[第15話]
宮古島の英雄・仲宗根豊見親をモチーフにしたシリアス長編歴史ファンタジー「竜宮の寵児 -異伝・仲宗根豊見親-」第二部。
おぼろの闇のナハで開かれるのは、生者と死者の永遠の宴。生と死のあわいで出会うその相手は──。
あくまでパラレルなミャークの英雄物語として楽しんで頂けましたら幸いです。
不定期更新・気長にお付き合い頂けましたら幸いです。
※※※R-15※※※
※無断転載を禁じます※
※「pixiv」様にも重複投稿しています※
※第1話&第11話扉絵は[嵐山晶 様] に描いて頂き、ご本人の許可を得て掲載・使用しております※
「……手を放せ。酌はいらぬ。そなたも買わぬ」
冷たく投げつけた言葉を包み込むように、まろやかな笑い声がした。
「嘘。あなたの目が欲しがっている。甘いお酒、甘い熱……」
そのまま白い指が強引に掌を持ち上げた。振り払おうとする力を微笑で抑え込みながら、少女は捕らえた掌を自らの唇へと運ぶ。
ふわ、と開いた唇が指をついばむ寸前で、玄雅は無理やり手を引っ込めた。
小さな抗議の声が上がるのを無視しながら、玄雅は自らの懐に手を突っ込む。着物の内側に潜ませた財布から小銭を掴むと、少女の掌に押し付けた。
「行け。金はやるから、私に構うな」
薄闇に浮かび上がる少女の瞳が、濡れたような光を放っていた。傾げた小首と共にさら、と黒髪が流れ、甘い香りが立ち上った。
「なぜわたしにお金をくれるの?」
「……それがお前の望みであろうから」
ふふ、と少女の笑い声が続く。
「やっぱりあなたは嘘つき。あなたがお金をくれるのは、わたしを見下しているからよ。生まれながらの勝者の、高貴な血に流れる優越感の高みから──」
眉をひそめた玄雅の視線の先で、少女の繊細な輪郭がぐにゃ、とゆがんだ。
──もう、酔ってしまったのか──?
視界をはっきりさせようと目をこする間にも、少女の笑みが大きくなってゆく。紅い唇に甘い露が乗り、密やかな吐息が脳を蕩かすように口ずさんでいた。
「さっきもそう──あの北山の子供。あの子供の生がどんなものか、あなたはよく知っている。それでもあなたは助けない。お金を渡して背を向ける」
「……お前は、何なのだ」
密かな動揺を隠しながら、玄雅は低い声で問うていた。何かがおかしい──それが分かっているのに、理性がすっぽりと抜け落ちてしまったかのように頭が働かなかった。そろり、と刀の柄に触れた指先までもが、わずかにしびれていた。
本能的に毛を逆立てた猫をなだめるように、少女がまた笑う。しどけなく崩して座った足の合わせ目が動き、白い指が流れる髪をかき上げた。
「ねえ、こんな話はやめにしましょう。せっかくのお酒の味が落ちてしまう」
もう一つ瞬きをする間に、ぴと、と少女が玄雅の肩にしなだれかかっていた。熱い吐息が肌に触れ、全身の産毛が総毛立つ。
「……触るな!」
打ち付けるように放った声はしかし、わあん、わあん、と闇に反響し、やがて呑みこまれて消えた。そして、わずかな音の残滓に、奇妙な声が被さった。
「──私に命令することはできない」
その声を放ったのは、本当に目の前の少女だったのか。それは、目の前で小首を傾げる愛らしい面差しにも、白い肌にも不釣り合いな、重い、金属のような声だった。
──わあん、わあん……。
嫌な残響の中で、ぞ、と何かが玄雅の背筋を伝う。薄暗い酒場の空気が両側から引っ張られて、引き攣れ、歪んだ。
見つめる前で、少女の双眸が瞬時に落ちくぼんだ。それは──……。
「逃げないで?」
少女の顔が黄ばんだ髑髏に変わり、見つめ返す瞳がぽっかり空いた二つの空洞に変わっていた。
思わず息を飲み、身をよじる。だが、細い白い指が──いや、骨の指が玄雅の腕を絞め付けて離さなかった。
「さあ、宴を始めましょう。ついに来たわ。皆が待ち焦がれていた、遠き海からの賓客が──」
しゃんしゃんしゃんしゃん、しゃんしゃんしゃん……。耳の奥で反響するのは異国の鈴の音なのか。繰り返し繰り返し響く、金属がこすれる音。全身を粟立てるような、不快で、そして甘美な音の繰り返し──。
奇妙な音律が玄雅の注意を奪い、は、と気づけば唇に冷たい何かかが押しつけられていた。有無を言わせない力が後頭部を掴んで上向かせようとする。
甘く澱んだ匂いと、どろりと口の中に侵入する熱いもの──必死の抵抗も空しく、口内に満ちた酒。止めどなく注ぎ込まれる強い酒が、唇の端から、ぼと、ぼとと落ちて着物を濡らした。
「──離せ……っ!」
