[第11話] 竜宮の寵児 -異伝・仲宗根豊見親- <第二部 王都シュリ編>
宮古島の英雄・仲宗根豊見親をモチーフにした長編歴史ファンタジー「竜宮の寵児 -異伝・仲宗根豊見親-」策謀と愛憎の第二部、開幕。
深き海の花嫁と結ばれた空広は、善政の王・仲宗根豊見親玄雅として輝かしい生を歩み始める。しかし、人ならぬものを娶った代償は……。
あくまでパラレルなミャークの英雄物語として楽しんで頂けましたら幸いです。
不定期更新・気長にお付き合い頂けましたら幸いです。
第二部、スタートです!
(これまでのあらすじを簡単にまとめました。宜しければどうぞ……)
[前説] ~これまでのあらすじ~ 竜宮の寵児 -異伝・仲宗根豊見-
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※第1話&第11話扉絵は[嵐山晶 様] に描いて頂き、ご本人の許可を得て掲載・使用しております※
第二部
月など、嫌いだった。
孤独も、寒さも、恥辱も、全て夜が運んできた。そして、その空しい光景を無関心に見下すだけの月が、嫌いだった。
「──犬。お前は、私の忠実な犬……」
いつからだろう。その無関心な白い光が、清らかに微笑む金色の光に見えるようになったのは。
「お前は私が呼べば、犬のように尾を振って駆け戻ってくる……。いいですね、私が呼んだらきっと帰ってくるのですよ……?」
淡雪のような声。高慢さと懇願を溶かし込んだ、うっすらとした吐息に乗せた声。その声を愛するようになったのはいつからだろう。
雪など降らないこの国で、おぼろげな故郷の記憶を気高い囁きに見出した時からか、それとも、柔らかな絹の靴にやさしく踏みにじられたその時からか。
その声を聞くためならどんなことでもできる。そう信じるようになってから、どれだけの長い時間が経ったのだろう。
思い出をなぞるのは心地が良かった。しんしんと降り積もる白い雪の中に埋もれるように、このまま甘美な思い出に埋もれてしまいたかった。
「わかりましたか……? 必ず、あの方を連れて帰ってくるのですよ」
そんな追憶などお構いなしに、再びの吐息が思考を打ち付ける。
しぶしぶと、だが待ち望んでいたように視線を上げれば、見下ろすのは月の光を受けて輝く、雪のような面差しだ。この上もなく美しい顔と、夢と現を行き来する、たおやかなまなざし。
しゃらり、と長い髪に差した飾りがこすれて音を出した。
唇がわずかに動く。そう、よく知らない者であれば、ただのため息にしか聞こえない淡い声。澄んで、悪意が無いからこそ胸を刺し貫く残酷な声に、いつも焦がれていた。
「……お前の行き場はここしかないのですから。お前……決して幸せにはなれない、哀れなお前……」
いつもは甘い霞のような声に、ほんのわずかに追い詰められたような響きが絡んでいた。異国の硝子細工のような、硬質で壊れやすい震え。その妙なる響きを両の掌の中に閉じ込めて、耳元に押し当てていたいと思った。そして時々そっ、と掌の中を覗き込んで、密かに熱で溶けてゆく雪の粒を見つめていたいと思った。だが、たまらなく尊いその声に、しばしの別れを告げる時が近づいてきていた。
「さあ行くのです。あの子は……もう止まらない。あの子は……生まれるべきではなかった。もはや私が頼れるのは……」
そこでその姿は目を瞬かせる。じわじわと理解が広がって行くのだろう、白い頬がゆっくりと淡紅色に染まり、やがて愛らしい唇がきゅ、と引き結ばれた。
その眺めは、暗く深い満足感を与えてくれた。犬に懇願するなど、この相手にとってはとてつもない屈辱に違いなかった。
憎くて愛しい、無慈悲な貴人。誰はばかることなく美しい声で囀る、尊い羽を持った捕らわれの鳥。その鳥のさえずりは、全てを縛する甘い鎖だ。
「さあ、行きなさい。私の忠実な──」
それは、どこかのリウクーの海の上、どこかのリウクーの島でのこと。
聞こえてくるのは永遠に繰り返す、愛と憎しみの波の音。
──むかしむかし、鳥と竜が──……。
薄闇の中で目を開く。
