[第13話]
宮古島の英雄・仲宗根豊見親をモチーフにした長編歴史ファンタジー「竜宮の寵児 -異伝・仲宗根豊見親-」第二部。
血に縛されたミャークの王の道を照らすのは、清らかな月の光か、澱んだ黄金の太陽か。
あくまでパラレルなミャークの英雄物語として楽しんで頂けましたら幸いです。
不定期更新・気長にお付き合い頂けましたら幸いです。
※※※R-15※※※
※無断転載を禁じます※
※「pixiv」様にも重複投稿しています※
※第1話&第11話扉絵は[嵐山晶 様] に描いて頂き、ご本人の許可を得て掲載・使用しております※
太陽など、嫌いだった。
束縛も、屈辱も、空しさも、全て陽炎が運んできた。そして、その餓えた大地を嗤いながら見下す太陽が、嫌いだった。
体のどこかが、ちくりと傷んだ。頭の片隅に、白く煌めく刃が見えたような気がした。だがそれも、籠の鳥が夢見る白昼の夢であるに違いなかった。
「──浮かない顔をしているねえ」
流れる髪に潜り込んだ不躾な指が渦巻く髪の奥に触れ、不快な刻印を頭皮に残した。
不愉快だった。まるで命の無い人形に触れるかのような、傲慢な指、その幼い指、幼い声が。
「私に触らないで」
身をよじって逃れ、強く投げた視線をまるで甘露を味わうかのように受け止めるのは、見慣れた姿──そう、王宮の奥深く、金銀と錦で飾られた牢獄の薄闇を無遠慮に照らし出す、残酷な光。月と半分だけ血を分けた太陽。
「まるで遠見でもしたような顔をしていたよ。ああ、でも、そんなはずはないのだったねえ。あなたには霊力など無いのだからねえ」
「……黙りなさい」
押し殺した声に含まれた怒りの熱を、その姿はもて遊んでいるのだろう。睨み付けた先で笑う良く似た目元。良く似た口元。だが、心根までは似ているとは思いたくなかった。心の奥深くに巣食う虚無まで、似ているとは思いたくなかった。
「月清。あなたが怒っているのを見るのは楽しいねえ」
「樽金……哀れな弟。呪われた子……」
床まで届く織りの着物を着た幼い弟。幼い輪郭と可愛らしい声。だが、その瞳に宿るのは、井戸の底の泥を覆う油膜のような光だ。 精一杯の抵抗の声など聞こえもしないように、樽金はつ、と手を伸ばすと、こちらの顔の横をすり抜けて、薄暗い部屋の棚の壺から一輪の花を抜き取った。
紅い花。あの世の花──。
「後生花は、次は誰のために散るのかねえ。あなたのお気に入りの紅い鳥かな? それとも……」
「……黙りなさい!」
ひゅ、と空を切って上げた手は、空しく宙で止まってしまう。そう、月の光は所詮、太陽には敵わないのだ。迷いのない光線が、闇を照らし、吹き散らす。
「あなたはひどい人だねえ。あちらへ、こちらへと、言えば飛んでゆくのをいいことに。今度こそ、みげるは死んでしまうかもしれないねえ」
「……私は、生きる意味を与えてやっているのです。あれは、そうして欲しいのです! あれは、そうしないと生きてはいけないのですから……!」
その言葉に込められた欺瞞と真実が絡み合い、空しい音を立てて床に零れた。
もう一度だけ薄闇の中で熱を放つ怒りを味わうように笑うと、その姿──樽金はふうわり、と背を向けた。そのまま王宮の薄闇の中へと消えて行く。
「 “後生花、後生花 血の花 死の花 後生花”──」
幼い声の歌声が、尾を引くように溶けていった。苦くて甘い香りが満ちる、凝った宮殿の闇の中に。
熱い鮮血。指を染め、手の甲を這い、手首にまでも伝う真紅の血が、湿気にうだる空気よりも数段鮮やかな熱を放ちながら玄雅の肌に絡み付いていた。
「みげる、貴様……」
「痛みは、好きだ。あの方に踏まれる熱を思い出す」
