[第25話]
<第25話>
ジュゥゴセー紀・中山と呼ばれたリウクー王国。
宮古島の英雄 仲宗根豊見親を中心に、
歴史と幻想が交錯するシリアス琉球史ファンタジー・最新第25話。
別離を経て空虚に陥る金丸の前に、永遠の舞姫が現れる。
謎めく瞳が告げる「預かりもの」とは――。
*** *** (ストーリー) *** ***
遥かな大海に抱かれし動乱の島・ミャーク。
永劫の青波が寄せ引く汀に、宿命の英雄が生まれ落ちる。
仲宗根豊見親 玄雅──
稀代の英傑か、それとも……。
傷持つ心に刃を纏い、人ならぬものと睦む孤高の魂の代償は。
愛憎と血潮に彩られし大海の王の物語、遥かな海の底より蘇る。
あくまでパラレルなミャークの英雄物語として楽しんで頂けましたら幸いです。
古琉球史・古先島史への入り口としても。
不定期更新・気長にお付き合い頂けましたら幸いです。
現在のところ、
第一部(第1-10話):ミャーク編
第二部(第11話以降):王都シュリ編
となっております。
※※※R-15※※※
※無断転載を禁じます※
※「pixiv」様にも重複投稿しています※
※扉絵は [嵐山晶 様] に描いて頂き、ご本人の許可を得て掲載・使用しております※
薄衣を隔てて、熱い肌が脈打っていた。
「預かりもの……ォ?」
「私には、運命の光が見えましてよ」
「こら! 本当にいい加減にしろ!」
引き剥がそうとする安里の頬に、パチ、と小気味よい音が弾ける。
「邪魔」
てらてら光る安里の額に汗粒が伝っては、皺の溝に呑み込まれてゆくのが見えていた。
「ねえ金丸さま。あなたは、私の中に灯る運命の光が見えまして?」
涼やかな声に引き戻されて、思い出したように息を吸う。それくらいには動揺していたらしかった。
「金丸さま、申し訳ない、こんなつもりでは!」
焦りのあまりだろう、里の訛りが濃くなった悲鳴を涼やかな声が遮る。
「私には、孤独が瞬く光も見えましてよ。ほら……」
頬に触れた指の感触に思わず息を飲む。いつか知っていたそれとは違う、女に特有の水っぽくて柔らかく、しつこい感触の指だった。
吸い込まれそうな目をしていた。気だるさをまとった重い瞼と、濃い睫毛と──……、
不意に弾けた「きゃあ」の悲鳴と、押し付けられた心地よい重さに金丸の胡乱な思考は中断する。目をぐるりと回せば、鼻孔をくすぐる若い香りと、顔に触れる髪の感触と……。じんわりと理解したところによれば、腹にのしかかっていた娘が体を投げ出し、強引に金丸の胴を掴んでくるり、と身をよじり……つまりは、傍目には娘が押し倒される形で二人は床に倒れ込んでいたのであった。あっという間の早業であった。
「意外と強引ですこと!」
絶句する金丸をよそに、背後の酔客が温まった歓声に揺れる。
「は……はなせェ!」
手足をばたつかせて身をもぎ離せば、安里はぽかん、と立ちつくし、その肩越しではグラーが頭を掻きかき出て行こうとしていた。
「……や、やい!」
「いやあ」だか「やあ」だかのはっきりしない声を残して、大きな背中がのっそり去ってゆく。その反対側では、あきれ顔の赤犬子が酔客の襟を雑に掴んでは追い立てていた。
「あー、ほらほら、散った散った。はいはい、そこで突っ立ってる安里の旦那もだよ。オイラ、野暮ってぇのは好かねえんだ」
その声を合図に、赤犬子の犬が安里の着物の裾にぱくり、と噛みつく。
「おいっ、何をするやめろ! 着物に穴が……! 私は着いたばかりだぞ、私は客だぞ! おいこら、離せっ」
ずるずると犬に引っぱられてゆく安里の声が、三々五々に散ってゆく酔客たちの落胆の声が、片耳からもう片耳へと吹き抜けてゆく。
「やい、金丸を置いていくな! や、やい!」
安里を引きずってゆく犬が「くうん」と鳴いて振り返った。その深い色の瞳に、髪の毛の付け根やら、指と指の間の水かきの跡やらの小さな部位が得体の知れない騒めきに波立つ。
犬が『いいにおいの娘だね』と言った気がした。
だが、何かを諫めるような柔い指が、それ以上の思考を押しとどめていた。
「私には、あなたの孤独が歌っているのが聞こえましてよ。一人はかなしい、一人は寒い……」
煮え立つ脳裏で軽薄な夜鳥が舞っていた。そして、揺蕩う酒香が思考を止め、雄弁な闇夜の暗幕が理性の燈を吹き消した。
夜はあっという間に過ぎた。
気ぜわしい朝の鳥の合唱を聞きながら、金丸は石と化して布団の脇に固まっていた。見つめる先では、枕の上に両手を投げ出した娘が寝息を立てている。
朝日が、ちりちりと頬を焼いていた。
──さっぱり、分からない……。
こういう時に、思考というものは仕事をしない。宿酔に傷む頭を抱えてみても、それらしい言い訳をもっともらしく繰り返してみせるだけである。
金丸の来た道に女がいなかったわけではない。
むしろイゼナの島では金丸は女たちの一種の愛玩物であったし、その後の旅の道すがらでも、袖を引く女が途切れることはなかった。ただ、あの日あの一人に出会ったその瞬間から、他の全てが消えてしまっただけ──……。自ら焼き落としたはずの橋の残煙が、ひりひりと染みる。
不意に、娘がすっきりと目を開いた。
「あら、もう起きていらしたの? いい朝ですこと」
あけっぴろげな、おおらかな笑顔だった。
「私、すっかりお腹が空いてしまいました。ぐうぐう鳴りそう。このお屋敷の朝ごはんは何ですかしら?」
猫のしなやかさで伸びをする体の線に、薄い肌着の布地が伝っている。視線を楽しむように着物を整え、髪を纏めてゆく娘の手首には、昨夜は気づきもしなかった細い鎖が留めてあり、その先端で飴色の真珠が一粒、艶めかしく揺れていた。
こうして朝日の中で見てみれば、肌の張りなどは間違いなく年若い者のそれなのに、ざっくり着物を着ける仕草などは世慣れた成女のようでもあり、どこか均衡が取れていない感じの女だった。
「あまり見ないでくださいます? 恥ずかしい」
全く恥ずかしがってもいなさそうな声と共に、すい、と指が伸びてきた。
「おぐし、乱れてしまいましたわね」
老境の男には似つかわしくない初心な戸惑いを愉しむように、地肌に、髪に指を添わせた娘は笑った。
娘の堂々とした態度は朝餉の席でも変わらず、当然のように金丸の横に座してくつろぐ姿に、昨夜の深酒で目をぼやりと腫らした赤犬子とグラーの方が所在なさげに尻をもぞもぞさせていた。
「ええ……と、田舎なもんでその、お口に合いましたですや?」
相手は昨晩、何の前触れもなく現れた小娘である。それでも、大男のグラーをして自然と頭を下げさせてしまうような──強いて言えば気品のようなものが娘にはあった。食後の茶に濡れた唇が微かに広がる。
「悪くなかったわ。ね、こちらのお茶はミンの国のものでしょう?
