。
あくまでパラレルなミャークの英雄物語として楽しんで頂けましたら幸いです。
第一話扉絵は嵐山晶 様に描いて頂き、ご本人の許可を得て掲載・使用しております。
※無断転載を禁じます※
※本作は[pixiv]様にも重複投稿しています※
それからの毎日は夢のようだった。
恵照の馬に揺られて、明かりの漏れる大きな家の庭に下ろされたこと。
屋敷中の下男と下女を叩き起こして、泥だらけの子供を洗うために湯を沸かしてくれた恵照。
洗っても洗っても出てくる泥水に、恵照は眉一つ動かさなかった。
それどころか、ようやく泥の膜の下から現れた空広の顔を覗き込むと、これ以上はないほど眩しい笑みを浮かべた。
「やあ、こんなに綺麗な子だったじゃないか」
顔の傷のことなど、一言も口にしなかった。
風呂の後に通されたこぎれいな部屋には布団ものべられていた。それでも、久しぶりに見るその布を前にして空広はひどく落ち着かなかった。
「どうしたの? もう眠いだろう?」
身をかがめて問いかける恵照の瞳に空広は身をすくませ、それから俯く。
首をかしげる恵照に、ためらいながらもなんとか身振り手振りで伝えようとする。
──「地面」に寝たら危ない。
──攻撃されるかもしれない。
ふふ、と恵照は笑った。
「誰がおまえを傷つけるっていうんだい?」
──虫とか、
──獣とか、
──そう、それに……、
何とか伝えようと手を動かしていた空広は、やがておずおずと腕を下ろす。
「そうだよ」
空広の目線の高さにしゃがみ込んだ美しい少年が笑う。
「もう、“人”はお前を傷つけない」
恵照の指が伸び放題だった空広の髪をかき分け、頭を抱いた。
「これからは生きていくんだ……人間の世界で」
長いこと空広を抱きしめていた腕がようやくほどけ、見上げた先の瞳に宿っていた不思議な光。暗いような、明るいような……なぜか泣きたくなるような色の光だった。
恵照と大立大殿との間にどんな話し合いがあったかは知る由もない。それでも空広はある日突然に広間に引っ張られていった。空広の手を引く恵照の顔は誇らし気だった。
薄暗い広間に、大人の男たちが車座になっていた。
「今日は、皆に告げることがある」
立ち上がった大殿に、皆の視線が集まる。
「この度、我が長男恵照に弟が出来る運びとなった」
どん、と大立大殿の大きな手に背を押され、空広は男たちの視線の前に突き出された。
「空広である」
簡潔な説明に、広間に座していた男たちからどよめきが上がった。
「いずれも若輩故、皆、よくよく二人を助けてやってほしい」
空広に集中した無遠慮な、しかし何かを疑うような、恐れるような瞳。
小さな明かりを揺らすように、男たちの囁き声が何重にも反響した。
──メグロモリ。
──マヨ。マヨノコ。
反響する言葉を振り払おうと、思わず上がった両手が耳を覆う。
「空広」
見上げると恵照が澄んだ瞳で見つめ返していた。毅然と男たちに視線を投げると、空広の手を引いて部屋の外に出る。
空広は知らないうちに震えていたらしかった。背中を安心させるようにさすると、恵照は言った。
「これでお前は僕の正式な弟だ。僕たちは家族になったんだよ」
黒目勝ちの瞳が空広を覗き込む。
家族。
その言葉の響きに、空広は軽い眩暈を感じていた。
屋敷での日々は過ぎて行き、過ごした時間が重なれば重なるほど空広は優しい兄を好きになった。
まずは声が好きだった。小鳥の胸の辺りの羽毛のような、やわらかくていつまでも触れていたくなるような声。
そして、深い黒い瞳。何かにつけて恵照は空広の瞳をじっ、と覗き込んだものだった。その瞳は、あの不思議な水の口とよく似ていた。静かで、思わず指を伸ばして瞼の襞に触れたくなるような、そんな美しい水面のような瞳だった。
恵照は空広を熱心に教育した。
「いいかい空広、男の子は戦ができなきゃ話にならないよ」