ぴしゃ、ぱしゃ、と聞こえてくるのはおなじみの湿った音だ。
闇の中で煌めく水の粒を振りまいて、ぼんやりと光る尾を月明りの下で踊らせて。
誘われるように布団を抜け出て素足で庭に降りてみれば、湿った土の地面がひんやりと足の裏に吸い付いた。水を含んだ土の下では、無数の虫たちが体をうごめかせているのだろうか。肉を喰らって無に帰す虫たち、生を死に変える虫たちが。
ひた、ひた、と夜の庭を歩いて行けば、突きあたるのは水を満たした大きな壺だ。露を含んだ羊歯をかき分けるように地面に据えられた、広口の壺。数年前の婚礼の日から、まるで庭の主のように鎮座するようになった美しい壺──。
高い木の枝から垂れ下がる蔓草が、壺の上を天蓋のように覆っていた。
甘い香りを放つ花をつけた蔓を払って、たっぷりと水をたたえた壺の口を覗き込む。水面に浮き上がってくるのはもちろん……こちらの姿を認めると、まるで待ち受けていたかのようにぱかり、と水面で口を開けるあの魚。餅のようにすべすべした、真珠色のまん丸い魚。
──今日はこの魚は何を言うのだろうか。いや、言うことなど一つしかないのではないか。
花の香りにむせ返りそうになりながら、じっと見つめる水面に重い声を掛ける。
「──さぞかし恨んでいることだろうな」
魚は丸い目をぎょろぎょろさせ、真一文字に結んだ口をもごもごさせ……そして、ぱかっ、と開けた。
魚の口の中から覗いたのは小さな顔。ぎゅ、と目をつむり、まるで絶対に口などきいてやるものか、と言わんばかりに口を引き結んだ赤ん坊の顔。
「私が見捨てたのだ、お前を……」
その小さな顔は瞼を震わせ、やがて億劫そうに目を開いた。
それはどこまでも澄んだ、黒目がちの瞳だった。赤ん坊特有の澄み切った目──。
思わず、そのぽちゃぽちゃした頬に触れようと手が伸びた。だが、それを押しとどめるように、暗い記憶が奔流のように押し寄せた。
──そう、自分にどんな権利があるというのか。この小さな生き物、無力で、弱々しい小さなもの──それを闇に葬った自分に。
全てが順調だった。少なくとも、最初はそう思っていた。
祝福された花婿と花嫁。幸せに満たされた一族。それがどんなに違和感の拭えない、作り物めいた幸せだったとしても──それは空広が初めて手に入れた、幸せな日々だった。
そして、親類や領民たちに暖かく見守られるようにして、花嫁はほどなく身籠った。
「子供ができたの」
そう言って、胸に顔をうずめてきた若い妻。だが──今思えば、疑念はすでにその時から芽生えていた。それでも、どうしても確かめることが出来なかった。
島は喜びに沸き、ミャークの隅々から、そして遠く中山からも祝いの品が次々と届けられた。もうすぐ母親になろうという若い妻の元には祝いの言葉を述べる人々が大挙して訪れ、その夫もまた、浴びるように祝いの言葉を受けた。
くすぐったかった。そして、ひどく居心地が悪かった。こんな幸せな日々が自分に許されるはずがないと、いつも心の底で怯えていた。
「何を浮かない顔をしているの?」
そう言って、美しい妻は鈴を転がすような声で笑ったものだった。
大きくなってゆく腹をさすりながら、謎めいた微笑を浮かべていた宇津免嘉。遠い海からやって来た花嫁。その幸せそうな笑顔の前では、全ての疑いはひどく不遜なものに思えた。
そう、すでに婚儀の最中から始まっていた宇津免嘉の奇矯な振る舞い──膳の上の魚を手づかみで齧り、暑いと言って着物をはだけ、痛いと言って髪を結うことを拒否し──そんな些細なことなどどうでもよく思えるほどに、子を授かった喜びに輝いていた美しい妻。
月が満ち、欠け、また満ち……その繰り返しが増すごとに、空広の心の中で不安が増していった。拭い去ることのできない疑念。二人が分け合った過去と謎。海の底の遠い記憶……。
果たして、悲劇はほどなく訪れた。
「──お生まれになりました!」
──呼びに来てくれたのは……そう、もちろん……。いや、それより早く見に行かなくては。初めての子供。自分と宇津免嘉の子供。ヒトと──、……のコドモを。
