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[第10話] <第一部完結>

宮古島の英雄、仲宗根豊見親をモチーフにした長編歴史ファンタジー第10話目。


 海深くへと誘われた空広が見たものは? 

 仲宗根豊見親玄雅──稀代の英傑か、それとも。

 レキオ・ドラマティカ「竜宮の寵児 ―異伝・仲宗根豊見親―」幻想の第一部完結へ!


あくまでパラレルなミャークの英雄物語として楽しんで頂けましたら幸いです。

第1話の扉絵は嵐山晶 様に描いて頂き、ご本人の許可を得て掲載・使用しております。


※無断転載を禁じます※

※本作は[pixiv]様にも重複投稿しています※

 

 ──どれだけの時間が経ったのだろうか。

 指を彷徨わせてみても、触れるのは渦巻く布地の襞だけだった。

 うっすらと目を開いた空広の視界に飛び込んできたのは、乳白色の淡い光に覆われた霞の掛かった世界。遠くで小さく波の音が聞こえていた。そして、体を包むのは乳を流した海のような淡い水色の布。

 気だるげに身を起こしてみれば、肌に残った甘い余韻がちくりと体の奥を刺した。

 血の奔流と共に抜き放たれた刃。それから──思わず頬が熱くなる。

「お寝坊さん」

 耳の奥で快楽の粒が弾けた。ゆるゆると共犯者の瞳を上げてみれば、傍らで甘い視線を返すのはあの女だ。寝台の上に座した白い体を、優美に波打つ長い髪が滝のように覆い隠している。隅から隅まで知っている女の瞳がじっと覗き込み、やわらかい指が頬を包む。

 不思議な虹彩の色を心行くまで見分した空広は、やがて視線を下へと動かした。

 長く優雅な首。

 思わずそのくぼみをなぞってみたくなる華奢な鎖骨。 

 そして、どこまでもなめらかな白い胸。

 じっ、とその豊かな胸の中心を見つめる空広の脳裏に疑念が広がって行った。

 ──あのような刀が刺さっていたのであるから、 

 空広は首を傾げる。

 ──抜いたとしても傷が残るはずだ。そもそもあのように刀が刺さっていれば……。

 くすり、と笑い声がした。

「また考えている。考えれば全てが分かると思うのは大間違いよ」

 花のような唇が動いて、音楽のような声を紡いだ。

「ただ感じればいいの。心が赴くままに、心が求めるままに」

 それでも胸元から視線を動かさない空広に、女はためらいがちに言葉を継いだ。

「それとも、まだ満足していないのかしら?」

 恥じらうような声に、空広も顔を紅潮させる。あわてて目線を逸らすと、女は可笑しそうに笑った。

 美しい女だった。鏡のような瞳と真珠の肌。柔らかな髪。女が小首を傾げれば、甘い香りが漂ってくる気がした。

 指が──そう、あの輝く水かきを持ったなめらかな指が──寝台の上で渦巻く布地に伸びる。取り上げた薄衣をまといながら、女は床に降り立った。白鷺のようでもあり、ふわふわした小鳥のようでもあり……捉えどころのない美しい生き物がそこにいた。 

 いたずらっぽい顔で振り返ると、女は寝台の上からもう一つ何かを取り上げた。

 抜き身の刃──白い胸に刺さっていた刃が今、女の手の中にあった。華奢な女が片手で持つには……そう、軽々と、まるで花の茎でも持つように水平にかざすには重すぎるはずの刃が……ぬめる光を放ちながらこちらを睥睨していた。

「もちろんあなたは知っているわね。この刃が何であるのかを」

 女の開いた片掌が空中でひらり、と回る。虚空から現れたのは一輪の後生花だ。女はしばらくつまんだ真紅の花を見つめてから、ぽい、と足元に放り投げた。そのままためらうことなく、白い裸足で踏み付ける。ぐしゃり、と潰された花は赤い奔流になって水に溶け消えた。

 教わったばかりの理を早速忘れて、疑問が首をもたげてくる。それを再び床に押し付けるように、女は甘い声で囁いた。

「これはあなたのもの」

 女が刃を差し出している。水平に掲げられた刃の光が、試すようにこちらを見つめていた。それは、有無を言わせない、心奪う光だった。

 操られるように寝台から抜け出る。迷うことなく刃に手を伸ばすと、女の顔が幸せそうに輝いた。もう一度、白い掌が虚空で舞う。その優美な舞に合わせるかのように、女の手には漆黒の鞘が握られていた。

 差し出された刀の柄を、空広は女の指の上から握りしめる。触れた薄い肌から、匂い立つような熱が駆け昇ってきた。

 刃の切っ先が空広を見つめ返していた。目をくぎ付けにする、白い光を放つ刃。空広の心の臓が速く、速く──これ以上打ったら張り裂けてしまうほどに脈打つ。

 意識を引き戻すように、女がそっと鞘を差し出した。

 刃から目をもぎ離すと、漆黒の鞘に手を伸ばす。そして刃と鞘は、示し合わせたようにあるべき場所に収まった。

 空広は女を見た。女は空広を見つめ返した。それから、二人は見つめ合いながら長いこと立ち尽くしていた。止まってしまった時間の中で、二つの息の音がいつしか一つになっていた。