玄雅の引き攣った視線を跳ね返すように、やけに澄んだ緑色の瞳が見つめ返していた。息がかかるほどの距離で、囁きが続く。いつかの昔に、遠い国の祈りを唱えていた時のような声が。
「おれの痛みは、きっとあの方に届いただろう。おれの苦痛が、あの方に触れる。おれの痛みが、あの方を慰める。おぼろ月の霞の中の、あの方を」
みげるの手が自らの切り裂かれた胸元を彷徨った。痛みに汗ばんだ肌に細い鎖が貼りつき、鈍い光を放っていた。その先に下がる組み合わされた二つの棒を認めた時、玄雅の体の奥が引き攣れた。
「……正気に戻れ!」
みげるの腹に突き刺さったままの刃を力任せに引き抜こうとした時、刃は勝手に鮮血を散らしながら離れた。みげるが、瞬時に玄雅の懐から飛び退っていた。
「正気など、おれはいらない。空広──」
雄弁な男の声が空気を満たしていた。懐かしい、みげるの声。森の匂いと混じり合う、血の香り。玄雅の脳裏に、あの紅い花の花弁が散り始めていた。死の花──……。後生花──……。
だが、暗い淵に引き込まれそうになる意識を、その声が瞬時に引き戻した。
「──玄雅様!」
ぱち、と白い火花が弾けるように、鮮烈な声が淀んだ空気を切り裂いていた。
「川満!?」
そこにいるはずのない姿が木陰から身を躍らせ、疾風のようにみげるに向かって突進していた。
あ、と息を飲む前に、渾身の体当たりを食らったみげるが倒れ込む。地面を覆う葉が吹き飛ばされ、腐れた暗色の葉と鮮血とが宙に飛び散った。醜悪な光景に、遠巻きに見つめていた神女たちから悲鳴が上がる。
「川満、よせ!」
必死の制止の声も聞かず、川満はそのままみげるに馬乗りになると、もう一方の釵をみげるの帯から奪い取って振り上げた。
「川満!」
川満の横顔は蒼白だった。それでも、死人のような顔に、怒りに曇った瞳が燃えていた。憎悪に彩られた二つの空洞──玄雅の耳の奥で、子供の声が叫んでいた。
──化物、化物、化物──!
だが──刃を眼前にしたみげるもまた、嘲笑と憎悪が混じり合った声で発していた。
「ここにも、愚か者がもう一人」
まるで楽しむような声に、漆黒の闇が絡む。
「お前も痛みが欲しいんだろう?」
くるり、とみげるが体をひねり、びしゃ、と腹から血が噴き出た。それでもまるで苦痛など感じていないように、川満の手から釵を力任せにもぎ取る。
後は、止める間もなかった。再び元の持ち主の手に戻った三叉の釵は──
「みげる! やめろ!」
川満の腹に深く突き刺さっていた。
言葉を発する間も惜しんで駆け寄る玄雅に、みげるは言い放った。
「こいつも心の底では悦んでいるのさ。誰かのために命すら投げ出す、自己犠牲の快楽に」
「──お前は、おかしい!」
川満を抱き止めて吠える玄雅に、みげるは満足げな哄笑を投げつけた。
「知らなかったのか? おかしいのさ。おれも、お前も」
噛みつくような視線の先で、不意にみげるがよろめいた。薄い色の瞳が、意外そうに自らの体を見下す。ぼと、ぼと、と鮮血が地に落ち続けていた。
「そろそろ、限界らしい」
呟く口の端からも、鮮血が落ちた。親指で無造作に唇を拭うと、みげるは平然とした様子で玄雅を見つめた。
「空広。待っている。シュリで、おれも、あの方──いや、あの方たちも」
腕の中のぐったりとした川満を庇いながら、玄雅は歯噛みをしていた。みげるの薄い色の瞳から、目を逸らすことができなかった。
「後生花を刎ねに来い。お前の赤ん坊のためにもな」
その言葉が合図になったかのように、赤ん坊が再び甲高い泣き声を上げた。木の葉を揺らす風の音と赤ん坊の泣き声、そしてみげるの呪いの言葉が混じり合い、不吉な重唱を形作った。
