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[第17話]

 宮古島の英雄・仲宗根豊見親をモチーフにしたシリアス長編歴史ファンタジー「竜宮の寵児 -異伝・仲宗根豊見親-」第二部。


 清らかなる月の王女、ついにシュリの闇夜に降臨す。

 金の光を呑み込んで、男たちの運命を踏みしだくのは血染めの紅き託宣か。

 シリアス琉球史ファンタジー「竜宮の寵児」王都シュリ編、月華舞い散る 第一七話。


 あくまでパラレルなミャークの英雄物語として楽しんで頂けましたら幸いです。

 不定期更新・気長にお付き合い頂けましたら幸いです。 


 ※※※R-15※※※

 ※無断転載を禁じます※

 ※「pixiv」様にも重複投稿しています※

 ※第1話&第11話扉絵は[嵐山晶 様] に描いて頂き、ご本人の許可を得て掲載・使用しております※

 


 床に額をこすりつけんばかりのみげるを傍らに、玄雅は一言だけを発した。

「……お久しゅうございます」

 形だけ頭を下げたのが分かるのであろう、女──月清──の冷たい視線がつむじのあたりに刺さっていた。

 下げた視線の先で、絹の靴が音もなく滑る。やがて す、とその足が止まり、空気にわずかな湿ったにおいが混じった。絹のつま先が、先程玄雅が床に広げた血の混じった水たまりに触れたのである。

 じっとりと落ちた沈黙が、目の前の女を満たす不快感を映すように重く広がっていった。

 あまりに長い間黙っているものだから、ついに玄雅が頭を上げてみれば、月清は じ、と目を伏せてみげるの後頭部を見つめていた。

 ──相変わらず、地味な顔をしている。

 薄闇に浮かびあがる白い横顔を眺めながら、玄雅は率直な感想を心の中で述べた。

 ──宇津免嘉の方が、何倍も美しい。

 記憶の中の月清は青白い少女であったが、今目の前にいる姿は娘と言うには大人びていて、女と言い切るにはまだ青い、何やら半端な生き物であった。首が長く、体が薄くて細い。一言で言うと、細長い女であった。

 無論、この女はこの女なりの方法で美しいということは玄雅にも分かっている。むしろ、目元も口元も整いすぎている程なのだ。だが、そこには生気というものがまるでなく、その仮面のようにのっぺりした風貌を見ていると、どうしてもミャークに残してきた妻・宇津免嘉のぱっちりと輝く瞳や、肉感的な唇と引き比べてしまうのであった。

 ふ、と夢から覚めたように、月清の瞳が玄雅の目を刺した。不遜な思考を咎めようとでもするのか、ひんやりした光が玄雅の目をちりちりと焼く。それだけでは飽き足らないと言わんばかりに、玄雅と目を合わせたまま、月清はふわあ、と着物の裾を動かした。そのまま、優美に上げたつま先を、みげるの髪の渦にめり込ませる。

 眉をひそめる玄雅の目の前で、小さな絹のつま先が赤茶けた髪の渦を何度もかき混ぜ、みげるの密やかな吐息が闇に溶けた。

「あまりに帰りが遅いので……」

 ぐるぐる、とつま先が円を描き、みげるの長髪が乱れに乱れる。

「犬が獲物を狩り損ねたかと思いました……」

 頭を踏みしだかれるみげるの吐息があやしく震え、玄雅の不機嫌さが増して行く。

「……犬の躾は後でゆっくりされるが宜しいかと」

 ばちん、と切り捨てるように玄雅は言い放った。

「深窓の姫君が男子禁制の場で男二人と会うからには、そのような戯言以外の、さぞ大切な御用がおありでしょうから」

 霞んだ瞳が上がり、再び玄雅を捕らえた。その夢見るような瞳が淡く笑っているのだと理解するまで、いくばくかの時を要した。

「……私は、あなたのそういうところが嫌いではありませんよ、ミャークの獅子……」

 色の薄い唇の両端が朧に上がる。

「ですが、まずは訂正しておきましょう……。今私が相対しているのは、雄獅子が一頭、雄犬が一匹……。畜生は男ではありません……」

 今度は玄雅の唇に冷たい笑みが浮かぶ番である。そう、ここが王都だった。胸が悪くなるような冷たい悪意が充満する、蛇の巣窟……王都・シュリだった。

 ようやく頭髪の雑巾で濡れたつま先を拭うことに満足したのか、月清は再びふわあ、とつま先を上げると、両足で床に立った。そのまま音も無く進むと

「椅子……」

と呟く。

 途端に、床に這いつくばっていたみげるの手足が突っ張り、たちまち四つん這いの生きた椅子に変わった。月清が優美に腰を折り曲げれば、みげるの背中の弧はまるであつらえたように月清の尻の下に収まった。