無理やり身をもぎ離せば、勢い余って突っ伏すように敷物に倒れ込む。必死に身を起こそうとしても、酒が体の隅々までを縛していた。異常にくっきりした視界の中で、眼下に広がる薄汚れた敷物の模様が鮮やかに浮かび上がる。どぎつい色で雑に染め抜かれた、安っぽい鳥と竜の絵。そんなものを見ている場合ではないのに、下手くそな絵から目を離せなかった。赤と青で染められた化鳥の顔の真ん中で、ぐりぐりとこちらを見つめ返す丸い眼。子供が書いたような、八つの頭を持つ無様な竜……。敷物の中で珍妙な二匹の化物がもつれあい絡み合い、互いに牙を剥き合っていた。
「おや、今宵の客は下ばかり見ているよ」
不意に頭上から、朗らかな声が降ってきた。顔を上げてみれば、不思議な格好の男がこちらを見下していた。ぼろぼろの赤い布冠を頭に被った、大仰な着物の男──その姿はひどく奇妙だった。何といっても、身につけている着物がいやに古臭い型だったし、それに──……。つん、と鼻を突く奇妙な臭いが玄雅の思考をさらに鈍くしていた。
「何ごとも上を見るのが大切だ。そう、前向きにね」
薄暗い闇の中で、男が口の両端を上げながら、ふ、と上を向く。その拍子に、頭を覆う布がずれた。
あっ、と玄雅は息を飲む。その様子に、目の前の男はきまり悪そうに自らの頬のあたりに手をやった。
「おや失礼。見苦しいものを見せてしまった」
男の手が──おかしな色の手が──ずるり、と自らの頬を撫で、ぼと、と何かが落ちた。びちゃ、と床に落ちたそれ──それは腐れてずり落ちた、人の顔の一部だった。
引き攣った視線を投げる前で、布冠の男の肩に後ろから手が掛かった。それは、白い骨が形作る掌だった。
「はっは、天降りなどと言っても相変わらずつめが甘いことだ」
朗らかな声に、腐れた男が奇妙な臭いを発散しながら振り返る。
「これはお言葉ですな。そのつめが甘い私に討たれた、ヤマダの城武将殿ではありませんか」
似たような恰好をした二人の男が──いや、片方は腐臭を放ち、もう片方は豪華な着物を引っ掛けた白骨の──死者が、朗らかに笑い合っていた。
「おや、お客人が吃驚してしまった。ほら、こんなに顔が強張っている」
ははは、と再び朗らかな笑い声がする。
「全くだ。素質はあれどもまだ子供。平静を装っていても、心の内は荒れ模様」
「そんな時期が、私たちにもありましたなあ」
はははは、はははは……。くらくらと揺れる視界の向こうで死者たちが笑いさざめいている。やがて腐りかけた着物を纏った男たちの死んだ目が、こちらを見つめた。
「さあ、こんな戯言より楽しい出し物があるのだから」
「おお、そうだ。ら・ら・ららら……あの歌声」
「そうあの歌声。遠き場所からもたらされる豊穣の歌……」
骸骨と腐れた死体が口ずさむのに合わせるように、ラ・ラ・ラララ……と不思議な歌声までもが耳の中で反響し始める。途方に暮れて視線を巡らせば、酒場でうごめく無数の影たちまでもが体を揺らし始めていた。
安い魚油の臭い。けちな明かりの中に浮かび上がる人の群れ。猥雑なざわめき……さっきまでいた酒場と同じ場所のはずなのに、何かが変わっていた。何かが、何かが──。
「……私は、酔ってしまった!」
茫然と呟く玄雅の肩を、腐れた男がぺと、と叩いた。
「そういうことも、あるものさ」
「そういうことも、あるものだ」
骸骨の男も、ぽっかり空いた空洞の目で笑う。
空気が薄くなったような気がした。鼻腔に満ちる腐臭と、埃っぽい臭い。ぐるぐると廻り始める世界──。息苦しさに喘ぎながら、玄雅は必死で着物の袖を探る。
──ヨナ小。ヨナ小を連れてここから出なくては──。
はたして必死の指先が丸い輪郭を捉え、かりそめの安堵の息を吐いた玄雅は出口を必死に目で探す。
「何を探しているの?」
ふっ、と耳元に息がかかった。飛び退った視線の先で笑っているのはあの少女だ。その顔は──美しい生者のそれに戻っていた。
「さあさあ はじめましょう はるかなときの ものがたり そのうたを」
少女が陽気に手を打ち鳴らし、紅い唇が高らかに歌声を紡ぐ。少女の手首につけた鈴がしゃん、しゃん、と鳴るのに合わせて、薄闇の客の群れが歓声を上げ、体を揺らす。
「……どけ! 通せ!」
ひしめく肩や胴をかき分けて進もうとすれば、客たちが一様に振り返って玄雅を押し返した。
「だめだよ、ここからが本番なのだから」
「そうそう、ここからが本番なのだから」
おかしな響きの声にぞわ、と振り向けば、あの腐った男と白骨の男が、いつの間にかすぐ後ろに立っていた。そのままなだめるように玄雅の肩を掴み、敷物の上に引き戻す。その様子を笑いながら見守る酒場の客たちの目も皆──腐って爛れているか、白骨に浮かび上がる二つの空洞なのだった。