ふにゃ、ふにゃと頼りない声が聞こえていた。小さな猫が鳴いているような声。それは、ずっと昔に深みに沈めてきた痛みを思い出させる、嫌な声だった。
そして、その音に被さったのは耳障りな老女の絶叫だ。
駆けつけた産室には、濃い血の臭いが立ち込めていた。
目に映っていたのは、腰を抜かして泡を吹く産婆と、弱々しく布団の上に身を起こした宇津免嘉と……そして、血だまりの中で弱々しく動く──それだった。
赤い皮膚と、真っ赤な顔と。信じられないほど小さな手が何かを求めるかのように宙を引っかいていた。
「空広!」
そして、宙を引っかく指の間にあったのは──。
このころはまだ、あのまろやかな声をしていた宇津免嘉が叫んでいた。
乱れて血に染まった着物を意にも介さず、宇津免嘉が赤ん坊に覆いかぶさり、抱き上げる。
「水に浸けるのよ! 海に!」
切羽詰まった声が、棒立ちになった空広に射かけられていた。
「何をしているの? 早く!」
──宇津免嘉の懇願の声……。だが、その腕の中のものは──。
目を、離すことができなかった。
頼りない、小さな赤ん坊の体。
──赤ん坊の……足? いや、それは──。
場違いなほどに唐突な昔話が、空広の頭の中で歌っていた。
──むかしむかし、ミャークの島には瞳の上に北斗の七星を抱く男の子がいました。
──その子の足は地面に立つことができず、いつも地面に座っていました──……。
──その子供の足は──……、
「空広! 空広!」
宇津免嘉が泣いていた。
時間はやけにゆっくりと流れていった。そしてその鈍重な時間の中で、赤ん坊はもう一度だけ宙を引っかき、ぽかり、と空気を求めるように口を開け……また閉じて──死んだ。海に浸けられることも無く、鱗の尾をみるみる干からびさせて、死んだ。
なじってくれた方がまだましだった。
宇津免嘉は腕の中で命を失った小さなものをじっと見つめ……そして何も言わなかった。産屋がきれいに掃除され、普段の着物を着るようになり、人々の痛ましげな瞳の光が薄れていってもなお、そのことについては何も言わなかった。
そしてその代わりに、美しかった宇津免嘉の声は音楽のようなまろやかさを失い、かすかなざらざらとした響きを纏うようになった。まるで、鯖の肌のような響きを。
産婆には大金を積んで島を出てもらった。だから、赤ん坊のことを知っているのは宇津免嘉と、空広と……そして、干からびた哀れな赤子をひっそりと葬ってくれたもう一人だけだ。
だが、遠い記憶の彼方に葬り去られた小さな子供は、確かにそこに留まっていた。この水壺の水面に、ぼんやりと真珠色の光を放ちながら。
じっ、と見つめた先で、魚の口から覗く赤ん坊の顔が小さな口を開けていた。まだ父親の面影も、母親の面影も見出すことができないほどくしゃくしゃの赤ん坊の顔が。
やがて幼い唇から聞こえてきたのは、寂しく哀しい呪いの歌だ。
──実の親にも 見捨てられ
──わたしは だめな子 いらない子
──あなたと同じ いらない子
歌う口の中に覗くのは牙だ。ぎざぎざと並んだ、鋭くいびつな鯖の牙。肉を喰いちぎり、骨を噛み砕く無慈悲な牙。
──そうだ。
操られるように、空広は薄闇の中で水面に手を伸ばす。
──手を伸ばして、喰われてしまえば、
「玄雅様!」
弾かれたように目を開いた。
跳ね除けた布団と、ぐっしょりと汗をかいた体と。
そして、薄明りの中で心配そうに見つめる姿がそこにいた。
「豊見親様……。玄雅様……」
確かめるようにもう一度言うと、その姿は玄雅の顔を覗き込んだ。
「ひどく、うなされておいででした」
霞が掛かったような視界を振り払うように、何度か首を振ってみる。ひどく頭がぼんやりとしていた。周りがまだ薄暗い。だが、かすかに鳥の声が遠くで聞こえていた。
──朝、か。と玄雅はようやくそれだけを思う。
「夢……か」
夢にうなされるなど、久しぶりだった。昔“空広”と童の名で呼ばれていた頃ならいざ知らず、“玄雅”という大人の名を得てからはそのようなことはなかったのに……。ぼんやりと反駁していると、見つめる姿はそっ、と手を伸ばしてきた。
