[第14話]
宮古島の英雄・仲宗根豊見親をモチーフにしたシリアス長編歴史ファンタジー「竜宮の寵児 -異伝・仲宗根豊見親-」第二部。
ミャークの王は再び旅立つ。深き闇が渦巻く、あのシュリの都へと──。
王都シュリ編、開幕。
あくまでパラレルなミャークの英雄物語として楽しんで頂けましたら幸いです。
不定期更新・気長にお付き合い頂けましたら幸いです。
※※※R-15※※※
※無断転載を禁じます※
※「pixiv」様にも重複投稿しています※
※第1話&第11話扉絵は[嵐山晶 様] に描いて頂き、ご本人の許可を得て掲載・使用しております※
もわ、と暑い空気を胸いっぱいに吸い込んでみる。熱と、澱んだ水のにおいを混ぜ込んだ湿った風。わずかに涼を添える花の香りが、ちくりと胃のあたりを刺激した。
夕暮れの雑踏に身を任せるのは気持ちが良かった。渦巻く幾千ものにおいがさざめく人々の声に混じり合い、滋養たっぷりの汁椀の湯気のように鼻をくすぐる。露店に並ぶ、熟した果物のにおい。死んだ肉を炙るにおい。女たちの肌が放つ甘いにおい。男たちにまとわりつく汗のにおい。遥か異国の香辛料よりも、もっともっと芳醇な、眩暈を誘う香りの混沌。
ふとそこに異質なにおいが混じるのを感じて、少女は鼻をつん、と上げた。潮と血と命をごたまぜにした、忌々しくて鮮烈で、思わずむしゃぶりつきたくなるようなあの匂い──遠い海の匂いだ。
だれが発しているのだろうと視線をやれば、不思議な音節が聞こえてきた。きゅっきゅっ、と熟れ落ちた果実を踏みつぶした時のような、心が浮き立つ音だ。
「みっみっみっみっ みっみにみー」
目を奪われた少女は目を丸くし、それからぷっ、と吹き出す。
頭から頭巾をすっぽりとかぶった姿が、ひどく焦った様子で雑踏をかき分けながら進んでいた。もちろんそれを追いかけているのだ。
「みみっみーみー みみみっみー」
その丸いもの……拳大の、まん丸な白と赤の餅のようなもの……は丁度大人の視線の高さくらいの宙を、あっちへぴらぴら、こっちへぴらぴらと泳ぎ回る。そして、背後から必死に迫る男はといえば、何度も手を伸ばして捕まえようとするものの、空しく宙を掴むだけなのだった。
その滑稽な様子に少女は笑いを抑えられない。紅白の丸餅は、肩と肩が触れあうほどに込み合った雑踏を、あちらの女の髷の上からこちらの男の髭の中へと飛び回り、挙句の果てには道を行く艶やかな遊女のはだけた胸の谷間へと潜り込んだ。
豊満な谷間から丸い頭を覗かせたその丸餅は、振り返って頭巾の追跡者を認めると「みっみみー!」と得意そうな顔で……そう、まん丸の黒い目をきょろきょろと可愛らしく回しながら……笑った。
「ヨナ小!」
一瞬の隙を逃さず、追跡者の手が石火のごとく伸び、感心したことに遊女の胸に指一本触れることなく、それを掴んだ。そのまま、さっ、と懐に収める。周りの人間には、この頭巾の姿──声からして若い男だ──が何をしたのかすら分からなかっただろう。もっとも、あの丸餅の姿自体が見えていないのだから、分かりようもないのだが。
少女が見つめる先で、頭巾の青年が雑踏に紛れ込もうとしている。自分は怪しいことなどしていません、と言わんばかりに平静を装っているのがひどく滑稽だった。
道行く誰かの肩がぶつかり、青年の顔を覆っていた頭巾がふわり、とずれた。
──ほら、何という自意識過剰だろう! あわてて頭巾を直す仕草ときたら!
