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[第2話] 

宮古島の英雄、仲宗根豊見親をモチーフにした長編歴史ファンタジー第2話目。

稀代の英傑か、それとも……。

あくまでパラレルなミャークの英雄物語として楽しんで頂けましたら幸いです。


第一話扉絵は嵐山晶 様に描いて頂き、ご本人の許可を得て掲載・使用しております。

※無断転載を禁じます※

※本作は[pixiv]様にも重複投稿しています※



「ミャークは」

 温かい指が、なぞるように唇に触れている。

「厳しい土地、激しい土地だ。

 山を持たず、川を持たず。珊瑚の岩でできた大地と吹き荒れる風──」

 柔らかい声が後を引きとる。

「痩せたミャークの大地では ふるくふるく昔から わずかな実りを奪いあい 多くの血が流された……」

「そしてミャークの人々は、血族同士で寄り集まり──」

「ささえ合い 時にうらぎり 殺し合い──」

 ため息をつく空広の額を、その指はやさしく撫でる。

「よく似ているわ、私の世界と。弱いもの、傷ついたものは生きることを許されない」

 指が髪をいとおしそうに梳く。

「私は逃げた」

「そう逃げた 人間の世界から。逃げて 逃げて──緑と水に いだかれた」






 あの襲撃から幾月かが経っていた。

 顔の真ん中に十字の傷跡を持つ子供を、だれもが怖がるようになっていた。

 赤黒い跡はあの蹂躙を嫌が上にも思い出させたし、当人が一言もしゃべらないのが人々の怖れに拍車を掛けた。

 空広はわざと口をきかなかったわけではない。

 奇妙なことに、あの日から空広の声は喉の奥で張り付いたようになってしまい、何かを言おうとしても口からひゅうひゅう、と空気が漏れるだけなのだった。

 再び母の愛情を失った空広は、ある日荷物をまとめるよう父から言い渡された。

 とうとう捨てられた──それでも黙って身の回りの品を包み始めた空広に、父は不憫な視線を投げた。

 空広は、おじの家に養子に出されることになったのだった。

「あの家には子供がないから、」

 久しぶりに聞いた父の声はひどく弱々しかった。

「お前をきっと大切にしてくれるだろう」

 長男を養子に出すというのは相当に異例のことではあったから、冷え切った家庭にいるよりは、という父なりの最後の情だったのかもしれない。

 出立の日、猫を抱いた父だけが見送ってくれていた。

 その時、父がどんな顔をしていたのか思い出せないのに、抱いた三毛猫の尻尾が茶色くてふさふさしていたのが目に焼き付いた。



 おじ夫婦は善人だった。それは間違いない。

 だが──やはり空広が言葉を発することはなく、やがて彼らも怯えた視線を投げてくるようになった。

 それは、顔の傷や口をきかないことのせいだけではなかっただろう。

 あの時以来、空広には濃く深い闇が纏いつくようになっていた。

 子供の瞳には似つかわしくない底無しの闇を見る時、人々はただ身をすくませて後じさるのだった。


 やがて空広は、一日の大半を屋敷の外で過ごすようになった。

 最初は濃い木陰で。そしてやがては深い原野の中で。

 鳥の声を聞き、夜の星を眺め、だんだんと自然の中に飲まれていった。

 とある夜のことだった。天の川が架かり、降るような星空が一面に広がっていた。

 草原に寝転がった空広は、軌跡を描いて流れる星の数を数えていた。

 そうしていれば、頭の中で反響する言葉が溶けて消えてゆくような気がした。

 ──私が欲しかったのは、あんな子供じゃない。

 喉に詰まったような、おじの妻の声。

 ──私が欲しかったのは、親孝行で、やさしくて、明るく家を盛り立ててくれるような……。