余程胡乱な様子を見せてしまったのだろうか、傍らの青年は眉をひそめると、ほんの少し逡巡してから、布団の上に投げ出されていた玄雅の片手を両手で包んだ。
「ご安心ください。私がここにおります」
じんわりと伝わってきた体温に、玄雅の頭はようやく働き始めていた。何度か瞬きをしてから、掠れた声で呟く。
「川満、か……」
その答えに余程安心したものか、普段は冷静なこの男から不似合いな安堵の息が漏れた。
「息が浅くなっておいででしたから……」
そこまで言ってから、見つめる姿──川満──は気を取り直したように小さく咳払いをすると手を引っ込めた。そのまま、いつもの冷静さの仮面をかぶり直し、目を伏せる。その両の目が──思慮深い黒い瞳と、もう片方の白く濁った瞳とが──安堵の色を浮かべているのだろうと思うと、玄雅はひどくすまない気持ちになった。今までも何度か、こんな風に失態を見せてしまったことがあった。川満にしか見せたことの無い姿を。
「すまぬ」
簡潔な謝罪の言葉に、川満は首を振る。やがて、いつもの皮肉めいた言葉が唇から転がり出た。
「さあ、そんなことよりしゃっきりなさってください。もう……すぐにでもお産まれになりそうです」
その言葉に、濁った膜が思考に再び覆い被さる。
──産まれる……? 何が? もちろん……。
一瞬、これは夢の繰り返しなのか、それとも現実なのか分からなくなって玄雅はひどく混乱した。遠くで聞こえていた鳥の声があの魚の歌に変わったような気すらした。あの歌詞。不吉な歌詞……そう……。
「玄雅様!」
川満の声が玄雅を現実に引き戻した。
「初めてのお子様ですよ。玄雅様の、お子様ですよ!」
二色の瞳が、懸命に言っていた。忘れろ、と。小さな干からびたものは、自分がそっと葬ってきたのだから、と。
こくり、と頷くと、川満はあるかないかの笑みを浮かべてみせた。
うっすらと夜明けの光が染みわたり始めていた。薄闇の邸内を進む玄雅に、川満が影のように付き従う。明け方の静寂を、人々のかすかな騒めきが乱していた。そこには、宇津免嘉の産みの苦しみの声も混じっているに違いなかった。
──と。ひそめた朝の静寂を、弾けるような声が切り裂いた。
ふにゃあ、ふにゃあ。
ふにゃあ、ふにゃあ……。
つと立ち止まった玄雅の傍らでは、川満が気遣わし気な視線を注いでいる。
戸の向こう、たった今新たな命が産み落とされたばかりの産屋──。その戸に対峙する自らの顔はどれだけ強張っているのか、と玄雅はひとりごちていた。
躊躇いがちに戸に手を掛けようとした時、戸は自分から開いた。いや、戸がひとりでに開いたのではない。喜色満面のじいやが部屋の向こう側から勢いよく戸を開け放っていた。
「空広ぼっちゃま! さあ、早くお入りなされ、ぼっちゃまのお子様ですぞ!」
産屋に父親以外の男が入るなど……と玄雅は眉を顰める。だが、当然の理解が後から続いた。
──宇津免嘉には、慣習など何の意味もなさぬのだろう。
果たして、玄雅は産屋で身を起こした妻の姿を認めていた。
さすがに疲れたのだろう、まろやかな顔の輪郭がほんの少し削げているようだった。それでも、長い髪を束ねただけの宇津免嘉は輝くように美しかった。
その顔が玄雅の姿を認めてほころぶ。
「私たちの長男よ」
相変わらずその声にはざらざらした響きが絡んでいたが、浮かべた微笑みは神々しくさえあった。そして、そのなめらかな腕の中に納まった、布に包まれた小さな赤ん坊──。
美しい宇津免嘉と、美しい赤ん坊。美しい光景を形作る二つのいきもの。だが、その様子を見つめる玄雅の胸はひどく重苦しかった。
余程陰鬱な顔をしていたのだろうか、ついて入って来ていた川満がそっと腕に触れた。
だが、宇津免嘉はもう一段微笑みの光を強くすると、赤ん坊の胴のあたりに手を置き、小さないきものを包んでいた布をはだけてみせた。
頼りない二本の腕。そして──……ぐねぐねと動く、頼りない二本の足。
玄雅は思わず小さく息を飲む。言葉なく見つめる視線を感じ取ったものか、赤ん坊はおぼつかない指を玄雅に向けて伸ばしていた。
「抱いてあげて」
