[第26話]
<第26話>
ジュゥゴセー紀・中山と呼ばれたリウクー王国。
宮古島の英雄 仲宗根豊見親を中心に、
歴史と幻想が交錯するシリアス琉球史ファンタジー・最新第26話。
*** *** (ストーリー) *** ***
遥かな大海に抱かれし動乱の島・ミャーク。
永劫の青波が寄せ引く汀に、宿命の英雄が生まれ落ちる。
仲宗根豊見親玄雅──
稀代の英傑か、それとも……。
傷持つ心に刃を纏い、人ならぬものと睦む孤高の魂の代償は。
愛憎と血潮に彩られし大海の王の物語、遥かな海の底より蘇る。
あくまでパラレルなミャークの英雄物語として楽しんで頂けましたら幸いです。
古琉球史・古先島史への入り口としても。
不定期更新・気長にお付き合い頂けましたら幸いです。
現在のところ、
第一部(第1-10話):ミャーク編
第二部(第11話以降):王都シュリ編
となっております。
※※※R-15※※※
※無断転載を禁じます※
※「pixiv」様にも重複投稿しています※
※扉絵は [嵐山晶 様] に描いて頂き、ご本人の許可を得て掲載・使用しております※
春が過ぎた。厳しい夏と短い秋、そして冬の北風が行き、また春の南風が訪れた。
再び、実りの季節が巡ってきていた。
揺れる黄金色の稲の光景は、懐かしいイゼナで何度も見たそれと変わらぬようで、確かに違う。
ヒトが、自らの力で得た米。ヒトが、自らの手で得た大地。
やがては刈られる稲穂が紡ぐ終歌に添わせるように、先程から場違いなほどに陽気な歌声が響いていた。
「──『あ・あー この世は 移ーり かぁわぁーり
ほとけー 讃えし 尚泰久 さま
あ・あー
かなしやー お亡ーくなーり
へいわー のくにリーウクー
つづーき ゆくー
あおいー うみつなーぎし
ゆうー きゅう のー くに
あ・あー 今世を 治め なーさるは
ぶゆうー 名高い 尚徳 さま
末に 長くの御代 祝ーいま しょー
嘉例』!
うん、今日もオイラの美声の調子はばっちりだな!
どうよグゥちゃん、この赤犬子さまの新曲の感想は?」
「ああ……なんで声はいいのに、いつもこうなっちまうんですや?
新しい歌を聞いてくれというから、どんなかと思えば。
今のはだめですや。歌詞がいまいちですやし、なんていうか……白々しいですやな?」
相も変わらずのウチマ村の午後、陰り始めた陽の下、今日も変わらずの赤犬子とグラーの立ち話が聞こえてきていた。
「あのなあ、聴衆の皆さんは日々の仕事やら何やらでお疲れなわけ。むっつかしいことなんて、聞きたくねえわけよ。物語歌ってえのは、分かりやすいほどしみるんだよ?」
呆れたようなグラーの声が返す。
「しみる、って何ですや?」
「だからよ。疲れた心と体をどきどきーっとさせたり、わくわくーっとさせたり、『ああ、いいなあ』とか、ぽわっとさせるために歌物語ってのはあるわけ。一服の清涼剤、疲れた時に飲む酒みたいにしみるアレよ。だから、あんまり面倒くさいことは省いた方がいいんだよ」
「それじゃ、子供のおとぎ話か辻芝居ですや。実際の話を題に取るなら、そういうわけにはいかないですや?」
頬でも膨らませたのだろう、しばしの沈黙が落ちる。
「面倒くさいことってのは、抜け落ちていくもんなんだよ。オイラもそっちの方が気分がいいしな。
この赤犬子様は、皆さんの心にしみる、耳に優しい物語を広めて回る使命があるんだから」
「誤解を広めて回るんですや?」
食い下がる声に、犬の声がワンワン被さる。
「なんだよ、おまえまでオイラをいじめるのか。
じゃあいいよ。グゥちゃんが喜びそうなこっちの歌でも歌ってやら。
『──しあわせあふれる 金丸ちゃん
ウチマは 花盛り
生まれた赤ちゃん 茂・ モイちゃん
金丸 良い父さん』」
「ああ、こっちの歌もだめですやな……」
「わーんわん!」
いつもの通りの、一しきりの掛け合いが続いた。
「それにしても……あれから、早いもんですや。金丸さま、一時はすっかりやつれちまったけど、やっぱり忙しくしてるのが良かったんですやな」
「そうだな。まさか旦那、裁縫習って産着まで縫うとは思わなかった」
針で指を刺してばっかりでしたや、とグラーの笑い声が混じる。
「茂さまが産まれて……オイは、大層心配したもんですや」
「けど、無事に育って良かったな。村中もらい乳するのに、オイラまで駆り出されるとは思わなかったけどよ。
あの茂っ子、オイラの恩も忘れて『犬子さん、きょうもおしごとなさらないんですか』とか言いやがるんだぜ?