「今宵のお客に 歌いましょう 遥かな時の 物語 その歌を」
甲高い裏声の歌に、再びわっ、と歓声が上がる。眼前の少女は今や不思議な衣に着替えて──そう、品よく膨らんだ乳房を胸当てのような物で覆い、ふわ、とした長い裳をつけて、綺麗な流線を描くへそをあらわにした格好をして──紅い唇で笑っていた。
ぺたん、と敷物に座らされた玄雅が唖然と見上げる目と鼻の先で少女のあらわな腹がくねり、不思議な踊りと共に床を踏む白い足が、しゃん、しゃん、と足環に並んだ鈴を鳴らす。
「これからはじまる だしものは はるかな むかしのものがたり のまれてきえた ものがたり」
薄闇の中で、少女の掌が艶めかしく動き、自らの体の線をなぞり、へその下までずり下げられた裳の淵をまさぐった。その様子に、熱に浮かされたような男たちの歓声が上がる。
だが次の瞬間、丹念に裳の腰に挟み込まれていた薄布が、ぱあっ、と薄闇の酒場の宙に踊った。
「 “べーる”だぞ!」
風をはらんで闇を舞う色彩に、わああ……と男の死者も、女の死者も歓声を上げている。
──こよいの こよいの だしものは はるかなむかしのものがたり
べーるにうつす こがねいろ
あおいろべにいろ こがねいろ──
歌っているのは目の前の少女なのか、それとも耳の中で反響し続ける死者たちの調子はずれの歌声なのか……判然としない混沌の中で、両手を一杯に広げてもまだ余る幅広の薄布が、優美に踊る少女の細腕に絡み付き、波打ち、闇を撫ぜる。
やがて少女は魔術のように巧みに布を繰ると、薄布をぴったりと体に巻き付け、余った布の端で口元を隠し、きらきらと輝く瞳だけを覗かせてこちらを見つめた。
「ああ、でも今宵の御見物は、どれだけこのお話を知っているのかしら。どこまであのお話を知っているのかしら」
──知っているぞ!
──全然知らないよう!
めいめいに胡坐をかき、土の地面に寝そべった死者たち──大きな姿も、小さな姿も──が好き勝手に声を上げ、少女のなだめるような台詞が続く。
「見れば小さな御見物もいらっしゃる。それに遠き地からいらっしゃったお客様もいらっしゃる。では最初から始めましょう。知っている方は御退屈 どうにかこうにか ご容赦を」
刹那、少女の瞳が燃え上がり、玄雅を見据えた。そのまま有無を言わせずぐい、と腕を掴んで立ち上がらせると、薄布の端を玄雅に握らせる。
布の端を握って立ち尽くす玄雅を始点に、少女はくるくると回転しながら遠ざかり、体に巻き付けた布を再び広げていった。やがて布がぴん、となり、薄布の紗幕が酒場の闇に張られる。
見守る死体たちからやんやの喝さいが上がり、紗幕の端を持たされて動けなくなった玄雅は、茫然と幕を横から覗き込むことになった。
「──それは昔々のこと。このリウクーは、一つの大きな陸地だったのです。人々は一つなぎの大地の上で、仲良く暮らしていたのでした」
紗幕に、巨大なしみが浮かび上がった。きっと、島影をあらわしているのだ──……だが、玄雅の背筋を寒くすることに、紗幕の後ろには、形を投影するものは何もないのだった。
──死者には影がないという。だが、これは……、
働かない頭で必死に考える玄雅を置き去りに、少女の物語が続く。
「ある時 『ああ、何か面白いことはないかしら』とうっかり願った人がいました。
無理もありませんね。大きな島の上では、みいんなが平和を愛し、お魚を釣ったり果物をかじったり、のんびり暮らしていたのでしたから。哀しいこともありませんが、面白いことも大してないのです」
紗幕に棒人間が浮かび上がり、ちよちよちよ……と頼りない足で右往左往する。
「ある日のこと。その人が海の向こうを見やりますと、水平線の向こうから、やっせ! やっせ! と小さな船がこちらに向かってくるではありませんか。そこには見たこともない人たちが乗っていたのでした」
物語に合わせて、今度は紗幕の端から木の葉のような船の影が現れた。波に揺られているのを表現しているのだろう、小さな船は波に揉まれて飛び上がり、沈みそうになり……やがてあの棒人間の前にたどり着く。
一人の棒人間が船から降り立ち、ぽかん、と立ち尽くす棒人間に近づいていった。
「 『こんにちは。おれたちは別の場所からやってきました。えっ、あなたたちはいまだに竜の神様を信じているのですか?』とその人は言いました。そう──遠くからやって来た人たちは、別の神様を信じていたのです」
語る少女が覗き込んだ紗幕の端から、今度は不思議な影が──空を覆い尽くす、大きな鳥のような姿が──現れた。
その影に、玄雅の胸が騒めいた。その不快な震えに応えるように、玄雅が支える紗幕の端から、別の影が現れる。
