[第16話]
宮古島の英雄・仲宗根豊見親をモチーフにしたシリアス長編歴史ファンタジー「竜宮の寵児 -異伝・仲宗根豊見親-」第二部。
王朝の闇がリウクーを呑み込んでゆく。
闇染めの月の下で、死者は聖者として蘇るのか。王都シュリ編、混沌の最新話。
あくまでパラレルなミャークの英雄物語として楽しんで頂けましたら幸いです。
不定期更新・気長にお付き合い頂けましたら幸いです。
※※※R-15※※
※無断転載を禁じます※
※「pixiv」様にも重複投稿しています※
※第1話&第11話扉絵は[嵐山晶 様] に描いて頂き、ご本人の許可を得て掲載・使用しております※
死者の群れに四肢を縛され、玄雅は死に物狂いでもがいた。
「お前の耳をくれ! もう一度聞かせてくれ、私の名を呼ぶ愚かな民の声を。尚巴志様、尚巴志様……ああ、あの栄光の声をもう一度聞かせてくれ!」
叫ぶや否や、腐れた巴志が、がばりと口を開けた。腐った歯茎から醜悪な死臭が立ち上る。
「……離せっ!」
耳を齧り取られる前に、玄雅は渾身の力で身を捩り、死者の牙をかわしていた。そのまま体を回転させると、勢いで四肢をとらえていた無数の死者たちを振り払う。跳ね除けられた勢いで巴志が死者の群れに叩き付けられ、湿った音が酒場に飛び散った。
だが、波のように押し寄せる死人の群れが再び玄雅に襲い掛かっていた。
「離せっ!」
腕を振り回し、足をしゃにむに突き出し……自らを捕まえる腐った体を突き飛ばし、骨を粉砕し、前へ後ろへともがいた玄雅はついに再び自由を取り戻す。暴力的な玄雅の抵抗に、死者たちが怯んだようにあとじさる。
だが、つかの間の安堵も空しく、群れから飛び出してきた焼け焦げた髑髏が玄雅の両頬をがっしりと抑え込み、まるで恋人にするように情熱的に囁いていた。
「鼻、そなたの鼻をくれ! 鼻があればもう一度嗅げる、甘い肌の匂い、芳しい吐息……。踏揚様の香り!」
かくっ、と黄ばんだ髑髏が口を開け、接吻するように顔を近づけてくる。むき出された歯が玄雅の鼻をもぎ取る寸前で、玄雅は自らの掌を髑髏の顔の真ん中に渾身の力で押し付けた。
ごき、と嫌な音がして、白骨の頭が宙に舞う。
ああ、頭がー……と叫びながら飛んでいく頭蓋骨を、賢雄の骸骨の躰が狼狽しながら拾いに行く。その隙に背を向けると、玄雅は必死に腰に差した刀に手を伸ばした。
その間にも、遠巻きにする死者の輪がじりじりと狭まっていた。
大海の刃。あの日、あの時授かった刃。この刀さえあれば──、
だが、玄雅は絶望の息をもらす。
──抜けない!
漆黒の鞘の口は、まるで中の刃と溶け合ってしまったかのように頑として動かなかった。
は、と顔を上げてみれば、死者の群れの向こうから、あの少女が甘い微笑みで見つめていた。
ら、ら、ららら……
あの歌声、正気をどろどろに溶かして、耳の穴から流れ出させてしまうような忌々しい歌声が愛らしい唇から聞こえ続けていた。
ら、ら、ららら……
「畜生……!」
玄雅がついにらしからぬ悪態をついた時、ぺたん、と玄雅の肩を叩く手があった。
顔を上げた玄雅は思わず顔を引きつらせる。
「さあ、目をえぐらせておくれ。私が水平線の彼方をもう一度見られるように。もう一度見たいものだ、太陽に燦燦と光るカツレンの水面の先を」
死んでいるのに笑っている、腐れた阿麻和利。陽の光のような腐れた笑顔。
かたん、ともう片方の肩に掛かる手もある。
「何を言う。目は儂がもらうぞ。ザキミの城をもう一度眺めたいでなあ! ああ、見ろ、この若い目は儂の霞んだ目と違ってきっとよく見えるぞ。さあ、えぐって嵌めよう、えぐって嵌めよう」
死んでいるのに笑っている、白骨・護佐丸。底抜けに明るい死んだ笑顔。
二人の死者が玄雅を挟んで笑いながらにらみ合い、やがて朗らかに頷き合う。
「では、一つづつで」
「では、一つづつだ」
二本の腕が玄雅の目を目指して伸びてくる。
もはや、声も無かった。
──目を……えぐられる!