宇津免嘉がその小さなものをこちらによこそうとする。
だが──ためらいがちに上げてみた手は、宙で止まってしまう。
怪訝そうな妻の瞳に返すことができたのは、ひたすらに引きつった固い瞳だった。
──その小さなものは本当に……、その後の言葉は玄雅の喉の奥で干からび、消える。
「私たちの子よ。なぜ抱いてくれないの?」
明け方のほの白い光の中で、宇津免嘉が小首を傾げていた。波打つ長い髪。夫婦になった時から少しも変わらない玉の肌。 どこまでも優美で美しい面差し。そして今や、腕の中には小さな赤ん坊が──……。
不意に、腕を強く握りしめる指を感じた。
「豊見親様」
我に返って振り向いた先で、川満が玄雅を支えながらきっぱりと声を発していた。
「奥方様とお子様のお健やかなご様子に、豊見親様も安心されたのでしょう。お二方ともお疲れでしょうから、今はこれにて失礼させて頂きたく」
断定するような口ぶりにじいやが抗議の声を上げるのを、宇津免嘉が止めた。
「そうね……。私も疲れたわ」
赤ん坊を大切そうに抱き直すと、宇津免嘉はくるりと背を向けた。
充満した固い空気を振り切るように、川満は玄雅を無理やり産屋から押し出す。
あまりの強引さに思わず口を開きかけたとき、川満はひそめた叱責の声を発した。
「お子様を床に落としでもしたらどうするのです」
非難がましい口ぶりとは裏腹に、川満の瞳にはいたわるような光が溢れていた。その視線を追って玄雅はようやく理解する。見下ろした先で、指先がほんの少しだけ震えていた。それは当人すら気づかない、川満──玄雅のどんな小さな変化も見逃さない、忠実な部下だけが気づくことが出来る小さな震えだった。
視線を交わした二人の男は、ひっそりと産屋に背を向ける。若きミャークの王と、影のように付き従う青年と。新たなミャークの時代は、無関心な朝もやの中でまた一つ時を刻んでいた。
「玄雅様」
玄雅の私室に戻ると、川満はほんの少し声の調子を変えた。
「お顔の色が悪うございます。何か、温かいものを持ってきましょう」
「構わずともよい、川満」
川満は止める間もなく身をひるがえすと、ほどなく小さな椀を盆に載せて戻ってきた。
「蜂蜜を入れましたから」
ことり、と音を立てて卓に置かれたのは、湯気の上がる小さな椀だった。立ち昇るさわやかな香りが、先程までの血の臭いを浄化してゆくようだった。その淡い色の表面をしばらく見つめてから、玄雅はやがて椀を取り上げた。素朴な焼き物の器の向こうから、じんわりと熱が伝わってくる。一口含むと、ほのかに甘い汁が喉から胃の腑まで転がり落ち、染み渡っていった。
──甘い。と玄雅はしみじみ思う。
温かいということは大変な効果がある、と玄雅は思う。先ほどまであれほど張りつめていた気持ちも、体も、たちまちのうちに溶けてしまったような気がする。この温めた果汁、蜂蜜で甘くした温い汁の一椀で。
感謝の視線を投げると、卓の向こうに控えていた川満ははにかんだように笑った。川満は玄雅の好みをよく知っていた。このところは宇津免嘉の出産準備でてんやわんやだった屋敷の中で、ないがしろにされがちな主人の面倒をよく見てくれていた。
放っておけば皺だらけの着物を着たきりの玄雅を着替えさせ、ひとたび執務に没頭してしまえば寝食を忘れたままの玄雅に食べさせ、眠らせ……細々とした仕事を完璧にこなしていた。
「お前は私の書記なのだから、このようなことまでしなくともよい。せめて、じいやにでも……」
もう何度も言った抗議の言葉を玄雅は繰り返す。川満も、お約束のように笑った。
「じいやさんはそれどころではありませんよ。これまでだって、産まれてくるお子様は宇津免嘉様似だろうか、玄雅様似だろうかと、そわそわし通しだったのですから。この先は、玄雅様のことなど忘れてしまうかもしれませんよ」
玄雅も小さく笑うと、もう一口椀を含んだ。温かく、甘い──だが、そのやさしい温もりを押しやるように、再び暗い疑念が首をもたげ始めていた。
──子供は普通だった。いや、少なくとも普通の姿形だった。だが、中身は──……?