 みげるの全身が放つ熱が、月清の冷ややかな瞳と混じり合い、いびつに脈打っていた。

「お戯れはお済みですか」

 澱んだ靄を払おうと、玄雅はこれ以上はないほど不機嫌な声で言い放った。

「そう……犬と遊んでいる場合ではありませんでした……。私には時間がない……」

 答える月清の声は、あくまでひえびえとしていた。

 玄雅はこの女が嫌いだった。傲慢で高慢でつかみどころのないこの女、現国王・尚円の娘──シュリの王女・月清が。

 玄雅の敵意など露ほども気づかない風に、月清が視線を動かす。

 やがてその視線が止まり、じっとりと闇の中の一点に落ちた。

 着替えたときに床に置いたままの、刀……。

 うんざりだ、と玄雅が心の中で悪態をつく前に、月清が言葉を継いでいた。

「伏せ……いえ、そこに座りなさい、ミャークの獅子。私がこれから喋ります……」

 固い視線を投げ返しながら、玄雅は無言で月清が示した床に座す。夜気のひんやりした冷気が、木の床から肌に伝わり、熱を奪っていった。

 ちり……ちり……と虫が密かに鳴く声が板壁を通して聞こえ、深夜の夜気がしんしんと空気を染めてゆく。

 死体のように白い顔に浮かびあがる半眼の双眸が、玄雅を見下している。同じく血の気のない指を所在なさげに腿のあたりで組み合わせ、長衣の下で足を投げ出した姿が、薄闇の中で不吉に浮かびあがっていた。

 ──この女もまた、死者なのかもしれぬ。

と玄雅は思う。

 シュリの城。数えきれない屍の上に築かれた、王家の根城。そんないわくつきの場所であれば、誰が生きていて、誰が死んでいるかの境目すら曖昧なのかもしれなかった。

 ──そう。数えきれない屍、屍、屍……。

 ──その屍を、築いたのは、

 ぼや、と思考が歪み、死者たちのつんざくような歌声が脳裏に反響した。

 淡いめまいを感じた時、不意にひんやりともふんわりともいえない感触が、玄雅の裸の胸に押し付けられた。視線を下げれば、着物の胸元に潜んだヨナ小が、全身を強く押し付けている。危ういところで引き戻され、気を取り直したように見つめ返せば、月清はほんの少し首を傾げ、やがてゆるゆると唇を動かした。

「……私があなたをはるばる辺境の地から呼び出した……ということは……用があるということは、わかりますね……?」

 もっときびきび話せばよいものを、と玄雅は心の中で悪態をつく。

 そしてそんな悪態などつけた立場でないことに思い至り、さらに苛々が増してゆく。そう──この女と出会った頃、玄雅の、いや、空広の喋り方は何倍もひどかった。そもそも言葉を発することに慣れておらず、慣れないシュリ言葉の選び方は時に奇妙で……流暢に話せる時と、絶句してしまう時が交互に訪れ……──。

 こんな記憶など消えてしまえばよいのに、と玄雅は歯噛みをする。遠いどこかに置いてきたはずの過去、みっともない空広の姿をこの女は知っているのだ。そう思うと、今すぐ叫び出したいような、凶悪な衝動に襲われた。