 覗き見た先で、父と良く似たおじの背中が困っていた。

 ──あんな子供じゃない。

 青草を掴んでいた片手を挙げると、ようやく赤黒い跡になりつつあるその場所を撫でてみる。

 えぐれた跡は、触れてみれば未だにひり、と嫌な感じがした。


 おもむろに空広は立ち上がった。

 足元の草むらで、虫たちがきれいな声で鳴いていた。

 遠くで、大蝙蝠が羽ばたくのが見えた。

 星がまた幾つか、流れた。

 そして空広は駆け出した。

 おじの家を背にして、ミャークの原野を突っ切るように走った。

 あてもなく、ただ夜の闇に急かされるように海岸線を目指して駆け抜けた。

 そしてもう二度と、おじの家に戻らなかった。



 それからの空広の生活は、文字通り野生児のそれになった。

 それは何か月かのことだったのか、それとも何年ものことだったのか。

 思い出せるのは、とにかく空腹だったこと。

 蔦と葉と、溶樹の茂る原野の一部になって、空広は生きた。

 泥にまみれて、爪が剥がれて血が出た指で土を掘って……。そうして見つけた虫や木の根。ささくれだらけの木に登って手に入れたわずかな果実。

 鳥の巣から卵を盗んだこともあった。

 食べられるものはなんでも口に入れた。

 段々と、空広は動物に近づいて行った。

 空腹と雨露、虫や明け方の寒さには悩まされたが、空広にはこの生活が楽だった。

 ただ食べて、まどろみ、そしてまた食べられるものを探す――そうしていれば、何も考えなくて済んだ。

 そして、誰も探しに来なかった。


 食べる物が少なくなれば、一つの林、一つの茂みから次の場所へ。そうやって少しづつ場所を変えながら、空広は移動して行った。

 人間の領域ではない自然の中で、この小さな動物は奇妙に受け入れられていたらしかった。

 寒さに凍える時、どこかから逃げ出したらしい馬が懐に抱いてくれたことや、底冷えのする闇におびえる時、鳥達が甘く歌いかけてくれたこと。

 不思議な精霊のようなものが、清水の場所を教えてくれたこと。

 そこには惨めなだけではない、ささやかな喜びがあった。

 それでも、小さな子供のことであったから、やがてこんな生活にも限界が来た。

 新しく移って来た森で見つけた、見慣れない木の実──空腹が勝って口に入れてみれば、死に至る毒の実であった。

 高熱と、断続的に襲ってくる腹痛に、空広は小さな虫のように大地の上で縮こまった。

 顔に、頭上の蔦から滴り落ちる露が絶え間なく当たっていた。

 滝のような冷汗をかきながら、それでも掌を開いたり、握ったりを繰り返してみた。そうすれば、いつかの昔に繋いだ手の温もりを思い出せる気がした。

 ──死ぬ。

 奇妙に、その事実を受け入れることが出来ていた。

 それなのに、なぜか涙が出た。

 これが、自分に相応しい最期なのだと思い込もうとした。

 それでも、涙は流れ続けた。

 音を発しないはずの喉から、小さくしゃくり上げる声が漏れる。

 まだ声が残っていた──どこか遠くで見つめるもう一人の空広が囁いた気がした。

 その小さな音が、空広の命を繋ぐことになった。

 かさ、という音に意識を引き戻される。

 立ち止まって、見下ろす視線。

 熱でぼんやりとした頭で見つめる中、その姿は身をかがめて何かを空広の眼前に差し出していた。

 縮んだような、小柄な影。着物から覗く老いた皺くちゃの腕。

 奇妙なことに、夏だというのに老人は頭巾を目深にかぶっていた。倒れたまま見上げる空広と、月を背にした頭巾の奥の瞳が合った。

 哀しくて、優しい目だった。

 動けないでいる空広の傍らに椀を置くと、老人は背を向けて闇に消えて行った。

