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[第12話]

 宮古島の英雄・仲宗根豊見親をモチーフにした長編歴史ファンタジー「竜宮の寵児 -異伝・仲宗根豊見親-」第二部。


 玄雅の前に、ついに過去からの使者が現れる。紅い花を携えて──。

 真紅の誘惑に、抗うことはできるのか。


 あくまでパラレルなミャークの英雄物語として楽しんで頂けましたら幸いです。

 不定期更新・気長にお付き合い頂けましたら幸いです。


※※※R-15※※※

※無断転載を禁じます※

※「pixiv」様にも重複投稿しています※

※第1話&第11話扉絵は[嵐山晶 様] に描いて頂き、ご本人の許可を得て掲載・使用しております※


 ──鬼など、いるはずがない。

 そう、玄雅は思う。もしいるとするならば、それは人の心の奥底に溜まる泥のことだろう、と。

 もちろん、そんな答えに周りが納得するはずもないからこそ、玄雅は無言で立ち上がった。引き攣った空気を纏った川満もまた、無言で後に続いた。川満はこう言う時も、色々と言い立てない。それが玄雅には楽だった。

 下男の話によると、船から降り立った鬼はすでに屋敷に向かっているのだという。年若い下男は哀れなくらいに怯え切り、朝の屋敷の中は警戒のささやきに満たされていた。

 固い空気をひしひしと感じながら、玄雅と川満は無言のまま表玄関にたどり着く。戸口を遠巻きにした下男や下女が、めいめいに木の棒やら箒やらを構えているのを目にして、玄雅はひっそりと苦笑した。

 ──もし本当に鬼であるなら、そんなちゃちな武器など、ものともしないであろうに。

 遠くに置き去りにしてきた記憶が、それを肯定するかのように嗤うのが聞こえた。

 嫌なものを思い出した──脳裏を満たす苦い味に、玄雅は顔を引き締める。

 この先にいる姿が誰であるかを玄雅はよく知っていた。顔を見たくもなかった。

 気遣わしげな川満の視線を感じながら、玄雅は毅然と戸に手を掛けて、引く。

 と──僅かな風が玄雅の頬をかすめた。

 小さく息を飲んで振り返った先で、川満がゆっくりと前のめりに倒れていった。

「──川満!」

 屋敷の奥へ続く廊下をふさぐように立っていた川満は、今や、どう、と音を立てて床に倒れていた。

 玄雅は弾かれたように顔を上げる。薄暗い廊下を、確かに駆け抜けてゆく足音がした。鼠のそれよりも密やかな、しかし確かに空気を揺らす足音が。

「……貴様!」

 思わず怒声が漏れた。

「川満を手当しろ! 死なせるな!」

 下男たちが怯えた声で応じるのを確かめると、玄雅は猫のように走り出す。鬼……いや、それより何倍もたちの悪いものが、今や玄雅の屋敷に押し入っていた。


「どこだ!」

 明けてゆく朝の屋敷を、遠ざかる足音を追う玄雅の声が切り裂く。

「宇津免嘉! 無事か!」

 声に含まれた焦りをあざ笑うように、甲高い泣き声がした。

「玄雅様!」

 ようやく辿り着いた宇津免嘉の部屋から、じいやが転がり出てきた。問いかけるように見つめる前で、じいやは茫然と首を振る。寒気を感じて視線を上げると、部屋の奥の布団の上で宇津免嘉が身を起こしていた。その腕の中は、空っぽだった。

「子供……は?」

 腑抜けのような声を発していることに、玄雅は激しい苛立ちを覚えていた。

 宇津免嘉はやけにぱっちりした目でこちらを見つめていた。長い睫毛をぱち、ぱちと瞬かせ、やがて至極当然のように言う。

「攫われたわ。今」

 瞬時に頭の中が煮えたぎったような気がした。玄雅の耳の中で、あざ笑う声が何重にも反響していた。憎悪と共に、その顔を思い出す。今すぐにでも、顔の真ん中に刃を突き立ててやりたかった。

 それでもわずかに残った冷静さが、玄雅の足を屋敷の別の方向へと向けさせた。薄暗い広間に大股で踏み込むと、奥の壁に飾られていたそれをむしり取る。懐かしいそれ──もう何年も指を触れることの無かった、漆黒の刀を。