 やがて、女がこらえきれなくなったように小さく吹き出す。

 こみ上げるようなしのび笑いが、やがてころころと転がる鈴のような笑い声に育っていった。

「素敵だわ……! こんなに素敵なことは何年ぶりなのかしら!」

 ほの白い世界の靄を払うように、清浄な笑い声が空気を揺らす。

「私は手に入れた! あなたという刃を!」

 女の様子に、空広もまた浮き立つような歓びを感じていた。

 この女が喜んでいる。この女が笑っている。それだけで何も問題ないような、不思議な高揚が胸を満たしていた。

 上機嫌の女が空広の首に腕を回し、胸に顔をうずめてきた。柔らかい髪が頬をくすぐる。まるで軟らかい大地の上で、暖かい陽の光を浴びているような幸せな気分だった。

 この上もなく甘く安らかな瞬間。

 そう、このままこうしてずっと──。

 だが。

 なんとも珍妙な叫びが、二人の蜜月を引き裂いた。

「ヨッ、ヨッ、ヨ……ヨナヨナ ヨナタマーー!」

 ぎょっとして顔を上げた空広の視界に、何とも奇妙な物が……いや、生き物が……映っていた。

 大きさはそう、子供の頭くらい。ほぼ球形の体。

 ぴ、ぴ、ぴ、とせわしなく動いているのは、申し訳程度に体の前方についた……一対のひれ、のようなもの。

 その丸っこい魚……のようなもの……は、空広の目線の高さの空中で焦ったようにくるくると回り、黒目勝ちの大きな目をぎょろぎょろと動かした。

 ──いや、これはやはり魚なのだろう、と空広は必死に思考を巡らせる。

 ──頭の天辺には取って付けたような背びれらしきものがあるし、つまんだような尾の先には薄布を広げたような尾びれも付いている。よく見てみればえらもある。奇妙なのはその真珠色の体がやけにのっぺりとしていて、餅のような質感に見えることと……いや、奇妙と言えば全てそうなのだが……。

 だが、空広の必死の思考はあえなく霧消した。

「ヨナヨナ ヨナタマーー!」

 再びの珍妙な叫び声と共に、魚の顔が、剥けた。

 まるで果物の皮を剥いたように、魚の顔を真一文字に走っていた口の線がぱくりと割れている。そして果実の代わりに中にみっしりと詰まっているのは……外側の魚の顔と大して変わらない、まん丸い輪郭にぎょろぎょろした目の白い子供の顔。

「ぬう……」

 面妖な光景に思わず声が漏れた。

 だが、顔を引き攣らせる空広のことなどお構いなしに、珍妙な魚子供はおかしな声で叫び続けていた。

「何ということだー! 姫様っ、あなたは何という……っ! はっ、は、はは……破廉恥な! これは人間の男じゃありませんか!」

 一しきり顔を赤くしたり白くしたりしてから、魚はひれで……そう、あの申し訳程度についたひれで器用に顔を覆ってわんわんと泣いた。

「ヨーナヨナ、ヨーナヨナ……。ヨナタマは哀しいですよ! なぜあなた様はいつもこう見境がないのですか! ああ、他の方々に何と申し上げれば宜しいのでしょう……」

「おだまり、ヨナタマ」

 そこで女──姫──は魚のひらひらした尻尾を掴むと、べちゃ、と床に叩き付けた。

「他の七人は関係ないでしょう? 私の夫を選ぶのは私よ」

 床に叩き付けられた魚は毬のように弾みながらくるくると回転し、壁に弾き返されて戻ってきた。険悪な顔をした魚は、再び空中で姫と睨み合う。

「あなた様はなぁんにも分かっておられません!」

「お前に言われたくないわ、この毬魚!」

 喧々囂々の口論を始めた魚と女を眺めながら、空広は必死の思考を再開していた。

 ──おかしい。ここは水の中で、海の底だ。海の中で話すことができるはずはないし、第一、海水がしみて目を開けていることすらできないはずだ。

 眉をひそめた空広はあたりを見渡す。

 いつの間にか靄が晴れていた。なるほど、まだ空広たちは水の中にいる。その証拠に、床──いや、床と言っても木ではなく、白い石のようなつるつるしたものでできている──から色鮮やかな珊瑚がこんもりと生え、鮮やかな色の小さな魚たちがちろちろと宙を泳いでいる。

 そして、この何も無い部屋……のような場所。どこまでも青い水がだだっ広い空間を満たし、部屋の真ん中に置かれた豪華な寝台だけが奇妙な存在感を放っている。そしてその寝台ときたら、全く奇妙なありさまであった。シュリの宮殿にも王侯貴族が使う天蓋付きの豪奢な寝台はあった。だが、先程まで二人が居た寝台ときたら……。渦巻く水色の布で満たされた寝床の四隅からは、ゆうに人間の背の三倍はある柱がそびえ立っている。その先では透き通った半円形の屋根が天辺を覆い、そこからごてごてした刺繍入りの蚊帳が床まで垂らされていた。しかも寝台の四足は、何かの獣の足の形をしているのである。