ったく、あっという間にませちまいやがって」
「とにかく、これで……良かったんですやな。けど、まさかあんなことになるなんて、思わなかったですや……」
ばん、と音がする。赤犬子がグラーの背中を叩くかなにかしたのだろう。
「湿っぽい顔すんなって。誰のせいでもねえよ。物事はいい面を見なくちゃ。な?」
「意外と薄情ですやなあ」
「でなきゃ、旅の歌うたいなんかやってらんねえさ。
まあ、歌の題としてはありきたりだけど、金丸の旦那も子孫繁栄、人並みの幸せ万々歳ってとこだ」
ふ、と沈黙が落ちた。
「そう……なんですやな?」
「なんだよ、ヘンテコな顔しやがって」
乾いた音がした。グラーのつま先が、土塊でも砕いたのだろうか。
「……どっち……に、似たんですやな?」
草だけが、素知らぬ風にさらさらそよいでいた。
「オイは時々思い出すんですや。覚えてますや? オギヤカ様は、この村に来てすぐ、体の具合を悪くしなさった」
おい、と尖った声が飛ぶ。
「あの時……血が大層出たそうですや。だからオイはてっきり、オギヤカ様はあの時に一度……だから、茂さまはあの後の……」
険悪な気配に辺りが揺れた。グラーの胸ぐらを掴まえでもしたのだろう。
赤犬子は、上手く隠しおおせただろうか。いつもの人懐っこい瞳が獰猛な獣のそれに変じたのを、長年のヒトの友人から隠しおおせただろうか。
「知ってるだろ。オイラ、野暮は嫌いだって」
たっぷり数拍の間の後、いくらか和らいだ声が続く。
「金丸の旦那がそれでいいなら、それでいいじゃねえか。
よくあることだろ。オイラは知らねえ。父親が誰だろうが、ヒトだろうが犬だろうが……オイラは、知らねえよ」
「……わんわん」
とりなすような犬の声に、固い空気がとけてゆく。
細身の体がかがんで、何かを摘まみ上げるのが遠くに見えていた。
ふ、と吹く息の音で、それが綿毛をつけた草だと知る。
「草っぱらの花が、どこから飛んできた粉で実をつけたかなんて……そいつは、神さんの領分だな」
今日も変わらずのウチマの村──善王・尚泰久の崩御から数年後のことであった。
遠目にも、グラーは少し老けた。
ヒトは不思議だ。年輪のようにうっすらと体に肉がつき、纏う重さが僅かに、だが確かに変わってゆく。
それにしても、と苦笑いがこみ上げる。
赤犬子と犬は全然変わっていない。
粗忽だなァ、と思ってみても、かの天与の楽器を携えた遊芸人は、そろそろ旅立つ時を迎えているからこそ、気にもしていないのかもしれなかった。新しい歌を集め終え、変わらぬ姿で口笛を吹きながら去ってゆく。
それは、自らも歩んでいたかもしれない道だった。
だが、自分はヒトの世で生きる道を選んだのだ。
最初は一人の男と。次には、一人の女と。
──後悔しているか? 後悔しているか?
足元から、遠くから、村中から沸き上がる小さな声の合唱に、金丸は否と答える。
呼応するように、ざあ、と黄金色の稲が波立った。
いつかそこから来て、いつかそこへ還ってゆくもの。黄金色にそよぐ命の粒──。
別に、立ち聞きするつもりではなかったのだ。
ただ、金丸の一部が二人の青年の足元の稲穂の耳を借りて、声を拾ってきただけ。ただの偶然、たまたま耳に入ってきただけ──そんな臆面もない言い訳にも、この数年で馴染んでいた。
自分は老けただろうか? いや、そうでなければ困る。重ねた年月に見合うよう、ヒトとしての苦労を重ねてきたつもりだった。
確かめるように目元に手をやれば、深いしわの溝に触れた。それが笑い皺であることを金丸は祈る。
「とうさま!」
近づいてくる声が、胸に温かいものを灯した。腕に飛び込んできた小さなものをすかさず抱き上げてやれば、くすぐったそうな笑い声が零れる。
「茂、少し重くなったか?」
「わたし、おもくありません、とうさまのまあるいおなかとはちがいます」
並みの子供たちより言葉が早く、背が高く、ませて、そしてあどけないいきもの。茂──生まれて数年になる、金丸の一人娘だった。
「そんなに駆けて、どうした」
あちこちへ跳ねた髪を撫でつけてやれば、絹のような黒糸がつるつる手から逃げていった。
零れ落ちそうなほど大きな目をして、ふっくらした頬をして──どうして、ヒトの子供というものはこんなに愛らしいものなのだろう。
「とうさま、おそい。じかんですよ」
「あァ……そうだったな」