ほんの僅かに曇らせただけの顔は、早速川満に悟られてしまう。
「玄雅様」
礼儀正しい距離を保ったまま、川満は言葉を探すように視線を巡らせた。そして、この男には珍しく熱を帯びた声で続ける。
「……何でもいたします。私は、あなた様のためであれば何でも。この川満はあなた様のおかげで再び生を受けたのですから」
熱っぽいのは声だけではなかった。普段は冷静な瞳──全てを射抜くような鋭い片目と、どこを見ているのかいまいちわからない、白濁したもう片方の目と──その両の瞳にじんわりと熱い光が宿っていた。
その言葉に頷くと、玄雅は卓の向こうに回り込み、川満の肩に手を置いた。
「川満」
見上げる青年の目が感情の昂ぶりに揺れている。玄雅もまた、この青年のそんな小さな変化によく気がつくようになっていた。
「私は幸運な男だ。お前のように忠実な部下が側にいてくれること、嬉しく思う」
率直な玄雅の言葉に、川満は感極まったように目を潤ませ、それから頭を下げた。
そう、玄雅は幸運だった。この青年、全ての秘密を受け入れたうえで尽くしてくれる川満が側に仕えてくれているのだから。そうでなければ、玄雅の生はもっとみじめなものになっていただろう──そう……あの子供が死んでからの日々は。
川満との出会いは少し前に遡る。玄雅が宇津免嘉と夫婦になり、あの子供が生まれる前のこと。自らの屋敷を構え、新たなミャークの王、仲宗根豊見親玄雅──ようやくその名前で呼ばれることに慣れてきた頃のことだった。
出会いを運んできたのは台風だった。荒れ狂う風が島を揺らし、木々を薙ぎ倒し、家々を吹き飛ばし……人々が獣のように息をひそめて身を丸め、荒れ狂う雨風が過ぎ去るのを待つ、荒ぶる神の所業──。その乱暴な手で、川満は歪められてしまっていた。
「もう、誰とも口をききません」
村人たちは潜めた声で囁いていた。
永遠にも思えるほどに続いた風と雨がようやく治まり、泥の沼地と見まごうほどに荒れた村々を、治世者である玄雅は一つひとつ訪れていた。
惨状──それ以外に言葉が見つからないありさまだった。
かつて村だった場所には家々の残骸が散らばり、畑は泥に埋もれ、わずかに生き残った家畜が哀しげに歩き回っていた。数えきれない人々が命を落とし、泥まみれの着物を着た母親が、子供を探して半狂乱になって泣き叫んでいた。
あざ笑うように太陽が照りつける村の片隅で、玄雅はまた一つの陰鬱な物語に耳を傾けていた。
──小さなカワミツの村の、幸せな一家。決して裕福ではない、子沢山の家。それでも笑いの絶えない一家だったという。夫婦と、何人もの子供たち。皆、素直でやさしく……とりわけ、一人だけ年の飛び出た長男は幼いきょうだいたちの面倒をよく見た。今年生まれたばかりの小さな弟を背負いながら、なけなしの金で買った書を読みふけっていたという。そう、顔を俯けてじっと文字を見つめながら、器用に子守唄を歌って……。
玄雅の瞼に、低い声で優しい歌を歌う青年の姿が浮かんでいた。ほつれた着物と、粗末な草履と、そして手の中にある不釣り合いな王府の書物と。
賢い青年だった、と村人たちは涙ながらに語った。
かつてはきょうだいたちを守り、寝る間を惜しんでひっそりと勉学に励んでいた青年──。その姿は見る影もなかった。今、玄雅が見つめる先にいるのは、薄汚れた着物をだらしなくまとい、折れた柱に寄りかかる、哀れな抜け殻の背中だった。
玄雅は止める村人たちを静かに振り切ると、虚空を見つめる青年の横にしゃがみ込む。
泥の地面に座り込んだ青年の両の眼は、何も映していないようだった。
折れた柱が青年の目を打ったのだ、と村人たちは言っていた。
あの台風の日のこと。家族の生命線である小さな畑を守りに行こうと、豪雨の中、両親と長男は家を出た。そして、小高い場所にあった畑へ向かう道すがらの坂で──土砂が上から押し寄せた。暗い濁流に変わったミャークの赤茶けた土が、無慈悲に父と母とを飲み込んだ。長男は両親を助けることができなかった。
そして、駆け戻った生家は暴風で潰れていた。
ますます激しくなる雨と風の中、倒壊した家の下から小さな弟や妹を救い出そうとした努力は徒労に終わった。ようやく引っ張り出したきょうだいたちは、命の抜けた躯に変わっていた。
追い打ちを掛けるように、暴風が家の残骸を薙ぎ倒し、折れた柱が青年の目を強かに打った。
そうして、台風が去った後には、ばらばらになったかつての家と、その前で放心する青年だけが残されていたのだという。
そっと目の前で掌を振ってみると、青年の目がわずかに動いた。何も見えていないというわけではなさそうだった。