この香り、私、気に入りましてよ。もう一杯注いでくださるかしら」
茶碗を差し出す残りの手が、傍らに寝そべる犬の背を撫でている。「くうん」と満足げな声を出す犬の横では、変な顔をした赤犬子が無言でサンシンを弄っていた。
──とーん、ぺーん……。
さわやかな朝の空気に混じる音色が、ひたすらに気まずい。
「……おまえ、いつまでいるのォ?」
膳の汁椀の底を見つめていた金丸は、ようやくそれだけを絞り出す。椀の底に張り付いた菜っ葉の切れ端に意識を留めていないと、どうにかなってしまいそうだった。
「いつまで? ずっとですけれど?」
「寝言は大概に、」
「まさか、責任を取ってくださらないおつもり? 覚えていないとは言わせませんけれど?」
心底驚いたような声に、赤犬子とグラーがむっつりと俯く。問い詰めようにも、事の発端の安里大親は朝の遅い遊び人の常でまだいびきをかいているらしかった。
「小娘ェ……何が望みだ……」
不穏なうねりが渦巻くのを感じたものか、場違いに明るい声があわてて割り込んできた。
「さーあ、旦那! こうなっちまったらしょうがねえや。さあさ、もう腹、括りましょうよ」
「いいか赤犬子君、金丸は!」
「やーやーやー、人生ってえのはね、色んなことがあるもんす。何かの拍子に、そういうことはあるもんなんすよ。オイラはちゃーんと分かってますからね」
「いいか、だから……!」
そこで赤犬子は大仰なため息をついてみせた。
「あのねえ旦那。あんな、みーんな集まってる中で娘一人泊めちまったんだ。今更何言ったって、世間様は聞いてくれやしませんよ?」
「じゃあ、なんで昨日のうちに止めてくれなかった!」
「だってねえ、旦那。あんな夜更けに娘っ子一人、屋敷の外に放り出せば良かったってぇんですか? そいつは寝覚めが良くねえや。でしょ?」
金丸はぐう、と黙る。
「ほ、ほ、ほ……。その男さんの言う通りですことよ。あのまま外に出されていたら私、屋敷から群れ出た酔っぱらいに喰い荒らされていたでしょうよ。
でも、一度は王様のお側にお仕えになった金丸さまですもの。女一人を放り出すなんて王名を汚すようなこと、勿論なさるはずはありませんものね」
奥歯をぎりりと噛みしめれば、赤犬子とグラーと犬があきらめろ、と言いたげな顔で首を縦に振っていた。
食いしばった歯の間から、金丸はようやく呻きを押し出す。
「……おまえ、名前はァ?」
娘はもう一度、ころころと笑った。
「そんなもの、必要? あんまり意味のあることには思えませんわね」
「からかってるのか」
「でも──そうですわね。必要なのであればあの夜の思い出に、ウチマに下りし伽の蝶、甘き夜の香──おぎやか……オギヤカとでも」
瞬時に上気した頬をごまかすように立ち上がれば、なだめるような「わんわん!」の鳴き声と、それに続くは二人の若者の深いため息。
こうして、ウチマの屋敷にもう一人住人が増えたのだった。
さて、件のオギヤカが加わってからと言うもの、歌サンシンの音色に満ちる金丸屋敷は一段と賑やかになった。それというのも、オギヤカと金丸が繰り広げる日がなの口論のせいである。
「金丸さまがうるさいから、今日は農婦の着物を借りてきましてよ。なんてごわごわしていること。似合いまして?」
屋敷の入り口で草履を結わえていれば、降ってくるのは粗末な着物に身を包んだオギヤカの弾んだ声である。
いかにも似合わない粗い野良着から、張りのある若い手足が飛び出している。おまけに、頭の天辺には庭から千切ってきたらしい萎れかけの後生花がポン、とぞんざいに差してあり、まるでおかしな様子だった。
「着せ替え遊びなら一人でやってろ。仕事の邪魔だ」
「照れ屋さん。二人の方が楽しくてよ」
不快の視線を無視して縁から降りようとした娘は、慣れぬ着物に足をもつれさせたものか、不意によろめく。
は、と息を飲めばしかし、その体は固い土間に転がる前に金丸の腕に支えられているのだった。
「本当はおやさしいって、私、ちゃんと知っていましてよ」
指に食い込むふわふわした感触に、金丸の眉間の皺は深くなってゆくばかりである。借り物の粗末な着物などでは到底ごまかしようのない、富の果汁をたっぷり吸って育った体だった。
「ついてくるな。屋敷で犬か赤犬子君と遊んでろ。迷惑だ」
「迷惑? 迷惑って、何が?」
言い合っていないときは、もはやおなじみとなった刺々しい沈黙が落ちる。
「……何かあったら、迷惑だ」
「まあ素敵! 心配してくださるなんてうれしいこと!」
金丸の頬が若干こけたのは、日課となった野良仕事のせいだけではなかったろう。最初の頃こそ不慣れな暮らしが祟ったのか、幾日か伏せっていたこともあったオギヤカだったが、すぐに農村の暮らしに馴染んだこの娘はよく笑い──そして、全く話が通じなかった。
むす、と無言で水田に向かう金丸に、ころころ笑うオギヤカがついてくる。
「いやあ金丸さま、うらやましいことですなあ!」
近くまでやって来た村人たちの群れの中から、朗らかな笑い声がいくつも上がった。
小さなウチマの村のことである。もはや老年に差し掛かった金丸と、はちきれんばかりの若い娘──このちぐはぐな男女の噂はあっという間に村中に行き渡り、新しい話題に餓えていた村人にいくばくかの潤いをもたらした。そうして、この「夫婦」の存在は村の公然の事実、わざわざ言い立てることもない日常の一部に同化してしまったのである。
こちらを見やって笑う村人たちの顔に、やけに安心したような、「やっぱり金丸さまもねえ」などと言いたげなあけすけな表情が浮かんでいるのが、とかく金丸の神経を逆なでした。
加えて、オギヤカの態度である。なにせ、美姫などひしめく貴人の群れに飽きるほど見てきた金丸である。顔かたちこそ整ってはいるものの、そこまで美しいというわけではないのだ。
だが、おとがいから首筋にかけての柔らかそうな部分をさりげなく見せてみる様子やら、瑞々しい唇をつい、とすぼめてみせる具合やら……仕草に散りばめられた媚態が、甘い声に滲む自信が極上の胡粉と化してからだを覆い、凡庸な容姿を絶世の美女に変える──そういう種類の女だった。
──なんてがきだろう!