「お前は、必ず来る──」
言葉と共に、自らの腹を強く押さえる指の間から、特大の後生花の花弁が弾けた。ぼとり、と落ちた鮮血が合図になったように、みげるの姿が揺らめいた。
「──逃がさぬ!」
川満を横たえ、飛びかかった時には全てが遅かった。
一瞬のうちに、みげるの姿は消えていた。
耳の奥を不快に突き刺す神女たちの囁き声と、泣き続ける赤ん坊の声、そしてぜいぜいと喘ぐ川満の息の音が、血に染まった森に響き続けていた。
──川満は、
淡い回想が脳裏に揺蕩う。
──寝苦しい夜などには、香りの良い草を枕元に置いてくれたり、自分の皮膚が敏感なのを知って、顎の辺りに当たる布団をやわらかく揉んでおいてくれたり……。
玄雅はそのまま、視線を目の前の布団の上に移す。
しゅう、と線を描く眉と、なだらかな丘を描く瞼のふくらみと。長い睫毛と、うっすらと開いた唇と……。整った顔立ち、というのはこういうものなのだろう、と玄雅は思う。少し前には自分がこうして川満に面倒を見られていたというのに、今や立場が入れ替わっているのかと思うとひどくおかしな心持がした。
川満はもう何日も夢と現の間を行き来していた。
みげるの当て身を食らい、常人ならば数日は意識を失っているはずが、どんな底力を出したものか。この青年は玄雅を助けるために下男たちの制止も振り切って駆けつけたという。それだけでも相当の無理をしたはずなのに、釵の一撃まで受けてしまった。
川満は、死ぬはずだった。
あの後、神女たちの冷たい視線を振り切りながら屋敷に担ぎ込んだものの、肌はみるみる死体のように冷たくなり、唇からは色が失われ、荒かった呼吸はついに消え入りそうになった。
川満が死ぬ。その理解がじわじわと脳裏に広がって行くと共に、玄雅は言い知れぬ恐怖に浸されていった。「死」というものは今まで、玄雅にとってはどこか遠いものだった。人を殺したこともある。自分が死にかけたこともある。だが、それはいつもどこか人ごとで、いつか自分が死ぬ時も、ただ粛々とそれを受け入れるのだと思っていた。だが──いざ川満が死の闇に攫われようとしていると思えば思うほど、玄雅はまるで足元の地面が消えたような、本能的な恐怖に満たされるのだった。
ミャークの医術や神女たちの祈りの力を総動員してもなお、川満の命はただただ零れ落ちて行った。看病を続けるじいやの嘆きが頂点に達し、玄雅の冷静さの演技がついに限界になりそうになった時──宇津免嘉が、来た。
「顔色が変わっているのね」
玄雅の顔を覗き込んで発した宇津免嘉の声に、どこか面白がっているような響きを感じたのは、気のせいか。
その夕刻、ついに川満は虫の息となり、玄雅はうなだれたまま庭に面した縁に座っていた。コホー……コホー、と気の早いみみずくたちが鳴き交わすのが、絶望に満たされた脳裏の遠くで聞こえていた。
「川満が死ぬのね。あなたはどんな気分なの?」
顔を上げた玄雅に、宇津免嘉は無邪気な笑みを含んだ視線を返してきた。青く、そして緑に透き通ったあの水の口……ときおり風にさざめいて、光の具合で小さな魚たちの背が煌めいて……そんなゆらめきの美しさを宿した不思議な瞳が、玄雅を見つめていた。ほどけて波打つ髪を揺らし、華奢な小首を傾げながら。
「おもしろいのね。川満の命が抜けていくとともに、あなたが弱っていく。あなたの光が弱くなっていく」
「……からかうのは、やめろ」
押し殺した怒りの声に、宇津免嘉は軽やかな笑い声を返した。
「からかってなどいないわ。私はただ、不思議なだけ。人の子はどうやって命の重さをはかっているのか、知りたいだけ」