「あなたは変わりましたか……ミャークの獅子……?」

 相変わらず人を苛々させる調子で、月清が首を反対側に傾げながら呟く。

「いえ、変わってもらっては困るのでした……。対価を払えば、どんな汚れ仕事も厭わないあなた……」

 睨み付ける玄雅のことなどお構いなしに、細長い女が囀り続ける。

「私たちの敵を……きれいに掃除してくれた、あなたなのですから……」

 月の光が、目の前の女の輪郭を白く照らし続けていた。その光は、呟き続ける女の心根を映し出すように、どこまでも冷たく澄んでいた。

「無駄話は結構です。望みを聞きましょう。我が子の解放の対価を」

 そこで月清は目を糸のように細めて玄雅を見つめた。まるで霞みの向こうに目を凝らすような瞳だった。

「…………殺して欲しい人がいます」

 ふん、と玄雅は鼻を鳴らす。

「珍しくもないご依頼ですな。今度は、誰なのです?」

 月清の唇が、ほんのわずかに開き、そして不意に震えた。この女にためらいなどあるはずがない……そう思っていたのは誤りだったのか。

 尻に敷かれたままのみげるが、気づかうような気配を一瞬だけ発したのを、玄雅の肌は確かに汲み取っていた。

「殺して欲しいのは……」

 夢見るような瞳が瞬き、睫毛が震えた。

「殺して欲しいのは──……」





 ……ねえ、可笑しいでしょう? あの人、一人では眠れないのよ。

 赤ん坊みたいにしがみついてくるの。

 そう。だから私はあの人が愛おしい。

 時を経ても変わらない、無垢な心の柔らかさ。強く、もろく、不安定で……。その透明な鼓動に歯を立てて、滴り落ちる命のぬくもりを確かめずにはいられない。

 あら。怒っているのかしら?

 ……ふふ。とうとう、あの人を名前で呼んだわね。私の前で。

 私も、ついにあなたの親密さの輪の中に入れてもらえたのかしら?

 不思議ね。感情というものは、瞳の中に宿るものなのかしら。

 私は、あなたの瞳も好きよ。

 そう──あなたの瞳。絶望と希望、支配と慈愛を同時に宿すあなたの瞳が。

 ねえ、怒らないで頂戴。もっと近くであなたの瞳を見たいの。

 ああ、そうだわ。

 ねえ、本当は知っているのでしょう? 私たちは──……、





「……寝るぞ」

 は、と玄雅は弾かれたように顔を上げた。

 不吉な託宣を告げて去って行った月清──その後ろ姿を玄雅は見送っていたはずなのだ。

 しゃら、と揺れる髪飾りの音が、玄雅の脳裏で反響し続けていた。

 確かにそれは現実に起きたことのはずなのに、なぜかとてつもない嘘のような気がしてならなかった。

 目を瞬く間にも、みげるが粛々と部屋を片づけ、畳んであった布団を広げている。

「明日は早い。謁見だ」

 無論、みげるの言っている意味は分かる。根回し(、、、)が終わった今、ようやく王への拝謁を許されるということなのだろう。

 押し黙る玄雅をよそに、みげるは布団を敷き終わると、顎で示した。

 むす、と腕を組んで立ち尽くすみげるの視線を無視しながら、玄雅は無言で歩みを進めると、布団のきっちり半分に器用に滑り込んだ。無論、懐のヨナ小をつぶさないように、背を向けて横向きにである。

 ち、と不機嫌な舌打ちをしてから、みげるは明かりを吹き消した。

 そのまま闇の中で布団の反対側を持ちあげた時、玄雅の懐からヨナ小が飛び出した。そのまま宙に躍った体が、みげるの顔のあたりに体当たりする気配が続く。

 真っ暗闇の中で見えない何かに殴られ、みげるが明らかに怯んでいるのが伝わってきた。

「……空広。お前は一体……?」

「私を、昔の空広と同じと思ってもらっては困る」

 再び懐に戻ってきたヨナ小の頭を撫でてやりながら、玄雅はなんとか声に凄みを込めようとしていた。

「今の私は、ミャークの……仲宗根、」

 だが、瞼が止めようもなく重く落ちてきていた。

「仲宗根豊見親……玄雅……」

 ヨナ小が安心させるように体をすり寄せていた。

 ──長い夜だった。死者の群れ。燃えた酒場。それに、細長い女……。

 朧な意識の向こうで、こちらに背を向けたみげるの体温が、自らの背にじんわりと伝わってきていた。長い夜が終わろうとしていた。

 ──ヨナ小がいる。眠っても大丈夫だ。ヨナ小がいるのだから……。

 そしてそのまま、玄雅は眠りに落ちた。まるで奈落に呑み込まれるような、全てを包み込む眠りの中に。





 ──まったく、心地が良いものだねえ。生きた血と肉というものは。

 ゆうらり、ゆうらりと揺する、粘ついた律動(リズム)。血液の脈動……。これはね、私の生物学上の母の心臓の音なのだよ。

 しかし、面白いものだ。羊水には宿主の性質が溶解するものなのかねえ? 