 ──悪趣味だ、と空広は思った。

 だが目を凝らしてみれば、寝台の全面には精緻な彫刻が施され、金や銀の細工飾りが所々にはめ込まれていた。布地の刺繍も、見たことの無い高度な技で編まれている。およそ人間技とは思えなかった。

 ちら、と視線を元に戻せば、指の間に水かきを持つ女と、毬魚──ヨナタマ、と呼ばれていた──がまだ言い争っている。

 視線に気づいたのだろう、ヨナタマが「ヨナヨナッ」と奇妙な叫び声を上げてこちらを見た。

「そうだ人間の男! こうなったらアンタが皆様にお詫びするんですよ! 床に頭をこすりつけてお許しを願うのです!」

 この言葉にはさすがに空広も憮然とした。

「喰われたのは私の方だ。なぜ私が詫びねばならぬ」

 ああ、こいつも分かってない! とヨナタマは両手……いや、両ひれで顔を覆い、そしてぴゅ、と踊りかかると片ひれでぴしゃりと空広の頭を叩いた。

「だまらっしゃい! さあさあ人間の男、覚悟を決めて服を着る! 姫様もちゃんと服を着る! 四の五の言わずにさっさと行きますよ!」

 そこで姫と空広は黙り込んだ。困ったような空広の視線に、姫も困惑した視線を返す。

「そういえば、あなたの服がなかったわ。どうしましょう」

 空広の脳裏に、鯖の牙に引き裂かれてどろどろの肉片に巻き込まれてゆく着物の光景が蘇った。

「なぁに困った顔しているんです! 姫様が再生させればよろしいじゃないですか!」

「さっき鞘を作ったから、疲れたわ……」

 ──ならば無理にさせるのは気の毒だ、と空広は思う。

 そこでヨナタマは顔を……いや、全身を……真っ赤にして頭から湯気を出した。

「この横着姫! もういいです! こうなったらこのヨナタマが一肌脱いでみせますよ!」

 姫と空広が見つめる中、ヨナタマは目線の高さの空中で停止した。そしてぴらぴらぴら……と小刻みに前びれを震わせ──

「ヨナヨナ──……ヨナッタマッ!」 

 奇妙な掛け声と共に魚の皮が剥け、人の顔を出したヨナタマが天井近くまで垂直に跳ね上がった。

 ぽか……ん、と口を上げて見上げる空広の上に、ふわふわ、と着物が舞い降りてくる。

「これは……私が着ていたものと寸分違わぬ……」

 手の中に落ちてきた着物は、確かに船から落ちたときに着ていたものである。感嘆の声を漏らした空広に、ヨナタマは得意そうに胸を張ってみせた。

「どうです! ヨナタマもこれくらいはできるのですよ!」

「あら、でも息が上がって死にそうじゃない?」

 おだまんなさい、誰のせいだと思ってるんですか! とヨナタマが姫の頭を前ひれで叩こうとする。姫が優雅に身をよじってそれをかわす。

 着物をもぞ、と着ながら、空広は呟いた。

「何なのだこれは」

 姫も自らの衣を整えながら呆れた声を返す。

「茶番よ。ここでは何でも大げさにしないと、みんな気が済まないの」

 やっぱり分かっておられませんよ! とヨナタマが割って入った。

「今度ばかりは茶番では済みませんよ! その刀を人間の男に抜かせてしまったのですからね! よりによって、こんな訳の分からない人間の男に!」

 そこで姫はヨナタマを振り返ると、人の顔の上下に押しやられていた魚の皮を両手で掴んだ。そのまま力任せにぱちん、と閉じる。

「おまえはうるさい。私の夫を愚弄することは許しません」

 姫と、真一文字に口を結んだ魚が睨み合う。そこで、仕方なく空広がため息混じりに言ってやることになった。

「……四の五の言わずにさっさと行くぞ」



 こうして、空広と姫とヨナタマの奇妙な行脚が始まったのである。

 奇妙……と言えば、何もかもが奇妙であった。

 まず、先程までの部屋から出ると、長くまっすぐな回廊がどこまでも続いていた。両脇には一抱えもある白い柱が等間隔にそびえ立ち、その間の空間を真っ青な海が満たしている。

 いや、空広達が歩いているこの場所も海の中のはずなのだ。なぜなら、奇妙な形の魚たち……そう、今まで見たことのない姿形のものもいれば、漁師たちがごくたまに釣り上げてしまう、遥か海深くに住むと言われる怪魚まで……が歩みを進める回廊の空中を縦横無尽に泳ぎ回り、姫の姿を認めると、奇妙な体を折り曲げてお辞儀をしたりしているのだから。