少女はもう、ころころと笑いだしてしまいそうだ。
格好つけで、そのくせ自分がどう見られているかがどうしようもなく気になって。
爪の先で引っかけば跡が残りそうな、水の滴る若い果実、親指で押して跡をつけずにはいられない、やわらかい白い餅。そんなものが脳裏に浮かんで、思わず喉が鳴った。衝動に突き動かされて、もう少しで雑踏に飛び込んで翻る袖を捕まえてしまうところだった。
自らを叱咤するように、ひそかに唇を舌で湿してみる。芳醇な香りが舌から鼻に抜けていった気がした。甘美な眩暈が脳を溶かしたと思ったのは、うだる暑さが見せた幻覚なのか。
湿った風は全てを腐れさせて、とろかせる。
──シュリの都は。
かの英雄、尚巴志から続く王統・尚氏が実らせた果実だったといわれている。
かつて数多の有力者たちが乱立した南海の島・リウクーを統一した巴志──忽然と歴史の中に姿を現した小男──はその巨大な口に次々と敵を呑み込み、三山の名の下に分かたれた大地を平らにならして、血潮と屍をすき込んだ農地に変えた。権力の種を播く巴志は、敵の血だけでなく血族の血をも肥料に撒いて偉大な王統の幹を太らせていった。
交易の偏西風を追い風に、王国は異国の富を吸い上げて幹をますます太らせる。
幹に実る果実が増えれば、いくつか腐れたりするものも出てくる。甘い腐臭の影から収穫の籠を背負って現れたのが、北の小さな島に生を受けたという金丸なる男であった。もとは農民出というこの男は、萎れた草が餓えて吸い上げる水のように、知と策略を用いて狡猾に王統にその身を同化させていった。
そしてある日、農奴の稲刈り鎌を刀に持ち替えた。
後は稲を刈るごとしである。
尚氏の実らせた稲穂は、金丸──後に “尚”の字をそっくり頭に頂いて“尚円”王と名乗ることになる一人の平民の手によって収穫されたのであった。
尚円が王となって何年が経っただろうか。
シュリの都では今でも収穫の名残の血が生臭いにおいを放ち、富が、欲望が、そして堕落が渦巻いていた。
「ヨナ小! 私から離れるなとあれほど言っておいたはずだ!」
厳しい声に、小さな姿は丸い頭を折り曲げるようにして、しゅん、とうなだれた。
「みにみに……みにー」
丸餅のような体の前で、小さなひれがもじもじと動く。
「それで反省しているつもりか。そなたは何も分かっておらぬ。あのまま行けば、そなたは露店の餅の屋台で焼かれていたかもしれぬ」
「みみ! みにっ……みにったまーっ!」
ぴぴぴぴ……と前びれを動かした丸餅……ヨナ小……はぷくう、と頬を膨らませると、両手で体を拘束されていた正座の膝上からぽーん、と垂直に飛び上がり、青年──ミャークの首長・仲宗根豊見親玄雅の顎を下から体当たりで殴り上げた。
「くっ……屁理屈をこねる気か! よいか、衆目に見えぬとはいえ、どこにそなたが見える者がいるか分からぬのだぞ!」
「みーにみに。みにっみー!」
「この、減らず口めがっ……」
ぱくぱく、ぱくぱくと大きく開閉する口を両手で必死に押さえながら、玄雅は押し殺した声で叱責を続けている。これがここしばらくの玄雅の日課になりつつあった。ヨナ小──拳大の丸餅、ミャークからシュリへの都上りの唯一の同伴者との、小さな口論が。
「お兄さん、注文は? お酒?」
不審そうな声に、玄雅は弾かれたように顔を上げる。狭苦しい酒場の隅に陣取って見上げた先では、給仕の少年が怪訝な視線を向けていた。
「ああ、そうだな……酒はまだいい。何か食べるものを。魚……、」
そこで玄雅はちら、と自らの着物の袖に目を落とす。わずかな明かりが照らし出す闇の中でぴこ、ぴこ、と動き続けるものをさりげなく掌で隠すと、納得させるように少年の瞳を覗き込む。
「いや、魚はよそう。肉だ。焼いたものをくれ」
平静を装う玄雅の焦りが伝わったのか否か。肩をすくめた少年は厨へと背中を向けた。その姿が混雑した酒場の人の群れに消えるのを見届けて、玄雅は思わず小さな息をつく。
そう、酒場は混んでいた。ここに足しげく通っていた数年前と同じ、いや、それ以上のざわめきに満たされて。そう、もう数年が経つ──みげるに連れられてこの猥雑な薄闇の客の一人になってから。何年経っても変わらない、粗悪な魚油の臭いと、じっとり湿った土間の床。申し訳程度に敷地を囲うのは、触れば脂でねとつく木の壁だ。
視線を巡らせれば、土の地面に粗末な敷物を敷いてめいめいに陣取った人間の群れが、虫のように蠢いている。時折、申し訳程度に置かれた魚油の灯りに照らされて、相変わらずの面々の輪郭がぽかり、ぽかり、と薄闇の中に浮かび上がった。
罪人、落人、はぐれもの。
咎人、盗人、人殺し──。