恵照は空広に毎日剣の稽古をつけた。
もちろん先を丸く削った木刀を使っていたが、恵照は子供相手でも手を抜かなかった。
笑みを含んだ瞳の恵照の木刀が、空広を追い詰める。それでも、さ、と身をよじり、鋭い突きを繰り出した少年に恵照は笑い声を上げた。
「大したものだ。実戦じゃきっともう敵わないな。こんなに才能のある子は見たことが無いよ」
上機嫌で頭を撫でてくれる手に、空広ははにかみながら身をよじったものだった。
恵照は褒め上手だった。剣の稽古が終われば書を読み、字を書いて……空広のちょっとした筆の跡などに目を止めては、恵照は大げさなくらいに褒めた。
何て賢い子なんだろう、なんて優れた子なんだろう──お世辞だったのかもしれないが、その言葉に見合うようになりたい一心で、空広はさらに修練に励んだ。誰かが見ていてくれる──そんな安心感の中で、空広の技量は若草のように伸びていった。
最初は懐疑的な瞳で見ていた大立大殿までもが、やがて空広に新しい手甲や筆を用意してくれるようになった。少しづつ少しづつ、空広は「家族」を手に入れて行った。
恵照が教え込もうとしたことのもう一つに、武人としての立ち振る舞いがあった。
「いいかい空広」
黒い瞳が覗き込む。
「お前は大きくなったら、中山へ行くんだよ。その時に、サキシマの田舎者と笑われてはいけないよ」
中山。それは折に触れて恵照の口から出てくる言葉だった。遥か北東にあるという、偉大な王の国──そこがどんな場所かは知る由もなかったが、その言葉を口にする時に兄の瞳に宿る光に、空広は立ち尽くすしかなかった。羨望と、憎悪と、嫉妬。その瞳の色は、暗かった。
固い瞳に気付いたものか、恵照は安心させるように笑う。
「さあ、やってみせてごらん」
こく、と頷くと着物の裾をさばき、きちんと足を折りたたんで座る。
目の前の膳から箸を取り上げると、椀をもう片方の手で持つ。
箸で菜をつまみ、そっと口に運ぶと恵照は手を叩いて喜んだ。
「素晴らしいよ! ちゃんと箸が使えるようになった。上手に食べられたね」
傍から見れば大したことでもなかったろうが、ここまで来るのは大変だった。なにせ空広は手づかみで生の魚を食べ、骨を齧り、手に付いたコメ粒を欠片も残さず取ろうとしゃぶるような野生児だったのである。忘れてしまった人間の世界を取り戻させようと、恵照は根気強く空広に教え込んだ。着物の着方、帯の締め方。髪はいつも綺麗に整えて、優雅にきびきびと歩くように。いつも気を引き締めて、凛々しい顔をしているように……。そんな教育の甲斐あって、空広は幼い年には似合わない小さな武人の風格を備えるようになって行った。
恵照はただ教育熱心なだけではなかった。
「ほら、遠慮するんじゃないよ。たんとお食べ」
あばら骨が浮き出るほど痩せていた空広に、恵照はとかく物を食べさせようとした。
目の前にはよく熟れた果実が山のように盛られている。
「だめですぞ恵照様、甘いものばかり食べさせては」
夕餉を囲む二人を見とがめて、じいや──恵照を幼いころから世話している、まだ“じいや”という年でもない中年の下男──が部屋に入って来た。
「いいじゃないか。この子は痩せすぎだもの」
口を尖らせる恵照をじいやはたしなめる。
「だったらなおさらですぞ。食べるものは選びませんとな」
そう言ってじいやは傍らから籠を取り上げた。
「さあ空広坊ちゃま、じいやがゆで卵を持ってきましたよ」
「空広、魚もちゃんと食べるんだよ」
にこにこと見守る二人をがっかりさせたくなくて、空広は気持ちが悪くなるまで食べてしまうこともしょっちゅうだった。満腹になれば瞼がとろとろと重くなる。
「恵照様、坊ちゃまはおねむですぞ」
「ああ、本当だ」
じいやと恵照が顔を見合わせて笑っている。
眠くなんてない、と首を振ろうとした空広を恵照は優しく立ち上がらせた。