「柱の間に見えているのは別の海よ」

 困惑気味で柱の間を覗く空広をなだめるように、姫が声を掛ける。

「ここはそうね……あなたたちの言葉では『(グスク)』とでも言うのかしら。私たちは見守らなくてはならない。近い海、遠い海……」

 不思議な布地でできた姫の靴が、優美に白い床を滑る。 

 再び視線を上げれば、柱の間に巨大な白い魚が丸い頭を覗かせ、つぶらな瞳でこちらを見つめていた。空広が視線を返すと、魚は口をつぼめてぽか、と丸い円状の息を吐いてから視界から消えていった。

 奇妙な場所だった。どこまでも続く回廊と、泳ぎ回る不思議な魚と、真っ白な床と天井と……。

「往生際が悪いですねえ、いい加減に認めちゃいましょうよ。はい質問です、ここはどこですか、人間の男?」

 いつの間にか眼前に泳いできていたヨナタマがぺらぺらと喋る。喋るたびに口が開閉して人の顔が見え隠れするのが何とも気持ちが悪い。

「……私は、正気だ」

 はっはあー、とヨナタマは小さな前びれをぴらぴらと動かした。

「ああ、この手の人間は困りますねえ。人の子が作り上げた『正気』とかいう浮袋に後生大事にしがみつこうとする。けれどねえあなた、そんなものは()()ですよ。ぷつん! と雲丹の針で刺してみれば、しゅるしゅると泡になって消えてしまうものですよ」

 まん丸の平板な目で覗き込んでいたヨナタマが、不意に言葉を切った。

「ん……?」

 丸い魚が無い首を傾げる。

「そういえば、どっかで見たことある顔ですねえ。この目のきっつい感じとか。あれ? いつだっけ……何十年前? 何百年前? いや、何千年前……?」

「黙りなさいヨナタマ。お前は道案内に徹すればよろしい」

 姫の声がぴしゃりと魚を打った。

「はいはい、おっしゃる通りにしますとも。ヨナタマはいつだって姫様のいいなりですからね」

 小さなひれをせわしなく動かすヨナタマの先導で、空広と姫は進む。やがて丸い魚は視線を投げた。

「ほら、もう着きますよ」

 目に入って来たのは、視界を覆い尽くす巨大な白い扉。

 勿体をつけたヨナタマの声が、水で満たされた空間に荘厳に響き渡った。

「それでは改めて……竜宮へようこそ、人間のお客人……」



 扉がゆっくりと開く。そしてその向こうには、光に満ちた空間が広がっていた。眩しさに目を細め、ようやく慣れてきた目に映るのは──先ほどまでとは一転した、一面の真紅の床。そこは巨大な広間だった。足を踏み出せば、ふす、と毛足の長い布を敷き詰めた床につま先が沈む。

 見上げれば、高い天井は金銀の絵具で描かれた絵に覆われていた。見たことの無い生き物たち……そう、人間も、魚も、そうでない何かも……が絵の中の知らない風景の中で遊んでいる。

 そして天井から下がっているのは、不思議な透明なきらきらしたもの。無数の透き通った欠片が白い光線を反射し合い、大広間を光で満たしていた。

 茫然と視線を巡らせれば、高雅な芳香が鼻腔を満たし、甘美な音楽が耳をくすぐる。その妙なる音色を奏でているのは……大広間の端で奇妙な楽器を抱えている魚の楽隊であった。

 ──ふむ、と空広は思う。

 ──鯛や平目が、不思議な楽器を弾いている。楽器は木でできているようだ。弓のようなものを板状の楽器に張られた弦に振り下ろしている。

 そして一心不乱に楽器を奏でる魚たちの前では、五色の尾を生やした海亀が陶酔したように細い棒を振っていた。

 余程虚ろな目をしていたのだろうか、心配そうにヨナタマがひれで小突いてきた。

「大丈夫ですか、人間の男? 現実逃避はだめですよ、これが現実ですよ」

 傍らの姫も心配そうに腕に手を回す。

「さあ、気をしっかり持って。皆にあなたを紹介するわ」

 姫が顔を上げると、魚と亀が奏でる音楽が一層高く鳴り響いた。

 音楽に合わせるかのように、広間の正面、小高い階段の上を覆っていた幕がするすると上がってゆく。

 たっぷりとした幕の後ろには、薄い紗幕がもう一枚。そしてその向こうに一つの人影があった。

 音楽が荘厳な調子に変わり、乳白色の薄布がさらさらと巻きとられてゆく。

 現れたのは、一人の男の姿だった。玉座のような豪華な椅子にゆったりと腰かけ、片肘を肘掛けについて頬を支えている。傾けた顔は恐ろしいほどに整っていて、なめらかな頬に閉じた瞳の長い睫毛が影を落としていた。

 優雅に傾いだ体がまとう異国風の長衣は床にまで零れ落ち、長い裾が彩なす布の渦を形作っている。そしてその頭上では、色とりどりの玉が並ぶ冠が輝いていた。

 どことなく傍らの姫と似通った雰囲気の男だった。

 そしてもちろん、普通の男ではないのだろう。その両側では、ぼんやりと体を光らせる珍妙な魚が団扇──そう、海藻を束ねて作ったらしい大団扇──で男をゆらゆらと扇ぎ、周りを色とりどりの小魚達が泳ぎまわっていた。