紗幕の中でうごめき、身をよじるそれ──八つの頭を持った竜──。
「島の人たちは、海の竜の神様を信じていました。遠くから来た人たちは、天の鳥の神様を信じていました。
竜の神様は安定と融和を愛する神様です。
鳥の神様は変化と自由を愛する神様です。
二柱の神様は、けっして相いれることはありませんでした。こうして大きな戦がはじまったのです」
紗幕の真ん中で、二匹の魔物──いや、二柱の神なのか──が激しくぶつかっては弾き合い、を繰り返している。
「たまらないのは人間たちです。なぜなら、二柱の神の思想は相反し、片方を信じれば片方が立たず、という具合。一つであった大きな陸地は、どちらの神様を信じるかで真っ二つに引き裂かれてしまいました」
紗幕の中で、いつの間にか数を増やした棒人間たちが右往左往し、互いを小突きあい、押し合いへし合いを繰り返す。やがて、その中から一人の棒人間が、もうひとりの棒人間を引っ張りだした。
「ほら、見て下さい。竜の神様を信じる人が、最初に退屈していた人を捕まえて、一生懸命言い聞かせていますよ。『自由など幻想だ! 私と一緒に来い!』──ああ、なんと悲壮な叫びでしょう」
紗幕の真ん中に立ちつくした、途方に暮れる棒人間。そして、左端には鳥ともう一人の棒人間。逆の端には、竜の神と、もう一人の棒人間。
単純な、稚拙な紗幕の芝居なのに、なぜか玄雅の心が締め付けられた。
「そこで、最初に願いを発したその人は 『どうか、戦争を終わらせてください』とニライカナイの神様にお願いをしました。すると天から三振りの刀が遣わされたのでした──」
わああー……と酔客のひときわ大きな歓声が空気をかき混ぜる。
困惑する玄雅を置き去りに、紗幕の天から、棒きれのようなもの──刀を表しているのだろう──がゆっくりと地上目がけて落ちてゆく。棒人間たちがそれぞれに手を伸ばし、一振りずつを手に入れるのが映し出されていた。
「──ふたりの ふたりの若者は
天から降った 刀持ち 互いの神を 殺しあい──」
紗幕の中で、棒人間が竜を刺した。刃を突き刺された化け物の影が、紗幕の端から零れて消えて行く。その様子を見ていたもう一人の棒人間は、吃驚したように体を揺らすと、ひらりと宙に飛び上がり、鳥の首を刎ねた。胴と別れた首は棒きれの刃と共に刎ね飛ばされ、紗幕の向こうに消えて行った。
画面に再び残された三人の棒人間──鳥を討ち、天から地上に叩き付けられた棒人間に向かって、もう一人の棒人間が駆け寄ってゆく。それをもう一人の棒人間が押しのけて──……。
熱い痛みが玄雅の胸を貫いた。それは、確かに知っている痛みだった。
紗幕の中で、地に落ちた棒人間に刃が突き立てられていた。そしてそれを茫然と見守っていたもう一人は──そう、ただの棒線で形づくられた人の影のはずなのに──涙を流し、そして小さな刀を構えて突進した。血塗れの刀を手に、弑した敵を見下していた棒人間が信じられない、という顔で振り返り──……、
長い沈黙の後、地上に立っていたのはその小さな刀を持った棒人間だけだった。
「──ひとりのひとりの 若者は──」
残された棒人間の腕が、ゆっくりと上がって行く。
「──おのれを殺して 死にました」
玄雅の目には見えた。棒人間の胸に、まるで熟れた果物でも裂くように沈んで行く刃。薫り高い果汁のように飛び散る、最期の血潮。
「こうして こうして──神を失った大地は
こうして こうして──海の深くへと 沈んだのでした」
じわ……と再び島影が薄布の真ん中からしみのように広がり、染め上げ、そして、広がりきったところでぴっ、と裂けた。上げた視線の向こうで、少女が布を強く引っ張っていた。物語を写し取った薄布は今や真っ二つに裂け、土の地面に落ちていた。
物語は、唐突に終わっていた。
しゃららん……しゃららん……と遠くで哀しい鈴の音が響き、すすり泣きのさざ波が観客を揺らしていた。
少女がぽっかりと空いた紗幕の跡地にしゃなりしゃなりと進み出る。そのまま裳裾をひるがえして一回転すると、礼をするかのように上半身を折り曲げた。優美に踊る布のひだから立ち上る香のにおいが、例えようもなく甘かった。
その様子を茫然と玄雅は見守っていた。まだ手の中に、破れた布の端を握りしめたままだった。混乱と痛み。紗幕に浮かび上がった物語の光景が、瞼の裏で何度も繰り返し閃いた。あの痛み──あの苦しみ──……。
だが。不意に明るい音が弾け、陰鬱な空気を切り裂いた。
少女が顔の横に上げた手を陽気に叩いている。
「さあさあ 空気を変えましょう! 今宵の太鼓を叩くのはだれ?」
──私だ!
──俺だ!