「さあ、寝ようね」
霞んだ目で、こく、と空広は頷く。
実のところ、屋敷に来たその日から空広は恵照と一緒に寝るようになっていた。
屋敷に来た最初の日、空広は一人で眠ることができなかった。
これが人間の生活なのだと理屈では分かっていても、平らな床で眠ろうとすると眼が冴えてしまう。もぞもぞと布団の中で落ち着かない様子に苦笑いを漏らした恵照は、空広の横に滑り込んだ。
「こうするとあったかいね」
海辺でしゃらしゃら鳴る白い砂のような、無邪気な笑いが零れた。
そのまま肩肘をついて身を起こすと、空広の背中に手を添える。
「僕も小さい頃、一人で寝るのが怖かったよ」
ためらいがちに見上げる空広の背を、掌が拍子を取りながら優しく叩く。
柔らかな恵照の声が、静かな闇に響く。
「僕はおじいちゃん子だった。眠れない時には、よく昔話をしてもらったっけ……」
愁いを含んだ瞳で遠くを見た恵照の唇から、さざ波のような声が零れた。
「──むかしむかしミャークの島の人々は、竜宮の王様と仲良くくらしていました……」
そうやって毎晩、恵照は空広の傍らで物語を紡いでくれた。
人間の娘に恋をした海神の話。
天の神から不死の水を預かった蛇の話。
遥か海深くの竜宮に招かれた男の話。
恵照の知っている物語の数には際限が無いようだった。
甘い震えを帯びた声が歌う物語を聞いているうちに、空広はいつしか眠りに落ちてゆくのだった。今や自分のものになった、温かい人間の体温を感じながら。
「空広、今日は何のお話がいい?」
笑みを含んだ恵照の瞳に、空広はほんの少し機嫌の悪い視線を返す。恵照はこうやって、ふとした時に空広を試すのだった。小さな糸口からさりげなく言葉を引き出そうと、不意な問いを投げてきたりする。
空広は何とか言葉を紡ごうと、唇をぱくぱくと動かしてみる。
じっと見つめていた恵照は、やがてぎゅ、と握りしめられた拳を認めてやさしく微笑んだ。
「まだ無理みたいだね」
柔らかい指が、今や綺麗に切りそろえられた髪を優しく梳いた。
「僕の先祖の真佐久が中山に上った時は、三年も言葉が通じなかったそうだよ。きっと身振り手振りで伝え合ったんだろうね」
その言葉に空広は幾分明るい気持ちになる。昔の話を聞くのは大好きだった。空広はたどたどしく、自分の眉の上あたりを指差して形を示す。
一つ、二つ……そして七つ。
「北斗七星……そうだね、今日は目黒盛豊見親のお話をしようか」
それは空広が大好きな物語だった。
──むかしむかし、ミャークの島には瞳の上に北斗の七星を抱く男の子がいました。
──その子の足は地面に立つことができず、いつも地面に座っていました。ですがある日のこと……。
目黒盛豊見親は、恵照と空広が生まれる前の時代の英雄だった。
その頃のミャークは争いに真っ二つに引き割かれ、目黒盛軍と敵方の与那覇原軍は激しい戦いを繰り広げた。
目黒盛軍の総大将、目黒盛──眉の上に七星の形の黒子を宿し、弓の名手で、誰もが見惚れるほどの美男子で……そんな目黒盛の物語はどこか荒唐無稽で、幼い空広の心を躍らせた。
激戦の末、追い詰められた目黒盛があわや、と言うところで犬に助けられるくだりなど、緊迫感とのどかなおかしみが奇妙に同居していて、空広はそこだけ何度も繰り返してもらったものだった
物語はこう続く。
目黒盛は敵を打ち負かし、ミャークを統一した英雄・目黒盛豊見親となる。
一方、負けた与那覇原軍にあった真佐久は、一族の再起を図り遥か中山へと船出する。中山王の信頼を得た真佐久は、ミャークの支配権を授けられ、もう一人のミャークの英雄・与那覇勢頭豊見親となる……。
二人のミャークの支配者と、二つの相容れない一族の誕生の物語だった。
遠い時代の物語。
蜜のように流れる恵照の声。
空広はこの上もなく幸せだった。