凍り付いた玄雅の視線の先で、やにわに阿麻和利と護佐丸の首が、飛んだ。
弾かれたように振り返ってみれば、うごめく死者の群れを割りながら近づいてくるのは、だらり、と長い刃を手にした攀安知だった。
一歩を進める度に体に掛けられた薄布がはだけ、闇の中で踊る赤い布から白い骨を覗かせた。
「甕に入れるのに、骨の一本や二本、欠けていても構うまい。我は腕をもらおうぞ。我を抱く腕……今宵はそなたの腕で我慢してやろう」
白骨の攀安知が再び ひゅ、と刀を振り上げ、玄雅は確かに見た。恍惚と笑う美しい顔、髑髏の奥で明滅する悲劇の王の顔を。
だが、その刃は玄雅の腕を獲る前に止められていた。
「完全形が欲しいのだから、勝手な事をしては困るわ」
少女──あの少女、歌声を止めた美しい少女が、玄雅と攀安知の前に割り込んでいた。細い片腕が、何かを掲げ上げている。
それは、攀安知の刃を宙で受け止める後世花の茎だった。
「おまえ、我を統べたつもりか? 我は誰の言うことも聞かぬ」
忌々しそうに呟く攀安知が振り上げた刃に力を込め、少女が甘い声で返す。
「わたしも同じよ」
じりじり、と攀安知の刃が押し下げられるのを、少女の後生花の茎が受け止め続けていた。信じられないことだった。細身とはいえ、ぬめる刃をただの一輪の花が受け止めているなど。
やがて攀安知とにらみ合っていた少女が、やにわに勢いを付けて刃を跳ね除けた。紅い花弁が宙に舞い、攀安知の刃はくるくると回転しながら闇の向こうに飛ばされていった。
「この遊戯の主は、わたし」
勝ち誇ったように言い放つ少女の声に、攀安知はやにわに悲壮な声を上げると、両手で顔を覆った。
「そなた、どこにいる? 安は今、悲しんでいるぞ! 死しても我らはなぜ会えぬ? 安はもう怒ってはおらぬぞ! そなたの裏切り、我はもう怒ってはおらぬ!」
わっ、と泣き声を弾けさせ、床に崩れ落ちた攀安知を尻目に、玄雅は一心不乱に出口を目指す。ひしめき合い、黄ばんだ歯を剥く死者たちを千切り、投げ飛ばし……だが、その道を塞ぐ者がいた。
あの少女だった。
「逃がさない」
その甘さを確かめてみたくなるほどに、零れるような蜜の唇が、薄闇を照らすように甘く笑っていた。
ら、ら、ららら……
白い歯が覗き、舌が動き、あの魔法の歌声が再び死者の酒場の闇を蕩かし始める。
ら、ら、ららら……
阿麻和利と護佐丸、それに賢雄が頭を再びくっつけ、尚巴志も気を取り直したようにこちらを見つめている。泣いていた攀安知もまた、威厳を取り戻して立ち上がる。歌声が、死者たちを鼓舞していた。歌声が、死者たちを何度でも狂わせた。
「……死者を冒涜するな!」
血を吐くような玄雅の叫びに、少女が優雅な手踊りをしながら返す。
「冒涜? いいえ、逆よ。生の衣を脱ぎ捨てれば、人は生まれたままの姿に戻るだけ。欲望と欺瞞、虚栄と孤独の肉塊に。死者を聖者としてしか甦らせないこと──そちらの方が、よほどの冒涜というもの」
「貴様とは、話にならない!」
噛みつくように叫んだ玄雅の足首を、何かが捕まえていた。
ぞっ、として見下してみれば、小さな白骨の手が玄雅の足首を掴んでいた。
「ぼくはねえ、腓をもらうんだ。ぼくの腓、枝の上に置いてきてしまったのだもの」
あどけない、無邪気な子供の声だった。明らかに小柄な白骨の死者が、玄雅の足元に縋りつくように座していた。
「ああ、大人の足だねえ。ぼく、大きくなれなかったの。
食べたら、大人の味が、するかしら。大人みたいに、一人で遠くへ歩いて行けるように、なるかしら」
小さな髑髏が小首を傾げ、空洞の瞳が玄雅を見上げていた。
──子供。小さな子供──……。
玄雅の中で、何かが壊れた。
「はっは、子供は無邪気でいいねえ」
「ははは、さあ、どきなさい。おじさん達がまず目をえぐるからね」