「私の家に」
玄雅は静かに声を掛ける。
「ヤイマの商人から買い求めた南蛮の薬がある。眼病がそれで治った部下がいる。そなたにも効くやもしれぬ」
追いかけてきていた村人の一人が、必死で青年に呼びかけていた。
「仲宗根豊見親様のお言葉だぞ。何とありがたいことか。さあ……」
肩を揺さぶる手を、青年はぼんやりとした目のまま払いのけた。
なおも焦ったように揺さぶろうとする村人を静かに制すると、豊見親は青年の何も見ていない瞳を覗き込んだ。その片目は白く濁っていた。
「そのような様子では、村の者が心を痛めよう。それに、このような者がいては、村の再興の士気も下がるというものだ」
その言葉に、ようやく青年は視線を動かして玄雅の顔を見た。
ゆっくりと唇に血の気らしきものが上り、皮肉めいた笑みが広がってゆく。やがて掠れた声がした。
「では、切ってどこへなりとも捨ててくださいませ。偉大な仲宗根豊見親様、竜宮の加護を受け、台風も、日照りも……どんな天災をも寄せ付けず、ミャークの民の命を一人残らず守るという輝かしい豊見親様の刀の錆になれるなら、これに勝る名誉はございません」
青年の黒い片目に映るのはむき出しの皮肉と悪意、そして白く濁ったもう片目に映るのは、混り気の無い絶望だ。
村人たちが怯えた声を上げていた。もちろん彼らは覚えているのだ。仲宗根豊見親──今や中山の信頼を得たミャークの首領、豊見親の名を授かってこの方、寝る間を惜しんで政に取り組み、早くもミャーク始まって以来の善政の王と呼ばれるようになった男──この男が、神童・空広と呼ばれていた頃、対岸のイラブの民に何をしたのかを。
ミャークの民の心には、敬愛と恐怖が同時に刻み込まれていた。その無慈悲な手で、無礼な青年の命など一刀の元に切り捨てられてしまうのだと確信しているに違いなかった。
それでも、玄雅はじっと黙っていた。そして、視線をゆっくりと動かす。やがて視線を止めると、静かに言葉を継いだ。
「それを見せてもらえぬか」
青年の握りしめた拳に、玄雅はそっと触れる。はたして、固い拳はゆっくりと開いていった。姿を現したのは、小さく折りたたまれた、しわだらけの紙。指が開いて行くごとに、紙に透ける影が大きくなっていった。やがてぽと、と紙が地面に落ちる。だが、それがさらにぬかるみに染まる前に、玄雅がそれを拾い上げていた。
放心する青年の前で、玄雅は紙片を開いてゆく。それは書物の断片だった。子供が──そう、一生懸命に消し炭の端で描きつけたのだろう──たどたどしく、だが素直に書いた線が、端正な墨文字の上に大らかな絵を広げていた。
素朴な丸と、棒線だけで描かれた人間の姿。その単純な棒人間の傍らには、小さな棒人間がいた。棒と棒の手を繋ぐ、大きい棒人間と小さい棒人間──。その顔には、点と線で描かれた目鼻が付いていた。その二つの顔は、素朴な線の世界で笑っていた。
泥土に埋もれた家族の光景の残骸が、玄雅の手の中で空しい温もりを放っていた。
無言で見つめる先で、青年の濁った目から涙が零れた。
「……私は、大層叱りました」
掠れた声が震えていた。
「……やっと手に入れた書物に、落書きをして。学を身に付けて、職を得て……そうすれば、父にも母にも、弟にも妹にも楽をさせてやれると……。あんなに叱ることは……なかったと……」
そのまま青年は顔を歪めた。やがて抑えようのない嗚咽が漏れる。何粒も何粒も、涙が泥の地面に落ちた。
玄雅は何も言わなかった。ただ黙って、その透明な光る粒が弾けるのを見守っていた。
それから──長い沈黙の後に、玄雅は静かに言葉を継いだ。
「私の元に、もうすぐ子が生まれる。私の初めての子だ」
言葉を切った玄雅は、そっと青年の瞳を覗き込む。瞳は相変わらず虚ろだったが、確かに玄雅を見つめ返していた。
「そなたが我が子の養育を手伝ってくれたら、さぞ助かるであろうな。なにせ、私には子供というものが分からぬ……」
青年の目に幾何の光が戻ったように見えた。その瞳が、しっかりと玄雅を見つめている。
「ミャークは武勇の国として名高いが、これからはそれだけでは立ち行かぬ。私は、我が子には十分な学を身に付けさせたい。そなたのように真摯に学ぶ者が傍らにいれば、どれだけ励みになるであろうな」
玄雅は紙片を畳むと、青年の掌の中に握らせた。震える拳を、玄雅の手がそっと包む。
「ミャークは長く竜宮の神の徒であった。神は確かにいるのであろう。だが、人の世を救うのは神の力ではなく、自らの努めと知であると私は思う。そのためには良き子供たちを育て、学を広め……。そのようにして、私は新しいミャークを創って行きたい。どうだ、私を助けてくれぬか」