 どこか遠い目で見つめる空広の視線に気づいたのだろう、小魚の一匹がこちらを認め、慌てたように男の頬のあたりをつついた。

 目を閉じたまま、男は虫でも払うように手を振る。口元がむにゃむにゃと動き、ぱちん、と鼻提灯が弾けた。

 傍らの姫がこめかみに手をやり、小さなため息を漏らす。

 その吐息を聞いたのだろうか、男はぱちり、と目を開けた。不思議な色の瞳が動き、空広と姫を凝視する。そのままわなわなと玉座から立ち上がり、ゆっくりと上げた両手を小刻みに震わせ……男は、地響きのような声で叫んだ。

「ひ、ひ、ひ、姫ーっ!」

 魚の楽師たちがぴた、と演奏を止め、蜘蛛の子を散らすように逃げて行く。男の周りで泳いでいた小魚の群れも、団扇の魚もわれ先にと逃げはじめた。

「ヨナヨナッ! 姫様、我々も逃げますよ!」

 叫ぶヨナタマが空広と姫の裾を引っ張る。

 だが──二人の見つめる前で、すでにその変身が始まっていた。

 震える男の体の輪郭がぼやけ、波立った。男の姿だったものが、透明な人間の器の中で波立つ真紅の液体に変わってゆく。 そして次の瞬間、人の器が爆発した。

 空広は思わず息を飲む。

 小高い階段の上から、赤い粒がぶちまけられていた。男だったものは、今や無数の血の粒に姿を変えていた。脈打つ赤い群れが広間の隅々にまで転げ広がり、まるで生きているかのように荒ぶり伸縮する。

「ああ、もう止められないわ……」

 吐息まじりに呟く姫の言葉が合図になったかのように、無数の赤い粒が床の上で一気に弾けた。

 びしゃり、と液体が互いに手を結び、赤い水が床を一面に覆う。その赤い海は波打ち、うねり……

「ヨナヨナー! 大変だー!」

 ヨナタマの悲鳴に合わせるように、水面から噴き出した赤い奔流が竜巻のように渦巻いた。宙を切り裂き上昇する紅い奔流──それがうねりながら形を結んでいた。

「これは……」

 空広もまた、呟いていた。

 真紅の竜……赤い血潮の中でとぐろを巻いた、血で形づくられた巨大な竜が、燃えるような瞳で睥睨していた。真紅の体がどくどくと脈打ち、もたげた長い首からは絶え間なく血の粒が零れ落ちている。 