金丸はそんな悪態を何度心中で吐いたか知れない。村人達の羨望の眼差しをゆったりと受け流して微笑む小娘の様子に、不機嫌な嫌味を一つ二つ、投げてみたこともあるのだ。
『あら。でも金丸さまも、私にこうしていて欲しいのではありませんこと?』
若い瞳はただ、奇妙な艶を帯びて煌めいた。
『男さんは、つまらぬ木偶より綺麗な飾りを連れて歩くのがお好きでしょう? 私は、お望みの通りにしているだけ』
黙り込む金丸に、『何を変な顔をしていらっしゃるの?』とオギヤカは笑った。蝶々にも、蛾にも似た女だった。
青草がまばらに生えたあぜ道で、どちらからともなく足が止まる。
「さあ、田んぼのお仕事、がんばりましょう。私、雑草だって抜きますし、虫だってプチプチ、ブチブチ、いくらでも潰しますことよ。この農婦の着物なら、いくら汚してもかまいませんもの。ね?」
水田のぬかるみに入ろうと裾をからげたオギヤカの、つんつるてんの着物の様子に、金丸は喉のすぐそこまでこみ上げていた言葉を呑み込む。今までも上等の着物を杭に引っ掛けて裂いてしまったかと思えば、足をぬかるみにとられて水田の真ん中で大の字に転んでみたり。そしてその一切において、オギヤカは金丸の助言を聞くことはなかった。もちろん、今回も何を言っても聞きはしないだろう。
「ふふん、ふんふん……」
水田に降りた娘が、いつもの奇妙に明るい歌を喉の奥で転がしながら腰をかがめている。
オギヤカは、変わっていた。転んで笑い、照り付ける日差しに肌をすりむけさせて笑い、嫌な虫が足に貼りついたのを見て笑い転げる。
そんな様子に、正直どこかおかしいのではないか、と思わないでもなかった。
だが、この娘について考えることは他にいくらでもあった。
この奔放な娘の「来襲」にウチマの屋敷は一時しっちゃかめっちゃかの大混乱に陥り、気づけば安里大親は忽然と消えていた。
『いや、グラーが“おもてなしもしませんで……”なんて言って酒をひと壺渡したら、安里の旦那、そいつを鞍に括りつけて逃げるように帰っていったっす。
あー、何つってたかなあ、“少し変わってるけど良い娘なんですよー”とか、“あやしい者じゃないんですよー”とかモゴモゴ言ってたけど。
まあとにかく、あの年寄りお馬さん、天馬もびっくりの一走り、ってな具合でスタコラっすよ』
肩をすくめた赤犬子は、顔全体を使って『まったく、旦那も情けねえなあ』と述べていたものである。
そう──。
そのことについては、互いに一言も話していなかった。
泥土を見つめる金丸の脚を、スイ、と小さな水の生き物がかすめてゆく。
娘のごわごわした着物の下から徐々にせり出してくる、腹──。
金丸の沈黙に気づいたのか、オギヤカは声の調子を一段高くして笑った。
「いやですこと、ご覧になって。雲があんなに迫ってきましてよ。着いたばかりなのに帰ることになるなんて」
明るい声に、湿った遠雷の音が重なった。見つめる視線を追えば、雷光を孕んだ黒雲が信じられない速さで空を覆い始めていた。
「稲妻だ……」
呟く声に唆されたように、奇妙な昂りが躰の内側でのたうち、ずるりと肉の深みに触れる。
「ね、早く帰りましょう。私、走れませんもの。手を引いてくださる?」
甘ったるく見つめる娘の手首を、金丸は乱暴に掴んで走った。屋
敷へ駆け戻る背中の向こうで荒ぶる雷鳴が、訳もなく苛立たしかった。
屋敷の門が見えてきたあたりで、雑に手を振りほどく。グラーや赤犬子に見とがめられて、にやにや笑われるのは御免だった。勢いをつけすぎたのだろうか、オギヤカはやけに悲しそうな顔をしたが、それも無視した。
「お、仲良くお帰りっすか。降りだす前で良かったすね」
気まずく戸口に立ち尽くしていれば、サンシンを手にした赤犬子が満面の笑みで出てきた。日がな仕事もせずに歌い呆けているこの青年のこと、今日も飽きずに楽器をいじくっていたのだろう。
「おかえりオギちゃん! もう今日は一日雨だしさ、あの歌もう一回教えてくれよ。オイラ、この島の歌は結構知ってるつもりだったんだけどなあ。流しの歌うたいが『その歌、知りません』じゃ、おまんまの食い上げだからさ。頼むよ」
まとわりつく青年をいなしながら、オギヤカは艶然と笑う。
「犬子ちゃんたら、まるで子犬みたい。ほら、ワンちゃんの方が呆れていましてよ。 私、今日は田んぼのお仕事でへとへと。また今度ね」
「なんだよ、へとへとも何も、着物を着替えて田んぼまで散歩しただけじゃんか」
屋敷の奥から追って出てきたグラーもあきれ顔だ。
「だめですや、オギヤカさんは大事な体なんだから。早く寝かせてやらないと」
「ちっと歌うくらいいいじゃんか。いい音聞くと、腹の赤ん坊が喜ぶっていうしさあ。ねえ、金丸の旦那?」
赤犬子とオギヤカの板挟みになった金丸は、草履を乱暴に脱ぎ捨てながら言葉を投げる。
「勝手にすればァ……。疲れたから、金丸は寝る」
「ほら、旦那もいいってさ! な、教えてくれよ、あの歌!」
若者たちの華やいだ声を背に屋敷の奥へと足を向ければ、苦笑いのグラーがついて来た。善良そうな笑顔が、むしろ鬱陶しい。
あの夜の見事な舞に加え、オギヤカは数多の歌を知る良い歌い手でもあった。赤犬子がねだれば本人も悪い気はしないのか、いつしか二人は声を合わせて歌うようになり、グラーが機嫌よくサンシンの伴奏をつけてやっていた。