瞳を固くした玄雅は、思わず立ち上がっていた。これ以上聞くのは耐えられなかった。
「お前に何が分かる!」
自分でも驚くほどの激しい声にも動じず、宇津免嘉は鏡のような瞳でまっすぐに見つめ返してきた。波打つ髪に縁どられたまろやかな輪郭から、うすぼんやりと光を放ちながら。
「何も。あなたは川満を死なせたくない。あなたは私の子供を死なせた。私には、ちっとも分からないわ」
「宇津免嘉──」
固い視線が交わり、ぴしゃ、と水が跳ねる音が響いた気がした。傍らに広がる、薄闇の庭の奥で。
「あなたには何が分かるの?」
星の尾の光のような言葉を残して、宇津免嘉は踵を返した。闇に飲まれてゆく後ろ姿に、玄雅は鈍く光るそれが揺れるのを見た気がした。瑠璃色に光る、鱗の尾が。
次の朝、開け放たれた戸の向こうで、横たわったままの川満がうっすらと瞳を開いてこちらを見つめていた。その時胸を絞め付けた言いようのない気持ちを、玄雅は忘れることができなかった。少しづつ回復してゆく川満に、玄雅は暇を見て付き添った。そう、あれから行われた幾多の「話し合い」という名の糾弾と、神意を問う何度もの儀式との間で。
今日も川満は清浄と混濁の狭間を揺蕩っていた。
もう、あまり時間が無い──。そんな主君の焦りを感じ取ったものか、淡い呻きが川満の唇から漏れた。
「──川満」
控えめに呼びかけると、川満は枕の上で何度か瞬きを繰り返し、自分がどこにいるのかを確かめるように視線を巡らせた。
やがて、久しぶりに見る黒と白の瞳が玄雅の顔の上で止まる。
「……玄雅様」
整った眉をしかめて起き上がろうと身をよじる川満の背に、玄雅はそっと手を添えてやった。
再び視線を彷徨わせる川満に、玄雅は水の入った椀を持たせてやる。
「ゆっくり飲め」
椀を取り落とさないように添えた手の下から、川満の手の温もりが伝わってきた。死の冷気が、ようやく遠ざかっていた。
上下する喉を見ながら、玄雅は胃の腑が締め付けられるような息苦しさを感じていた。切り裂かれた首──いつかの昔に脳裏に焼き付いた光景が、鮮やかに脳裏で翻っていた。
「玄雅様……?」
自らが弱っていてもなお、川満は玄雅を気づかうことを忘れなかった。自らを鼓舞するように、玄雅は暗い靄を振り払う。
「気分はどうだ」
うっすらと唇を開いたまま、川満は淡く頷いた。血の気の引いた唇の内側に淡い紅色が戻っているのを認めて、玄雅は密かに深い安堵を覚えていた。
「私は……何日眠っていましたか」
「そう長いことではない」
「お食事は……きちんと召し上がっておられますか」
川満の瞳の真剣な光に、玄雅は思わず吹き出した。
「私は子供ではないぞ」
なだめるような声に、川満はむきになって反論する。
「どうでしょう。放って置けば草など噛んで空腹を紛らわすようなお方ではありませんか、玄雅様は……」
ふふ、と笑いを返すと、川満もまた、やがて表情を緩めた。互いの安堵の温もりが、薄暗い部屋の空気を溶かしていた。
「鬼は、どうなりましたか」
──鬼。川満が再びその言葉を使ったことに、玄雅の心がぴり、と痛む。
「去った。だが、生きているだろう。自らにも、そなたにも、急所を外していた……。それにしても、驚いたぞ。傷は浅くはなかった。そなたは、もはや助からないかと……」
その言葉に遠まわしに含まれた疑念に、気づいたのかどうか。曖昧に笑って見せてから、川満は話を戻した。
「……玄雅様は、あの鬼を知っておられるのですね」
珍しく、川満ははっきりと問いを投げてきた。その声に含まれた真剣な響きに、玄雅は答えざるを得なかった。
「知っている」