声の曇りを気取られたくなかった。昔、幼い頃に大層かわいがり、やがて失った百十の姫がそうであったように、自らの内に凝る澱みを僅かでも知られるわけにはいかなかった。
「はやくいってあげて? きっとさみしいですよ?」
「わざわざ知らせに来てくれたのか? そういう優しいところは、誰に似たのかなァ……」
子供特有の深い瞳に目を細めていれば、不意にかわいらしい腹の音が鳴った。こういうところは確かに母親の血だ、と可笑しさがこみ上げる。
「ごはんは? ちゃんと食べたのか?」
「ううん。犬子さんにうたをきかされていたから、ごはんにまにあいませんでした」
「あァ……。赤犬子君は、そういうところがあるからなァ」
童女は困ったように首をかしげると、もじもじとつま先を重ね合わせてみせた。
「あのね……だから、とうさま、おにぎりだしてくださいな?」
「うん?」
娘の頭を、金丸は静かに撫でる。
「まえは、おててくるくるってすると、おにぎりでてきたでしょ? ひとつくださいな?」
「……おにぎりは、厨でもらったらどうだ?」
「いまは、ごはんのじかんじゃないです。おこめはだいじにたべなきゃいけません。わたしだけ、わがままはだめだもの」
茂が産まれてから一度だけ、凶作の年があった。覚えているはずもないから、誰かに聞かされでもしたのだろう。
食事のことに気を配る母親は、茂にはいない。それでも健気に背伸びをする童女に、昔のようににぎりめしを出してやれれば良かった。
「……茂は、面白いことを言うね。
とうさまは、手からおにぎりは出てこないと思うぞ?
夢で見たのかな、そうだ、今日は昼寝もしていないんだろう?」
眉根を寄せる娘から隠すように手を体の後ろに移してみても、老いた指先にぬるい空気が触れるだけだ。
「今年は豊作なんだから、心配ない。後で金丸が言っておくから、三つでも四つでも、もらって食べてきなさい」
うん、とうなずく娘は、背を向け走り出す。
安堵の息を吐こうとした時、不意に小さな背中が振り返った。
「とうさま! おはな、わすれないでね。
グソーのおはな、かあさまにもっていってあげてね」
片手を上げてみせれば、曇りのない笑顔が返ってきた。
自分はそれらしく振舞えただろうか──?
もう、そんな自問自答も止め時だ、と金丸は自らを叱咤する。
何と言っても、今や自分は「父」であり、「ウチマの領主」なのだから。
話は数年前まで遡る。
王・尚泰久の崩御という一大事に、王国はそれなりに揺れた……らしい。正直なところ、その内でどんないざこざがあったのかを金丸は知らない。
かつて全てを預けた相手を失って、あらゆる声は雑音に変じ、視界は色を失い、季節は意味を失い──気づいた時にはなにもかもが終わっていた。
尚泰久の跡を継いだのは、あの八幡の王子だった。
庶子ではあったが、すでに嫡子の王子たちが表舞台から消え、王の生前から側近として手腕を振るっていたことを思えば、順当な扱いではあった。
本当のところ何があったかは分からないにせよ、権力の委譲は、表向きは滞りなく進んでいったそうだ。
だが、そんなあれこれは、金丸が澱んだ目をして凝っているうちに過ぎてゆき、耳元でやいのやいのと騒ぎ立てる声にようやく我に返ってみれば、大層膨らんだオギヤカの腹が目に飛び込んできた。
『旦那! オギちゃんはもうすぐ赤んぼ産むってぇ大仕事が控えてぇのに、旦那がしっかりしないんでどうするんすか。おしめの一枚でも縫ってやるってぇのが甲斐性ってぇもんでしょ?』
『そうですや、金丸さまがそんなだと、オギヤカ様も不安でたまらないですや。 産屋の工事、手伝ってくれますや? それとも、揺り籠でも編んでみますや?』
それもこれも、おかしな青年二人組なりの気遣いだったと今は分かる。始めは言われるままに手を動かしていただけだったが、手をすり傷だらけにしながら蔓を集めて籠を編み、針目の揃わぬ不格好なむつきを積み上げてゆくうちに、実態をもった何かが、ゆっくりと、だが確かに自らの内に築かれて行くのを感じていた。
長いことそっぽを向いていたヒトの生活が、ここに至って向こうから近づいて来たような──そんな感じだった。
おぼつかないなりに黙々と励む様子を、大きな腹をさすりさすりのオギヤカが、意外そうに見つめてきたものだった。
言葉を交わさぬ視線の内に、互いに通じるものを知る。
何かが、溶け始めていた。
天の牛の代わりに、これからは自分が側にいると言った女の不器用な温もりが、分厚い壁の向こうから淡い光を放っていた。