赤犬子も、オギヤカも、それにグラーも若いのだ。歌って笑い、サンシンの音色に笑い、無邪気な手踊りをして笑う。
それに比べれば、金丸はもう随分余計に生きていた。かつて女たちを熱狂させた美男子の面影は消え失せ、肌はだらしなくたるみ、しわが増え、手足は碇を括ったように重かった。
「まったく二人とも、いい気なもんですや。オイがオギヤカさまのお部屋を一生懸命直してるっていうのに、歌ってばっかりで。ねえ、金丸さま?」
グラーはグラーで、オギヤカが来てからの毎日を楽しんでいるらしかった。金丸の目には図々しいだけに映るあの一種分け隔てのない態度が、かつては村人たちに遠巻きにされていた怪力男には嬉しいらしい。気まぐれなわがままに従って棚を吊ったり、小さな卓を作ってやったりする横顔には、こそばゆい充実感が漂っていた。
面倒臭そうに目だけを返せば、グラーは慌てたように言い添えた。
「あ、そうですや! 覚えてますや? また荷物が届いてるんですから、今日は一日雨ですやし、あらためちまえばいいですや。いけませんや、せっかくの頂き物を放っぽいておいちゃあ……」
あたふた言いながら立ち去った大男は、両肩に行李を載せて戻って来ると、金丸の自室にどしん、と下ろしてこそこそ退散していった。このところの金丸は、不機嫌になるとひどく口が重くなる。それが分かっているから、グラーは下手なりに金丸を避けているのだろう。
降り出した雨は激しさを増し、屋敷を満たす湿気はどんよりと重い。無数に弾ける雨音を聞きながら目の前に並べられた行李を眺めやれば、大仰な行李の腹に描かれた金色の三つ巴が薄闇に浮かび上がっていた。
王府からの「贈り物」──。金丸がウチマの屋敷に移ってきて以来、折に触れて届けられるようになった品物が今も目の前にあった。
権力者たちの間で贈答をし合うのは別に珍しいことでもない。
だが、自ら転げ落ちた老いぼれに、よりによって送り主は──……。
金丸は不機嫌に鼻を鳴らす。
行李の中身は毎回よく考えられていて、最初の頃は新しい住まいに落ち着かない住人たちの腹と心を満たす、すぐに食べられて日持ちのする干物や酒がたっぷり詰まっていた。
しばらくすると肌触りの良い手巾やら肌がけやら、大げさでない程度に質の良い着物やら、小さな荷物で急き立てられるように越してきた一行には気の回らなかった嬉しい品々が届いた。
その後も季節の食べ物や、ウチマの地では手に入れることの叶わないちょっとした珍しいものなどが折々に届き、屋敷の者たちは喜んだ──主人の金丸を除いては。
三つ巴の印の行李が届く度に、乾いたささくれが不快に痛む。荷物には必ず、短い手紙が添えられていた。それこそ当たり障りのない挨拶であるとか、健康を気遣う耳障りの良い言葉であるとかに、さりげなく返礼は不要と添えてあり──そもそも、する気も端からなかったが──そんな添え文の署名は、最初の頃は下手な代筆で仕立てたのであろう尚泰久王のそれであったのに、いつの頃からかあの八幡の君のものに変わっていた。
いつかのそれを、金丸は思い出す。
──『金丸どのは、私の第二の父のようなものです』
七色の花弁の舞散るあの王のお披露目の日、鮮やかに躍り出てきた若鳥。今や若かりし日の父によく似た美男に成長し、一流の武芸と知力を身につけ、女たちの羨望の的であるという八幡の王子──。
──『金丸どのの健やかなお暮しは、この八幡の幸せでもあります』
倒れた子供を助けていたあの少年。黒衣の僧に必死に寄り添っていたあの少年──。高貴の者だけが手にすることができる舶来の薄紙の向こうから、今も変わらぬ澄んだ光が透けてくるような気がした。
行李の閉じ紐に手をかければ、どこか気だるげなサンシンの音にのって、オギヤカの淡い歌声が流れてきた。
──さあ、きけやあわれな タル・タルミー
──くがに屏風の タル・タルミー ……
素朴な歌詞を淡くとらえつつ、固く結ばれた紐を解いてゆく。
尚泰久王の息子。八幡の君、八幡の王子。
今もこの手に残る力を恐れてすり寄ろうとでも言うのか、それとも──……。本心は分からないにせよ、あの王子のこと、他意などあるようにも思えなかった。
こんな贈り物など、本当はすぐにでも突き返してしまいたい。気取らない親愛を込めた品々に、かえって自らのふがいなさを嗤われているような気がした。
だが、全てを棄てて田舎に退いてきた負い目があった。周りに残ってくれた僅かな者たちに報いてやれる甲斐性などなく、せめてこうして届けられる富の香りを帯びた何がしかを下げ渡してやるくらいしか、気まずさを紛らわせるすべがなかった。
気づけば、頬の内側を噛んでいた。
こんなことは、昔は気にもしなかった。富と権力の湯壺にのぼせ、頭の中にあるのは常にただ一人のことだけで、周りのあれこれなど、小虫の羽ばたきにも等しくて──……。
何か別の、気分が良くなることを考えたかった。
暗い深みをまさぐるつま先に当たったそれを、金丸は強かに蹴り上げる。
風の噂によると、ヤマトの黒蜘蛛・芥陰はあの刃傷沙汰の傷が元で長いこと生死の境を彷徨い、最近はいよいよ死んだか、などという噂まで流れているらしい。
──ざまあみろ!