次々と死者の手が上がる。玄雅が見る限り、酔客のほとんどは白骨で、その中にぽつり、ぽつりと肉が付いている者が混じっている。その具合は、ほぼ人間の形をしている者から、肉片がかろうじてへばりついているものまで、微妙に異なっていた。
「ああ、この続きにはあなたが最適ね。さあ太鼓を叩いて頂戴。サシキのサハチ 小さな貴方」
おう! と声が上がり、一人の小柄な死体が立ち上がる。ぼろぼろの着物に包まれた死体──だが、その着物の酷いことに比べて、その手足には随分肉が残っていた。声にも張りがあった。
「叩くぞ叩くぞ、時の太鼓を! 叩くぞ叩くぞ、ちいさなサハチが!」
やんやの喝さいの中で、小柄な死体が楽しそうに観衆を見回し、頷いている。だが締まらないことに、やはりその体の端々から肉片がこぼれ落ちてゆくのだった。
腐れた男が少し離れた土間の上に腰を下ろし、不思議な形の太鼓を抱えて叩き出す。どこからか縊られた鳥の声のような笛の音と、打ち鳴らす金属の音色も聞こえてくる。
奇妙な異国の旋律の中で、少女が再び歌い始め、玄雅は死者の一人に引っ張られて再び敷物の上に戻された。
「続いてお見せするのは ふしぎなふしぎなおどりです」
薄闇の中で少女の掌がひらめいた。踊る両手が描くのは、宙を区切るような──……。
「今宵の踊りは甕のおどり。でも──」
「──普通の甕じゃない!」
掛け合いのような少女と酔客たちの歌声が煙る中、少女の腕がいつの間にか一抱えもある甕を抱えていた。白い肌に押し付けられた、いやに大きな、角ばった甕。丸っこい素朴な酒壺とはずいぶん違う。何やら絵が描かれていて、屋根のような蓋が付いていて。拭い難い陰鬱な雰囲気をまとった──……、
「こよいのおどりは ずしがめの おどり」
わああー……、とひときわ大きな歓声が上がる。
「開けろ 開けろ!」
「開けろ 開けろ!」
──開けろ 開けろ ずしがめ 開けろ!
──開けろ 開けろ 厨子甕開けろ!
闇の中の死者の群れがまるで何かに取りつかれたように拳を振り上げ、その言葉を叫び、繰り返す。
──開けろ、開けろ──……
──開けろ、開けろ──……
酔客の律動に合わせて、少女が甕を軽々と捧げ上げ、腹を艶めかしくくねらせて踊り続ける。
「……開けるな!」
玄雅もまた、何かに操られるかのように立ち上がって少女に掴みかかっていた。
きゃあ、とわざとらしい声を上げて少女がよろめき、抱えた甕が宙に踊る。
「割れるぞ!」
誰かの声に続く、固いものが鈍く壊れる音。もうもうと砕けた甕の粉塵が舞い上がり、呼吸を塞いだ。ひりつく目をこすりながら視線を巡らせれば──割れた甕の破片の上に、黄ばんだ骨が小山となって積もっていた。
「さあさあ、これは誰の骨かしら。だれが拾って詰めた骨かしら」
集った使者たちが口々に違った名前を叫ぶ。しばらくの間そのどよめきを味わってから、少女はなだめるように歌を続けた。
「それではお話しいたしましょう。これは、むかしむかしのお骨です。むかしむかし、きんのかたなをかわになげすてたひとのお骨です」
おおお……とどよめきが上がり、群衆が揺れた。
「さて、二柱の神様の大げんかの末に、大きな陸地には油の雨が降り、深い海の底に沈んでしまいました。
ですが、いくらか沈み残った陸地がありました。そしてそこには、どうにかこうにか生き残った人々が暮らしていたのでした。
すなわち、大きく三つに分かたれたリウクー……シュリとミャークとヤイマの島々のことです。
シュリの大地──そのころは違う名前で呼ばれていましたが──その細長い島の北の端に、一人の殿様が住んでおりました。あるときこの方が小高い山に登りましたところ、山頂で不思議なきらきらするものを見つけたのです……」
ラ・タタ ラ・タタタ、ラ・タタ ラ・タタタ……不思議な太鼓の音が慰めるように空気を揺らし、観客たちが踊りながら物語る少女をうっとりと見つめている。
「それは、大きな岩に突き刺さった刀でした。まるでそれは天の高みから落ちてきて、勢い余って刺さった、という具合に固い岩にまっすぐに刺さっていたのでした」
ラ・タタ ラ・タタタ、ラ・タタ ラ・タタタ……
太鼓の音に乗せながら、少女の踊りと語りが続く。試すように玄雅に注がれる流し目が、闇に赤い熱の軌跡を残していった。
「──殿様は 抜きました 霊石に刺さった刀を 抜きました」
不意に玄雅の脳裏にその光景が弾けた。いつの時代のものとも知れない素朴な着物をまとった男が、両手に刀の柄を握りしめ、力一杯引いている。天から降り注ぐ太陽の光を受けて、黄金色に輝く細身の反り刀。岩から引き抜かれる刀身が、青い空を背に宙を切り裂いて──……。
「遠い昔に 飛んできた 鳥首刎ねたる その刃
北の地に落ち 突き刺さり ついに持ち主 手に入れた」
歌う少女の手にはいつの間にか、細身の反り刀が握られていた。闇に刃が鈍く煌めき、玄雅の心の奥を刺し貫く。
まるでその痛みを味わっているかのように、少女の舌がちろり、と覗き、薄く開いた唇を湿すのが見えた。死体のように白い手がゆっくりと刃を押し戴き、やがて湾曲した刀身を自らの体の曲線をなぞるように沿わせてゆく。反らせた細い首、ふうわり膨らんだ乳房、淡く窪んだへその溝……熱い躰を賞味するような刃が肌の輪郭のすれすれを這うように進み、闇を炙る。やがてついにへそのすぐ下にまで刃が至ったところで、少女の体が急に消えた。
どよめく観客の声と共に、玄雅の頭は鈍重に理解する。
今や少女は床に膝をついて、優美に反らせた上半身をくねらせながら頭上にあの刃を水平に載せようとしていた。
──刃!