ここはそんな者たちの溜まり場だった。顔を見られたくない人間たち──薄暗がりの中でもぞもぞ動き、光差す世界から追い落とされてもなお、酒の香気がもらたす一瞬の夢と快楽に縋りつかずにはいられない──そんな者たちの、狂おしいまでの絶望が吹き溜まる場所だった。
目を上げれば、男や女がちら、ちらとこちらへ視線を投げている。目深く被った頭巾など、ここでは問題にならない。今夜の獲物を見つけるには、熱を放つ張りのある肢体や、青々とした匂いだけで十分なのだ──もちろん、餌食になる気など毛頭なかったが。
く、と視線に力を込めてやれば、網をつつかれた蜘蛛のように無遠慮な視線が蠢き、ざわざわと身を縮ませる。
欲望のにおいに辟易して、玄雅はうんざりしたように視線を泳がせた。
──まだ、来ないか。
そう、玄雅は先ほどから待ち続けているのだった。待つには不本意なその相手を。
無論、玄雅は王府から「豊見親」の称号を冠せられた一種の賓客であり、このような場末の盛り場に留まるいわれなどない。それどころか、ミャークから戻った交易船がナハの港に着くやいなや、豪華な旅館をあてがわれ、王への拝謁を待つ間の何不自由ない生活さえ約束されていた。
「すぐにでも、シュリの館にお移りになられてもよろしいのですよ」と旅館の主人は震え声で言ったものだ。シュリの王城の近くにも賓客用の滞在館があり、拝謁が近づくとそちらへ移る者も多い。
仏頂面で視線だけを返した玄雅に、主人は怯えたように身をすくませて、すごすごと退散していった。
さっさと厄介払いをされてやりたいのはやまやまだったが、玄雅はシュリの王城も、そのすそ野に広がるシュリの城下町も嫌いだった。このナハの港町を少し離れた高みから見下す、木で鼻をくくったような人々が住む王の根城──。そんなところに滞在するくらいなら、このどぶの臭いが立ち込める運河の街、ナハの方が何倍もましだった。
それでも、旅館の人々が玄雅を──正しくは、玄雅の顔の傷を──怯えながら、しかし、信じられないほどの無遠慮さで見てくるのにはさすがに辟易した。数年前に玄雅が、いや、顔に十字傷を持つ男がこの土地で何をしたのかは、思ったよりもはるかに知られているらしかった。
だから、都合が良かった、といえば良かったのかもしれない。あの旅館の居心地の悪さは耐えがたかったし、どのみち、みげるには会わなくてはならなかった。そして勿論、あの男は交易船が戻ってきたことも、玄雅がナハにいることも全てお見通しに違いない。だからこそ、玄雅は追いやられるようにして忌まわしくも懐かしいこの酒場の門をくぐったのである。
ち、と思わず舌打ちが漏れたところで、腹が鳴った。袖の中で、あの小さな姿が腹を抱えて笑う──ということはあるのだろうか──ように飛び跳ね、転げ回っている。憮然とした玄雅はしかし、わずかな満足感も感じていた。
──計算通りだ。腹が空いてきた。そして、腹が空いた時に合わせて食べ物を注文した。完璧だ。
この青年は、ミャークに残してきた忠実な部下・川満の言いつけを律儀に守っているのである。
とかく玄雅は衣食住というものを自分で上手く調整できず、食に関しては周りの者が見ていないと気持ちが悪くなるまで食べてしまうか、空腹で倒れるまで食べなかったりするのであった。幼少期の餓えの体験が残した傷跡なのか、それともそれ以外の何かの力が働いているものか。兎に角、道中の注意事項として川満が口を酸っぱくして言い聞かせたことの一つが「腹が空き切る前に適切な量を食べること」なのであった。
──「よいですか、玄雅様」
と川満は真剣な顔で言ったものだ。
──「理想や志を叶える第一歩は、まず日々の些事をつつがなく行うことなのです」
時折、まだ若い川満はじいやと同じようなことを言うのであった。
見つめる二色の瞳をすでに懐かしんでいる自分に気付いて、玄雅は頭巾の中に片手を突っ込み、ほどけた毛先をいじった。
そろそろ運ばれてくるだろうか──、気持ちを逸らそうと厨房の方に目をやった時、不愉快な音が響いた。
女の金切り声。ややあって、押し殺した子供の泣き声が聞こえてきた。先ほどの、給仕の少年の声だった。
嫌な音──感情的で、のどに詰まったようなきりきりした女の声。それは、この年になっても玄雅の心を絞め上げる種類の音だった。振り上げられた掌まで目に浮かび、脳裏に生家の猫の引っかき傷だらけの壁がよぎった気がして、眩暈を感じた。
「たらたらしてるんじゃないよ! 食い物だけで上がりが取れるかい!」
下品な中年女に違いない。この酒場で何年も働いて、粗悪な肉を煮て、客の飲み残しの酒を啜って──そんな風によじれてかすれただみ声だった。
「ごくつぶし! 薄汚い北山のイヌッコロ!」