だが、そんな小さな勝利も所詮は空虚なものだ。
慰めるように聞こえてくる歌声が心地よかった。赤犬子の美声や技巧には遠く及ばなかったが、夕暮れのものがなしい艶と、小鳥の囀りの繊細さを兼ね備えた良い声だった。
最初の頃は日々の合間に古風な宮廷歌や民草の戯れ歌ばかりを歌っていたオギヤカだったが、よろずの歌を拾遺することにはこと貪欲な遊芸人の口車にのせられたものか、いつしか異国や辺境の歌まで唇にのせるようになり、聴きなれぬ旋律に合わせて弾くのに名手の赤犬子が目を白黒させるほどであった。
──永の水神 授けしの
泉捧ぐは タル・タルミー ……
これも初めて耳にする、ほのかに土の香りを含んだ旋律だった。
音色に耳を傾けながら爪の先でつまんでよじりを繰り返せば、ようやく固い結び目が緩んだ。ぴっちりはまった蓋に力を入れて外すと、中を見るより先に刺激のある芳香が立ち上ってきた。
かつてゴエクにいたころ、布袋に詰まったそれをあらためたことがある。遠い南の地で育つ、黒真珠をごつごつさせたような香辛料の香りに違いなかった。案の定、行李の中には彩色を施した木箱が二つばかりあり、開けてみれば件の香辛料をまぶした焼菓子が詰まっていた。
途端に動き出した胃の腑をなだめながら、金丸は箱を脇に押しやり他の中身をあらためてゆく。
独特の陶の瓶に詰めた酒に、注意深く油紙に包まれた干果物を飾った菓子。鮮やかな模様を織り込んだ布地がたっぷり数反──。そのどれもが、リウクーから遥かに海を越えた南方の島々の産物だった。
──いつものあざといさりげなさに比べれば、今回は随分と奮発したじゃないか。
王・尚泰久とその愛息・八幡の王子が最近力を入れている政策の一つに、これまで断続的に行われていた南方との外交の強化があるとは聞いていた。南蛮──ひとくくりにそう呼ばれてはいるものの、リウクーのそれとは異なる弧を描いて洋上に浮かび、孕んだ熱と湿気を揺りかごに、極上の香木や香辛料を産する南の島々──熱い風に絡む馥郁たる富の香りが、あらゆる国々の欲望の視線を集めているという蠱惑的な地だった。
菓子箱から焼き菓子をつまんで、かりり、と齧ってみる。口から鼻へ抜けてゆく目の覚めるような刺激にのって、女の熱い肌にも似た異国の熱風が体を拭き抜けていった気がした。
かつて尚金福がやらかした散財と、燃えた城の再建で底をつきかけた国庫を満たすため、漕ぎだす舟底を斃した按司たちの黄金で塗り固め、更なる富を求めて波間の向こうに漕ぎだしてゆくのは大海に抱かれたリウクーの王国にとって必然の流れだっただろう。
ミンの絹織物、ヤマトの刀、南蛮の香辛料──。物が物へと変じゆく商いの元手に、王と王子は何を選んだだろう。滅びた南北の国々を均した平野で育てた名馬か、平定したアマミの島々を介して手に入れた硫黄を、火薬に変ずる金の粒として使ったか……。
先へ、先へと手を伸ばして行くほどに、行く手に新たな障害が現れるのが外つ国との交わりの常だった。自らもかつてはその場に身を投じ、ひりひり身を刺す異国の風にその身を晒したこともある。相手より先に物事の舵を握ってしまう強引な手法はいつだって金丸の方が得意で、さんざん危ない橋を渡った末に取引は大成功──。そんな時には、いつだってねぎらうような黒曜石の瞳が疲れを癒してくれたものだった。
今、その傍らにいるのは自分ではない。遠い昔に弾け飛んだ瑠璃の破片が、今も肌の深くに食い込んだまま痛む。
「わんわん!」
「──なんだ犬。驚かせるな」
弾んだ鳴き声に目をやれば、赤犬子の犬が戸口で笑っていた。
「あっちへ行ってろ。今日はおまえにやるものはない」
赤犬子の犬はまったく犬らしい犬とでも言えばいいのか、履き古した草履やら、残飯から拾った骨やらのがらくたをくわえていっては縁の下にどっさり溜めこんでいて、こうして荷物が届いた時には何か良いものがないかと寄ってくるのだ。
犬と遊ぶ気分でもなかった。追い払おうと重い腰をあげた時、戸口で再び声がした。
「あの……ワンちゃんがあんまり着物を引っ張るものだから。犬子ちゃんもひどいの。サンシンに夢中で止めてもくれなくて」
犬の後ろで、オギヤカがらしからぬ遠慮がちな目で薄暗い部屋を見やっていた。
「……今、片づけてた」
ぞんざいに放り出されたままの高価な品々を見咎められたような気がして、言い訳がましい声が出る。
「私、お邪魔でしたわね。お昼寝してらしたのかと思ったのに」
「こんな昼間っから、寝られるわけない」
「ええ……そうですわね」
不自然な沈黙をごまかすように、行李を足で押しやり、放ったままの蓋を意味もなくこちらからあちらへと移す。そんな様子に手を貸すわけでもなく、オギヤカは困り顔のまま立ち尽くしていた。
「……そんな風にしたら、お酒の瓶が割れてしまいますことよ」
「知るもんか。こっちが頼んだわけでもない。向こうが勝手に送り付けてきたんだ。金丸はちっとも欲しくないし、どうなっても構うもんか」
「でも、この間の干魚は美味しく召し上がっていらしたじゃありませんか」
どしん、どすん……。埃を舞い上げながら続く無為な動作に、ぽつ、と声が落ちる。
「……そんなに、頑なにならなくてもよろしいのに」
何かがぴり、と心の奥で引き攣れて、気づけばきつい声が出ていた。
「なんだ、おまえも金丸を嗤いに来たのか。ああそうだ、金丸はこういう細々したことには気が回らないものね。前におまえが喜んでたきれいな衣一枚、買ってこようとすら思わない甲斐性無しだもの。
……本当に、おまえのせいでいい笑いものだ。村のやつらが何て言ってるか知ってるか? 『いい年こいた金丸さまは、王府からもらった小遣いで若い女までお買い上げ』とか──、」
滔々と零れ続ける棘を呑み込めば、静寂だけが落ちる。その空白が、かえって辛かった。
何だって、この女はこんな篠つく日に限ってだんまりで、辛気臭い顔をしているのか──。沈黙の末に金丸がしびれを切らしそうになった時、ぐう、とおかしな音がした。
「あっ」
オギヤカの腹が、鳴ったのである。その頬が、みるみる赤く染まってゆく。
このところのオギヤカは食べもののより好みが激しくなっていて、まるきり食べない日もあった。そういうことがよくあるのだと、子を産んだ妻を持つ男たちはしたり顔で言っていたものである。
──知るか!