 無骨な柄を透かして指先に伝わってきた冷気までもが、玄雅を嗤っている気がした。その嘲笑を振り切るように、玄雅は足音を追って駆け出した。

 視線の横に流れてゆく風景が、屋敷を擁する街並みから、緑溢れる街はずれへと変わってゆく。もちろん、玄雅にも分かっていた。追いかける相手が向かう先は──思わず舌打ちが漏れる。だが、その忌々し気な音をかき消すように、再び泣き声が聞こえた。

 ──ふにゃあ ふにゃあ……。

 その声に、顔が熱くなるのを感じた。怒りでどす黒くなっているに違いない自らの顔を思いながら、玄雅は大地を蹴った。

 遠い昔に別れを告げた、深い、深いミャークの森──そこに、玄雅は決然と走り込んでいった。



 不躾な侵入者に驚いた朝の鳥たちが、羽音と鳴き声を残しながら飛び立った。

 きゅわわ……きゅわわ……と響く声が、朝日が照らす森の中に溶けてゆく。深い森の枝を透かすように陽の光が差し込み、腐れた葉が覆う大地に光の模様を落としていた。

 玄雅は走る足をぴた、と止めると目を閉じる。すでに赤ん坊の泣き声は止んでいた。だからこそ、かすかな葉のこすれ、蔦のしなる音……一つの手がかりも逃すわけにはいかなかった。

 ──冷静になれ。

 自らにそう言い聞かせ、鼓動も平静に御されているのに、それでもなお玄雅の心は不快に揺れていた。

 ──森は嫌いだ。

 場違いすぎる、弱々しい声がした。耳を覆おうと、無意識に片手が上がる。だが、どんなに耳を塞いでみたところで、逃げ切れるものではない。耳の中で無限に反響するのは、遠い昔に置き去りにしてきた少年、空広と呼ばれていた森に棲む少年の声だ。

 痩せっぽちの少年が、薄暗い木々の間にうずくまっているのが見えた。

 ──森は嫌いだ。寂しい。寒い。お腹がすいた。

 蔓草にくるまった、泥まみれの子供。額の傷の溝にまで黒い泥が入りこみ、醜い模様を浮かび上がらせた惨めったらしい顔。

 骨と皮の顔の中で、哀しげな瞳だけがぎらぎらと光っていた。その視線に、胃の腑のあたりがどろり、と重くなる。

 ──家に帰りたい。弟に会いたい。なくなっちゃった。家も弟も。

「……黙れ」

 哀れな少年を、玄雅は厳しく叱咤する。薄闇の森の中で少年の薄い肩がびくりと震え、その姿が鞭打たれたかのように掻き消えた。

 いらだったように地面を踏みしめ、玄雅は血が出る寸前まで唇を噛んだ。術中にはまるわけにはいかなかった。この敵、玄雅の弱点を知り尽くし、踏み込み、踏みにじることに何の躊躇も見せない相手──過去の痛みを引きずり出して、屈服させようという卑劣な簒奪者の術中には。

「だが、懐かしくもあるだろう? 誰にも気を使わず、ヒトのふりもしなくていい、混沌とした森の世界が」

 首に息がかかった。

 考えるよりも先に、玄雅は反射的に身をよじっていた。

「死ね」

 清浄な森の空気を、怒声と共に刃が切り裂く。

 だが、長靴から瞬時に抜き取られた刃は、相手の顔の横を空しくかすめただけだった。

「ひどい挨拶だ。言葉の選び方が相変わらず下手だな」

 その言葉が終わるのを待たずに、玄雅は横に跳ね飛び距離を取る。ほんの少し開けた森の中、豊かに茂る木々の幹を背にして、その男は楽しそうにこちらを見つめていた。

 悠然と体の前で組んだ腕と、何かに耳を澄ますようにほんの少し傾げた頭。適当に束ねただけの長い髪から幾筋かが流れて、顔に影を落としていた。相変わらずの地味な着物をまとった、長身の男──。その信じられないほど薄い緑色の瞳が、玄雅を射た。