 ああ、そう。水溶性の嘘と虚栄心のことさ。

 まあ、そんなものでも、人生の道行きに寄りかかる杖にはなるのかもしれないねえ。そうでなくては、やりきれないかもしれない。

 苛烈だものね、人生は。

 ああ、ほら、あれが私の生物学上の父だ。いや、なんとも言えない光景だねえ、老人と若い娘だよ。

 はは、そんなものさ。そうそう、この時代だからね。生存競争だ。

 人と人との喰らい合い……。生き残るためには、人は意外と何でもやってのけるものさ。問題は、それがとんでもない悲劇につながることがあるということなのだよ。

 ああ、困ったものだねえ、困ったものだ──。





 夢も見ずに、玄雅は眠った。ひたすらに、まるでそうすることだけが生まれついての宿命だと言わんばかりに。

 気づけば外で鳥が鳴き、つられるようにぱちり、と瞳を開けていた。ゆるゆると視線を泳がせれば、すっかり装束を整えたみげるが腕を組んで見下ろしていた。

「いつまで寝ている」

 ごろ、と寝返りを打って仰向けに見上げた玄雅は、懐のヨナ小を優しく揺り起こしながら返した。

「いつ、出る」

「お前の準備が出来次第。急げ」

 チュイチュイ、チュイチュイ……。何ともさわやかに小鳥が鳴き続けていた。風がそよぎ、庭木を──そう、王宮の敷地内に一定の間隔で植えられた、野生のものではない木の枝を──整然と揺らすのが遠くで聞こえていた。

 す、と布団から身を起こせば、小さな部屋が朝日に照らし出されていた。昨夜と変わらない、板壁に板床の、狭い部屋。明り取りの小窓から新鮮な空気が吹き込み、木の卓の上に置かれた木のたらいの水面を揺らしていた。

 みげるの視線を感じながら、玄雅は卓の前に正座する。

 素朴なたらいの中を手ですくい、顔を丹念に洗う。視線の端では、たらいの縁に載ったヨナ小がぴた、ぴた、と水面を叩いては、うれしそうに身をよじっていた。

 指先に触れる水はひや、と冷たく、城の井戸から汲んで間もないに違いなかった。

 ──こんな気遣いに、感謝などしてやらないぞ。

と玄雅は心の被膜を厚くする。

 そんな心の動きはみげるにも分かっているはずだ。たらいの横にきれいに畳まれた手巾を取り上げ、顔を拭いながら、玄雅はみげるの後姿を追った。

 背の高い西の国の男は、今日は長い髪を片頭に結って、昨日のものよりいくらか上等な着物を着ている。身づくろいを続ける玄雅を置き去りに、板間の隅に向かって行く。そのままひざまずくと、じっ、と隅の一角を見つめて頭を垂れた。

 みげるの横顔を、朝日が照らしていた。彫りの深い目元に高い鼻。後れ毛が波打ち、光を浴びた赤茶の髪が金色の輪郭を帯びていた。祈りを唱え続ける口元はどこまでも雄弁で、伏せた睫毛は長かった。

 かつて、利用し合い、身を寄せ合っただけの男。あのころ──じっと見つめた血塗れの掌の先に、いつもいた男。

 コドモの空広は、その異国の容貌を密かに眺めるのが好きだった。まるで、遠い地から来た珍鳥を眺めるように……色を失った世界の中で、みげるの色彩が眩しかった。

 思い出と今を繋ぐように、小さな祈りの声が続いていた。ミャークの森で女たちが唱える文句に似ていなくもない音律が、玄雅の気持ちを不快に波立たせていた。

 苦い味がじんわりと口の中に広がり、玄雅は腹立ちまぎれに言い放つ。

「滑稽だな。お前は相変わらず祈っているのか」

 手櫛で髪を集め、ぐい、ぐい、と引っ張って結いながら、玄雅は続けた。

「人を殺して申し訳ない、後悔しています、とでも祈れば、罪が軽くなりでもするのか? よくもそんな茶番に耐えられるものだ」

 悪意に溢れた声に、肩の上のヨナ小が不安げな目で見つめているのが感じられた。

 やがてみげるの祈りの声が徐々に小さくなり、消えた。

長い睫毛を何度かゆっくりと瞬かせてから、薄い笑いを含んだ横目をこちらによこす。

「“迷信(信心)深い”ミャーク人に言われるとは心外だな」

 ふふ、と小馬鹿にした笑い声が続いた。

「おれにしてみれば、お前たちがあの小さな島で日がな祈りに明け暮れているほうが、よほど滑稽に見えるがな」

 みげるは視線だけでなく、顔全体をこちらに向けた。色があるかないかの薄い緑の瞳が玄雅を刺す。

「お前、おれとやり合ったかどで追放されたんだろう? 聞いた話じゃ、一言も反論しなかったというじゃないか」

 玄雅が言い返す前に、みげるが畳み掛ける。

「むしろ、おれが聞きたいところだ。

 ミャークの人間と言えば、畑を耕す時間も、漁に出る時間も惜しんで一生懸命神にお伺いを立てているようだが、あれは何なんだ?