ややあって、ひどい折檻の音が聞こえてきた。思わず玄雅は立ち上がる。
「よせ」
扉代わりの油染みた布を跳ね上げて、狭苦しい厨房に割り込む。振り上げられた手首を素早く掴むと、中年女は小さな目で玄雅を睨み付けた。捕まえた肉付きのいい手首が異様なほどの熱を放っている。
──豚に似ている。
そんな個人的な感想などお構いなしに、そこはこの掃き溜めで生き延びてきた図太さなのだろう、やがて女は視線に好色の色を混ぜて玄雅をねめまわし始めた。
「何だい兄ちゃん。あんた、どういうつもりであたしをふん捕まえているんだい?」
そのままねじ切るように手首をもぎ離すと、返す勢いで玄雅の頭巾を跳ね上げる。やがて、脂ぎった女の唇から無遠慮な感嘆の声が漏れた。
「傷物だけど、いい男じゃないか」
じゅ、と舌なめずりの音まで聞こえた気がして、玄雅は眉をひそめた。目を逸らしながら、厳しい声で返す。
「その子供を叩くな。酒を頼めば良いのか?」
じっとりした視線をしばらく行き来させた女は、ようやく脈が無いと悟ったのだろう。腹立ちまぎれにふっかけてきた。
「たんとね。そう、一壺は頼んでもらわないと」
──一壺。
憮然として泳がせた視線が、厨房の隅で怯える少年の目と合った。やや明るい厨房の灯りの下で見てみれば、まだ幼さの残る顔をした、やせっぽちの少年だった。
「……いいだろう。その代わり、その子供をもう叩くな。これからもだ」
にたあ、と唇の端を上げた女が、少年に向けて顎をしゃくる。弾かれたように立ち上がる痩せた姿を背に感じながら、玄雅は再び酒場の隅に戻っていった。
いくつかの視線が上がり、やがてまた闇に沈んでいく。小競り合い、罵倒、喧嘩……そんなちょっとした楽しみが不発に終わったことを残念がるような、淀んだ目だった。
小さく息をついて再び敷物の上の住人になると、玄雅は足を雑に崩して胡坐をかいてみる。
ややあって、先程の少年が戻ってきた。
闇に慣れた瞳の先で、片手が肉の皿を支え、もう片方の腕が細い腕には余るような丸っこい酒壺を抱いている。もじもじと立ち尽くす少年の手から、玄雅は手を伸ばして皿と酒壺を受け取ってやった。それでも少年がその場を離れないのを見て、玄雅は静かに問いかけた。
「どうした?」
少年はしばらく俯いたまま立ち尽くし、やがてぽつり、と呟いた。
「おかみさんが、兄さん、おれのことも買いたいんじゃないかって……」
見えない何かが玄雅の頬をぴしゃり、と打った。
「……北山と、言っていたな」
少年が弾かれたように顔を上げ、それからまた俯く。やがて薄闇の中で拳が震え、光る粒がいくつか落ちた。
「ずっと、ずっと……昔の話だよ。おれの見たこともない『ゴセンゾ』の話だよ……」
少年の手が上がり、拳が何度も目をこすった。
「なんで……なんでおれまで……」
北山。それは歴史の闇に沈められた名前だった。南山、中山、北山──一つの島で三つの勢力が並び立った時代があったという。さらに北に連なるアマミやヤマトの国々とも深いつながりを持ち、莫大な富に守られた北の要塞、北山──その栄誉は、英雄・尚巴志により簒奪され、一つの国に統合されるに至った、といわれている。
敗北と没落、それに続く離散──何十年もの歳月が流れてもなお、敗者の烙印はその子孫たちに過酷な運命を強いていた。
流転する運命の激流の中で、どちらの側に立っていたか、急流の中の小石に足を掛けていたか、いなかったか。そんな小さな事柄が命運を大きく分け、敗者は濁流の藻屑と消える。この少年もまた、生まれながらに闇に突き落とされた側なのだろう。
何か、言わなくては──言葉を探す間に、またあの女の金切り声が聞こえてきた。ぐずぐずするな、さぼるな……そんな不快に打ち付ける音に、少年の肩がびくり、と震える。
慌てて背を向けようとする痩せた姿に、玄雅は急いで懐を探る。握らされた銭の重みに、少年は驚いたように視線を返した。
「あのばばあはおれを殴るよ。この金があっても」
闇の中で、濡れた目が光っていた。
「一枚だけ渡せ。後は隠して貯めておけ」
じっ、と見つめていた少年は、やがて小走りに去っていった。座っていた敷物の端に、肉の皿と、丸っこい酒壺だけが残されていた。
──すっかり、冷めてしまった。
憮然と皿を引き寄せると、肉の刺さった串を摘み上げる。食べ物にうるさい性質ではなかったが、それにしてもこれはひどかった。黒焦げで、何の肉かすら分からない。
はあ、とため息をついてから、そっと袖をつまんで肉の一かけらを差し入れてやる。待ってました、とばかりにヨナ小がかぶりつく気配、そしてどこをどうすればそのような音になるものか、しゃくしゃく、かりかりと肉を齧る音も聞こえてきた。