『人間風情が……よくも我らが姫と!』

 怒りの叫びと共に、巨竜が血を撒き散らしながら長い首を振りかぶる。剥き出しの牙が並ぶ口が、空広の頭上目がけて振り下ろされようとしていた。

「ヨッヨナー! 喰われてしまうヨナー!」

 庇う背中の後ろで、ヨナタマの悲壮な声が上がっていた。怯むことなく空広は一歩前に踏みだす。そのまま、毅然と刃を抜き放った。

 漆黒の刀。姫から授かったあの刃。

 宙を切り裂いた刃の煌めきに、竜が一瞬、怯んだように動きを止めた。

 空広はその隙を見逃さなかった。踊りかかった空中で、刃が瞬く。

 頭を貫いた──そう思った瞬間。

 ぽふん、と音がして煙と共に竜が消えた。同時に響いたのは「ぎゃあ!」という叫び声。

 瞳を瞬かせる空広の目の前で、先程の男が尻もちをついていた。いつの間にか血の海も消えている。

「ぎゃあ! 痛い! 止めんか!」

 悲鳴の原因を作っているのは、男の尻のあたりから生えた尻尾──そう、鱗が整然と並ぶ、煌めく尾──を何度も踏み付けている端正な顔の美青年。

「どうしてくれる? お前のせいで音楽が途切れてしまったではないか」

 奇妙な長い衣を着た青年は尻尾を踏みにじるのを止めようともせず、潰れたような悲鳴が何度も上がる。

「貴様っ……儂は竜王じゃ! 儂の尾を踏むとは貴様、何様じゃ!」

 両手でぐい、と引いてようやく踵の下から尻尾を救出した男は、尻をさすりながら立ち上がった。

「眠りすぎてとうとう記憶障害か? 私は竜王様だ」

 よく見れば、青年の後ろにも優美な銀の尾が揺れている。

「減らず口を叩くな、このっ……竜王風情が!」

「おまえも竜王だろうが。おまえは馬鹿なのか?」

 男と青年が小突き合いを始め、空広が唖然と眺める横で姫がもう一つため息をつく。

 と……小高い階段の上で幼い声が弾けた。

「わあ大変だ、竜王同志の喧嘩だ! みんなあ、来て!」

 その声に合わせるかのように、階段の上の空間に人影がなだれ込む。その影は、全部で五つ。

「おっ、これは久しぶりの喧嘩だ! 竜王としては腕が鳴るな!」

 どこのものとも知れない奇妙な衣を着た男が腕まくりをする。

「放っておきなさいよ竜王、どうせ竜王同志のいつもの小競り合いでしょうに。私はこんなことに手を出す竜王じゃありませんよ」

 欠伸混じりに隣で呟くのは、奇妙な着物を着た女。その袖を先程の子供──二の腕のあたりと太腿のあたりが膨らんだ、異国風の着物を着ている──が引っ張る。

「でも暇つぶしになるでしょ? このところ竜王の仕事も減っているもの、ねえ」

 子供が振り返った先では、やはり奇妙な格好をした残りの二人が首を縦に振っていた。

 そしてその煌びやかな五つの人影──もれなく鱗の尻尾が生えていた──は示し合わせたように頷くと、ぱっと顔を輝かせた。

「こらー! 喧嘩はやめろー!」

 叫ぶ声と共に、一人ずつが階段の上から小突きあう二人の上に飛びかかってゆく。始まったのは、七人の男女による揉み合いと小突きあい。そして、全員の顔が楽しそうに輝いていた。

「……何なのだこれは」

「ごめんなさい。八人もいると賑やかなの」

 姫とヨナタマと空広が呆れたように見つめる先で、七人の男女の小競り合いが続いている。やがて見つめる視線に気づいたものか、中の一人が顔を上げた。

「きゃあ!」

 不思議な格好の女が真っ赤に上気した顔を覆う。

「なんてこと! 姫の横にいるのは人間の男だわ!」

 すかさず別の一人が言葉を返す。

「いや、恋愛は自由でかまわないじゃないか」

 もう一人がそれをさえぎる。

「儂は許さんぞ! 人間など、儂は竜王として断じて認めん!」

「あなたの素行を振り返ってみなさいよ。ひとのこと言えないでしょうに」

「なにい、竜王ごときに言われたくないぞ!」

「だから、あなたも竜王なんでしょ?」

 七人が揉み合いを再開し、聞くに堪えない罵詈雑言が広間に重唱する。空広は眩暈を感じはじめ、七人の小競り合いはだんだんと険悪な喧嘩に発展してゆく。

 そろそろ本気の殴り合いになるな、と空広はうっすらと感じていた。止めた方がいいのだろうか……なけなしの理性が意識を引っかいた時、涼風のような声が吹き渡った。

「私はこの男を選び、この男は私を解き放った。それが大海の選択」

 互いの髪の毛や服を引っ張り合っていた七人がこちらを見つめ、じっと押し黙った。やがて、先程の巨竜の竜王が重々しく口を開く。

「だが、その刀はどうする……それは、」

「我らは誓いました。永遠を共に行くと」

 姫の瞳は毅然とした決意に満ちていた。

「私がここに来たのは、我らの誓いを見届けてもらうため。さあ祝って下さい、我らの婚礼、人と海の結婚を──」

 姫が天井を見上げる。つられて見上げた空広の視界を、降り注ぐ無数の白い羽が覆っていた。深い深い海の底に降り積もる数えきれない白い羽──現世と永遠を結ぶ、純白の鳥の羽が。

 いつの間にか、魚の楽師たちが再び音楽を奏でていた。音の円舞を繰り広げながらどこまでも広がってゆく、甘く荘厳な旋律。

 七人の男女たちもまた、広間の中央に立つ姫と空広の周りに集ってきていた。皆、まとう着物が煌びやかな玉をちりばめた長衣に変わり、束ねた真っ白な羽根を扇のようにして持っていた。鼓のような物を手にしている者もいた。

「さあ歌って。私たちを言祝ぐ深き海の綾語を」

 七人の煌びやかな男女が、白い羽を揺らし鼓を鳴らしながら高らかに重唱する。


 ──遥かな昔へ届くように 声高らかに歌いましょう 

  神と人の契りのために 捕らわれた寵児──


 ──深き海の八人の竜よ 十三の輪を廻りましょう 

  遠い過去から紡がれる 遥かな夢を織るために──


 唱和する歌声の中で、空広は姫と見つめ合う。何重にも何重にも回り続ける調べに包まれて、何度も意識が蕩けて消えそうになる。

 これが夢ではないと知らせるように、姫が空広の胸に体重を預けてきた。

 腕の中で震える柔らかい肌。ざり、と肌をこするあの感触と海の薫り。

 覗き込んだ姫の瞳が煌めき、笑った。その手に握られているのは、再び抜き放たれたあの刃。歓喜の微笑みと共に刃が煌めく。刃が沈もうとする、その先は──。

 そう、それは人でないもの。契りを結んだのは、深き海の──……。





 ざ、ざ……と波の音がしていた。それは絶え間なく歌う、慣れっこになってしまった深き海の声か。

 いや……。

 空広は弾かれたように目を開けた。甘い地上の匂い。胸深く空気を吸い込み、空広は再び息をしていた。

 唖然と周りを見渡してみれば、そこは見慣れた懐かしいミャークの岸辺だった。

 湿ったざらざらした感触に視線を動かす。自らの姿を確かめてみれば、浜辺の濡れた砂に両手をついて膝を折り曲げ、退屈した子供のように波打ち際に座っていた。

 見下す視界には、小ざっぱりした着物の柄が映っていた。見たことの無い、真新しい着物が。

 ぼんやりと裸足に当たって弾ける波を見つめていると、懐かしい声がした。

「空広坊ちゃま!」

 振り返った先で走ってくるのは──じいやだ。

「じいや……無事だったのか……」

 ──無事? あんな嵐の中で? 全員死んだのではなかったのか? 他に助かったものは……? 