「恵照様! めったな話などしてはなりませんぞ!」
まどろんでいた空広はじいやの声に引き戻された。
明かりを持ったじいやの手が震えている。
「なんだ、大きな声を出して。空広が起きてしまったよ」
「何を呑気なことを……。大立大殿のお耳に入れば、どんなにお怒りになることか………!」
けだるげに身を起こした恵照は鼻で笑った。
「怒らせておけばいいさ。あの人も往生際が悪い……。僕たちは負けた与那覇原軍・真佐久の子孫だ。それは変えられない事実じゃないか」
「でしたら……!」
「そして空広は目黒盛の末裔。だから何だって言うんだ? 過去は過去だ」
空広に向き直ると、恵照は声に力を込めた。
「僕たちは今に生きているんだ。過去のしがらみにとらわれていてどうする。ミャークは小さな島だ。血統や過去にこだわっている暇なんかない。
力を合わせ、協力して未来を切り開かなくては中山の子飼いのままだ。僕は王府にペコペコするだけの父上とは違う」
「恵照様っ……!」
悲鳴のようなじいやの声にもかまわず恵照は続けた。
「なるほど、確かに我が白川の一族は王府からミャークの支配権を認められたかもしれない。
だが実質的にミャークの大部分を治めているのは根間の一族だ。こんな二重政権をやっている島の未来なんて知れたものさ」
空広に続く目黒盛の一族と、恵照に続く真佐久の一族──。
実質的な支配者と、名目上の支配者と。遠い過去から続くしこりは、今も島のあちこちで軋轢と小競り合いを起こしていた。
何故空広を強硬に一家に加えようとしたのか。何故大立大殿も断り切れなかったのか……。
本当は空広にだって分かっていた。
恵照は、二つに分かれたミャークを一つにしようとしている。
空広は、その計画の一部なのだと。
だが、それが何だというのだ。
空広は手放したくなかった。
肌触りの良い清潔な着物を。
温かい食事を。
そして、優しい兄を。
初めて手に入れたこの幸せな日々を。
「空広……お前は賢い子だから、分かるね?」
いつものように、恵照が空広の瞳を覗き込む。遠い深みに誘う、黒い瞳。
「僕たちで創っていくんだよ。この島の未来を」
そうして何年かが過ぎた。
突き出た骨をふっくらとした肉が覆い、日々の鍛錬の甲斐もあって空広はしなやかな筋肉と輝く目をした少年に成長した。
相変わらず顔の傷は派手に残っていたが、それを覆い隠すほどの美貌に人々は絶世の美男子だったという目黒盛の生まれ変わりか、と密やかに囁き交わした。
もし口がきけていたなら、そろそろ大人の声に変わってもいい頃だった。まだ幼さを残した輪郭と、それに似合わない大人びた瞳──まるで羽化したばかりの蝉のような、一瞬の淡い美を少年は纏っていた。
恵照もまた一段と美しさを増し、どこか白い花のような美を宿すようになっていた。
二人が連れ立って馬で島内を見回れば、女たちは畑仕事の手を止めておおらかな歓声を上げ、男たちもなにか眩しいものを見るような視線を投げてくるのだった。
このところすっかり老け込んだ大立大殿に代わって、恵照と空広は島の治世者としての経験を重ねていった。
恵照は骨惜しみをせずに領地を回り、民の話によく耳を傾けた。決して偉ぶらない気さくな態度は老若男女の信頼を集めた。そしてその傍らには、いつも影のように空広がいた。
言葉の恩恵を持たない少年は、じっと兄と民の会話を聞き、必要であれば几帳面な字で言葉を書き取った。
頭が良く小さなことにも気がまわる恵照ではあったが、時に生来の憐み深さや、相手の良い面だけを見ようとするやさしさが、物事を現実的な対処から遠ざけてしまう事があった。
そんな時、空広は恵照の袖を引き、首を振って冷静さを取り戻させ、時には文字を通じて助言した。