陰鬱。そう、何もかもが陰鬱だった。シュリの都。故郷を追い出された自分。産まれたばかりの金盛。滅びた国々の物語……。
宇津免嘉は自分がこんな気分になるのを見越して、これをくれたのかもしれない──玄雅は袖の中をそっ、と覗き込む。果たして、中ではうすぼんやりと光を放つ丸餅が懸命に肉を咀嚼していた。
丸い体の後ろでひらひらと揺れる尾びれを見ていると、まあ「かわいい」という気にもならなくもないような……、
「……確かに、気はまぎれる」
ぽつ、と呟いてから、玄雅も一口肉の串を齧ってみた。そうしないと、川満との約束を破ることになる。やけに固くて苦い肉を噛みしめながら、玄雅はぼんやりとした回想を始めていた。
それは島を出る前の晩のことだった。
結局、最後まで謝罪めいた言葉は言えずじまいだった。夢に何度も現れるあの赤ん坊のこと、子を失うことになった宇津免嘉にすまないと思っていること……。
政のいろいろや、屋敷のこと、赤ん坊の金盛のこと……普佐盛と伊嘉利、じいやと川満、部下たち、召使たちと何度も話し合い、これ以上は無いだろう、というくらいに二重にも三重にも手筈を整えて、後は出発を待つばかりであるのに、宇津免嘉とまともに話したのはその晩くらいのものだった。言葉にしてしまえば、全てが薄っぺらになる気がした。だが、それも玄雅のくだらない意地が言わせる言い訳なのかもしれなかった。
内心色々と考えあぐねていたせいだろう、ふと夜中に目を覚ましてみれば、傍らに妻の姿は無かった。こういう時、玄雅は焦らない。以前に何度か同じようなことがあったからだ。宇津免嘉は不機嫌になるとぷい、と姿を消してしまう。そしてそんな時、行くのは大抵同じ場所なのだった。
果たして、真っ暗な道を灯りを頼りにひたひたと向かったのはあの水の口だった。祖父である泰川大殿はこの池を擁する荘園に今も住み続けていたが、玄雅が豊見親となってからは人の行き来が頻繁になり、一帯が栄えて村のようになっていた。池に向かう道のりも、かつては草むらだったのが畑に変わり、月明りの下で野菜の葉がこんもりと茂っているのが見えた。
やがて、小さな海岸を横目に岩場を進むと、懐かしい水の口が現れた。天に向かってぽっかりと口を開けた池を、ごつごつした岩が丸い額縁のように取り囲んでいる。くりぬかれたような正円の額縁から見下せば、相変わらずの手の届かない下方に水がたゆたっていた。
「……魚は、いないな」
どうでもいい言葉でしか、切り出すことができない。玄雅が自らの短所だと思っている点が、こんなところでも出た。少し先の岩の淵で、宇津免嘉は無言で背を向けていた。
「夜は出歩くな。何が出るか分からぬ」
言葉を掛けながら歩を進める玄雅を背にして、宇津免嘉は華奢な肩をさざめかせていた。笑っているのだ。
「あなたが、私にそれを言うの?」
「…………」
そして、上手い言葉の一つも返せない。玄雅は自分のそういうところが嫌いだった。代わりにもう数歩だけ進む。向きを変えた夜風が長い髪をこちら側に向けて吹き流し、やわらかい髪の先端が頬をくすぐった。それでも、宇津免嘉は背を向けたままだった。
その視線の先には、天高く月が昇り、その下には静かな暗い海が広がり──。大地に潜った水の口は海に繋がり、混ざり合い、波と同化して遠い水平線までもゆらめいていた。
ふと、白く光る水面で何かが跳ねるのが見えた。宇津免嘉もそれを見ていたに違いなかった。輝く鱗を煌めかせる大きな魚、もしくは……、
不意に胸に熱いものが満ち、玄雅は急き立てられるように宇津免嘉を抱きしめていた。
腕に捕らえられたやわらかなからだが、身をすくませて振り返ろうとする。それでも、力を緩めなかった。
「……どうしたの、空広?」
「行くな」
結局のところ、玄雅は言葉の技など持ち合わせていないのだった。代わりにあるものと言えば、市井の男たちと何ら変わることの無い、愚にもつかない抱擁と懇願だった。
「帰らないでくれ」
そうしてしばらく、二人は闇の中で月の光を浴び続けた。さざ波の歌を聞きながら、月夜に二つの鼓動だけを響かせて。
やがて、宇津免嘉は腕の中で身をよじると、まっすぐに瞳を覗き込んできた。輝く瞳は相変わらずの不思議な色をしていたが、その光は月明りの下でいくらか和らいでいるように見えた。
「珊瑚は」
花のような唇が動く。
「月の夜に子供を産む。やわらかいたまごに命を詰めて解き放つ」
子守唄のような声だった。なぜか今夜は、あのざらざらした響きが抜けていた。そんな小さな気付きを笑うように、宇津免嘉の指が玄雅の顔の傷をそっとなぞる。
「海に放たれた無数の子供たちは、波に漂い、運ばれて──多くは藻屑か魚の餌。生き残るのは、ほんの少し」