悪態を吐いていた金丸も、仮にも同じ屋根の下に住まう者が日に日に痩せてゆくのを見るのは面白くはなかった。
「……これ、やる」
箱ごと差し出せば、中に詰まった異国の菓子に大いに興味をそそられたらしいオギヤカは、ひとつを摘まみあげた。
はたして、鮮烈な香辛料の風味にオギヤカは激しくむせた。
「わんわん! わんわん!」
じっと見ていた犬が『何とかしてやれ!』とほえ立てる。あわてて部屋の隅の水壺を取って椀に注いでやると、一息に飲み干したオギヤカは大きな息を吐いた。
「大丈夫、喉がかすれていたから。少し歌っただけなのに、嫌だわ」
「……無理するな」
いくらか血色が薄くなった唇が、淡く笑う。
「お優しいこと」
「あれだけ毎日歌ってりゃ、喉だって枯れるだろう。赤犬子君といい勝負だ。日がな、よくもあんなに歌い呆けていられるもんだ」
刺々しい言葉を包み込むように、ふわ、とした笑みが返ってきた。
「金丸さまは、そういうことはありません?」
「……そういうことォ?」
「忘れられるでしょう? 歌って、踊って……そうしていれば、色んなことが遠くに行ってしまうから」
雨音の中で、犬のせわしい息の音だけが熱を放っていた。弾ける雨の音の向こう、記憶の波に揺られるくり船の上で、一人寂しく歌う黄金の童子──。
「くうん」
気づかうような犬の声を払うように、金丸は首を振る。孤独に苛まれ、惨めさに身を震わせ──そんな存在であったことなど、一度もなかったはずだ。始まりも、終わりもそんな物語であったなど、断じて認めるわけにはいかなかった。
腹立ちまぎれに行李の一つを乱暴に持ちあげて、右から左へどすん、と下ろす。
「大したものは入ってなかった。おまえが喜ぶような草紙も、絵巻も入ってなかった」
「もしかして、覚えていてくださったの?」
少し前に届いた行李の中には、異国の風物を書き記した絵巻物が何本か入っていた。その時のことを言っているのだ。
大陸の説話や物語の巻物はリウクーに多く入ってきていたが、それではかつての王の側近にはありふれているとでも思ったのだろう、その時届いたのは、外つ国の風景を写し取った彩色画に異国の文字を添えて地理と風俗の案内とした絵巻物の数々だった。
ミンの華やかな都の賑わいや、幽玄の山々に霊獣が遊ぶ様子を写した絵巻。より内陸の風景を描いたのであろう、飛び出してきそうな躍動感で草原を駆ける馬たちの絵姿。それに、ミンのそれと似ているようで確かに違う、異国の貴人たちの姿を留めた絵巻──。
オギヤカは最後のそれにとりわけ興味を引かれたらしく、細かな文字を添えた絵巻物をじっと見つめていた。端々に垣間見える独特の意匠が、その絵巻の来歴を伝えていた。
海に突き出た半島の国・テュウセン──リウクーと同じく、大国・ミンの樹に添いつつも力強く枝を伸ばし、烈しくも美しい花を咲かせる麗樹。
長きにわたる海を隔てた隣人であり、ほんの数年前に起こったおじがおいを攻め落とす肉身間の政権抗争で揺れに揺れた国だった。
ふん、と金丸は鼻を鳴らしたものである。
──ほら見ろ。うちもあの布里と志魯を消しておいて正解だったじゃないか。
あの二人を生かしておけば、きっとここでも似たり寄ったりの争いが起きていたに違いなかった。
騒乱の中で半島の勢力図は大きく塗り替わり、かつては栄華を誇ったありとあらゆる者たちが下野したという。こうして金丸の元に届けられた絵巻物も、身ぐるみ剥がれた人間たちが切なく切り売りした財を二束三文で買い叩いてきたものではなかろうか。それが証拠に、混乱に乗じて例のミホトケ経の経典まではした金でかすめ取って来た商人までいるというではないか──。
意地の悪い邪推で送り主に難癖をつけようとする自分の狭量さが嫌になる。老いたものが若きものに感じる、ありふれた醜い嫉妬。
いや、それだけではない。
墨染の産着にくるまれて育ち、念珠のこすれる音を子守唄に育った麗しの八幡の王子──。
どろり、としたものに呑まれそうになっていたとき、オギヤカは何と呟いたのだったか。
『でも、ちょっと鬱陶しいわね。生真面目な善意って』
怪訝な視線から逃がれるように、絵巻物を取り上げたオギヤカは笑ったのだった。
『ね、こちらの巻物貸してくださいな』
『……なんで?』
『なんで? だって、綺麗な絵ですもの。眺めていたくて』
あの時、オギヤカの瞳は何を見ていたのだろう。近くを見ているようでまるで焦点の合っていない、霞んだ目をしていた。
「──あの時のことなんて、金丸さまは忘れていると思っていました。私のことを疎んじていると思っていたから」
現在のオギヤカが呟く声に、金丸は霞んだ回想から引き戻される。
「……届いたものは大体わかった。後はグラーにでも分配させるから、見分はこれで終いだ!」
腹立ちまぎれに再び目の前のものを左から右にどすん、と置きなおした時、ひら、と紙片がおどった。
「……お手紙──かしら?」
裏に墨文字が滲む薄紙を摘み上げた金丸は、それを縦へ、横へと折り畳んでゆく。
「こんなの、何でもない。お城の御曹司サマの、気取ったオコトバの箇条書きだ」
折上げたそれを宙に向かって放てば、ふわ、と薄闇に躍った作りものの翼は、死んだ鳥のように床に落ちた。
雨は本当に一日降り続けた。やることといえば、お決まりの内輪の酒盛りである。
届いた南蛮の酒瓶を夕餉の席に並べれば、グラーと赤犬子はわっとばかりに飛びついた。
『お、こいつはリウクーの酒とは違った趣のある……。あ、オイラはしがない居候なんだから、ほんのちっと、ちーっとでいいんだって……ああ、あーあー、おっとっとっと……』