空広は兄とは対照的だった。表情や、声の調子や瞳の色や──言葉では隠しきれない人間の本性を、ずるさを、嘘をその瞳でじっとすくい上げた。それは深い緑の原野で葉と葉がこすれる音に、虫の吐息に耳を澄ましてきた空広が身に付けた、研ぎ澄まされた一種の才能だった。
そうして若い二人が導き出した解決策は、漁の成果の配分から領民の下知に至るまでよく甲を奏し、二人は人々の信頼を勝ち得て行ったのだった。
今日も恵照と空広は馬に乗って連れ立って行く。領地の見回りも少し早く終わり、あとは夕暮れの中を屋敷に帰るだけ──。だが、二人にはまだ行く所があった。
村はずれの藪の中。そこが二人の行き先だった。
──もう義父上にはばれているのだから、と思いながら空広は馬を下りる。
──堂々とやればよいのに。
大立大殿と恵照の溝はもはや埋めがたいものになっていた。
向かう先にあるのはひっそりと切り開かれた畑──。父と子の分断を決定的にした事の一つに、この畑のことがあった。
ミャークには王府からの交易船が来る。いつの間になじみを作ったものか、恵照は王府の役人を通じて異国の作物を手に入れて来た。
「見てごらん、これはミャークにあるものより大きな実がなる」
新しい穀物や菜の種に、見たことの無い根……厳しいミャークの大地からより多くの実りを得ようと、恵照は異国の作物を買い求めた。
これで民が餓えることが無くなる、と朗らかに笑っていた兄の顔に、空広も我がことのように喜び心躍らせたものだった。
だが、買い求めた方法が悪かった。
恵照は王府の役人に、対価として先祖伝来の宝を渡していたのである。王府から賜った刀や玉が無くなっているのに気づいた大立大殿は激怒した。
「この……馬鹿息子がッ!」
殴り飛ばされた恵照を助け起こそうと、走り寄った空広までもが足蹴にされた。荒れ狂う大殿を止めようと、屋敷中の下男たちが一人残らず駆けつける。
「だからあなたは最低なんだ!」
口から滲んだ血を拭うと、恵照は叫び返した。
「暴力に訴えればなんとかなると思ってる! 母上に対してもそうだった!」
ふらつく足で立ち上がると、恵照は父を指差す。
「先祖伝来の宝と民と、どっちが大切なのですか! あなたは治世者失格だ! あなたなんかさっさと引退してしまえ!」
「……お前はッ!!」
再び拳を振り上げた大殿に下男たちがわっと覆いかぶさった。
この頃までには空広も嫌と言うほど分かっていたが、大立大殿の最大の欠点はこの怒りだった。普段は豪放磊落で、時にはおどけて見せたりする茶目っ気もある。それでも一旦怒りに火がつくと抑制が効かず、周りを焦土にするまで荒れ狂い……そして後でひどく落ち込んでしまう。そんな養父だった。
屋敷の中はめちゃくちゃに乱れ、父と子はしょっちゅう着物が破れるほどの取っ組み合いをした。そんな大騒ぎにもめげず、恵照は隠れて切り開いた畑で新しい作物の栽培を続けた。
この畑を作るのも大変だったのだ。
太陽が天頂に掛かり、だれもが日が落ちるまでの幾刻をまどろんで過ごす──そんな時間に、二人は懐柔した下男たちをこっそりと呼びつけたものだった。
空広は目の前に並んだ下男たちに、太陽を指差して見せる。
「太陽が何なんですか、坊ちゃま?」
首を傾げる下男たちに、空広は指で天に尺を示して見せる。
「太陽が一刻動くうちに……?」
空広は大切に木箱に入れた種と、縄で升目に区切った畑を示し、指で数と深さを示す。
「これだけ全部播けって? いやあ、この炎天下に無理ですよ!」
がやがやと不満を述べ始めた下男たちをなだめるように、空広は首を振り手まねで示して見せた。
「一番最初に終えたものには……」
男たちの目が輝く。
「酒をくれるって⁉」
わあ、と歓声を上げた男たちが種に群がる。
その様子を見守っていた恵照が微笑みながら言う。
「大したものだ。お前は人を使うのが上手い」
その言葉に空広ははにかむ。