「宇津免嘉……」
黙らせるように、やわらかい指が玄雅の唇に触れる。
「だから、珊瑚は産み続けるの。何度も、何度も──生き残る子供を産むために」
見つめ返した宇津免嘉の目は潤んでいた。あとはただ、熱情だけが吹き抜けていった。
そうして──明け方に宇津免嘉はそれを玄雅に渡したのである。
「これは、あなたに預けておくわ」
そう囁くと、宇津免嘉は小さな布袋を渡してきた。
口のところを紐で括った小袋。上から触ってみれば、親指の先ほどの丸い物が入っているのが感じられた。
「強く触ってはだめ。困ったことがあったら開けて」
困惑気味の玄雅に、宇津免嘉はただ微笑んでみせるだけなのだった。
そしてその日、玄雅は船出した。
ミャークの島の全員が駆けつけたのか、と言わんばかりに港には人々がひしめき合い、白川の一族はかの与那覇勢頭豊見親の伝説にあやかって、豪華な五色の吹き流しまで作ってくれていた。かつてと同じ「追放」ではあっても、その趣はずいぶん異なっていた。
じいやは最後まで自分もついて行く、と言い張り、川満に諭されていた。少し離れたところでは吹き流しの指揮をとる大立大殿が大声を張り上げ、根間の親族たちも見送りのために勢揃いしていた。
仲宗根豊見親は、多くの人々に愛されるようになっていた。
「留守を頼む」
短く言った先で、宇津免嘉が微笑み返す。その腕の中では、布にくるまれた赤ん坊の金盛がすやすやと寝息を立てていた。
起こさないように、そっと頬に手を伸ばす。
だが──指が触れる前に金盛はぱちり、と目を見開くと、玄雅を見据えて火がついたように泣き出した。
「やっぱりだめね……」
あきらめたように呟く宇津免嘉の声に、玄雅は密かに唇を噛んだ。見下ろした金盛の額に、赤黒い痣が浮き上がっていた。
よく見れば、五弁の花の影にも見えなくもない、赤黒い痣──。
赤ん坊の額にはなはだしく咲く、あの世の花。それは玄雅が遠ざかればたちまちに消えるのだ。
──呪い。
赤毛の鬼が残していった傷跡が、確実にミャークの大地を苛み始めていた。
玄雅は再びの息をついた。
産まれたばかりの息子を抱いてやることすらできない、父である自分……。自分は絶対にそうはなるまい、と密かに思っていたにもかかわらず、心の奥に染みついた一つの姿が薄暗い酒場のどこかから見つめている気がした。真誉の子──玄雅の実の父親。猫ばかりを愛し、家庭を、子供を顧みず──。自分は違う、と玄雅は暗い思いを必死で打ち消す。
閉じ込めておいた扉をこじ開けようとする魔物を黙らせようと、玄雅は敷物の上の酒壺に手を伸ばしていた。どうせみげるはまだ来ない。ならば一杯の酒くらい、大した問題では無い気がした。
壺の口に蓋をするように伏せてあった杯に直に注ぎ込めば、芳醇な香りが立ち昇った。肉はひどかったが、酒はそれなりにまともなものを出しているらしかった。
一口含めば、ふわ、と良い味がする。ミャークでは酒は貴重で、節制に努める施政者である玄雅はほとんど口にすることはなくなっていた。だからこそ、こうして異国の地で飲む酒は──沁みた。
袖の中で、食事を終えた丸餅が居心地が悪そうに動いている。もぞもぞ、と動くのをなだめるように掌でやさしくたたいてやりながら、玄雅は回想の続きに身を任せた。
そうして、豊見親は満座に見送られながらミャークを出たのである。本当に、たった一人の旅立ちだった。シュリの交易船の甲板に立ち尽くす離島の王の姿に、都の役人たちは目を丸くしたものだ。だが、玄雅にしてみればこれは全く理にかなったことであった。
帯に差されたのは、混じりけのない黒い鞘に無骨な柄──この刃に勝る同伴者はなかった。むしろ、半端な人員を連れて行って足手まといになられるのはご免だった。
長男の誕生の報告のための都上り──無論そんなものは口実である。だからこそ、共も連れずに都上りなどさすがに無礼なのでは、と言い立てる側近たちのことも強硬に説き伏せたのだ。
川満は最後まで納得しなかったが、あの王は気にすまい」と言い切った玄雅の顔に浮かぶ皮肉な笑みに、結局は黙った。川満は、シュリの国王にはもちろん会ったことがない。
王、王宮、王族たち──シュリで何が起きるのかはたやすく想像できた。
──うんざりだ。
それが玄雅の本音であった。
そんな暗澹とした気持ちを抱えたままミャークの島を後にしてシュリに向かう海路に入ろうとした時──海が、波立った。
わあ、わあ、と王府の船員や役人たちが揺れる甲板の上で阿鼻叫喚に右往左往し、都育ちの軟弱者が、と心の中で悪態をついたとき──玄雅もまた彼らと同じ方向を見上げて息を飲んだ。