短い答えに、川満の視線が刺さる。普段は余計なことを聞かない分、ひとたび答えを求める時の川満は執拗だった。これだけで終わらせるつもりが無いのは明らかだった。
「シュリにいた頃、」
玄雅は重い口を開く。海を血で汚し、ミャークから追放され──あの数年間の話は、ほとんど誰にもしたことがなかった。
「あの男に武術を教わった」
じっと押し黙ったままの川満は、やがて口を開いた。
「何を、隠しておられるのですか」
「……何も」
川満は視線を逸らし、意外にもそれ以上は追及しなかった。
「お子様は、どうなりましたか」
今度は玄雅が視線を逸らす番だった。何かもっと、良い話をしたかった。
「……我が子は、無事だ。女たちが森からすぐに連れ出した。そなたが眠っている間に名も付けた」
「名前を……」
視線を戻した先で、川満が目を潤ませていた。
「何と、お付けになられたのですか」
玄雅は安心させるように笑ってみせる。
「金盛、と。我が祖父の名から一文字取った。そして……」
言葉が途切れた。赤ん坊の金盛。そして、今こうして目の前にいる川満。一度は失いそうになった二つの鼓動が、玄雅に新しい感情を植え付けていた。
「あれは、私の黄金であるがゆえに」
川満は感極まったように何度も頷いた。
「良い名を、お付けになられました」
「そなたがそう思うのなら、私も嬉しい」
喉に絡んだような重い声を、それでも玄雅は絞り出す。
「川満。私はこの島を出なくてはならぬ」
は……、と息をもらした川満の瞳をしっかりと見つめると、玄雅は続けた。
「一度ならず二度までも血でこの地を穢したことで、島建ての神の逆鱗に触れたと──そう、何度も神託が下っている」
川満が間髪を入れずに反論する。
「そんな馬鹿な話はありません。玄雅様はこの島を統べる豊見親であらせられる。御嶽で血を流したのは、全て異国の鬼を追い払うためのこと……他に方法など無かったではありませんか! 第一、ミャークの首長が国を出たとあれば、中山やヤイマ、それにヤマトに付け入る隙を与えるようなもの。それが分からぬほど神女たちが愚かだとは思いませぬ」
「……今なら、長男の誕生の報告のための中山上りということにすれば、体面は保たれよう。そう長いことではない。血の穢れが消えるまでの間だ。幸い、不在の間は我が祖父が政を見ると言っている」
「玄雅様!」
打ち付けるような声が玄雅の耳を苛んだ。
「また、あの方々なのですか!? 信じられませぬ、これが、血のつながった一族のすることなのですか?」
「川満……」
「いつもそうではありませんか! あの方たちは、玄雅様のことを良いように利用して、」
「川満!」
血を吐くような玄雅の声に、川満はびくりと肩を震わせた。
「川満……頼む」
「……申し訳もありませぬ。言葉が、過ぎました」
布団の上で拳を固く握りしめた川満は、やがて冷静さを取り戻して言った。
「では、私もご一緒に参ります」
布団の上で身を乗り出した姿の真摯な瞳に、玄雅はそっと目を伏せた。その誠実さ、曇りの無い忠誠心に玄雅はいつも救われてきた。
「川満。それはならぬ」
そ、と手を伸ばすと、玄雅は川満の片手を両手で包んだ。ほんの少し前に、川満がそうしてくれたように。川満が与えてくれた安心感を、自分も与えられていると良いと思いながら。
「この穢れは、私が、ミャークの首長である仲宗根豊見親が負うべきものだ。民には、負わせぬ」
──民。その言葉の中に川満をも含めなくてはならない痛みが、手を通して伝わらないように願いながら。
長い沈黙が落ち、そして川満はただ一言、玄雅の名を呟いた。その一言に込められた悲しみが、怨嗟が重く胸に落ちた。
「そなたのことは、宇津免嘉に任せてある」