どんなに単純な仕事でも、行った者の力量でその出来栄えにはどうしても差が出る。そして、えてして人というものは、物事を何となく行い、それで出来た気になってしまうことがあるらしかった。一度人間の世界から切り離された空広からしてみれば、彼らの不合理で無駄の多い行動は謎だらけだった。
そんな時、空広は誰がやっても均一で良い結果が出る方法を考え、何をどのようにすれば良いかを示すのが上手かった。言葉という誤解を起こしやすい手段を持たないことが、むしろ空広の強みになっていた。
「で、酒なんてどうやって用意したんだい?」
いたずらっぽく笑う兄に、空広も同じ笑いを返す。
もちろん、酒はつい先日大立大殿が開いた宴から失敬してきたのである。
酔うと気が大きくなり、陽気になる大殿は傍らの空広に言ったものだ。
「空広、お前ももう大人の男になるのだからな!」
大きな手が肩を抱き、酒が並々と入った杯を押し付けてくる。
さあぐっと呑め、もっと呑め──最近は実の長男よりもかわいがるようになった物静かな次男に、大殿は際限なく酒を勧めた。そしてその酔った瞳を盗んで、空広は袂に隠しておいた小瓶に酒をたっぷりと貯めた。大殿がこうなることを計算づくのことだった。下男たちを動かすにはこの貴重な水がよく役に立ってくれるのだ。
「お前は本当に賢い。それに、ほら──見てごらん」
視線の先では、下男たちが懸命に身を屈め、きびきびと注意深く種を播いている。
「動機がどうであれ、こうして彼らの技量も上がる。お前は上手いんだ、人を育てるのも──」
空広はこうして何かを競わせるとき、一番になれなかった者にもささやかな贈り物をするのを忘れなかった。そして、次にはもっと別の──次こそは自分が一番になれるかもしれない、と思わせるような競争を用意した。
畑を耕すのが上手いもの。縄をなうのが上手いもの。力仕事なら誰にも負けないもの。
空広の静かな瞳は、一人ひとりをじっと見つめ、それぞれの長所を最大限に引き出すすべを探していた。
「お前の方が、人の上に立つのは向いているのかもしれないね」
ぽつり、と言った兄に空広は弾かれたように目を向ける。必死で首を振る弟に、兄は寂しそうに笑った。
――兄は疲れているのだ。家に帰れば口も利かない保守的な父との冷戦が待っているし、日々勃発する領民たちの小さな諍いも調停しなくてはならない。だが、この畑が実れば、きっと兄の瞳もまた輝く。そうだ、あの澄んだ水面のように──祈るような気持ちで空広はこの畑を見守り続けていた。
自らも大風の日には必死で風よけを作り、太陽の照り付ける日には水を撒いて……緑の小さな芽が出たその日から、空広と恵照は小さな畑で一喜一憂し、葉が一枚増えるごとに、蕾が一つ付くごとに手を取り合って喜んだ。
そして、ようやく小さな実がなったのだ。それを見つけたときの恵照の喜びようと言ったら無かった。
昨日来たときはまだ青かったが、今日は少しは熟れただろうか……。期待に胸を躍らせながら畑に続く道を進んでいた空広はしかし、息を飲んだ。
畑に、人影がうごめいていた。
薄闇の中で、やわらかく耕された土を念入りに踏み固めながら、男たちが等間隔に立てられていた支柱を抜いてはへし折っていた。
となりで恵照が茫然とした声を上げるのが聞こえた。
そして男たちの足元には、引き抜かれ、踏まれて萎れた緑の苗が横たわっていた。
絶句する兄を横目に、空広は駆け出していた。
猫のように地面を蹴ると、男の一人に強烈な飛び蹴りを食らわせる。
横っ面を蹴り上げられた男は濁った叫びを漏らし、周りの数人を巻き込みながら地面に這いつくばった。男たちの背中を力一杯踏み付けてから、空広は逃げ出そうとした数人にも飛びかかり殴り倒す。そのまま一人の男の襟首を捕まえると、ぎりぎりと絞め上げながら地面に押し付けた。
燃えるような憎悪の瞳を受けて、男が怯えの声を上げる。よく知っているその顔は、恵照の親戚の男だった。