『ほら、零れる前に呑んじまいなですや。うん、いい飲みっぷりですやなあ! やあ、オイたちだけが呑んじまって安里の旦那にも、婿さんにも恨まれちまいますや!』
『まったくあの家、舅も舅なら、婿も婿だよ。あの忠ちゃんの野郎、いつだってオイラの倍は呑みやがるんだから。 ああチクショウ、こいつはいい酒だなあ! よし、あいつらがいないうちに全部呑んじまおう!』
ひとたび酒が入れば、酔いどれの遠慮などただの戯言である。二人はあれよあれよという間に酒を干し、盛大に酔っぱらった赤犬子とグラーの歌サンシンは大いに盛り上がった。
異国の酒はリウクーの酒よりも陽気で蕩かすように強く、喉を焼く熱さに急き立てられるようにして金丸もいつもより呑んだ。にこにこ笑うオギヤカは結局口をつけなかったが、酒宴の空気に呑まれたものか、無邪気に手を叩いて歌う面差しが薄紅色に染まるのを眺めているうちに、長らく芯から酔うということが無かった金丸にも懐かしい酩酊の感覚がいくばくか戻ってきた気がした。
『あーぁ、オイラ今夜は上機嫌。こーよい踊るよ犬子ちゃん、さーさ、オギィちゃんもーご一緒に!』
『ばーかを言っちゃあだめですやーあぁ、身重のオギ様ぁおどりゃせぬぅー。代わりにウチマのグゥちゃんがぁ、華麗な舞を見せますやー!』
『わーんわんわん!』
呑み疲れ、歌い踊り疲れた二人はようやく酔いつぶれ、夜はしんしんと深い。
「……まったく、無茶苦茶だァ。なんで金丸が、飲み助二人の面倒までみてやらなきゃならないんだ」
「でも私、金丸さまのこと見直しましてよ。犬子ちゃんは細いからいいけど、グラーのことまで背負って布団まで連れて行くなんて」
「くそ、なんて奴らだ! 腰が痛いィ……」
蛸のようにぐにゃぐにゃになった青年二人をそれぞれの寝床に放り込み、ほうほうの体で空っぽの宴席に戻れば、食べ残しの皿と飲み残しの酒瓶があちこちに散らかっているばかりだった。
「なんだ、どっちが下男か分かりやしないや。食うだけ食って、飲むだけ飲んで……」
欠伸を噛み殺しながら皿を重ね始めた金丸に、苦笑いのオギヤカが加わる。
「楽しい時はいつだってあっという間。その後は、つまらない後始末が待っているだけ」
激しい雨音の中で、器と酒瓶がこすれる音だけが響く。
何ともばつが悪かった。そもそも酒も飲まないのに、オギヤカはこんな時間まで起きていることはなかったのだ。まるで、自分が無理に付き合わせたようではないか。
「オギヤカ」
「何ですかしら?」
「やめだ。こんなの、明日グラーと赤犬子君にやらせればいいんだ」
くすくす笑いのオギヤカの手首を取って、空っぽの膳の前に座らせる。
「何ですの?」
「これ、やるから」
袂に隠してあった甘菓子の包みを渡してやれば、オギヤカはあどけなく笑った。
「……呑めもしないのに、遅くまで悪かったな」
「……私、本当はお酒が好きなのです。とっても。でも、今はあんまり良くないでしょうから」
血の気が引いた指先が、もう随分大きくなった腹に触れていた。
「本当に、楽しい時はあっという間。悔しいですこと、いつだって損をするのは──……。
私も南のお酒を飲んでみたかった。犬子ちゃんとグラーのサンシンで踊りたかった」
「また踊れるようになる。酒だって、いくらでも用意してやる」
その言葉の安っぽさを自覚するくらいは、ヒトとして長く生きてきたつもりだった。
「──ねえ金丸さま。産まれる子も、私に似てきっと踊りが上手になりましょうね。金丸さまは喜んでくださるかしら」
ぴし、と弾けた家鳴りに、言葉の糸口を失う。だが、答えなどはなから期待していないというように、オギヤカは放り出されたままのサンシンを取り上げてつま弾き始めた。
「踊れなくても、歌うことはできましてよ……」
オギヤカ──親子ほどに年の離れた、近しい女。最初はぎこちなかったのが、いつしか他愛もない雑談くらいは交わすようになった女。
金丸の拙い引っ掛けに応じて、愚かなのか賢いのか分からない女が、通り過ぎてきた生の断片を星屑のように唇から落としてゆく。
その場にいたものしか知りようのない、宮廷で焚かれた香のたなびきや楽の音色。瞳に映してきた、懐かしい名を持つ官人たちの物語の切れ端。
そして、粛清の血の罪滅ぼしに、梵鐘を作っては掛けさせる哀れな王の物語。何かから逃れるように、病的な女遊びは加速して──……。
牛からの、預かりもの。
あえて聞かせているのか、ただ頭が軽いのか。いや、もちろん隠す気などないに違いない。金丸もまた、物語が零れてゆくままにしておいた。それ以上を聞き出そうとも思わなかったし──、
──尋ねられる立場でもない。
腹が膨らむごとに食が細くなってゆくオギヤカの前に唐突に供されるふかした饅頭やら、冷やした甘酒やら……。そういったものがどこから出てくるのか、この女が尋ねてくることはついぞ無かった。愚かしさに擬態したその鷹揚さに、いつしか淡い安堵を感じている自分がいた。
「ねえ金丸さま。私はここにいていいのかしら」
「……いなけりゃいないで、静かでいいや」
「いじわる!」
ようやくおなじみの笑い声が弾けた。二人きりになると、繕った言葉遣いの下から素が覗き、声の抑揚がほんの少し変わる。それは共に過ごす時間の中でオギヤカが許しはじめた、二人だけが知る小さなほころびだった。
「もう遅い。寝た方がいい」
とーん、ぺーん……。
赤犬子やグラーと同じ楽器のそれなのに、オギヤカの奏でる音はいつもどこか、もの悲しい。