護佐丸と阿麻和利が優しく子供の死者を押しのけている。
「早く千切らせてくれ! 鼻、鼻を!」
「耳が先だ! この巴志が耳を取る!」
賢雄と巴志がどこかで叫んでいるのも聞こえていた。
だが、玄雅の目の前で、世界は再び実体を失っていた。もはや、足場すら不確かだった。
ら、ら、ららら……
歌っているのは、あの少女。遊戯の主の、あの少女──。
定まらない目を泳がせれば、甕を抱えた少女がどこか困ったような目をして見つめ返していた。
玄雅はようやく、理解する。
少女もまた──、
「我はもらうぞ、その腕を」
近くで攀安知が囁いていた。だが、見つめ合う少女と玄雅は、もはや止めに動きもしなかった。
──少女もまた、籠の鳥なのだと。
そして闇に煌めく刃が腕を刎ね、玄雅を闇へと突き落とした。
もちろん、落ちてゆく先は──ばしゃあ、とはじける水の音。
耳の中でぷくぷくと弾けるのは、地上を目指して逃げて行く空気だ。
体が沈んでゆくのは、暗い海だ。全てが廻り、全てが繰り返し、全てが混じり合い、殺し合う、永遠の──……。
もはや地上に空しく手を伸ばすこともできない。いつかの昔、深く、深く沈んでゆく道行に、未練がましく地上に伸ばした手。白い陽の光を求めて、空しく宙を泳いだ手。だか、今やそれも叶わない──何といっても、腕を刎ねられてしまったのだから。
──苦しくはないのだな。
馬鹿の一つ覚えのように、頭の中で呟いてみる。肺臓に無遠慮に注ぎ込む水。吸っても吸っても、入って来ない空気。
ふ、と疑問が頭をもたげた。
──苦しくは、ないのか?
ごぼごぼ。ごぼごぼ……。
水と共に体を満たしてゆく、死。
──息ができない。意思が利かない。息が──できない!
全身の血が、凍り付いた。
──死ぬ。
ああ、と玄雅は思う。
──結局のところ、自分は何も分かっていなかったのだ。何も分かってなどいなかった。
苦しい。苦しい。苦しい。
死んでしまうとは 死んでしまうとは 死んでしまうとは
苦しいこと。
決してやり直すことのできない過去を嘆き続ける愚者のように、残った片手で目を覆った。
泣くことすらできない。泣いても涙は海と溶け合うだけだ。涙なのか、海なのか、海がそもそも涙なのか──。嗚咽の声は空しい空気の泡だ。
死んでしまうとは 死んでしまうとは 死んでしまうとは──、
ふ、と嘆きの歌が搔き消え、落下が止まった。
水の中で体を起こしてみれば、足が地面に触れた。恐る恐る目を開けてみる。
「──?」
ゆっくりと開いた瞳の先で、じっ、とその瞳が覗き込んでいた。
透き通った水を透かして、光線のように見つめる黒い瞳。深い瞳。懐かしい、その瞳。
そう、それはずっと昔に知っていた瞳だった。今もずっと、知っている瞳だった。水面から、いつも見つめ返してくる瞳だった。
「……天太?」
白い光に輪郭を照らされて、静かな瞳が見つめていた。
同じ瞳。同じ顔。幼い空広の、双子の片割れ。いつかの昔に、刀で刺されて死んだ、懐かしいはらから。
まるでその足元から生え広がるように、無数の珊瑚たちが無限の地平に彩色を敷き詰めていた。魚や小さな生き物たちが、美しい花弁のように海の中で舞っていた。
「天太!」
水の中で、その顔が、小さく首を振った。ちく、と何かが玄雅の思考を刺す。ほんの少し、何かが──、何かが──、
水さえなければ、もっとはっきり考えられるのに、と玄雅は歯噛みをする。この水。死の水。思考を奪い、空気を奪う──、
いや、と玄雅もまた首を振る。
水は、あたたかかった。あたたかい海が、玄雅を包み込んでいた。
「天太!?」
その姿は、水の中でそっ、と手を伸ばして玄雅の手を握った。輪郭をちらちらと照らしていた光が大きくなってゆく。
真っ白い光の中で、その瞳が笑っていた。