「なぜ……こんなひどいことを……」
茫然と呟く恵照に、男は嘲り声を返した。
「調子に乗っているから悪いんだ! 世が世なら、うちの家だって……」
「民のための作物だったんだぞ! どうして……!」
「新しい作物? 民の飢えを満たす? 随分目立ってくれるじゃないか……! あんただけ頭一つ飛び出る気か⁉ そんなの……たまらなく嫌だね!」
ずるさと、嫉妬と、妬みが同居した目。
大立大殿の二人の兄は早世していた。だが、その血筋までが絶えたわけではない。本来の順を飛び越えて家を継いだ大立大殿と、息子の恵照──その血ゆえに恨みを買うこともまた、多かった。
空広の拳がさらに二つ三つ炸裂したところで、恵照は力なく呟いた。
「もういい、空広……」
獣のように息が上がった弟を、兄は無言で引き剥がす。
何故、と問いかける瞳に恵照は力なく首を振った。
振り向きざまにもう一つ嘲り声を投げてから、男が薄闇に消えて行く。地面に殴り倒されていた男たちもおどおどしながら後に続くのを、二人は立ち尽くして見送った。
彼らは知っているのだ。もう決して、空広が殴りかかってこないことを。
真っ白になるまで握りしめられた空広の拳に、恵照はそっと触れる。
「仕方ない……。ここが僕たちの生きる世界だ……」
二人とてよく分かっていた。小さく狭いミャークの世界。一度禍根を残せば、巡り巡って自分の足を掬われる。
こんな騒ぎがあったところで、次の寄り合いではまた顔を合わすのだ。
助け合いと足の引っ張り合いはいつも裏表だった。あの男だって、いつかの大しけの日に魚を分けてくれたこともあったのだ。
どんな理不尽も飲み込まなくてはならない……それが小さな島で生きるものの宿命なのだと。そんな風に、二人ともよく分かっているはずだった。
「……嫌だね」
小さく呟く兄の声には、背筋を凍らせるような暗い響きがあった。
「僕たちには、逃げ場がない……」
空広の瞳を受けて、恵照は無理に笑ってみせた。
「大丈夫。種はまた手に入れてくる」
──どうやって?
大殿は金目のものは厳重に隠してしまったから、それはもう無理なはずだ。問いかける言葉を、空広は持たない。
代わりに煌めく雄弁な瞳に、恵照は気づかないふりをした。
そんな風にするのは、初めてだった。
少し一人になりたい──そう言って恵照は譲らず、空広は一人屋敷に戻っていた。
この違和感は何だろう、と空広は唇を噛む。出会ったその日から、美しく優しい兄。
もちろん今日の一件はひどかった。今までだって何度も似たようなことがあった。兄はひどく傷ついたはずだ。家には相変わらずの父もいる。気がめいるのだって当然だ──。だが。
薄暗い邸内を進む空広の思考はそこで急に遮られた。
廊下の先の戸がさ、と開いた。そしてそこから姿を現した者の瞳に、空広は射すくめられた。白髪と、皺の寄った肌に似合わないほど鋭く輝く眼の老人。隙の無い物腰と、静かに威圧する空気。
空広はこの老人を知っていた。何度かこの屋敷に来ていた。最初は空広を取り返しに。そしてその後は大立大殿との密談をしに──。
「普佐盛殿」
老人の後に続いて部屋から現れた大立大殿は、空広の姿を認めると破顔して近づいて来た。
「いたか。丁度良かった」
そのままがし、と空広の頭を捕まえると、頭を無理やり下げさせる。
「何をぼさっとしている。お前の祖父御に挨拶せんか」
普佐盛──。空広の実の祖父だった。
上目勝ちに見上げると、祖父は鋭い視線を返してきた。
空広はこの祖父が苦手だった。嫌いと言っても良かった。
まだ空広が父の屋敷にいた頃、この祖父は空広にも弟の天太にも触ったことすらなかった。家族と生活を共にすることはなく、屋敷の離れにこもって書を読んだりしていた。
庭で空広と天太が追いかけっこをしているときなどに、空広は不意にこの老人が見ているのに気付くのだった。