いつかの時のような、巨大な鯖、ではない。それより、もっと絶望的な物が、船の遠くから迫ってきていた。
──海が、立った。
と玄雅は思った。天高く輝く太陽に手が届きそうな高さまで、大波が立ち上がっていた。透明なはずの水の向こうなど、とても透けて見えない、分厚い水の壁──。大波の壁が玄雅たちの乗った船を目がけて迫り進んでいた。
「ばかな……」
事前に、何の兆候も無かった。海の震えも、水面の高さも──。
だが、茫然と見上げた波の天辺のあたりに、玄雅はその姿を認めていた。うねる水の壁の頂点で飛び跳ね、なにやらこちらを指差してがなり立てているらしい人影──長衣を纏い、輝く玉を散りばめた冠を頭に載せて──その傍らでは、いくつかの別の人影が長い衣の袖やら裾やらを引っ張って、止めようとしているらしかった。
太陽の光が、きら、と輝くものを照らした。もちろん、波の上の人影に生えた鱗の尾の光である。
「しつこい……」
今度は本当に舌打ちをしたところで、玄雅の胸元でもぞもぞと何かが動いた。ぎょっとして見下せば、宇津免嘉から預かったあの布の小袋の中で何かが蠢いているのであった。
──困ったことがあったら開けて。
宇津免嘉の言葉が脳裏に蘇る。受け取ってはみたものの、真意を測りかねて結局首からその袋を下げたままにしていた玄雅であった。
──困ったこと。
ちら、と小袋から視線を戻せば、もはや大波はすぐそこまで迫っていた。シュリの人間たちが泣き叫び、互いに抱き合って祈りを唱えている。
──それは、今かもしれぬ。
意を決して袋の口を止めていた紐に手を掛けたとき、袋はひとりでに開いた……というより、中からこじ開けられたわずかな隙間を縫って、つるん、と何かが押し出された。
ぴた、とも、ふにゃ、ともいえない何ともいえない感触が手に触れ、玄雅は思わず掌を引っ込める。だが、そんな焦った様子などお構いなしに、袋から零れ落ちたそれは甲板に当たった反動を利用して、毬のように天高く跳ねた。
「みみみっ……みにったまーーーー!」
今思えば、あれが産声だったのだろうか。
ぽかん、と見上げる玄雅の視線の先に、どこかで見たことがあるような、まん丸い魚……というか、丸餅……が天高く跳ね上がっていた。
「ヨナタマ……!?」
太陽を背に受けて、神々しく輝く丸い生き物。だが、それは玄雅がかつて海の底で出会った毬魚とは違うように見えた。
──まず、色が違う。あれは真珠色だったが、これは紅白だ。それに何より小さい。
冷静に分析する間にも、その拳大の丸餅は空中でぱか、と口を開けた。
眼前に迫った大波の壁の上で、あの姿──竜王──が顔を引きつらせていた。聞いてない、というような趣旨の叫びもかすかに聞こえてきていた。
そんな様子などお構いなしに、紅白の丸餅がぴらぴらぴら……と空中で小さな前びれを動かし始める。
大波の上の人影たちが、慌てたように背を向けた。だが、丸餅のひれの動きに合わせて水の壁の表面が不穏に波立ち……やがて、ぱあん、と無数の水の玉になって爆ぜた。足場を失った竜王たちが宙に投げ出される。そして、水の玉は海の水面に落ちる前に細い奔流になって丸餅の口に吸い込まれていった。
「儂らも吸われる! 退却じゃ!」
「だからやめようって言ったのに!」
「いや、おまえも楽しんでいたじゃないか」
などど、聞いたことのある罵り合いの声が遠ざかっていくのが聞こえた。
玄雅が黙って見つめる前で、丸餅は小さな体の中のどこに収めたものか、大波を吸い込み切ると、やがて満足そうに口をぱくり、と閉じた。満腹……なのか、黒目勝ちの目がとろんとし、ぴらぴらぴら、とひれを動かしながら天から降下してくる。やがて上に向けて開いた玄雅の両の掌にすぽん、と受け止められると、すやすや、と寝息を立て始めた。
甲板の上は、静まり返っていた。
立ち上がる大波など、もうどこにもなかった。
シュリの人間たちが呆気に取られたままこちらを見ている。困惑した視線を一身に浴びた玄雅は、すました顔で丸餅を懐に入れると、落ち着き払った声で言い放った。
「いや、白昼夢というものは恐ろしい」
──それが、このヨナ小の誕生、ヨナ小との出会いであった。
ヨナ小という名前は、玄雅がつけたのである。
あの後、さりげなくシュリの男たちに探りを入れてみれば、どうやらこの丸餅の姿は、玄雅以外には見えていなかったらしいのである。
──ふむ。
と玄雅は思った。元々これは玄雅が宇津免嘉から個人的に預かったものであるし、今までの玄雅の来し方を思えば、そういうこともあろうかと思えた。そして、この丸餅は玄雅に懐いていた。船室の隅にしつらえた布の寝床の上で一しきり眠ってから目を覚まし、きょろきょろ、と丸い目を動かした丸餅は、じっ、と見つめる玄雅の姿を認めると、ぽーんと跳ねて胸のあたりにすり寄ってきた。