「私は構いませんのよ。どうせ、寝られやしないのですから」
「……フーン」
その理由を問おうとしない程度には、全てに膿み疲れていた。
「金丸さまは、やっぱりそういう方でしたわね」
その言葉もまた、追おうとは思わない。
「──昼間のあの歌、変な歌詞だったな。赤犬子君が考えたのか?」
話を逸らしたつもりだったのに、下手な試みの小舟は空しく沈んだらしい。
「あら、犬子ちゃんは無実ですのよ? 私、上手に変えたつもりだったのに、おかしかったかしら?」
曲自体は知らなかったが、歌われている内容自体は有名で、違う旋律に載せられて流れるその物語を何度か聞いたことがあったはずだ。
黄金屏風のタルミー……南の他魯毎。かの尚巴志が北山の王国に次いで南山の王国を斃した時、最後の南山王の座にあった男についての歌だった。
「こんな風ですのよ。
──さあ きけやあわれな タル・タルミー
くがに屏風の タル・タルミー
清き賢人 尚巴志に
魂をささげし タル・タルミー
さあさ交換 なされよ なされよ
汝が屏風と 我が泉
永久に煌めく 黄金色
これに勝るは ありやせぬ
永の水神 授けしの
泉捧ぐは タル・タルミー
ああ、なんとかなしや タル・タルミー
南の国は 巴志が民 ──……。
『むかしむかし、リウクーの南を治めていた南山王・他魯毎はそれは賢い尚巴志様の計画にたやすく引っかかり、たった一枚の黄金色に輝く屏風と引き換えに、水神のご加護を受けて永遠に溢れ出る泉を差し出し、やがては国を手放してしまったのでした……。
そうして南山の国は滅び、残された民草は天命受けし賢なる英雄・尚巴志の栄光の元に集ったのでした』──……。
──タルミー タル タル・タル タルミー
ああ、なんとあわれなタル・タルミー……
──ね。哀しいけれど、愛らしい歌だと思いません?」
リウクー統一の過程で後の帝王・尚巴志に成敗された悪王の片割れ、獰猛で野蛮な北山王と対をなし、国を、民を明け渡した愚鈍な南山の王・他魯毎──。
それは、今生の栄華を誇る人々が、戦の果てに生き残った自らの生を祝うために語り継ぐ物語だった。
「金丸はあんまり好きじゃない。……『上手に変えた』と言ったね。本当は、どんな歌詞だったんだ──?」
「……戦が終われば、鳥は歌声を変えるということ。上手く歌えねば射られるさだめ。ならば、求めに応じて歌うだけ……」
南──。荒波を越えて遠い国から行き来する、良き船乗りたちが築いたという国。数々の異国と、半島の地と親しく結び、血を分かち──……。
都合よく落ちてきた瞼の重さに、金丸は淡い安堵を覚える。
オギヤカの声にうっすらと残る訛りは、南から来た安里のそれと同じだ。
南──。滅びた、いや滅ぼされた南山の──……。
「もう遅いから……金丸は、寝る」
何かを裁くような遠雷の叫びを聞きながら、無垢な眠りだけがひたすらに恋しかった。何かに深入りするには疲れ、老いた躰がそこにあるだけだった。
その夜、金丸は夢を見た。
どこまでも幸せで、そのくせどこまでも哀しい夢だった。
瞼の向こうに、懐かしい声を聞いた気がした。だが、手を伸ばした時には全てはあぶくのように溶けて消えて、指先にかなしさだけが残っていた。
抗うように眼をこじ開ければ、目を刺す光の色が濃い。大雨が降った翌日によくある、嘘のように晴れ上がった陽の光だった。
もう昼を回っているに違いない。一人体を起こす間も、手足がやけにふわふわしていた。なにかひどく耐えがたいことが起きているはずなのに、意識だけが必死に知らないふりをしていた。
胡乱な感覚は広間に集うグラーと赤犬子、それにオギヤカの顔を見ても変わらず、屋敷のどこかで召使たちがざわついている声が遠くに聞こえていた。
散らかったままの広間の真ん中で、重苦しい顔の三人がしきりに目配せをし合っている。
「どうした?」
オギヤカが、一歩進み出てきた。立ち込める霞の中から立ち現れたような、やけに清らな姿だった。
「なんだ、変な顔をして」
「お隠れになったそうです」
その言葉に、何度か目を瞬かせてみる。
「尚泰久様が」
瞬きを繰り返しても、視界ははっきりしなかった。赤犬子とグラーもこちらを見ていたが、輪郭は滲み、顔はのっぺりぼやけていた。
「あァ」だか「うァ」だかの濁った呻きが漏れたらしかった。だが、実体を失った足で床を踏みしめるのが精いっぱいで、自らの声を捉えることすらおぼつかなかった。
グラーが背を向け、赤犬子が後に続くのがぼんやりと分かった。
崩れてゆく世界の中で、しっかと見つめるオギヤカの瞳だけが、かろうじて意識を繋ぎとめていた。
「あー……あれだ。そ う、オ ギーヤカ。今朝は何か食べたのかァ。少しは食べないと──」
「金丸さま」
「何 かあったら迷惑……だ。そうだ、おかゆ、お かゆならいいだろう、ほら……」
「旦那!」
振り返る赤犬子の制止の声が響いた時には、くるりと回した手の上に、湯気の出る粥の器が忽然と現れた後だった。
「ちゃんと た べないと体に悪い。迷惑……だ。何か あった ら」
黙って椀に目を落としていたオギヤカは、やがて差し出す手を包み込むようにしてそれを受け取った。
「金丸さま」
強い声だった。全てを抱きとるようなその声に、金丸は初めて理解する。寄り添う熱、慰撫する声──ひび割れた絶望を満たす、漆黒の安堵。
「私がおります。これからは、私がお側におります」
何かに身を任せ、何かに屈する蜜の罠。
蕩かす深みに溺れてしまいたいと、金丸は初めて願った。
<第二十六話に続く>