 森の御嶽に神が住み、豊穣をもたらし、人の罪を裁き……本当に、おまえたちはそんなことを信じているのか? 

 なぜお前は、あんな不平等な裁きをすんなり受け入れられるんだ?

 そんな非合理的なやり方で、おまえたちはうまく行っているのか?」

 ぐ、と玄雅は黙り込む。

 ミャークの暮らしでは、「神」と「人」は不可分だった。

 家の中にも、外にも人々は祈りの場所を持ち、男も、女も、神の存在の前に頭を垂れた。

 ありとあらゆる場所に──森に、海に、丘に、空に……神はいた。いや、いるとされていた。 

 太陽も、月も、星も、水も、草木も、全てがミャークの人々にとっては神であり、人々は神の意志を問いながら暮らした。

 どの海で魚を獲るのか。

 いつ作物の種を播き、いつ作物を刈り取るのか。 

 どの方位がよくて、どの方位がだめなのか……。

 いや、それだけではない。

 不意に、玄雅の脳裏に嵐が吹き荒れた。

 いつかの昔、兄の恵照が盗んだ供物の大蒜が闇の中にぶちまけられていた。漆黒の夜に浮かびあがる真っ白な根と、忘れがたい鮮やかな香り。そして、神の供物を持ち去った恵照(罪人)を殴った義理の父……。

 そうだ、と玄雅は歯噛みをする。

 島のためにと一心に働いた玄雅に焼き付けられた、呪い子の烙印。

 海を血で染めたと、神の海を汚したと──……。金で買われた、偽りの神託。 

 そして……みげるの腹に突き刺さった釵と、飛び散った血潮。玄雅と川満に罪人の咎を被せた、島建ての神。

 家族を引き裂き、故郷からもぎ離し、咎を負わせ……節目々々で玄雅の道筋に北風のように吹きつけ、進む道を変えさせる、それ(、、)……。

 何が良くて、何がだめなのか。

 誰が良くて、誰がだめなのか──、

 そう、それはまるで──見えない暴力だった。

 見つめるみげるの瞳が、「なぜ」と問い続けていた。

 なぜ、そんなものに従い続けるのか、と。

「お前に……何が分かる」

 ようやく言葉を絞り出した玄雅はしかし、喉の奥にせり上がる熱いものを押さえられないでいた。

 故郷(ミャーク)にいる時は押し込めているしかなかった、ひそかな感情が、ついに玄雅の理性の蓋をこじ開けようとしていた。

「私たちがミャークで……、」

 かつて、恵照と空広が作った畑を踏み荒らした、親戚の男たち。

「どんな生を送るか、」

 台風に薙ぎ倒された村。手当てもされず、木偶のように放置された川満。

「お前に……何が分かる!」

 イラブとミャークを結ぶ海を真紅に染めた血。口のきけない従順な子供──その殻を脱ぎ捨てた空広を見つめる、人々の怯えと嫌悪の瞳。

 ──ここ(ミャーク)で生きる限りはそれを享受するしかないのだと。そう必死に言い聞かせていた感情が、瞬時に煮えたぎり、吹きこぼれていた。

 激しい自然がそこにあった。小さな世界で生き抜こうと、必死にもがく人々がそこにいた。

 人の意志など、そこでは無力だった。善意、悪意──だれがどんな意図で試みようとも、人の行いは大いなる何かに翻弄され、思いもかけぬ結末の汀に打ち寄せられていった。

 それがミャークだった。そこに生きる限り、全てを受け入れるしかないのだと──そう思わせる何かが、あの場所にはあった。

 ──そう、そうするしかなかった。そうするしか……、

「……そう信じることが、お前の枷なのか?」

 みげるの声が玄雅を引き戻した。

 悪夢から覚めたように、玄雅は何度も瞬きをする。ひどく呼吸が浅くなっていた。指先までが、冷たくなっているらしかった。

 ヨナ小が気遣うように玄雅の頬に体をすり寄せている。何とか自分を取り戻そうと、玄雅は何度も深い息を吸っては吐いた。

 部屋の隅から見つめていたみげるは、やがて声の調子を和らげた。

「……おれは、故郷のことはよく覚えていないし、」

 静かに見つめるだけでなく、小さく手招きをして部屋の隅を示す。

 ようやく平静を取り戻した玄雅は、気まずさも手伝ってしぶしぶ歩を進めた。部屋の一角で足を止めると、仕方なしにみげるの隣に立つ。見下せば、みげるがひざまずいたまま、まっすぐに一点を見つめていた。 