そして、やがて月は満ちた。
大変な難産だった。一睡もせずに付き添っていた金丸は、ついに赤ん坊を抱かされて泣いた。驚くほど小さな手指が、ふあふあ泣く声が、全てのわだかまりを流してしまったらしかった。
気まずく辺りを見渡せば、誰もかれもが笑って祝ってくれていた。オギヤカが一人、焦点の合っていない瞳であらぬ方向を見ていたことなど、すぐに忘れてしまうくらいには高揚していた。
茂──澄んだ、黒い瞳を持つ赤ん坊。
それは、この赤ん坊にまつわる全ての物事が草木のように青々と茂り、露を含んだ花のように幸せが咲き零れることを念じてつけた名だ。
はじめての娘の誕生に、本来なら大層豪華な贈り物が王府から、いや、王から届けられたのだろう。だが、金丸は娘が産まれてからこのかた、一切の贈り物を断っていた。
髪飾りも、帯も着物も、この小さな娘が歩む道に必要なものは、全て自分で買ってやりたい。
そんな風に金丸は思うようになっていた。
だが、つましい隠居生活の身である。遅咲きの父の決意を固めてみても、何分、先立つものがなかった。
数夜、奥歯をこぼれんばかりに食いしばり、ごろごろと布団の中で転げまわった末に、金丸は王府に手紙を書いた。
ほどなく返事が届き、呆気ないほど鷹揚に与えられたのは、ウチマ地頭の役である。
幸いなことに、金丸が広めた米の世話が良かったらしく、米と酒を王府に納めてもまだ余る──そんな土地へと、ウチマの一帯は成長していた。
豊かな土地と、曰くつきの先王の側近をまとめて抱え込める。王府にとっても悪くない話ではあっただろう。内に騒ぐ邪推を押しやって、大きくはないが小さくもない、生活を支えるのに必要かつ十分な枠の中で、金丸は再び誰かの下で働く生活を再開したのであった。
無論、上に立つのはあの八幡の王子、いや、今や尚徳王と呼ばれるようになった若者である。
一度は去ったその場所に、恥を忍んでノコノコと──そんな陰口が聞こえてこないではなかった。
いつか心に刺さった言葉を、金丸は噛みしめる。
『いい年こいた金丸さまは、王府からもらった小遣いで若い女までお買い上げ』──……。
──もう誰からも、後ろ指を指させはしない。
天の牛を失って、金丸はようやくヒトに変わり始めたらしかった。
娘を追うように屋敷に戻れば、門の内の大陸橘の木影で、水桶に差した花が涼やかな光を放っていた。
早いうちに切ってきて、水に放したままにしてあったのを、萎れないように木陰に寄せておいてくれたのだろう。桶の縁に指を引っ掛けて懸命に引っ張る娘の姿が見えるようだった。
花に影を落とす橘を見上げれば、なめらかな木肌の幹は随分太くなっていた。茂が産まれた記念に植えた時には、あんなに細く弱々しかった木の成長を、流れていった時間を金丸はしみじみと思う。
腕の中でくにゃくにゃ頼りなかったのが、あっという間に這うようになり、やがてはむにゃむにゃ喋るようになり……。
母親にじゃれついて、手を握って。そんな素朴な触れ合いは自分には許されていないと、誰に言われるでもなく理解している。茂は、そんな娘だった。
花を受け取る相手は、陽の高いうちはここにはいない。どこか遠くをゆらゆらさまよい、陽が落ちると嫌々戻ってくる。
水桶から見つめる花首と目を合わせていれば、微かな歌声が吹き抜けていった。甘く、確かな苦さを含んだ歌声が、耳の奥で悲しげに震える。
『……──タルミー タル・タル タル タルミー
ああ われらをすてた
われらおとした
なんとあわれな タル・タルミー……──』
歌声から逃げるように花首を掴んで、引き上げる。
花にまで、責められたくなかった。
「気分はどうだ」
薄暗い部屋に満ちるよどみにも、慣れっこになっていた。
目の端に飛んできた羽虫を払えば、梁から吊り下げられた草束に手が当たり、かさ、と音を立てた。グラーが巨体を屈めて摘んでくる香草の香りでは到底ごまかしようのない、乾いた酒の匂いが薄く鼻をついた。
「……来てくださったの? おはよう……いえ、おそよう、ですわね」
ごろりと転がす体の奥から、おかしな笑い声が溢れ出る。
「起きなくていい。今、そっちに行くから」
ほ、ほ、ほ、と調子はずれの笑い声が響いていた。
「そういうわけには行きませんわ。私、ウチマの金丸さまの妻なのですもの。領主の妻が──」
闇をかき分けるようによろめき出た影が、数歩を進める。