 次々と押し寄せる疑問と、全く働かない頭に戸惑う空広の肩をじいやが力一杯抱きしめた。

「ああ、ここにいらっしゃったのですね。皆、探しておりましたよ」

「……探す? 私を、か……?」

 胡乱な様子で答える空広の様子に、じいやは涙ぐんだ。

「ああ、きっと不安定になられているのですね。なにせ急に決まったご結婚ですから無理もないこと」

 ──結婚? 誰が? それに、自分は姫と……。

 霞む頭をはっきりさせようと首を振る空広の手を、じいやが必死にさすっている。

「やはり頭を打たれたのですかな。そうですよな、あのようなことがあったのですから」

 ──頭を打つ? じいやは何を言っているのか。

「じいや、船はどうなった? シュリからミャークへ帰る途中で……鯖が……船が沈んで……私は海に落ちて……」

 呟く声がひどく掠れていたことに空広は驚いていた。まるで他人の声を聞いているようだった。

「おかわいそうな坊ちゃま。まだ混乱していらっしゃるのですね」

 ──じいやの話した所によると。

 シュリを漕ぎだした船は()()()()()()()()()()()()()()()嵐に巻き込まれた。

 運悪く船は大破したが、()()()()()()ミャークの海岸に流れ着いた。

 これも竜宮の神のご加護ですよ、とじいやは何度も感じ入ったように頷いた。

「坊ちゃまも、こうして助かったのですから……」

 ──じいやによれば。

 空広もまた、気を失ったままミャークの浜辺に打ち上げられたのだという。大きな傷は無かったものの、その後しばらくは眠ったままで、先に打ち上げられていたじいやたちを大層心配させたという。

 そして意識が無い間も、()()()()を抱きしめて決して手放そうとしなかったという。

「きっと竜宮の神が、恩寵の証にお授けになられたのですな?」

 うんうん、と勝手に納得して頷くじいやに、空広は特段反応しなかった。代わりに、静かに問いかける。

「結婚とは?」

 その問いに痛ましそうな顔をしたじいやは、それでも根気強く説明した。

「ヌザキの安嘉宇立親の娘御でございます。もうこちらに来て頂いているのですよ。家柄も、容姿も、申し分の無いお相手で……ええ、もうお式も整っております。あとは坊ちゃまを待つだけで……」

「そうか」

 空広は立ち上がった。頬をミャークの風が撫ぜていた。

 毅然と前を向いて進む。懐かしいミャークの大地。懐かしいミャークの人々。空広は確かに故郷に帰って来ていた。だが、それが今までとは同じでないことも分かっていた。

「空広様!」

「玄雅様!」

 懐かしい屋敷に帰れば、戸口では懐かしい顔の下男たちが空広を抱くようにして迎えてくれた。皆、心から心配してくれていたのだろう。涙目になっている者までいた。そのまま飾り立てられた屋敷に上げられ、されるがままに美しい婚礼衣装を着せられ、髪をきれいに結い直され……高揚した屋敷の者達に身を任せながら、空広はじっと押し黙っていた。