白い、太陽の光。命を宿す、あたたかい光の中で。
びくり、と痙攣した自らの体が玄雅を引き戻した。
世界が揺れていた。まるで赤ん坊を揺するような穏やかな振動の中で、体に密着した体温が、なじみのある鼓動が、玄雅を夢と現の間に囲い込んでいた。
「──……?」
視界をはっきりさせようと何度か瞬きをしてみても、世界は暗いままだった。
寒い。そして、体にぴったりと張りつく、不快な感触。玄雅は鈍重に頭を働かせる。濡れた衣服が体に張りつくあの感覚──。触れる夜風がじわじわと体を冷やしていた。
意識を集中させてみれば、重い湿気を帯びた空気が頬に触れ、遠くで蝙蝠の羽ばたきが聞こえた。
──夜。
単純な理解が、鈍重に頭の中に染みわたってゆく。
頬に、何かふしゃふしゃしたものが触れていた。ミャークにいた頃、戯れに顔をうずめた仔馬のたてがみのような、やわらかくて、そのくせ張りのある……、
次の瞬間、玄雅は思い切り足を突っ張り、内側に蹴り上げていた。
濁った苦悶の声が息のかかるほどの近くで漏れた。
「……このガキっ……!」
その声に応えず、玄雅はもう一度蹴りを食らわせようとがむしゃらにもがいた。だが、忌々しいことに体は自由にならず、それどころか太腿のあたりを支える両手が渾身の力で絞め上げてきた。
「静かにしなけりゃ足を折るぞ」
──足。
足首を掴む子供の声が、ちりん、と頭の中で鳴った気がした。
白骨の群れ──腐れた死体の群れ──あれは、どうなったのか。何とか思考を纏めようとする間にも、抑えようもない憎悪、そして羞恥心が玄雅の心を乱し頬を上気させていた。そう──玄雅は今、おぶわれているのであった。玄雅をミャークから追放させた張本人、かつての師である西の国の男、みげるに。
困惑を何とか脇に押しやって必死で状況を理解しようとする玄雅の頬に、ぴと、と何かが触れた。
しっとりして、ふわふわした、それ。必死に体を擦りつけて来るものは──。
霞んだ瞳で見やると、その丸い姿は弾かれたように身を引き、玄雅の鼻先の宙で停止し、みるみる瞳を潤ませた。
「み……みにみに……。みっ……みにっみみーー!!」
人間であれば、わっ、と泣くことに相当しただろう、ヨナ小は再び玄雅に縋りつくと、みにみにと鳴いた。
「すまぬ。心配をかけたのだな」
みげるの首に回したままだった腕をここぞとばかりに振りほどくと、玄雅は暗闇の宙でぼんやりと光るヨナ小の丸い頭を静かに撫でた。
そこで玄雅は小さく息を飲む。
──腕が、ある。
玄雅の指先、失われたはずの片腕の先が、なじみのある餅のような質感に確かに触れていた。
「おれが心配すると思うのか」
ぶす、とした声が返ってきて玄雅は理解する。みげるにはヨナ小の声も聞こえていないし、姿も見えていないのだ。
「さすがは名高いミャークの豊見親様でいらっしゃる。下々の者はお手を掛けさせて頂き光栄だ」
無礼な言葉に、ヨナ小が顔を真っ赤にした。それだけでは足りないと言わんばかりに、体の白い部分全部までもがみるみる赤く染まり、あっ、と思った時には体を宙に踊らせていた。すんでのところで玄雅の手に捕らえられていなければ、そのまま渾身の体当たりをみげるに食らわせていたはずである。
「その必要はない。だが、そなたの気持ちには感謝するぞ」
体を掴む玄雅の掌の中でヨナ小が「みにみ! みにみ!」と抗議の声を上げている。
「……嫌味のつもりだったんだがな」
「そなたが心配することではない。私は傷ついてはおらぬ」
かみ合わない会話がヨナ小を挟んで続く間にも、みげるの足が交互に動き、視界の端で闇が流れてゆく。
「みげる。私をどこへ連れて行くつもりだ」
声に凄みを込めてみても、顔に丸餅を縋りつかせ、子供のようにおぶわれているのでは決まりもしないのは分かっていた。