「だらしない格好で、夫を迎えるわけにはいきませんことよ」
酒焼けした声と共に、鈍重な体が腕の中に倒れ込んできた。
「ほ、ほ、ほ。こんな私でも、まだ抱きとめてくださるの? 私、糸の切れたお人形ですの。こんなのと一緒では、金丸さままで笑いものになってしまいますことよ。
笑い笑われ、お似合い夫婦……さあ、笑われる前に二人で笑ってやるといたしましょう。
ほ、ほ、ほ……」
媚と不遜がまだらになった瞳を避けて、重い体を布団に戻してやれば、老いた体の節々が痛んだ。
「今日こそは、来てくださらないと思っていました。
こんなつまらぬ、こんなみじめなオギ・オギヤカ──の元に」
「……来るも来ないも、ここは金丸たちの家じゃないか」
酒臭い息をよけるようにして、金丸は横臥する体の足元へと移る。
「無駄ですわ。どんなにしたって、それは無駄ですことよ」
「そんなの、わからないじゃないか」
目を落とせば、敷布に投げ出された脛に無数の血の管が這っていた。むくんで青白いそれを、しけった足載せ布団にのせてやり、いつもの通りに揉み始める。
肌をさすり、指を一本一本回してほぐし、かかとを握って、離して──そんな単調な動作を続けても、冷え切った肌はなかなか温まらず、おかしな弾力に覆われた皮膚の感触があるばかりだった。
「金丸さま、役にも立たないおやさしさは結構ですのよ。私、そういうの大きらい。
それより、お酒を出してくださいな。触れるなら、お酒の一杯も出してくださるのが、男さんの役目でしてよ」
虫のように体を丸めたオギヤカの指が、ゆらゆら伸びてくる。爛れた媚態のはずなのに、淡くほどけた唇に、傾げた白い首に俗な色香がこびりついていた。
「いじわるさん。私、拗ねてしまいますことよ?
ねえ、さっき、タルミーとお話ししていましたのよ。でも、金丸さまが来たせいで、お話が途切れてしまいました。
あの人が生きていたら、私たちの運命は違っていたかしら?
私、まだまだ言ってやりたいことがたくさんありましたのに、あの人、お酒を飲んでいないと出てきてくれませんの。
だから、ねえ、お酒を出してくださいな……」
ろれつの回らぬ声を聞きながら、節くれ立った手指をオギヤカの足首へと移す。かつてはくびれた足首の下に愛らしく突き出ていた骨も、今はむくんだ肉に呑み込まれて、見えない。
オギヤカ──随分変わってしまったようで、少しも変わらない、金丸の「妻」。
見ていないところで、召使たちから酒をせびり取っては、あっという間に干してしまう。その後も、酔いが覚めそうになるたびにちびり、ちびりと酒を舐め……水面に顔を上げるのを恐れる魚のように、酔うために酔い続ける。
もちろん、召使たちにきつく言い含め、もう呑んでくれるなと、なだめてすかしてを繰り返した。それでも酒が切れると、罵詈雑言からの大暴れが始まる。
縊れてやる。誰のせいでこうなったと──……。
止めどない怨嗟に、結局折れる羽目になる。
止めても聞かない、聞くはずがない。そんなところは、いつまでも変わらなかった。
「珍しい色の後世花があったから、持ってきた。ほら……。少しは気持ちが晴れるかと思って」
花を差し出すのにかこつけて視線を移せば、敷きっぱなしの布団の下から、いつかくれてやった絵巻物がすっかり変色した薄い層になってはみ出しているのが目に入った。
絵の中の貴人たちが、無関心な瞳で人世のつづれを嗤っている。
だが──それは所詮絵だ。
絵の中のミンの、ヤマトの、テュウセンの栄華が何だというのだ。
稲穂に囲まれたウチマの屋敷。少しづつ増やした牛と馬。グラーが建ててくれた小屋。畑と、そよぐ小さな花々と、金丸とオギヤカと茂──。
「昔みたいに、髪を結って挿せばいい。派手じゃないけど、きれいな花だ」
オギヤカは、しばらく気のない様子で花首を顔に押し当てていた。その面差しが、それこそ絵の中に凝る亡霊のようで背筋が凍る。
やがて放り出されて弧を描く花影と共に、笑い声が響いた。
「ほ、ほ、ほ。確かに珍しい色ですわね。ぼんやり紅色、淡紅色の後世花。大陸に咲く海棠の花というものも、きっとこんな色なのでしょう。
ね、金丸さま。かの有名な、酔夢にたゆたう、傾国の美女の物語をご存じでしょう? 私にも、あの海棠の貴妃の面影が何分の一でもありまして? 年老いた帝王の傍らで、権勢を誇ったというお妃さまの」
声が、唐突に消え入る。