──刃!
観客の熱狂はもはや止まる所を知らない。その声に煽られるように、頭に刃を載せた少女の白い腕が蛇のように波打ち、薄闇の宙を愛でるように指先でなぞった。
太鼓の音、鈴の音、奇妙な笛の音……全ての音が死者の歓声と混じり合い、甘美な混沌の渦を加速させる。
「──永遠の刃 千代に輝く こがねの刀 不思議な力を 与える刃──」
歌いながら踊りながら、少女の物語が続いてゆく。
「その刀を握ると、殿様には不思議な力が満ちてくるのでした。常ならぬ力。常ならぬ知力。それは魔法の刃だったのでした。
力を得た殿様は北の地にお城を建てて、王国を作ったのでした。これが、皆様の知る北山のはじまりです……」
──おーおーおー……!
雄叫びとも泣き声ともつかない慟哭がいくつも上がった。立ち上がって拳を振り上げる死者が何人もいた。
──我らが北山!
──滅びし北山!
腐臭の満ちた空気に何やら険悪な雰囲気が渦巻きはじめ、玄雅は全身を強張らせる。
「殿様の一族は刃の力に守られて、さらに北で栄えていたアマミやヤマトの国とも手を結びました。北山の繁栄は、今や誰の目にも明らかでした。そして、それを快く思わない者たちもいたのです……」
ラ・タタ ラ・タタタ、ラ・タタ ラ・タタタ……
太鼓叩きの死者が、不意に歌声を楽の音に乗せた。
「俺は手折ってみたかった 北の大地に咲き誇る 刃を手にしたあの花を」
くねくねと踊り続けていた少女が不意に舞いを止め、猫のように目を細めて、太鼓を叩く死者を見つめた。
「あなたは本当に好色」
「英雄は色を好むのさ」
ふふ、と少女が笑う。
「だそうよ。ねえ、あなたはどう思う?」
頭に載せた刃を再び押し戴くように両手に戻すと、少女は足元の骨の小山の上を滑らせた。と──黄ばんだ骨の山が、震えた。
小さく息を飲む玄雅の目の前で、骨の山の中から白骨の手が突き出されていた。ぱら、ぱら、と細かい骨粉を振りまきながらも、骨の拳がかざされた刀の柄をしっかりと握る。そのまま、突き上げられた拳に連なるように、ひとつなぎの白骨が立ち上がった。
人の姿をかたちづくる、一組の完璧な骸骨──何も纏っていないその姿に、少女がもう一枚の薄布を腰からほどいて掛けてやっていた。
「腐れた巴志よ 口つぐめ 我らが国を 燃した屑」
かくかく、と骸骨の口が動き、節をつけた美声が零れ出る。
わあー! と立ち上がっていた死者たちから声が上がった。
「攀安知様!」
「我らが美しきはねじ様!」
興奮した死者の一人が、何かを太鼓叩きの男に向けて投げつけた。それを太鼓叩きが片手でさっとつかみ取る。腐れた男が掴んでいるのは、小汚く変色したあばら骨だった。くら、と眩暈を感じる玄雅のことなどお構いなしに、喧噪が続く。
「北山の王は、その刃の力ゆえに狡猾な巴志なる男に狙われ、ついに国ごと、刀ごと獲られてしまったのです。ああ、見えるでしょうか、真っ赤に燃え上がる北の城……逃げ惑う女子供、勝利の美酒に酔う、返り血を浴びたサハチの姿……」
夢見るような少女の声を遮るように、ひゅ、と風の音がした。玄雅の目の端で、喧騒の中でいつしかずり落ち、かろうじて引っかかっているだけになっていた頭巾が吹き払われて、切れた自らの毛先が闇に踊るのが見えていた。
平静を装って横目で見やれば、骨の手に刀を握りしめた骸骨──攀安知と呼ばれていた──が刀を振るった構えを解かぬままに薄闇の向こうの太鼓叩き──巴志──を凝視している。
一拍の沈黙の後に、割れるような歓声が上がった。呆気にとられた玄雅はしかし、ゆるゆると理解する。見つめる視線の先でゆっくりと太鼓叩きの首が斜めにずれ、やがて嫌な音を立てて落ちた。
骸骨と太鼓叩きとの間は群衆に阻まれ、とても刃が届く距離ではなかった。それでも──刎ねられた腐れた首は今やごろりと土間に転がっているのだった。
──北山、北山── !
──誇り高き羽の王── !