自らを背負うみげるの後ろ姿が、こちらも忌々しそうに鼻を鳴らす。
「相変わらず偉そうなガキだ。受け答えが少しは殊勝になったと思ったが、中身は相変わらずの甘ちゃん王子様か」
「年寄りは無駄口が多いというのは本当らしい」
振り落とすぞ……、と悪態を吐いたみげるはしかし、思い直したように首を振ると、深く息を吸った。黙ったままのみげるが、ざく、さく、と地面を蹴る音だけが夜闇に響く。
やがてふう、と大きく息を吐いてから、ぽつり、と呟いた。
「おまえ……何に憑かれている?」
玄雅は押し黙り、みげるは玄雅を背負ったまま無言で歩みを進めた。コホー、コホー……と鳴く夜の鳥の声に混じって、野犬たちが吠えるのも聞こえてきていた。それに、どこかで僅かに聞こえる男のだみ声と、かすかな嬌声。
埃っぽさと湿気、それに、人間が暮らす場所ごとに染みつく特有の臭い……。玄雅はその臭いを知っていた。
「私を、シュリの城に拉致するのか」
「人聞きの悪いことを言う。あのまま、あの廃墟で転がっているつもりだったのか?」
いぶかしげに首を傾げる玄雅の眼前で、月明りに照らされたみげるの髪がぼんやりと金色の光を放ちながら揺れていた。昔と変わらない金糸の輝きに、玄雅は不本意にも目を奪われていた。
ざく、さく、と再び足音だけが響く。
「おれがお前を見つけた時、」
いつもは感情の籠らないみげるの声に、珍しく奇妙な響きが絡んでいた。それが僅かな怯えだと悟るまでには時間を要した。
「おかしな具合だった。真っ暗闇の廃墟に、所々魚油の灯りが灯っていた。おぼろ月が出てなきゃ、灯りだけがゆらゆら闇に揺れているだけに見えたろうな」
「……何のことだ?」
ざく、さく、ざく、さく……。放り投げられた足音が、吸い込まれるように闇に消えて行く。
「おれは、おまえがいるのを見た。月明りの下で、手足を狂ったみたいに振り回してもがいていた」
「……それだけか?」
いくばくかの沈黙の後、みげるは玄雅を背負う背中から振り返った。その彫り上げたような端正な横顔は、月夜の下で奇妙に引きつっていた。
「おれは見た。月の高さにまで、いきなり大波が立ち上がって……何もかもを洗い流すのを。気がついた時には、地面にずぶ濡れのお前が転がっていた」
玄雅は長いこと沈黙し……そして無理やり「はは」と乾いた作り笑いを上げてみた。認めるわけにはいかなかった。そう、自らがまとっている着物がたっぷりと水を含み、水を吸った髪が顔に張り付いて雫を落とし続けていたとしても……こんなことを言っているみげるの方がどうかしているのだと、何とか言いくるめなくてはならなかった。
「大丈夫かみげる。珍しく酒でも飲んだか」
だが、そんな虚勢はみげるの抑えた叱責の声に遮られた。
気づけば、くねくねした道の先から男が二人、小走りに向かってきていた。月明りの下に、王城の番兵の着物がぼんやりと浮かび上がる。
す、とみげるが道の端に寄り、玄雅だけに聞こえるひそめたで囁いた。
「心の臓を止めろ。息をするな」
相変わらずの無茶な要求にしかし、玄雅の体は反射的に従っていた。まるで棒きれのように、ただ生の痕跡を消す。それはみげるも同じで、警戒の気を振りまきながら通り過ぎる番兵たちには、せいぜい道端に小石が二つ転がっているくらいにしか思えなかっただろう。
それは、忍びの技だった。かつて玄雅がみげるから──そう、この王城屈指の隠密であり暗殺者である男──から仕込まれた生きるための技だった。
視線の先で、男たちが目を吊り上げていた。ごわごわした兵士の着物の下から、ぴりぴりと刺すような、特有の臭いが立ちのぼっていた。怖れの臭気──。人が死に、人が殺し合い……そんな場所に立ち込める懐かしい臭いが、玄雅の体の奥深くを無遠慮にかき混ぜていた。