──子犬のようだ。
と思ってみても、丸餅はあくまで魚である。姿かたちはあのヨナタマをそのまま拳大に小さくして色を変えただけ、すなわち、まん丸の体と申し訳程度についたひれ、餅のような質感の体に、ひらひらした尾。だが、その顔立ちはいくらか可愛らしく見えた。おそらく、まん丸い目の白目の部分が少ないせいである。
兎に角──預かりものであり、懐いている。さらに窮地を救ってくれたとあっては無下に扱うわけにはいかなかった。
船室の床の粗末な円坐に座り直すと、玄雅は神妙な顔で掌の中の丸餅の顔を覗き込んだ。
「……そなた、名は何という」
ちいさな丸餅は掌の中できょとん、とし、無い首を傾げてから言った。
「みにったまー!」
「そうか。『みにったまー』か」
そこで丸餅はむうう、というように眉……のあたりをひそめると、ふるふる、と無い首を振った。
「みにったまー!」
「……分からぬ。いや『たま』はヨナタマのタマであろうな? ならば『みに』……『みに』とは何だ」
少し答えに近づいたのだろうか、丸餅は顔を輝かせると狭苦しい船室の天井のあたりの宙を小さな円を描きながら泳ぎ回った。
「……丸?」
ちがう、というように全力で体を振ると、今度は大きな円周を描きながら宙を泳いでみせる。
「大きい、円……?」
もどかしそうにぴらぴらと泳ぎ回ると、丸餅はもう一度小さな円、それから大きな円を空中に描いた。
「小さい……大きい……」
はっ、となった玄雅は円坐を蹴って立ち上がった。
「『みに』とは『小さい』の意味であろう!」
ぱあ、と丸餅の顔が輝いた。そのまま空中から降下してくると、玄雅の頬に体を擦りつける。
「よく分かったぞ。そなたは小型のヨナタマ、もしくは幼体なのであろう。なるほど……」
そこで玄雅は顎のあたりに手をやって考え込んだ。
「小さい……ヨナタマ……」
ミャークの言葉では、小さいことを「いみーちゃ」などと言う。
「いみー……ヨナ……タマ……」
やがて、玄雅の顔にこれ以上は無いほど得意げな笑みが浮かんだ。
「ヨナ小。そなたをヨナ小と呼ぶことにしよう」
シュリの言葉では、小さいことを小などと言う。
これから異国の地に向かおうという玄雅にしてみれば、かの地でも違和感のない、これ以上は無いほど見事な名前を付けたつもりであった。
「何故、そなた時折不満そうな顔をするのだ……」
ほんの少し拗ねた声を投げてみても、袖の中のものは答えない。とっくの昔に満腹になって寝入っているのである。
みげるは来ないし、ヨナ小は寝てしまった。
──何だ!
と若干の苛立ちを感じている玄雅ではあった。
──そもそも、みげるは自分から来いと言っておいてどういうつもりなのか。自分は待たされ、貴重な路銀まで使って飲みたくもない酒を飲んでいる。
全て自分の判断であることも棚に上げて、心の中で悪態をつく。本当に腹が立ってきた玄雅は、自分で酒を注いでもう一杯煽った。
──そもそも、なぜ自分がこのような目に会うのか。故郷を追い出され、産まれた子も抱けず、あの刀まで押し付けられて。よりによってもう二度と来たくないと思っていたシュリに来て。不愉快だ。本当に、不愉快だ。
これが、玄雅──豊見親であるということを脱ぎ捨てればまだまだ若い青年の本音であった。ミャークにいる時は、とてもこんなことは表に出せない。なにせ、玄雅はミャークの首長、王なのである。王であるためには、内にも外にも、幾重もの鎧を着込む必要があった。だが、ここはミャークではなかった。その事実、一種の開放感が玄雅を良くない方向に押しやり始めていた。
もう一杯くらいなら、大丈夫だろう──そう思って伸ばした手を、しっとりとしたものが覆った。
やわらかい、てのひら──。
弾かれたように身を引き、傍らに視線を据える。はたしてそこでは、一組の妖艶な瞳が見つめ返していた。
──いつの間に。
ひや、と意識が醒めてゆくのを止めるように、あたたかい指が玄雅の掌をきゅ、と握った。
「わたしが注いであげる。お酒、飲みたいのでしょう?」
少女のはずなのに、熟れたような色香が声から零れ落ちた。甘い吐息に乗せるように絹糸のような黒髪が流れて、玄雅の心をかき乱した。
「一杯なんて言わないで。本当は、芯から酔いたいのでしょう?」
抜けるように白い肌から立ち昇る、不思議な甘いにおい。見つめる瞳が、紅く潤んでいるように見えたのは気のせいか。
わずかな疑念を黙らせるように、掌に絡んだ少女の指が狂おしいまでの熱を放っていた。
猥雑にさざめく酒場の闇の中で、大輪の花が、ゆるゆると花開こうとしていた。
<第十五話に続く>