土の地面に暗色の染みが広がり、歓喜の雄叫びが死者の酒場を揺らす。だが……太鼓叩きは無い首を俯け、やがて転がった首がぽつりと呟いた。
「刃を受けたことを、俺の誠意と思ってはくれないか」
太鼓たたきを凝視する骸骨の全身から、湿った冷気が発散される。
「その声、もう一言でも聞かせるな」
放たれる冷気がさらに冷たくなり、刃を固く握り直す骨の拳からぱらぱらと白い粉が舞い落ちた。
だが、骸骨が再び刀を振るう前に、少女がぱあん、ぱあん、と高らかに手を打ち鳴らしていた。空気を突き崩すような弾ける音に、重い冷気が霧消する。
困惑した玄雅の顔を少女が覗き込んで笑う間にも、太鼓叩きはもぞもぞと身を屈めて自らの首を拾うと、元あった場所に押し付けた。その様子を睨み付けていた骸骨も、やがてしぶしぶと刀を少女に返して床に座す。ほどなくして、何事も無かったかのように太鼓の音が再開した。
「……さてこの戦利品、魔法の刀は、小柄なサハチ、好色な巴志の一族に受け継がれてゆくことになるのです……」
腐った太鼓叩きのラ・タタ ラ・タタタ──柔らかい太鼓の音に、喉の奥で奏でる少女の歌声が被さり、裳裾が闇に踊る。
「──しかし、刀はとんでもない代償を求めたのです」
絶妙の均衡で頭に水平に刃を乗せた少女が、裳裾をひるがえしながらくるくると回転する。
「遠い北の地 羽の地の 最期の 呪いを受けた刃
憎い 巴志の一族に ぬぐえぬ不幸を 浴びせる刃」
──ざまあみろ!
──北山の恨みを思い知れ!
──首を刎ねられた自由の恨みを思い知れ!
死者たちが口々に罵詈雑言を浴びせかけ、拳を振り上げる。その死んだ瞳は、この上もないほど生き生きと輝いていた。
「北山から奪った刀の力を得て、ついに南山をも討ち、リウクーを強大な一つの王国に仕立て上げた巴志、いえ、今の名前は英雄・尚巴志──。受け継がれた刀は、巡る時の中で尚巴志から尚忠へ。尚忠から尚思達へ。尚思達から尚金福へ。そして尚金福から……」
そこで少女の瞳がじっ、とこちらを見つめた。いや、その視線は玄雅に注がれているのではない。玄雅の肩を両側でがっしりと捕まえる、布冠の腐れた男と、もう一人の骸骨の死者を見つめているのだった。
「おや、時代が下ってきたぞ。ここからは私たちが歌うのかな?」
「はっは、お前さんは音痴だからやめておけ。ではな、儂が語って聞かせよう。我らが時の物語 その歌を」
あの骸骨が立ち上がり、陽気に手を叩く。かち、かち、と乾いた骨が打ち鳴らされ、なんともおかしな音律を作り上げていた。
「巴志の血族・尚泰久。
刃を継いだ 残酷な 呪い子 呪縛の 哀れな子」
手を叩いて陽気に歌う骸骨の横で、腐れた男がしみじみと台詞を被せる。
「この尚泰久という男は不憫な王子であった。英雄・尚巴志の血を引くとは言え、身分は王宮の隅でくすぶる第七王子。逆立ちしても王にはなれぬ生まれであった……」
大仰な身振りと共に立ち上がった布冠の男が、芝居がかった動作で観客を見渡す。
「だがしかし、それがこの男の恐ろしいところよ。この男は奸計を巡らせてあの刃を我がものとすると、血を分けた兄たちを次々に弑し、ついに自らが王の座に収まったのだ! 何と恐ろしい、汚らわしい男であろうか!」
「おう、阿麻和利も言うなあ。仮にもそやつは義理の父なのだろう?」
茶々を入れる骸骨に、振り返った布冠の男が憮然と返す。
「護佐丸殿。我らを陥れたあの男に、何の遠慮がいるのです」
「はっは、まったくその通りだ! 尚泰久は、金丸とかいう野犬まで飼っておってなあ! この二人にはめられた力ある武将は、潰し合いの末に皆、死んでしまった!」
──そうだ!
──ひどい奴だ!
死者たちがどよめき、熱気がさらに増してゆく。玄雅の敏感な聴覚はすでにその限界を超えかかり、思考までもが千々に乱れてゆく。
──護佐丸。阿麻和利。もちろん知っている。かつて王を脅かすほどの力を手にいれた名高い武将たち。そう……己の力を過信し、王府に反旗を翻し……粛清され──……、
記憶をたどる玄雅の必死の努力は、陽気な骸骨の声にあえなく粉砕された。
「せっかくの酒宴だから呼んで来い! ほら、はめられたもう一人。あの……」
ああ……と腐れた男──阿麻和利と呼ばれていた──が気のない返事を返す。
「骨がね、残らなかったんですよ。焼けてしまいましたから」
はっは! と骸骨──護佐丸が朗らかに返す。
「もっともらしいことを言うんじゃないよ。この宴で出来ないことなどあるものか! さあ、私が呼んでくるとしよう」
骸骨・護佐丸の後ろ姿が、死者の群衆をかき分けながら厨房の方へと進んで行く。開けた道の向こうで、簡素なかまどの中で燃える紅い炎が見えた。骸骨が白い手を炎の中に突っ込み──そこから、ずるり、ともう一体の骸骨が引っ張り出された。