「みにぃ」
まずい、と思った時には、肩の上に留まっていたヨナ小が不安そうに玄雅を見上げていた。
静かにしろ、と必死に目で訴える努力も空しく、ヨナ小は居心地が悪そうに体をもぞもぞと動かすと、やがて「みにったまー……!」と丸い口を開けて叫んだ。
その叫びに、玄雅の全身から血の気が引いた。ヨナ小のくりくりした丸い目が、ひどく見慣れない何かに見えた。
だが、取繕うような安心感が続く。
──そう。聞こえないはずだ。彼らにヨナ小の声は……。
ざくっ……と嫌な音がして、二つの足音が闇の中で止まった。
遠ざかろうとしていた兵士たちの後ろ姿、闇に浮かび上がる背中が、ゆっくりとこちらを振り返っていた。
怪訝そうな、そして恐怖に満ちた瞳。
どうする、と玄雅が体を固くした時には、全てが終わっていた。
どしん、と土の地面に尻もちをつく。
背負われていた背中から地面に振り落とされたのだと分かるまで、少しの間を要した。掌に砂利が食い込み、嫌な痛みがじわじわと広がり続けていた。
そして、あのにおいがした。
ぴっ、と頬にはぜた雫が発する、甘くて苦い、あのにおい。懐かしくて忌々しい、あのにおい──。
視線の先で、みげるが刃で宙を削ぎ、血糊を清めていた。
足元に転がっているのは、命を無くした二つの躰。
「何故、気がついた?」
忌々しそうにつぶやくと、みげるは小刀を自らの懐に戻し、兵士の死体の上に屈み込む。
玄雅とヨナ小が無言で見守る前で、みげるは片方の兵士の腰から刀を抜き取ると、もう一人の兵士の躰をつま先で押して上向かせた。
そのまま、命を失った躰に刃を突き立てる。
粛々とみげるの動作は続き、もう一方の兵士から刃を奪うと、似たように残りの死体に刃を立てた。
「仲間割れだな。深夜の警備中に酒でも飲んで、悪酔いしたんだろう」
なあ、とこちらを振り返るみげるの瞳が、白い月の光の中で輝いていた。
「立て。ずらかるぞ」
言うことを聞かない感情を置き去りに、玄雅は立ち上がっていた。
肩に乗るヨナ小の僅かな重みを確かめながら、みげるに続いて走り出す。
シュリの王都の闇を、かつての師と弟子、二人の男が駆け抜けていった。
正直なところ、玄雅は舌を巻いた。
つむじ風のように疾走する脚力。うろうろと闇を彷徨う番兵たちの目に、一度も留まることのない見隠しの技。それに、高い石の城壁の僅かな隙間に指を掛け、ひっそりと登り、降り……そして足音も無く城内を駆け抜けて行く様子など、およそ人間技ではなかった。
いや、と玄雅は思い直す。
──昔は自分もまた、これが日常だったのだ。鼠のように闇の中を這いまわり、獲物を見つけ、そして……、
叱責するような厳しい瞳が振り返った。
余計な事を考えるな、と緑の瞳が言っていた。死ぬぞ、と。
かつて玄雅……いや、若木の空広に全てを教え込んだ男には、玄雅の心の動きなど手に取るように分かるに違いない。
だが、それでも玄雅の困惑は増幅し続けていた。
王宮は数年前よりも肥大していた。夜通しの篝火に、見たことのない建物や、見慣れない壁がいくつも照らし出されていた。形を変えつつある王の城──それでもなお、玄雅はこの向かう先がどこであるかを知っていた。
「みげる、」
辺りに人の気配のないことを確かめて、みげるにしか聞こえないほどの声で囁いた声はしかし、振り返った薄い緑の瞳に跳ねのけられた。
黙れ、と言うのだろう、視線に力を込めると、やにわにみげるは玄雅の手首を乱暴に引っ張った。
戸惑う玄雅のことなどお構いなしに、みげるが傍らの壁をぐい、と押す。やにわにぽっかりと口を開けた闇が、二人を呑み込んだ。
シュリの城の心臓部──。
二人はついに、国王とその家族が暮らす、男子禁制の場へ忍び入っていた。
どしん、と玄雅は再びの尻もちをついた。