青年は感情を持て余したかのように全身を震わせ、そしてやがて、感極まったように頭を垂れた。
「そなた、名は?」
その問いに、青年は黙って首を振る。
名前──その名を与え、その名を呼んだ人々を失った今となっては、最早それは過去の痛みを抉る刃でしかないのかもしれなかった。
「では、」
玄雅は静かに青年を見つめる。
「そなたの村の名を取って、ただカワミツ──川満と呼ばせてもらおう。そなたが自らの名を取り戻す日まで」
こうして川満──玄雅と大して年の変わらない、カワミツの村の青年──は仲宗根豊見親の部下となったのである。
川満は玄雅の屋敷に部屋を与えられ、日々与えられる仕事の傍ら、勉学を続けた。ああは言ってみたものの、最初は力仕事や雑用をやってもらえれば良いか、と思っていた玄雅の予想に反して、川満はめきめきと頭角を現した。
玄雅が中山から手に入れた書物を瞬く間に読みこなすようになり、流れるような流麗な字を書くようになった。数や物事のやりくりにもめっぽう強く、いつの間にやら玄雅の書記から屋敷の勘定係までこなすようになっていた。
玄雅の妻である宇津免嘉は細かなこと──それこそ、夫の食の好みだとか、着物の選び方だとか──には全く無頓着だったので、それも川満が補うようになった。
幸いなことに、川満の目は薄皮を剥ぐように良くなっていった。相変わらず距離がうまくつかめず躓いたり、卓の上に覆い被さるようにして書を読んだりはしていたが、毎日玄雅が点してやる貴重な薬の甲斐があったのだろう、もともと黒いままだった瞳はすっきりと晴れ渡り、白濁した片目も少しずつ澄んでゆくように見えた。
そうして──最初の子供が生まれるころには、川満は玄雅にとってなくてはならない存在になっていたのである。
淡い回想に身を預けていた玄雅に、川満の柔らかな声が降ってきた。
「さあ、少しお眠りください。後は女たちの仕事です」
「朝だ。執務が……」
そういった先から、瞼が重く落ちてくる。結局のところ、子供の誕生が近づくごとに玄雅の眠りは浅くなっていたのだろう。長男が産まれた今となっては、睡魔が堰を切ったように押し寄せていた。
何度も瞬いた瞳の向こうで、川満が優しい顔をしている。
「今日はもうやることはありません。王府に送る手紙も、誕生の祝いの用意も、全て整っています」
こういう時、川満は「自分がやっておいた」とは絶対に言わない。玄雅が豊見親の地位を得てこのかた、無数にすり寄ってくるようになった顔の中で、川満はひときわ清々しく見えた。
「布団を敷いておきました。眠い顔で執務に臨むくらいなら、潔くお眠りになることです」
言うことははっきり言う。そんなところも、玄雅が川満を好ましく思う理由の一つだった。
導かれるまま寝所に向かう。ぱり、と敷かれた布団に体を滑りこませると、川満は布団を首までしっかり引き上げた。
「……川満」
柔らかい布団の感触に思わず深い吐息が漏れる。
川満が相変わらずの不均等な色の瞳で見下していた。その瞳にいつしか深い安堵を覚えるようになったことを、玄雅は自覚していた。
「そなたに感謝している」
瞼が落ちてゆく向こうに、はにかんだような視線を返す川満がいた。
だが──……
「豊見親様!」
ひどく焦った下男の声が、その柔らかな時を破った。
こけつまろびつしながら部屋に転がり込んできた下男が、川満を押しのけながら必死に叫んでいた。
「鬼が来ました!」
眉をひそめた川満が問い返す前に、身を起こした玄雅が静かに言葉を発する。
「どのような」
「つ、土みたいな、赤っ茶けた髪の……。ああ、それにぎらぎらした緑の目ん玉が! 鬼のような異人が、大男が、船で──……」
下男はすっかり魂消てしまっている。動揺を鎮めるように、玄雅は静かな問いを再び発した。
「その男は何と言っている?」
ああ、と腑抜けた声を漏らしてから下男は続けた。
「豊見親様に会いに来たと……。昔の知り合いだと……」
玄雅は皮肉めいた微笑に唇を歪める。こんなに歪んだ顔を見せるのは初めてに違いない、と傍らの川満をうっすらと意識しながら。
「屋敷に招くがよい。丁重に扱え──仲宗根豊見親の客としてな」
脳裏で明滅するのは、忌まわしいあの記憶。
甘ったるい香りと、細い糸で編まれた敷物と。
聞こえてくるのは、あの無邪気な、だが隠しようのない侮蔑を含んだ笑い声。
降ってくるのは──咲き誇る赤い花。
玄雅はそれを、記憶の中で踏みにじる。
瞳に困惑を一杯に浮かべた川満の前で、仲宗根豊見親玄雅は再び獣の牙を剥き出そうとしていた。
<第12話に続く>