 苦痛に顔を歪めながらも、空広は起き上がる。おぼつかない手で椀を取り上げてみれば、濃い薬草の匂いがした。

 一気に飲み干すと、臓腑に薬湯が染みわたって行く。

 そのまま深い眠りに落ち、目が覚めた時には痛みは去っていた。

 空広は、死ななかった。



 次の朝、ふらつく足と霞んだ目であたりを確かめてみれば、空広は人間たちの領域に入って来ていたらしかった。

 かすかに聞こえる人の声をたどってゆくと、村、と言うほどではない数の家が切り開かれた森の中にぽつりぽつりと点在していた。

 まるで警戒心に毛を逆立てる小さな動物のように、空広は茂みに身を隠しながら木々の間に覗く人間たちを伺った。

 物静かな人間達はひっそりと畑を耕したり、少し離れた海岸に魚を取りに行ったりしていた。

 魚。再び飢えていた空広は、彼らを追って海岸に向かう途中で驚くことになる。

 海に向かう茂みが、急に開けた。

 眼前に、美しい池が姿を表していた。

 澄んだ水を抱き込むように茂る緑と、静かな水の鏡面。

 深い岩場の先に口を開けた青緑のさざ波の下に、美しい魚たちが体を煌めかせていた。

 確かに浅い水底が見えているはずなのに、手を伸ばせばそのままぐいと引きこまれて、どこか別の世界に行ってしまうような気がした。そんな、不思議な池だった。

 遥か眼下の水面を覗き込むと、魅せられたような瞳が見返していた。 

 空広はこの池から離れたくなくなった。

 そうして、新たな場所での新しい生活が始まったのだった。


 生きるにはうってつけの場所だった。 

 池の周りには木々が豊かに茂り、食べられる実や虫を見つけることは難しくなかった。そして、自然の中で食べ物を探しつつ、どうしてもうまくいかないときはあの小さな集落に忍び込んで、野菜や魚を失敬することを覚えた。

「マジムンだ!」

「アクマだ!」

 焦った人間たちの声を後ろに聞きながら、空広は全力で走り去る。

 飛ぶように木に上ると、枝影で生の魚にかぶりついた。

 眼下で必死に盗人の姿を探す人間たちを見ながら、空広はほくそ笑む。

 いつか与えられた着物はもはや体に引っかかっているだけのぼろになっていたし、代わりに体に蔓草を巻きつけた姿は泥だらけで、確かに人間には見えなかったろう。

 人間と、そうでない何かの狭間のいきもの。

 そんなものに身を落とした空広にはしかし、やめられないことがあった。

 集落の隅に茂る大木の上から、人間たちの世界を見ること。

 眼下で、人間たちは小さなことに一喜一憂し、笑ったり、泣いたりしていた。

 男も、女も、小さな子供もいた。

 空広と同じくらいの年の子供も何人かいて、そのうち彼らの名前や癖まで覚えてしまった。それに、子供たちの母親のことも。

 こんなにも遠い人間の世界であるのに、なぜか彼らを見つめずにはいられなかった。

 見つめる先にはあの老人もいた。

 頭巾の老人はいつも俯いていて、周りの人間たちからほんの少し距離を置かれていた。

 老人は天気の良い日には決まって村を歩きまわり、最後に空広の潜む大木に寄りかかって一休みをするのだった。

 今日も、寂しそうにしている──そう思って見下していた遥か頭上からの視線に、老人は気付いたらしかった。

 今まで誰にも気づかれなかったのに──縮んだような老人に気取られたのがあまりに意外で、空広はどぎまぎする。

 そんな動揺を感じたのだろうか、見上げる頭巾の奥の瞳が笑ったように見えた。

 集落の方へ戻って行った老人は、やがて小さな包みを手に戻ってきた。ちら、と木の上に視線を投げると、包みを置いて再び去って行く。大きな葉に包まれたそれを開けてみれば、焼いた魚と握り飯が二つ。