「ほ、ほ、ほ……。困らせるつもりはありませんでしたのよ。白粉で塗り固めてようやく人並みの私ですもの。海棠の花と、膨れた酒袋。いつの世も、池のどん亀は、月の嫦娥を見上げて歯ぎしりするもの」
化粧をすることを忘れて久しい顔に咲く乾いた唇から、哀しみが笑いに凝って零れてゆく。
オギヤカ──この数年で、物語と現実のあわい、今いる場所とそうでないどこかを行き来するようになった女。いつかその隙間にこの女が呑まれてしまうことを、金丸は恐れる。
「あの花が咲く木、茂が見つけてきたんだ。それで、金丸が切ってきた。深い藪だったから、大層虫に噛まれたよ」
「そうですの」
背けた顔の表情は、見えない。
「茂は、いい子に育っている。いつもおまえのことを気にしているよ」
「そう。やさしいこと」
「……たまには、顔を見てやっても、」
「金丸さま!」
引き攣れた空気が、肌を刺した。
「これ以上何も、見たくも、聞きたくもありませんことよ……!」
二つの空洞の奥で蛆の腹のように光る白目から逃れたくて、金丸は、再び分厚い皮膚に指を沈める動作に戻る。
むくんだ足指に並ぶ爪だけが、今も子供のそれのように小さかった。
「……大きな声を出して、私、いけませんことね。すっかり悲しい気持ちになってしまいました。お酒をくださいな」
「金丸は、もう酒は出せないんだ」
「うそ」
「酒は、ヒトが育てた米で、ヒトが醸して作る。そういうものなんだ。もう、金丸が勝手に出してやるわけにはいかないよ」
見つめる瞳が弾力を失い、睫毛が僅かに震えた。その瞳に宿る戸惑いの訳を、金丸は知らない。
「うそつき! いくらでもお酒を出してくれるって言ったじゃない……!」
揺らぐ声と共に、手の中の足首が暴れ出す。
「うそつき! また踊れるようになるって言ったじゃない!」
月色にぬめる足爪が顎をかすめ、どし、と薄闇に沈んでいった。
自らの足先をねめつけたオギヤカは、やにわに両手を床に突っ張って身を起こし、掴みかかってきた。
「やめないか!」
軽く押し返したつもりの腕はしかし、よろめく胴に触れ、支えを折られたように体が崩れて落ちた。
「オギヤカ……」
助け起こす手を、獣の咆哮が振り払う。
「うそつき、うそつき……みんなうそつき! 損をするのは、いつも私……私にはもう、何も残っていない!」
大粒の涙が後からあとからこぼれてゆく。
「また……踊れるようになるって言ったじゃない!」
かつて夢幻の舞の中から立ち現れた蝶、綺羅の鱗粉を撒き散らして踊った舞姫──。
オギヤカは、踊りを失っていた。
茂の出産は、命を失う瀬戸際の、大変な難産だった。
もう、出産に耐えられるような体ではないのだと──それくらい、若い体はくたびれていたのだと産婆は言った。
産婆の手を押しいただいて頭を下げ、真っ青な顔で際限なく湯を沸かし……やっと産まれた子供と引き替えに、オギヤカは足の自由を失った。
立つくらいはできる。だが、数歩を進めばよろめいて、誰かの支えなしではそれ以上は行けず、倒れ込み──産婆が一か八かで使った大陸の薬草が、望んだものと望まないもの、両方の結果を運んできたのだった。
『私、子供が産まれたら、また踊りますわ。他にも見てもらいたい踊りがたくさんありますの。世界中から集めた踊りですのよ。
ああ、あの素敵な鈴の音、太鼓の音で踊りたい!
そう、今度は金丸さまにも踊りを教えてあげますわ。そして私たち、みんなで楽しく、夜が明けるまで踊りつづけますのよ』
今思えば、大きな腹をさするオギヤカを囲んで戯れ言を言い合っていた短い時間が、一番幸せだったのかもしれない。
じゃあ、旦那はもうすこし痩せなきゃなあ──そうですや。オイのサンシンに合わせて、今から練習しておくですや──わんわんわん──……。
全てはもはや、遠い。
最初の一年、屋敷の中で伝い歩きをするオギヤカに、金丸は必死に付き添った。だが、腕利きの薬師に、まじない師に頼りを繰り返しても、動かぬ足は冷たくむくれてゆくばかり。
ある日、野菜を届けにやってきた村の女たちが、玄関先でひっくり返るオギヤカを見た。運悪く、転んだ拍子に額を柱の角にぶつけるのを見て、一人が不用意な笑いを漏らした。
そして、それからオギヤカが人前に出ることはなかった。
「どうして? なぜ私が、私だけがこんなことに? 下賤の女にまで笑われて。子供なんて欲しくなかった。あれのせいで何もかも失って──私は一体、何でしたの?