弾かれたように、川満が顔を上げた。
「宇津免嘉さまに……?」
これ以上、ここにいたくなかった。川満の困惑に、これ以上向き合っていたくなかった。
「そなたもまた、御嶽で刃を振るってしまった。本来であれば相応の咎を課せられるところであったが……金盛を助けた恩に報いて許すようにと、宇津免嘉が祈った。島建ての神はそなたのことは許したと……そういう神託が、下ったということだ」
「玄雅様、何を隠しておられるのです」
思わず玄雅の腕を掴んだ指を、玄雅はそっと外す。
「川満。私を信じよ。私は帰ってくる。仔細は言えぬが、私は行かねばならぬ。ミャークのためにも、そなたのためにも……そして我が子、金盛のためにも」
「……玄雅様!」
身をもぎ離すようにして、玄雅は立ち上がった。これ以上、ここにはいられなかった。悲哀が、混乱が、疑いが部屋の中に渦巻いていた。川満──玄雅の忠実な部下、薄暗闇の道を照らしてくれた光に、玄雅は背を向けなくてはならなかった。
機嫌の良い鼻歌が風に乗って流れてきていた。やわらかな海風が砂浜を囲む木々を揺らし、葉を躍らせ、小さな花々の香りを運んでいた。
澄み渡る空の高みから、ピイヨー……と鳥の声が降ってきていた。
場違いなほどにのどかなミャークの海辺の白砂の眩しさに、玄雅は目を細める。
ぱり、と踏んだ貝殻の音に気を取られているうちに、風に乗る鼻歌に歌詞が加わった。
──タエルコトノナイ エイエンノミチヲ
──ワタシノ イトシイ ……
忌々しい歌声に、玄雅は顔を引きつらせる。視線の向こう、波が打ちつける岩場で背を向けて立つ後ろ姿が、まるでその憤りを楽しむように歌い続けていた。
さく、ざく、と砂を踏んで進む音に、やがてその姿が振り返った。
「出発の準備は済んだのかい、空広?」
この瞳は、いつも笑みを含んでいる、と玄雅はまじまじと思う。からりとした陽の光を一杯に含んだ、取り込んだばかりの柔らかい着物のような笑みを。
「……釣れますか、伊嘉利殿?」
相手の問いには答えず、当たり障りのない言葉を返してみる。伊嘉利──あの婚礼の日から玄雅の屋敷に頻繁に出入りするようになった祖父の弟。だが、祖父・普佐盛とそう年の変わらないはずのこの男を、玄雅はどうしても大おじだとは思えないでいた。伊嘉利は、どう見ても若すぎた。いや、あの婚礼の日からさらに若返っているような気すらした。黒々とした髪を結って、若々しい肢体をぱりり、とした着物に包んで。その瞳に宿るいたずらっぽい光が、さらにこの男に瑞々しさを与えていた。
自分とは対照的だ、と玄雅はぽつりと思う。年がいくつであろうとも、その魂の疲弊の具合で人は若くも、老いても見える。この数年間で、自分はどれほどくたびれた目をするようになったのか……。そんな玄雅の思いとは関係なく、伊嘉利はからりとした笑い声を返してきた。
「釣れると思うかい?」
伊嘉利は握った釣竿から伸びた糸を、するすると引き寄せる。手を伸ばして水が滴る釣り糸を捕まえると、玄雅にかざして見せた。釣り針がついていると思っていた釣り糸の先には、代わりに小さなものがくくりつけられていた。ぬめるように光るそれを、玄雅は目を細めて見つめる。はたしてそれは、真珠色の鱗の一枚だった。
「こんなことなら、もっと鱗をむしっておくんだったな。からからに乾いちまって、ちっともかかりやしない」
おぞましいものを見るような玄雅の瞳に、伊嘉利は明るい笑みを返す。
「あいつらを釣るのに一番いいのは、仲間の肉を掛けておくことなんだ。共食いするんだぜ、あの魚」
ざらりとした嫌な感覚が空広の肌を撫でまわした。