 そんなことが、何度かあった。

 がつがつと握り飯を貪りながら、空広は必死に自分に言い聞かせた。

 動くものを見ているだけだ──。それでも、甘いコメの味が、火の通った魚の味が、幼い心を篭絡しかけていた。

 人間の世界。

 そこから身をもぎ離すように、空広は自然の中に走り戻って行くのだった。


 空広を迎えるのは、大地にぽっかりと開けたあの水の口だった。

 池は海岸線から少し入ったところにあり、海とつながっていた。だが、どんなに潮が引く日も澄んだ水が絶えることがなかった。

 なぜか集落の人間たちはここには決して近づこうとしなかったので、空広が隠れ住むにはうってつけの場所だった。

 たしかに、小高い岩場の下にある海池は、魚を取るには遠すぎた。

 だが、たとえ池に手が届こうとも、そこで食べ物を捕まえようという気にはならなかっただろう。

 そこは、特別な場所だった。

 穏やかな水面の下で踊る魚たちは、まるで水を通して姿を覗かせた別世界の聖なる存在のようだった。彼らを見つめる時は、自然と息を詰めた。

 池には何か不思議な力があるらしかった。

 鳥、小さな動物たち、野生化した馬、ときには人も──命が消える前に彼らはこの池の周りに引き寄せられ、水を見つめながら穏やかに眠りについていった。

 やがて周りの緑からひっそりと現れたやどかりや小さな生き物たちが命の消えた体を口にし、やがて消し去って行くのを空広はじっと見守った。

 それは穏やかな、生と死の循環だった。


 だからその満月の日、一つの人影が見えたときも不思議には思わなかった。

 また一人、生から死へ移ろうとしているいきものが現れただけだと思った。

 木陰から覗く空広の前で、その姿は池の淵を覗き込んでいた。

 白っぽい着物を着て、綺麗な顔の柔和な輪郭が月明りに白く照らし出されている。

 髪を結ってはいたものの、顔はまだ幼い少年のもので、思いつめたような顔の真ん中で花のような唇がうっすらと開いていた。

 魅せられたように、水に向かって手を伸ばす。

 空広は密かに舌打ちをした。

 ──落ちて死ぬ気だろうか。

 聖なる池を汚されたくない。そんな思いに、空広はひどく苛々していた。

 だが、少年は弾かれたように顔を上げた。

 背後から近づいた壮年の男が、少年の薄い肩を鷲掴みにしていた。

「離してください! 汚らわしい!」

 甲高い声と共に、少年は身をもぎ離す。

 勢いで足元にあった籠が蹴とばされ、中のものがぱっ、と闇夜に散った。

 月に照らされる大地に散らばった、無数の白い欠片──。骨だ、と空広は思った。

 だが、その鮮烈な香りにそうではないと理解する。

 大蒜。

 よく見れば、何本もの茎も投げ出されていた。

 闇に浮かび上がる白い根が、青い池の周りに切り裂くような香りを振りまいていた。

「何を考えているのだ! 供物の大蒜を持ち去るなど──」

 少年は身をよじるようにして男から距離を置く。

「何がいけないのです? おじいさまの病気に、薬になるかと持ってきただけですよ」

 馬鹿者、と男は叫ぶ。

「この不信心者が! この無礼に我が家にどんな神罰が、」

 言葉をさえぎるように、少年は嘲り笑いを投げる。

「ばかばかしい。だから父上は、いや、我が一族はだめなのです。

 実体のない神より、今苦しんでいる人間を優先して何が悪いのです?おかしいのは父上の方ではありませんか。

 おじいさまを、あなたの実の父親をこんな辺鄙な場所に追いやって。孫の私が大蒜くらい持っていって、何が悪いのです」

「減らず口を叩くな! 仕方なかろう、父上は病が……」

 は、と少年は罵った。

「その割には、世話をしている下男も下女もなんともないではありませんか。

 あなたはこじつけているんだ。(まつりごと)に口を出して欲しくないから、おじいさまを追いやった。そうでしょう?」

恵照(けいしょう)ッ!」

 雷鳴のような声が響く。

「恵照、お前は我が家を継ぐべき長男だ。お前に何かあったらどうする……。良いか、お前は一族の長となり一族の繁栄を、」

 うつむいたままの少年は嘲り笑いを漏らした。

「僕は"一族"の道具じゃありません」

「なっ……」

「あなたが僕を大切なのは、逃げた妻と僕が同じ顔だからでしょう?」

 き、と少年は男の顔を睨み付けた。

「うんざりだ。そんなに一族と言うのなら、偉大な先祖、真佐久(まさく)の世にでも生まれたかった。

 遥か遠く中山(ちゅうざん)へまで漕ぎ出して行ったという我らが一族も、今や因習にとらわれた田舎士族ではありませんか!」