忌々しげに見上げた視線の先で、玄雅を突き飛ばすように解放したみげるが冷たい瞳で見下している。
「平和ぼけも大概にしろ。城の中がそんなに珍しいのか?」
そこは、薄暗い部屋だった。
一つしかない油灯りの傍らで、みげるは不愉快そうに乱れた髪をほどき、手櫛でなでつけると、くるり、と背を向けた。
「何だあれは。まるで年相応の若ぼんみたいにオロオロして。嫁さんもらって子供をこさえて、おれが教えてやったことは記憶の彼方に置いてきたのか」
不機嫌に発しながらも、部屋の片隅に膝をつくと、何かに向かって不思議な具合に手を動かし、頭を垂れる。
ぶつぶつ、と何かを口の中で呟いている。それがみげるの西の国の祈りだと思い出して、玄雅の胸は場違いな懐かしさに満たされた。みげる……人を殺した後は、まるでその埋め合わせだとでも言わんばかりに熱心に異国の神に祈っていた男。この男の救いようの無さは、相変わらずらしかった。
やがて祈りが終わったのか、みげるは再びこちらに向かってくると、尻もちをついたままの玄雅を居丈高に見下した。
怪訝に首を傾げたときには、やにわに屈んだみげるの手が襟元に伸び、玄雅の着物を引き剥がしていた。
「……やめろ!」
「……みにみ!」
体を反らして逃れた玄雅と、宙に投げ出されたヨナ小が同時に叫び、みげるは呆れたような顔をする。
「何を警戒しているんだか……。お前、おれの部屋を汚す気か」
そのまま片手で長い髪をかき上げると、床から畳んだ布を取り上げて玄雅の顔面に投げつけた。
「その汚い着物を替えろ。床を汚すな」
視線に促されるように自らを見下せば、玄雅の体を覆う着物はあちこちが裂け、破れ、片袖まで取れていた。そして、ぐっしょりと水を吸った裾からは、水と血が混じり合った液体がじわ、と床に滲んでいた。
しぶしぶと着物を脱ぐ玄雅に、みげるがもう一枚布を投げつける。広げてみれば、繊細な花模様が染め抜かれた清潔な手巾であった。
濡れた髪を拭き、体を拭き、そして洗い上がりの着物──みげるのものなのだろう、玄雅の体には大きすぎる地味な着物に身を包む間、みげるは不機嫌に腕を組み、目の端で様子を伺っていた。
玄雅もまた、わざとゆっくり着替えながらあたりを伺っていた。
小さな部屋だった。板の間に、申し訳程度につけられた明かり取の窓。置いてあるものといえば、畳んだ布団と、簡素な卓。それに幾つかの物入れの籠と、畳んだままの地味な着物が床の上に数枚……だが、玄雅の敏感な鼻は捕らえていた。木の匂い……シュリでは裕福な者しか手に入れることの叶わない、密できめ細かな木材の匂い。そして、わずかに空気に絡む甘ったるい香の匂い……。
「お前はまだ、おれの質問に答えていないぞ、空広」
玄雅の思考を破るように、みげるが発していた。
今や部屋の片隅に寄りかかり、片膝を立てて長い足を投げ出している。
いつものように沈黙で返す玄雅に呆れたようにため息を投げると、みげるは傍らから水壺を取り上げて、傾けた細口から直接ごくごくと飲んだ。
その美味そうな様子を忌々しく思う玄雅の心中を知ってか知らずか、みげるの瞳に僅かに意地悪い光が灯る。
だが、その光は奇妙な具合に変化した。困惑──この男にはらしからぬ光が再び緑の瞳に宿っていた。
「……世間知らずのお前のことだから、行くならあの酒場だろうとは思った。だが、あの酒場は、火事で燃え落ちた。おまえがミャークに帰ってからすぐに」
水壺の首を片手に持つと、みげるは立ち上がり、玄雅の傍らにしゃがみ込んだ。そのままやにわに着物の裾をまくり上げる。
抗議の瞳を無視して見つめる先に、おぞましいものが浮かび上がっていた。
腿に鮮やかに浮かび上がる赤い跡──それは、まごうことなき歯型だった。