「しかも、平和ぼけまでしたらしい」

 憎悪の瞳で、玄雅は相手を睨み付ける。

 ──赤ん坊に気を取られていたとはいえ、気づかなかった──この男の気配にも、この男が背後から突きつけていた刃にも。

 自らの両手に握った一対の刃──三叉の釵の冷たさが、冷静になれ、と再び玄雅を叱咤していた。

「悔しそうだな、空広? 感情を隠すのまで下手になったのか?」

「……お前は、加齢に伴って口数が増えたのか」

 刃を握る手に力を込める玄雅を眺めながら、男は組んでいた腕をほどくと、顔に落ちかかる髪を雑にかき上げた。木々を透かして降り注ぐ光線が、その髪の色を明るく照らし出す。金色の輪郭に彩られた、赤茶色の長い髪。遠い異国の血が作る、眩しい色彩が暗緑色の森の中で輝いていた。

「何をしに来た、みげる……」

「おまえの釵が上達したのかを確かめに。だが、上達どころか下手になったらしい。師としては嘆かわしい限りだ」

 刃が再び空気を切り裂いた。だが、今度もやはり、玄雅の釵は宙を切っただけだった。

「下手というなら、お前の冗談も大概だ。子供を返せ」 

 男──みげる──は楽しそうな笑い声を漏らすと、ゆっくりと腰に戻してあった自らの釵を抜いた。そのまま刃の先端を見つめると、歌うように言う。

「子供? ああ、コドモの空広がこさえた赤ん坊のことか。考えてやらんでもない。おれの頼みを聞いてくれるのなら」

「お前の頼みなど、聞く筋合いは──……」

 言い終える前に、みげるの釵が突きだされていた。思わず防ごうと上げた玄雅の釵は、襲いかかる釵に固く絡めとられていた。そのまま、剛腕が玄雅の腕を釵ごとひねり上げる。筋を千切らんばかりの力に、思わず苦悶の声が漏れた。

 それでも残った片方の釵を振るおうと身をよじった時、首にひやりとしたものが当たった。それは頸の脈の真上に押し付けられた、みげるの釵の先端だった。

 今にもねじ切られそうな玄雅の手から釵が離れ、湿った土に空しく落ちる。

 一瞬のうちに、全てが終わっていた。速さも、力も、桁違いだった。 

「お前は聞くしかない、未熟な空広」

 嘲りを含んだ声に憎悪の瞳を返そうとしたとき──玄雅の視界が真紅に染まった。

 いや、そうではない。瞬きのうちに高い木の幹に飛び上がったみげるが、懐から掴み出したそれを宙にばら撒いていた。玄雅は戸惑いと共に目を凝らす。それは無数の、真紅の──……。

「後生花は、懐かしいだろう?」

 囁くような声と共に、目の前に舞い落ちた紅い花の首が、弾けた。

 びしゃ、と花弁が血に化して飛び散る。避ける間もなく、花の血潮が玄雅の顔を甚だしく染めた。

「血は懐かしいだろう? 虚しさを慰めてくれた、赤く甘い熱は」

 もう一つ、花が落ちてはじけた。今度の花がぶちまけた血は、玄雅の髪を浸し、頭皮にまで生暖かく滲みた。

 血に霞んだ視界の向こうで、みげるが笑っていた。

 ──いや。と玄雅は目をこする。

「それはこれから弾ける花だよ」

 それはみげるではなかった。枝を踏みしめて立つみげるの足元に、もう一つの小さな姿が座っていた。幼い足を、高い枝の上でぶらぶらと振りながら。

「もう一つ、花を君に贈ろうねえ。君がこれから刎ねる花だよ」

 幼い指が、懐から紅い花の枝をつまみだす。子供はちら、とその花首に目をやると、つまらないものだと言わんばかりに、宙に投げ捨てた。

 ──後生花、後生花。死の花、血の花、後生花──。

 甘い笑みを浮かべた子供が歌っている。喉の奥で、楽しそうに、粘ついた子守唄を。

 歌声の中で花が緩慢に紅く舞い、やがて喉をのけ反らせるように爆発する。ぼと、ぼと、と降り注ぐ大粒の血の雨が、今度は玄雅の着物をしとどに染めた。

「私の竜、君が必要だよ。私の獅子、私を助けておくれ」

 切りっぱなしの長い髪。かわいらしくて、整いすぎていて、人形のような滑らかな顔。華奢な手足を、緋色の着物に包み込んで。赤い唇が歌い続けている。幼い顔には似合わない、血の色の唇が。

「玄雅、玄雅、私の小鳥、籠の鳥──」

 子供の歌声に操られるように、どろりとした生暖かさが着物を通り抜け、肌に不躾に触れる。つま先から、命が抜け出てゆくような気がした。膝の裏のあたりに大きな蛭がむしゃぶりついて、体の中の命という命を吸い上げようとしているようだった。