 男が少年の頬を打った。

 勢いでよろめいた少年が大蒜の根を踏み、鋭い香りが充満した。

「父上はいつもそうだ。自分の気に食わないものは力で抑えつけるか、どこか見えないところにやってしまうか」

 震える声の少年は、片手で顔を覆うとあとじさる。

 ぱら、と池の淵の小石が落ちるのが見えた。

「お望み通り、見えないところに行きますよ。こんな生活、僕はもううんざりだ!」

 捉えようとする大きな手から、弾かれたように少年は身を引いた。

 あ、と思った時には白っぽい着物が宙に躍り、水音が上がっていた。

 ──馬鹿だ。と空広は思った。

 大潮の日の池は、驚くほどに浅いのだ。

 案の定、水底に散らばった岩に叩き付けられた少年は、浅い水面で苦痛に身を折り曲げていた。

 岩の淵で切ったのだろう、少年の腕から流れ出る血がみるみる透明な水面を染めて行った。

 父親の男がおろおろと池の淵で動揺している。

 空広は舌打ちをした。

 ──池が汚れる。

 だが、それとは別の不可思議な衝動が空広を動かしていた。

 何かに突き動かされるように、気が付いた時には岩場を伝い降りて、少年を助けに行っていた。

 血を流す体を抱きとると、少年は無防備に身を預けてきた。長い睫毛が震え、黒目がちの瞳が見つめる。

「──パーントゥ?」

 なるほど、体中に蔓草を巻きつけ、泥の膜に覆われた姿は伝説の来訪神に見えないことも無かっただろう。

 空広は巻きつけていた蔓草をぶち、と千切ると少年の傷口近くをきつく縛った。

 そのまま池の岩場に少年を押し上げると、他にも傷が無いかを見分する。

 そんな空広を、少年の柔らかい手が止めた。

「もう、傷はないよ」

 そのまま、温かい手が空広の首に回される。

「それより、抱きしめておくれ。僕は寒いんだ、とても……」

 ぐったりと体重を預けた少年から、体温が空広に伝わって来た。

 それは久しく感じたことのなかった、人間の温かさだった。


「その手を離さんか、汚らわしい!」

 は、と我にかえると先ほどの男が憤怒の形相で仁王立ちになっていた。荒々しい手が空広をもぎ離す。あまりの勢いに、空広はばしゃりと水に叩き付けられた。

 見上げた池の淵には、松明を持った人間たちが集まって騒いでいた。

 ざぶざぶと水をかき分けながら進んできた人間たちが、血を流す少年を捉える。

「離せ、僕は一人で立てる!」

 叫ぶ少年は空広に手を伸ばした。

「その子に手荒なことをするな! 僕を助けてくれた子だぞ!」

 父親の男の嘲るような声が降って来た。

「聞いてはいたぞ、父上の荘園におかしなマジムンが一匹出ると。こいつか!」

 男の踵が上がり、起き上がろうとしていた空広を再び顔から水に叩き付けた。

 顔にこびりついていた泥が水に落ちる。 

 憎悪の瞳で見返した先で、男は怯んだような顔をした。

 その目が、空広の顔を凝視している。

「十字傷の子供──?」

 周りの男たちの視線が集まり始めた。

 ──生きていた。

 ──逃げた、根間(ねいま)の一族の子。

 ──目黒盛(めぐろもり)の直系の……。

 ひそ、と囁き交わす声に、男が顔色を変える。

「な……! これはただの汚い子供だ! 捨て置け、いや、殺してしまえ!」

 煌めく刀を抜いた腕に、傍らの中年の男がむしゃぶりついた。

「落ち着いてください大立大殿(おおだておおとの)、根間の一族とこれ以上こじれてはなりませんぞ!

 恵照様を助けてくれた子供を殺したとあっては、一族がどんなそしりを受けることか!」

 押さえつける男たちから身をもぎ離した少年──恵照も嗤う。

「じいやの言う通りですよ、父上。あなたが後生大事に守って来た一族の名誉とやらも台無しだ。少しは落ち着いたらどうなんです?」

 怒りに打ち震える男──大立大殿を押しのけると、恵照は空広を抱いて水から立ち上がらせた。

「父上、我らは名誉と恩義を大切にする一族なのですよね?

 当然、一族を継ぐべき長男の命を助けた、勇気ある子供を捨て置くことなどないのでしょうね?」

 暗い笑みを張りつかせて言い放った恵照に、大立大殿は顔色を変えて絶句した。

 恵照は明るい笑みを浮かべて空広に向き直る。

「さあ、一緒に行こう。着物と、食べ物を用意しようね。いや、まずは風呂かな?」

 白い指が空広の頬から溶け落ちる泥を拭った。

 その綺麗な顔に浮かぶ月のような微笑みに、空広は魅せられていた。




 <第三話に続く>


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