宮廷で、踊る私は拍手を浴びた。誰もかれも私にくぎ付けだった。
分かりまして?きらきら光る宝石、首筋に擦り込んだ香油、あの日のために仕立てた七色の裳の美しさ。
音色──篝火──……。
私にかなう者などいなかった。喝采が、私のお酒だった。
踊れない私など、もう何でもない。私にあるのは、あったのは、踊りと……それから……? 私は……私は……」
呻き、体をよじり、突っ伏し、そして、オギヤカはやにわに自らの手首を掴んだ。揺らめく淡い光が、それが何であるかを告げていた。
二人が会ったその時から、オギヤカの手首で揺れ続けていた真珠の金鎖──……。
華奢な鎖をむしり取ったオギヤカは、金丸の顔面目がけて力一杯投げつけてきた。
ぼんやり光る軌跡は、酒の仕業であらぬ方向へ落ちてゆき、やがて、しゃら、と空しい音をたてて落ちた。
薄闇で光る、飴色真珠。霞んだ光の黄金色。
同じものを見つめていた二人の沈黙を破ったのは、慟哭だった。子供のように床に突っ伏して、オギヤカは、泣いた。
「オギヤカ……」
背中をさすろうとした手は、乱暴に振り払われた。やがて飛んできた平手が、顔のあちこちを叩いた。
「あんなもの……あんなもの! もう、何の意味もないことですわ!」
泣き濡れた顔を上げたオギヤカは、今度は辺りに散らばっていたありとあらゆるものを投げつけてきた。
いつか贈ってやった夜光貝の髪飾り、黒木細工の耳飾りを収めた銀の小箱、細かな刺繍で飾った絹の部屋履き──……。やがて投げつけるものがなくなると、オギヤカは堆積していた絵巻の層を引っ掴み、一塊に押し固めてぶつけてきた。
顔面に直撃したそれにも耐え、髪をむしらんばかりに掴んでくる指に耐え、やがて投げ出されてきた体の重みにも、金丸はひたすらに耐えた。
金丸の着物の胸を掴んだオギヤカは、しばしの後にすすり泣き始めた。童女のような泣き声を聞きながら、金丸は静かに背をさする。
「私にはもう、何もない。踊れない。化粧もしないで、むくんで……」
もっと、ヒトの言葉が上手ければと金丸は思う。
いくらでも握り飯をこさえてやる。綺麗な花だって、どんなに深い藪の中からだろうが、どんなに荒い崖からだろうが摘んできてやる──。そんな陳腐な羅列すら、上手い形を結ばない。
「……おまえは、金丸の大切なオギヤカだ」
緩慢な沈黙の中で、腕の中の女に絡みつく空気が、僅かに変わったようだった。
「金丸さまは、どうしてそんなにお優しいのかしら」
やわらかな声に、刃の鋭さが隠されているのはなぜだろう。
「こうなったのは、全部金丸たちのせいだから」
「……たち?」
「金丸と──ニウのせいだから」
全てを失った金丸を満たし、金丸をヒトに近づけてくれた女。
始まりは奇妙な茶番だったとしても、今ここにあるのは、ありふれた喧嘩と和解、よくあるヒトの夫婦の風景なのだと信じたかった。
「酒はもう出してやれないけれど……代わりに欲しいものは、なんでも手に入れてやるから」
僅かに興味を引かれた様子に、言葉が勢いづく。
「金丸は、都に行くんだ」
「……シュリの都へ?」
「ああ。用があると、王に呼ばれてる。面倒だけど、もう金丸も役職持ちなんだから行ってやらなきゃ。行商の小間物屋が持ってくるものなんか、もう飽きただろう?