「お前の兄貴が気づいたんだ、この釣り方。賢かったよな、恵照は」
やにわに伊嘉利が大きく釣竿を振りかぶった。ひゅ、と音を立てながら、弧を描く釣竿が傍らに立つ玄雅の鼻先を霞め、宙を薙ぐようにして遠い波間に釣り糸を落とした。
ぽちゃ、と針が落ちた辺りの水面を見つめながら、伊嘉利は唇を機嫌の良い形に上げている。
──挑発なのか、ただ楽しんでいるだけなのか。祖父・普佐盛とは違った意味で、この大おじは理解不能だった。
玄雅がまだ生家にいたころ、この大おじは姿を見せたことすらなかった。もともと家族仲が悪い家だったから、当時はそのことを何とも思わなかったが、今となってはその理由が分かる気がした。
伊嘉利は変わっていた。些細なことでいきなりけらけらと笑いだしたかと思えば、急に怒り出して殴る蹴るの喧嘩を始めたりする。
そして、感情の爆発が終わった途端に静かになり、「海が見たい」と言って深夜だろうと何だろうとふらふらと海辺に消えてしまう。
いつかの昔に盗み聞いた、祖父の言葉が蘇った。
──父の死を境におかしくなり
──三年間も遁走し
── ……に、招かれていたと
じっ、と整った横顔に投げた視線を無視して、伊嘉利は続ける。
「しかし、空広は本当に要領が悪いというか、何というかだな。せっかく恵照が色々整えておいてくれたのに、全部台無しだ」
怪訝そうに眉をひそめた玄雅に、伊嘉利はいきなり刺すような視線を返した。
「薬魚だよ。もうちっとも釣れやしない。おまえが嫁さんを怒らせたせいで」
伊嘉利の目が、不思議な光を帯び始めていた。曇りの無い、平板な目がぬめる光を放っていた。
「やりにくいったらないな。共食いするくせに、人間に釣られるのは嫌だってか?」
きりきり、と伊嘉利の眉がつり上がっていた。この男の感情がはじける直前の、良くない兆候だった。
「まったく……ミャークには無いんだよ、売るものが。痩せた土の貧しい島! あの大立のオヤジじゃなくても苛々するよな!」
伊嘉利はやにわに、子供のように地団駄を踏んだ。
「今は恵照の遺産のおかげでなんとかなっているんだよ! あいつが干魚の作り方を残していったから、今は干物をあちこちに売っているんだよ! だけど、もう無いんだよ、在庫が!」
玄雅も、伊嘉利が異国の商人たちを集めてなにやら怪しい集まりをしているのは聞いていた。取り合いこそしなかったが、ひどくいかがわしい集まりだ、と囁くものもいた。
「空広! おまえがちんたら治水工事やら耕作やらをしている裏で、おれたちがどれだけ苦労したと思っているんだ!」
「伊嘉利殿……」
「鉄! 武器! 始まるんだよ、殺し合いが! こんな貧相なミャークなんて、呑み込まれちまう!」
伊嘉利の両手が、いきなり玄雅の首を捕まえた。
「時代の波に! 世界の波に! 空広!」
──離せ、と叫ぶことすらできなかった。
玄雅の首を絞め上げて揺さぶる伊嘉利の目が、ぎらぎらと輝いていた。獲物に噛みついて決して離さない、漆黒の鯖の瞳のように。
いきなり、体が自由になった。
反動で岩場に強かに頭を打ち付けながらも、玄雅は息を深く吸い込む。痛みにあえぐ向こうで、静かな声が響いていた。
「やめなさい、伊嘉利」
霞んだ視線の先で見つめ返していたのは、普佐盛だった。
「兄さん」
伊嘉利がまるで子供のように顔をくしゃ、と歪めた。
「兄さん、おれたちは惨めだよ。おれたちは、竜宮の掌の上で踊らされているんだ」
伊嘉利はそのまま、普佐盛の胸に顔をうずめてしゃくりあげ始めた。普佐盛が震える弟の背中をさすってやっている。その手の甲の皺が消えているのに気づいて、玄雅は身震いをした。