 体が言うことを聞かず、震える足がついに大地に跪こうとしていた。腐食した、ありとあらゆる生命の残滓が積もる黒い大地、いつかの昔に惨めな子供を抱き取った、混沌の大地に。

 だが──。

 ──ふにゃあ……。

 遠くで赤ん坊が呼んでいた。血の幻覚から逃れようと固く閉じた瞼の裏に、赤ん坊が何かを求めるように手指を空に伸ばしているのが見えた。

「……つまらぬ妖術は、大概にしてもらおう」

 見開いた瞳の先で、緋色の着物の子供が僅かにたじろいだように見えた。傍らのみげるもまた、目を瞬かせていた。

「私は暇ではない。薄暗い宮中で無聊を託つお前たちとは違う」

 子供が笑い声を上げた。それは、禍々しいと同時に澄み切った笑い声だった。

 玄雅の手に、待ち焦がれていたようにそれは吸い付いてきた。どこまでも無関心な、深き海の底の冷たさが。

 子供の笑いが大きくなった。

 そして──刃が煌めいた。

 玄雅が渾身の力で宙に投げた刃が、一直線に子供の顔面に向かって進んでゆく。迫り来る刃を見つめながら、子供は笑い続けていた。泰然と、楽しそうに──背筋を凍らせるような、純粋すぎる笑みを浮かべながら。そして切っ先が触れる寸前で、子供の姿は掻き消えていた。

 子供が消えた虚空を睨み付けながら、玄雅は肩で息をする。

 粗い息の音だけが、静寂の森を揺らしていた。まだ、あのおぞましい歌の残り香が漂っている気がした。

 ──玄雅、玄雅、私の小鳥、籠の鳥──……。

 粘つく歌声を振り払うように、大地に転がった刃に手を伸ばす。無骨な拵の刃。申し訳程度に、実直そうな金の飾りが並んだあの刀──。いつかのあの日に抜き取ったあの刃が、じっ、と地面の上から見つめ返していた。

 震える手でそれを拾い上げながら、玄雅はみげるの視線を感じていた。感心した、とでもいわんばかりの絡み付く視線を。

 紅い花など、血糊など、幻だった。それが分かっていてもなお、息苦しさが止まらなかった。

 弾けた花……弾け続ける花……。今や、心の臓までが不規則に打ち始めていた。

「空広」

 わざとらしいくらいに作り込んだ、気の毒そうな声がした。

 木から下り立ったみげるが、くずおれそうな玄雅を見下している。忌々しいくらいに背が高い、西の国の男。

「見ただろう? あれがこれから起こることだ。いや、起ころうとしていることだ」

 忌々し気に上げた視線の先で、みげるが誠実そうな顔を作っていた。

「正直、おれは安心した。その刀を……使うことが出来るんだな」

 薄い色の瞳が、じっと玄雅の手の中の刃を見つめる。

「最後に会った時のお前は……。だがお前は、戻ってきたんだな」

 身を屈めたみげるは、おもむろに玄雅の肩に手を置いた。こうして見てみれば美しいと言えなくもない、静かな緑色の瞳がじっと覗き込んでいる。

「勘違いするな。おれはおまえの敵ではない。おまえの力を貸してくれ。あの方が、それを望まれている。おれと……来てくれ」

 玄雅はみげるの顔を穴が開くほど見つめた。都で過ごした数年間で、嫌と言うほど見た西の国の顔。端正なみげるの顔を。

 やがて、掠れた声が玄雅の唇から転がり出た。

「相変わらずけちな術しか使えぬと見えるな、お前の主人は」

 その一言に、みげるの顔が引き攣った。

「……何だと?」

「ひどい茶番だ。これがあの女の“セジ”とやらが見せる奇術か? 都の人間が好きそうな、安っぽい見世物だな」

 みげるの顔色が変わった。いや、常人が見ればほとんど表情は変わっていないのだ。それでも、長らくの時を共に過ごした玄雅にとっては一目瞭然だった。なめらかな顔を瞬時に染め上げた激怒──その豹変ぶりに、今度は玄雅が嗜虐的な喜びを感じる番だった。