火の粉をあちこちにくっつけたままの骨格がずるずると地を這い、やがて抱き起こされて、手を引かれながら敷物の方へと戻ってくる。何が起きているのか分からない、という顔を──そう、今や玄雅にもうっすらと死者たちの表情が読み取れるようになっていた──した骸骨が、いぶかしげにあたりを見渡している。
「……ここは、どこですか」
かくかくっ、と動いた顎から零れ出た声に、女の死者たちから黄色い声が上がった。
「宴の最中なのだよ」
なだめるような声に返ってきたのは、心ここにあらずの問いかけだった。
「……あの方は、どこですか?」
「賢雄、彼女はまだ生きているよ!」
はっは、と護佐丸が陽気に二人の肩を叩いた。
「さあさあ、一人の女を取り合った二人の再会だ。喜べ喜べ、歌を歌え。ら・ら・ららら……さあ、酒を飲め!」
眉をひそめた阿麻和利が護佐丸を小突く。
「私はまだいけますがね、あなたたちは飲めないでしょう。骨の間からこぼれてしまう」
「香りだけならまだまだいけるぞ。墓に供えられた香や、芳しい花を楽しむようにな」
その横で、火の粉を纏った骸骨──賢雄──がため息交じりに呟いた。
「ああ、死んでしまうとは空しいこと」
「しみったれた顔をするな! 一度はあの刃を抜いて阿麻和利を斬った男、鬼大城であろうに」
「あの金丸の甘言に乗った私が馬鹿だった。あんな刀など、借り受けるのではなかった──正気と引き換えに、あんな刀など」
うなだれる賢雄の肩を、阿麻和利が叩く。
「みんな馬鹿だったのさ。今宵の宴には、戦世の美酒に酔った馬鹿者が勢ぞろいと言うわけだ」
阿麻和利が再び大仰に観衆を見渡す。
いつの間にか、太鼓を抱えた尚巴志も、刀をだらりと持った攀安知も立ち上がっていた。
土の床では、無数の死者たちが白い骨をぼんやりと浮き上がらせ、甘い腐臭を放ちながら体を揺らしている。無数の小さな蜘蛛が騒めくような密やかな歌声が立ち上り、いつしかばらばらだった歌唱が糸が縄になるように集い、まとまり、一つの嘆きの歌を形作っていった。
──死んでしまうとは 死んでしまうとは 空しいこと
──どれだけ生きても 死んでしまっては、
「死んでしまっては 美酒は 香りだけに」
「死んでしまっては 脈打つ情熱を
死んでしまっては 感じることも無く」
俯いた賢雄と天を仰いだ尚巴志が輪唱を響かせる。
「死んでしまっては 夢を語ることもできず」
「死んでしまっては 本当の顔も忘れられ」
肩を揺らしながら歌っているのは阿麻和利と護佐丸なのか。
「死んでしまっては 生者は おもうがままに
死んでしまっては 残された骨に
死んでしまっては 拾い集めた 肉をつける」
美しい声で朗々と歌うのは攀安知だ。
──あー あー あー あー…… !
どよめく死者たちの悲壮な歌声が被さり、暗い熱を含んだ重唱が増幅する。腐れた死者……肉すらない骨の死者……。男とも女とも、子供とも大人とも、いやそもそも本人の躰なのかすらも判然とせず……どよめき、手を伸ばし、嘆き、過去を振り返り……。
玄雅の頭の中で反響するのは、ただ一つの言葉だけだった。
──死んでしまっては 死んでしまっては 死んでしまっては……。
「あ……」
掠れた自らの声すら、死者の声に飲み込まれて聞こえなかった。そして、両耳を押さえ、俯く玄雅はその視線を強く感じていた。
じっ、と見つめる、熱っぽい瞳。そう、この宴の主、あの少女の瞳を──。
「ここに生者が一人紛れ込んでいる!」
少女の声に、死者の群れの眼が玄雅の上に降り注いだ。
ぞ、と玄雅の躰が恐怖に満たされる。
腐れて落ちそうな黄色い目……空洞になった目……無数の、死者の視線……。
じわじわと広がる沈黙の中で、死者たちの腐りかけた着物が闇を吸い上げ、色あせた布地にゆっくりと色が戻っていく。
「本当だ。血が流れている脈打っている」
これを呟いたのは誰なのか、
「ずるいぞ、こいつは生きているぞ死んでいないぞ」
酒が回り切り、聴覚を奪われた玄雅には最早分からなかった。
無数の手が、じわじわと玄雅に伸びて来る。白骨の手、腐れただれた手……黴のようにへばりつく皮膚の残骸と、絶え間なく剥げ落ちる骨粉。
そして、目の前では女神のように微笑む少女がこちらを見つめていた。熱を帯びた紅い唇。柔らかな胸に大切そうに抱かれた、それ。
「今宵の踊りの総仕上げ。甕に中身を詰めましょう」
甘美な指がズ……と厨子甕の蓋をずらすのが見えた。やけに立派な、家のような、船のような甕。蓋の天辺にはおかしな生き物を象った飾りまで載っていた。そう、作り物の鱗と──尾と──……。
「これはあなたのための厨子甕。あなたのために作ったの」
白い腕が甕をこちらに傾け、ぽっかりと口を開けた四角い闇が目に飛び込んできた。死者の闇。生の陽光を閉じ込める、永遠の闇。
返す踵は、死者の拳に固く捕まれていた。
「──離せ!」
必死に上げた声を塞ぐように、死者の群れが玄雅の手足にむしゃぶりついた。
「さあ、おとなしくして。あなたも私の宝物庫に入れてあげる。私の大切な、玉のお墓に──」
<第十六話に続く>