無言で見下す玄雅の瞳を避けるように、みげるは再び立ち上がると逆側に回り込む。
「あそこで奴隷同然にこき使われていた子供が、耐えかねて店に火をつけたらしい。北山の生き残りだったということだ」
ひや、としたものが耳に触れて玄雅は思わず体を強張らせる。
みげるの指が、玄雅の耳たぶに触れていた。
「ここも、かじられているな」
黙り込む玄雅の答えを待たずに、みげるの親指が無遠慮に玄雅の鼻先に触れる。
「ここも」
玄雅の瞳を覗き込む、薄い色の瞳。じっと見ていると、まるで吸い込まれてしまいそうな、西の国の瞳。長い金色の睫毛。
触れていた指が密やかに動き、玄雅を玄雅たらしめている顔の十字傷をなぞった。
「……みげる」
意志とは関係なく、玄雅は呟いていた。何か言ってやらなくてはならない──数年ぶりに再会した、かつての師。全てを教わった男。そして、今の玄雅が大切にする川満を傷つけた男に。
奇妙な感情の奔流が玄雅を圧倒しようとしていた。そして、この薄暗い部屋、隔離された小さな空間の中であればそれも悪くはない気がして、玄雅は自分で自分に困惑していた。
みげるの整った唇がわずかに動き、うっすらと開いた。
「空広、おれは、」
そのまま長い睫毛が伏せられて、魚油の灯りの中で頬に影を落とす。
だが──、
「みっにっっったまーーーーっ!」
玄雅の肩の上で成り行きを見守っていたヨナ小が、ついに怒りを爆発させた。
「ぐあ!」
姿の見えない不意打ちが、みげるの横面に体当たりを食らわせていた。
「みにったまっ! みにったまっ!」
怒りのあまりだろう、ヨナ小がぶるぶると空中で震えている。いつもはうすぼんやりと光っているだけなのが、怒りを反映してなのか、全身から蒸気まで上げていた。
そしてみげるはと言えば、勢い余って吹き飛ばされ、床の上に這いつくばっていた。
「なっ、一体何が……」
怯えたように呟きながら身を起こそうとするみげるに、ヨナ小は容赦なく襲い掛かった。
みげるが声を上げる暇もなく、ヨナ小はひらひらした尾びれを一杯に広げると、そのまま後ろ向きに体をみげるの顔に押し付けた。尾びれで、みげるの鼻と口を塞いだのである。
みげるが必死に呻き、のたうちまわる間にも、日焼けをしてもなお白い西の国の肌が赤く染まってゆく。
止めなくては、と引き剥がそうとしても、ヨナ小の餅のような体がみげるの顔の凹凸に合わせてぴったりと張り付いてしまっている。
息を奪われたみげるが床の上で手足をばたつかせ、ヨナ小を引き剥がそうとする玄雅は何度も床を踏みしめ、水壺を倒し、卓をひっくり返し、深夜の王宮に甚だしい騒音が弾ける。
「ヨナ小、もう勘弁してやれ! みげるが死んでしまう!」
「みにみにみ! みにみにみ!」
頑固に言い張り首を振るヨナ小を、玄雅はついに渾身の力で引き剥がし、壁に思い切り体をぶつけた。ようやく自由になったみげるは反動で床に後頭部から叩きつけられ、覗き込んでみれば気を失って伸びていた。
「ヨナ小……」
呆れたように横目で睨み付けると、ヨナ小は無い頭をうなだれて「みにみに……みにー」と反省してみせた。
──今一度、教育せねばならぬ。
憮然と玄雅がため息をついた時、す、と木の扉がずれる音がした。
途端に変わった部屋の空気に、玄雅は弾かれたように視線を動かす。
そこに立っていたのは、月。
ついに地上に降り立った、月。
「随分と騒がしいのですね……ミャークの獅子……」
薄闇を震わす、夢見るような淡い声。遠い過去から、ついに玄雅を捕らえた女の声。
その声に鞭打たれたかのように、死人のように伸びていたみげるが瞬時に身を起こしていた。
「この犬の見苦しい様、どうかお許しを」
そのまま、みげるは陶酔したような目をして、女の足元に平伏した。
「我が君、月清様──!」
<第十七話に続く>