用事が済んだら、都でなんでも手に入れてきてやる。おまえの心が晴れるような、珍しくてきれいなものを。
琥珀の目をはめ込んだべっ甲の夜鳴鳥はどうだ? それとも、瑠璃の水鉢の中で泳ぐ、永遠に歌い続ける七色の魚は?」
吐息が聞こえた。青白い拳が、膝の上で固く握りしめられている。
「本当に……おやさしいのですね」
唇に苦笑いが広がってゆく。ほの暗い瞳が、打ち捨てられた淡紅色の後世花の首を見つめていた。
「金丸さまが……そんな風でなければよかった」
「オギヤカ……?」
「ね、金丸さま。私、お願いがありますの」
愛らしく首を傾げるオギヤカは、何も変わっていない。いや──、
「私も、一緒に連れて行ってくださいな。シュリの都へ」
何も変わっていなのだと、信じたいだけなのかもしれなかった。
「そんなん、どだい無理っすよ! 旦那も分かってるっしょ? あんな状態で連れてったら、オギちゃん、都に着く前にふらふら川に転がり落ちるか、藪に頭から突っ込むかして、無事じゃあいられないっすよ!」
出発まで、日がなかった。
オギヤカも連れて行く、と聞いた赤犬子とグラーは悲鳴を上げた。男三人が顔を突き合わせる庭の縁、橘の木が夕暮れにさわやかな香りを放っている。
「馬に乗せて、金丸が引いて行くから」
縁に巨体を縮めるグラーも、途方にくれたように首を振る。
「無理ですや。ただでさえ金丸さま、ご自分の腰痛だってひどいってのに。オギヤカ様は支えなしじゃあ、歩くのもままならないんですや?」
「じゃあ、グラーも来ればいい。金丸は約束した。もう何年も、自分から何かしたいなんて言ったことなかったんだ」
「旦那!」
「これ以上、オギヤカをがっかりさせたくない」
存外の頑固さに、眉を八の字にした赤犬子が呟く。
「旦那、こいつはうまくねえ。ロクなことにならねえよ。分かってるっしょ? オイラたちは……気を付けなきゃなんねえのに」
「わんわん……」
赤犬子にも、犬にも口を出されたくなかった。そう、これは金丸とオギヤカの問題、ヒトの夫婦の問題のはずではないか。
険悪な沈黙に、グラーのもっともな言葉が割って入る。
「茂さまはどうするんですや」
「連れて行く。いい機会だから、シュリの都を見せてやる」
「無理ですや。あんなちっちゃな子、雑な金丸さまのこと、すぐに迷子にしちまいますや」
あまりの物言いに金丸が目を剥こうとした時──懐かしい声がした。
「ほ、ほ、ほ……。相変わらずおかしなこと。犬子ちゃんもグラーもワンちゃんも。それに金丸さまも。
私、しかつめらしいお顔は大きらい。笑ったほうが楽しくてよ。ねえ、笑ってくださいな」
金丸の驚きを、優美な瞳が受け流す。
縁を見下ろすようにして、オギヤカが立っていた。
さっき話してから幾何かも経っていないのに、艶やかに化粧をして、髪を結って着物を整えて──ああして流した涙など夢だったかのように、体いっぱいを使って堂々とした光を放っていた。
「オギヤカ、その足……」
「そんなに驚いた顔をなさらないで。私、爪が割れるまでつま先立ちもしましたし、腱が切れてもくるくる回ってみせました。
こうして立っているくらい、わけもないこと」
それでも暗示の隙をつかれてよめいたオギヤカはしかし、差し出す男たちの腕を振り払った。
指が真っ白になるまで柱を掴み、虚空をねめつける瞳が暗い熱を帯びている。
「私は行きます。行ってみせます、シュリの都に……。金丸さま、よろしいですわね?」
否とも返せるはずもない。頷く姿を認めたオギヤカは、高らかに発した。この数年の悪夢を払うような、怖いくらいにろうたけた、そして乾いて割れてしまいそうな声だった。
「さあさあ、参りましょう。ウチマ金丸と、その妻オギヤカの都上り。明るく華やかに、歌って踊って、楽しく堂々と参りましょう──!」
「──『そうして、人の父、人の女の夫となった黄金の童子・金丸は、蝶の舞姫と共にシュリの都目指して旅立ったのでした。お供は犬と赤犬子とグラーです。
でも、年老いた金丸の腰には、かつて出すこと自在であったおにぎりは一つも入っておりません。
目指すシュリのお城には、異国の富を信仰を、そして若さをこん棒のようにかまえた美しい鬼、八幡の王様が待っています。
ああ、金丸の運命やいかに。
ああ、金丸はこれから、どうなってしまうのでしょう』……」
頬に、生暖かいものが落ちた。
湿ったにおい。ぬるい水が肌を伝い、落ちてゆく感触──。
重く水を含んだ空気を吸い、舌の上で転がし吐けば、熱に爛れた肺臓がふいごのように熱い息を吐き出した。
割れたすごろく板。燃え上がった幻想の城。そして──……。
「随分長々と聞かせて、いや、見せてくれたものだな」
こうして横たわる場所を、玄雅はよく知っていた。背中に押し付けられた岩肌と、絶え間なく落ち続ける雫、そして、闇。
ここは、窟だ。死と生が、夢と現が交わる場所だ。
「やっと目を覚ましてくれたのね。私の、棺の中の宝もの。
私の大切な、ミャークの獅子……」
絡みつく不吉な声を、もちろん玄雅は知っている。
落ちかかる髪を掴んで乱暴に引き寄せれば、香りなどあるはずもない後世花が雄弁に薫った。
互いの吐息が触れるすぐそこで、死者たちの女王が笑っていた。
<第二十七話に続く>