 こうなっては半ば避けられず、玄雅もそちらに目を向ける。

「自分の国の言葉もほとんど忘れてしまった。親も、家族も、顔すら覚えていない」

 ──みげるは、西の国の漂着船の中にいた子供だったのだと。

 それだけが、玄雅が知るみげるの過去だった。みげるがどんな生を歩み、なぜ闇を這いずる人殺しになったのか……聞いたこともなかったし、聞こうとも思わなかった。

「おれが覚えているのは、こうしていつも、祈りを捧げていたことと、」

 みげるの長い指が胸元を彷徨い、あのちゃちな棒の組み合わせに触れていた。二本の棒を十字に合わせた、ちいさな金属の飾り物。首にかけた鎖の先に留まるそれを、この男は初めて会った時から今に至るまで、後生大事に身につけていた。

 玄雅の不機嫌に気づいたのだろう、みげるは笑みを浮かべて玄雅を見上げた。この男が時折使う、見え透いた手だった。不意な笑顔で玄雅、いや空広をなだめすかすのだ。

「それから、こうやって見守られていたということだ」

 淡い緑の瞳が、再び部屋の一角に戻る。

 詰め物をした小さな座布団の上に、ちんまりと佇む白い像。ほんの掌に収まるほどの、陶の像だった。

 ──女の像だ。

と玄雅は簡潔な感想を心中で述べた。

 頭から布を被った女が、朝日の中であるかないかの柔和な笑みを浮かべている。

 いつだったか、大陸からの渡来人が似たような像に祈っているのを見かけた事があった。きっとミンの国あたりの窯で焼かれたものが、海から海へと渡り行き、シュリにたどり着いたのだろう……そんなことをうかがわせる、異国の香りを纏った像だった。

「何か大きなものがおれたちを見守り、心の底を反射して問いかけ、悪さをすれば罰し──……」

 みげるが両手を組み合わせて、再び頭を垂れる。髪の一房が垂れ落ち、小窓から差す光を反射して金の光を放った。

 その光を美しいと思う自分に気付いて、玄雅は不機嫌に眉をひそめる。

「……おれは、こうして祈っている時だけ、故郷とつながる。どこかに置いてきたものにつながる。だから……おれは、祈るのかもしれないな」

 再び頭を上げたみげるは、答えなど期待していないという風に淡く呟いていた。

「……だからお前は、あの女に踏まれて悦んでいるのか」

 ゆるゆるとこちらを向く緑の瞳が、またあの笑みを帯びている。 

 言うまでもないことだった。みげるが熱心に祈っていた像には、どこかあの女の面差しが宿っていた。何かを超越したように微笑み、白く、冷たく──。

 だが、玄雅の辛辣な視線をものともせずに、みげるは曇りのない笑い声を上げた。

「そうだ。罰を受ける度に、おれの体に罪が刻まれる。犯した罪を、あの方がえぐり、焼きつける。痛みを感じる時──おれは生きていると感じる。だから、おれはあの方に踏まれたい」

 ──欺瞞だ。

 玄雅は心の中で盛大な罵声を発した。

 そして、そんな非難などはなから織り込み済みだと言わんばかりの薄い緑の瞳が、雄弁に語っていた。

 お前は、違うのか? と。

 お前もまた、痛みこそが生なのだろう、と。

 視線を避けるように見下せば、冷たい手の甲に血の管が浮かび上がっていた。

 網目のようにはびこり、脈打つ、薄い緑色の呪縛。

 流れ続ける血。ミャークの血脈──……。

 いつかの昔に、自らえぐった額の傷の痛みが、再び鮮やかに脈打ち始めていた。

 生の目印、死の印……。

 どこかの暗い深みから、ずるり、と手を伸ばして足首を掴み、歌いかける声がした。

 


 ……実の おや にも 見捨てら……──

 …… たしは ……めな子 いらない子 ──

 ……あなたと 同じ いらない …… ──


 歌声が不意に途切れた。みげるが玄雅の腕を掴んで覗き込んでいた。

「時間を取りすぎたな。行くぞ」

 感情を消した硬質な瞳に、玄雅は理解する。

 ついに、謁見の時が来ていた。

 数年ぶりに再会するあの男との、邂逅の時が。



<第十八話に続く>


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