「……もう一度言ってみろ」

「何度でも言ってやる。あの醜女、」

 みげるの靴が玄雅の腹を強かに蹴り上げた。

 乾いた嗤いを吐き出しながら、玄雅はなんとか踏み留まる。そのままもう一言二言、甚だしい侮辱の言葉を投げつけてやると、みげるの顔から血の気が掻き消えた。

「この……クソガキがっ……!」

 ──()いた。

 玄雅は唇の端を僅かに上げる。胸ぐらを掴もうと伸ばされた腕を素早くすり抜けると、猫のように跳ねて相手の懐に一直線に突っ込んだ。そのまま、左手に残った釵を石火のごとく撫で上げる。三叉の刃はみげるの衣の胸元を切り裂き、あごの下でぴた、と止まった。

 みげるの喉が隆起し、視線が何かを探すように自らの胸元を彷徨うのを見て、玄雅は再びの嗤い声を投げつけてやった。

 恐ろしく強く、そして、恐ろしく脆弱。この男の相変わらずの不安定さがひどく滑稽で……そして、懐かしかった。

「だから私は、お前を師として認めたくないのだ。あの女への盲従は、治るどころか悪化しているらしい」

 みげるは意外なほどすぐに冷静さを取り戻した。怒りでほとんど色がなくなっていた瞳に、うっすらと色が戻ってくる。

「……その点に関しては、おれも認めよう」

「お前のことはどうでもいい。子供はどこだ」

 薄い笑みを浮かべてみせたみげるは、ゆったりと身を引くと無防備に背中を向けた。そのまま森の奥に向かって歩き出す。

 釵を突きつけたまま無言で後に続く玄雅に、みげるは静かに声を投げた。

「だが結局、お前はおれの頼みを聞くしかない」

 答えない玄雅に、やがてみげるはもう一言、言った。

「そろそろだな」

「……何がだ?」

 やがて、ふにゃあ、ふにゃあ……と森の奥から泣き声が聞こえてきた。その声に、玄雅は思わず息をつく。力強く泣く、赤ん坊の声。

 ──そうだ、自分と宇津免嘉の──。

 胸にこみ上げる馴染みの無い感情に、玄雅は戸惑いを隠せなかった。 

 やがて森が開けた。今までの鬱蒼とした茂みとは違う、踏みしめられた大地。切られ、整えられた木々。そして、平坦にならされた大地には、いくつもの石が規則的に並んでいた。そして、その石たちに囲まれた地面に、赤ん坊が放り投げられるようにして置いてあった。小さな拳を握りしめて、真っ赤な顔で泣きながら。

 反射的に、玄雅はその小さな生き物に向けて手を伸ばしていた。

 だが──。

 玄雅の手首を、みげるが強く引いた。

 怪訝そうに視線を下げた玄雅の手に、ひんやりとした感覚があった。

 あ、と玄雅は息を飲む。

 瞬時にみげるの指が玄雅の手に絡み、釵を握らせていた。

「覚えておけ。赤ん坊は腹が空けば泣くものだ。そして大抵、大人は泣きわめく赤ん坊を放っておかないものだ」

 甲高い、耳障りな悲鳴が清浄な森の空気を切り裂いた。森の奥から次々と人影が現れる。赤ん坊の泣き声を聞きつけて集まってきた女たち──一目でそれと分かる神衣をまとった女たちが、口々に悲鳴を上げていた。こちらを刺すように見つめる何組もの瞳が、一様に嫌悪の光を帯びていた。

「聖なる御嶽に踏み込んだ上に、男同士の流血沙汰。 “豊見親”とはいえ、許してもらえるかな?」

 腹に釵を突き立てられたみげるが楽しそうに囁いている。茫然と見下ろした先で、釵を握ったままの玄雅の手に真紅の血が止めどなく伝っていた。

 御嶽──神女たちの聖域。神に許されたものしか立ち入ることを許されない、永遠の森の神域。

 ──聖なる海を血で汚した穢れの子。空広、呪い子 空広汚れた子──。

 もちろん玄雅はその歌を覚えている。かつて自分をミャークから追放した、その神歌を。

 神女たちの聖なる籠りの時期。その真っ最中に、神域の最深部で流された血。

「言い逃れは、できそうにないな?」

 みげるがさらに体重を預けてくる。玄雅の手の中の刃がもう一段深く沈み、大地に血潮を撒き散らした。

 玄雅の胸に崩れかかる西の国の男の髪に、太陽が鋭く当たった。眩しい金色の光の中で、真紅の血が黒い大地を染め上げていった。


 <第13話に続く>

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