値踏みするような、冷たい瞳。
そのまま何を言うでもなく背を向けるこの男が、幼い空広は恐ろしかった。孫に愛情があるふうでもなかったのに、空広がこの屋敷に住まうようになってから、何度もこの男は姿を現した。
「あれは我が家の大切な後継ぎですから、」
そっ、と柱の影から伺う先で、祖父と大立大殿は対峙していた。
「返していただかなくては困りますな」
その言葉に、幼い空広の心の臓は締め付けられた。恵照から離されてしまう……それだけは嫌だった。
「いやいや、」
大立大殿が朗らかに笑いながらも、絶対に引かないという意思を背中で発散していた。
「聞いた話では、あれはそちらではいないも同然の扱いだったそうではないですか」
ぴ、と引き攣れた空気を大殿の朗らかな声が攪拌する。
「いやいや分かりますぞ、子供を育てるのは大変ですからな。ですから……我が家でそう、しばらく預かりましょう。ええ、落ち着いたら返しますとも」
そんな言葉に、空広は心の底でいつも怯えていたものだ。空広は恐ろしかった。生家にいたときの無力感を思い出させる、この老人の瞳が。
だが、大立大殿は結局空広を家に置き続けたし、何度もやって来た祖父も、もうその話題には興味が無いようだった。代わりに、祖父は遠い昔に別れを告げた生家の物語を運んできた。最近は父と母が少し仲良くなったこと。かつて自分を引き取ってくれたおじが病に倒れたこと……。だがそれは、もはや遥か遠くの物語だった。
──根間の一族と白川の一族は仲が悪い。それももう、無くなるのだろうか──
作り笑いを浮かべた大殿と普佐盛を見ていれば、物事はそんなに簡単ではないことくらいは分かった。
「では例の件、」
大殿の声に、空広は現実に引き戻される。
唇の端を上げて普佐盛が薄い笑みを返す。それは、どこか底冷えのする微笑だった。
見えない暗い靄を切り裂くように、祖父の背中が去って行く。
嫌な予感──そうとしか言いようのない靄が空広の心を覆って行った。
祖父が帰り、しんしんと夜が更けても恵照は帰ってこなかった。
放って置け、と恫喝する大殿を前に、空広は屋敷から出るわけには行かなくなった。背けば、帰って来た兄がどんなに折檻されるか分からない。ようやく大殿が眠りについたのを見計らって、空広は急いた足で漆黒の闇に兄を探しに出かけようとしていた。
だが──。
つんざくような嬌声が空広の耳を射た。
表玄関から聞こえてくる、聞くに堪えない笑い声。その声から酒の匂いまでもが立ち昇ってくるようだった。
空広は顔を引きつらせて床を蹴る。
駈けつけた屋敷の上がり口には、くずおれそうな恵照がいた。
そして……その腕を男が支えていた。親し気に片手を肩に回し、笑みを含んだ瞳を恵照に向けて。
恵照はその男を見つめ返して笑った。どこか淀んだ笑いだった。
「いやだなあ……。僕は一人で帰れるって言ったのに」
ろれつが回らない声に、男は返す。
「お前、立てないほどだったじゃないか」
兄の笑い声が上がった。その声に、聞いたことのない響きが絡み付いていた。
そして男は空広を認めた。
「ああ、あんたが例の弟さんか」
日に焼けた精悍な顔が笑う。意思の強そうな、精悍な目と口元。そして、どこか太陽の匂いがしそうな陽性の笑み。
駆け寄る空広の腕の中に放された恵照は、振り返って男を見上げた。
「イラブに……帰るの?」
潤んだ声に応えるように、男の手が恵照のほどけた髪を馴れ馴れしくかき混ぜた。
「また来るさ」
空広の引き攣れた視線を、男は笑みを含んだ瞳で受け止める。
「兄さんをしっかり見とくんだな」
片手を上げて、男は深い闇に消えて行く。
その後ろ姿を見送りながら、空広は初めて感じた。
──憎悪。
どんな理も吹き飛ばす、その本能的な感情に染まって行くのを。
<第4話に続く>