普佐盛の雄弁な声がした。それは、かつての老人のしわがれ声では無かった。
「根間と白川。二つの一族が融和したとはいえ、課題は山積みだ。先決なのは、今までくだらぬ小競り合いでおろそかになっていた民の生活を整えること。空広、いや玄雅はよくやってくれていると思うぞ」
兄さん、と再びの抗議の声を上げる伊嘉利を、壮年の男の豊かな声がなだめていた。
「物事には裏と表、陰と陽がつきものだ。我らは日陰を行けばよい。この島のためにな」
そうだろう、と視線を投げてよこす姿に、玄雅はぞわり、と嫌な震えを感じる。もはや、老人の姿を脱ぎ捨てはじめた祖父がそこにいた。薬魚……老いも病も遠ざけるという、永遠の魚のからだが脳裏で跳ねた。
「……やはりあなた、いや、あなたたちだったのですね。イラブの大殿をあの池に引き寄せたのは」
二組の良く似た瞳が玄雅を見た。不思議な輝きをまとった瞳が。
「泰川のおじいさまの目を曇らせ、兄上を使って手引きをしてあの魚を捕らせて。あの男がミャークに眠る宝を喧伝し終えたところで命を奪い、海の道を鉄の技を、そしてイラブ島をも乗っ取った。禁忌を破り、竜宮の魚を最初に殺す罪すらあの男に引き被せて」
岩場に打ち付ける波の音だけが響く中、長い沈黙が落ちた。やがて、普佐盛が口を開く。
「政とはこういうものだ。生き残るためには手段を選べぬ」
その深い瞳が細められた。その目元が自らのそれにも似ていることを認めて、玄雅は底冷えのするような寒さを覚える。
「かの目黒盛と与那覇勢頭、二人の豊見親の争いに清々しさがあったと思うか? 策謀、陰謀、だまし合い……。ぶちまけられた血を潜り抜けて生き残ったのが、我らミャークの民だ。そして、これから我らを脅かすのは、ミャークの内側ではなく、外側からの力……」
普佐盛はそこで、ぐ、と伊嘉利の背に回していた手に力を込めた。
「玄雅、良く覚えておけ。手段を選ぶな。さもなくば、呑まれるぞ」
──何に、とは普佐盛は言わなかった。ただその瞳の厳しさだけが、玄雅の心の臓を刺し貫いた。
やがて普佐盛は瞳を緩めると、いかにも気づかっているような声で言った。
「お前のいない間は我らがしっかりとこの地を守るゆえ、行くがよい。そなたは誤解しているようだが──」
そこで普佐盛はほんの少しだけ黙り、逡巡の後に言った。
「我らにとっても、金盛は宝なのだ。あれの命運、やつらに握られてしまったのだろう?」
その誠実な声を、最早信じることが出来なかった。宝──根間と白川を繋ぐ子供。神童・空広──その直系の子である、金盛。引き継がれた象徴の赤ん坊……。その血だけが、役割だけが大切なのだろう、と噛みついてやりたかった。
「あれは……我が息子は、私が助けます」
その言葉に張り巡らされた壁に気付いたのだろう、普佐盛は苦笑いをしてから、空気をほぐすように腕の中の伊嘉利の背を二三度叩いた。
「行け」
「……言われるまでもなく」
固い祖父と孫の会話を引っ掻き回すように、伊嘉利が言い放った。
「さっさと持って行ってしまえ、あんな忌々しい刀」
伊嘉利、となだめる声を無視して、感情的な声がもう一つ弾ける。
「それから、嫁さんにもちゃんと挨拶して行くんだな! これ以上怒らせでもしたら、おれたちは、いい迷惑だ!」
返した視線の先で、伊嘉利が子供のように顔を紅潮させていた。玄雅は一つの問いを、静かに飲み込む。
──竜宮とは、何なのか。
無言で背を向けた玄雅の後ろから、やがてまたあの歌声が、いや、今度は二つの重唱になった歌声が聞こえてきていた。
──タエルコトノナイ エイエンノミチヲ
──ワタシノ イトシイ リュウグウノ ……
<第十四話に続く>