 やがてめかし込んだ花婿に姿を変えた空広を見に、人々が代わるがわる訪れた。

「空広!」

 最初に部屋に飛び込んできたのは大立大殿だ。礼服に身を包み、記憶の中にあるよりも随分朗らかな顔をした姿が感極まったように目を潤ませている。

「養父上……ご病気で引退されたと聞きましたが……」

 何を言うか、と大立大殿が抱き付いてくる。

「儂はまだまだ生きるぞ、孫も生まれた、お前も結婚する……一族の繁栄を見届ける前に死ねるものか!」

 そのままおいおいと泣きだした大立大殿の背中越しに、もう一つの姿が覗く。

「空広、いや玄雅よ。立派になったな」

 やはり目を潤ませているのは父だ。その名の代名詞になった猫を、今日は抱いていない。

「今日は母も来ているぞ。お前が帰ってきてくれて皆どんなに嬉しいか。お前は我が家の、そしてミャークの誇りだ」

 しっかりと目を合わせ、空広の背を叩く力強い父の手。かつてそうであってほしいと願った通りの父がそこにいた。

「……父上」

 言葉を継ごうとしたとき、さらに二人の人影が部屋に入って来た。思わず空広は身を固くする。

 一人は普佐盛だった。だがその顔は別人のように柔和で、信じられないことに空広の肩に手を置いた。

「長生きはするものだな。このような孫の晴れ姿に寿命が延びる思いだぞ。今日は我が弟も祝いに駆けつけておる。お前のおかげで我らは再び集うことができた……」

 見つめる瞳が温かく笑う。ぞわ、と何かが空広の背を駆け昇った。

「御祖父様……あなたは、」

 言葉を継ぐ前に、別の人影が空広と普佐盛の間に割って入る。

「大きくなったな! 赤ん坊の時以来だ。覚えているか? おれはお前の大おじ殿だよ」

 普佐盛の肩に馴れ馴れしく腕を回した男が、底抜けに明るい笑い声を上げている。

「伊嘉利、落ち着きなさい。めでたい婚礼の日におかしなことは御免だぞ」

「めでたい日だからこそ、はめを外すんじゃないか」

 普佐盛と伊嘉利の兄弟が朗らかに笑い合っている。だが、空広の視線は引き攣ったままだった。弟とはいえ、若すぎる──。せいぜい空広の父と同じくらいの年齢にしか見えない祖父の弟、伊嘉利。

 上機嫌の伊嘉利が普佐盛と肩を組んだまま体を揺らし、鼻歌を歌い始める。どこかで聞いたような旋律の歌を。そして揺らした肩にぶつかってよろめいたのは、もう一つの小さな人影。

「あ、失礼!」

 慌てる伊嘉利を押しのけて、大立大殿が小柄な老人を支えに駆け寄った。

「父上! こうして父上と集える日が再び来ようとは。全てこの空広のおかげですぞ、ああ父上、この親不孝な恵幹を許してくださいますか……」

 ずれた頭巾をかぶり直した小さな老人が、わんわんと泣く大立大殿の背中をさすってやっている。固い瞳で見つめる空広に、その老人──もう一人の祖父、泰川大殿は優しい瞳で笑いかけた。

「まことに良き大団円じゃのう。よくぞ帰ってきたな、大切な我が孫よ。このように誇らしい孫はおまえだけじゃ」

 普佐盛が後を引きとる。

「いやいや、全くその通り。仲宗根豊見親、ミャークの若き和合の王」

「これからは根間も白川も無く」続けるのは大立大殿。

「手に手を取って、ミャークを盛り立て繁栄を」力強く頷くのは父。

 伊嘉利もまた、笑みを浮かべて頷いていた。

 笑顔に取り囲まれて、空広はただ身を固くしていた。

 幾つもののっぺりとした瞳が、見つめていた。

「さあ、何をぼうっとしている? 花嫁殿がお待ちかねだぞ」

 男たちに急き立てられるように、花婿は控えの部屋から押し出される。

 屋敷の広間に続く廊下から、ふと空広は庭を見た。そこには見慣れない大きな広口の壺が置いてあった。そして、水の張られた壺の水面で一組の瞳がこちらを見つめていた。

 口を水平に引き結んだ、丸い真珠色の魚。

 まん丸く黒目がちな、一対の瞳。

 思考に気を取られて、何も無い所で躓いてしまった。伸ばした手が間に合わず、強かに廊下に体を打ち付けそうになる。だが、それを寸前で引き上げた腕があった。

 笑みを含んだ瞳で見下しているのは、伊嘉利だ。いつかの昔に聞いた物語の主人公。心奪われた哀れな男。心を奪ったのは──……伊嘉利の笑みが大きくなる。

「竜宮は素敵な所だっただろう?」 

 囁く声に弾かれたように見つめ返した先で、伊嘉利の笑いが弾けていた。それは、波間で形を結んでは弾ける泡のような笑いだった。


 押し込まれるようにして入った大広間では、高揚した顔がひしめき合っていた。若きミャークの王の婚礼が始まる。豪華な料理と甘い酒の香りが、むせ返りそうなほどに空気を満たしていた。

 見たことも無い顔が幾つもあった。際限のない祝いの挨拶が繰り返され、その中には小さな赤ん坊を抱いた女の姿もあった。

「夫は病で亡くなりましたが」

 花婿の前で俯く女は、腕の中のものを大切そうに見つめる。

「私にはこの子がおります」

 空広は小さな赤子の頭を撫でてやる。恵照の幼い遺児の頭を。兄とは似ていない細い目がじっと空広を見上げていた。

 やがて挨拶の攻勢が潮が引くように終わる。

 群衆が息を詰めて待つのは、ヒララに嫁した新しい花嫁だ。

 しん、とした広間にひそめた息が渦巻いている。その呼吸の不協和音の中で、花婿の耳はその小さな音をとらえていた。花嫁が一歩を進めるたびに、ひとつ、またひとつと天から舞い降りる白い羽の音を。花嫁の足が進むたびに、遠い深みから響いてくる鼓の音を。

 やがて優美な気配が大広間の戸の向こうで立ち止まる。

 引き戸が一気に開かれた。隔てられていた空間の向こうから、うねる無限の海が人の世界に注ぎこんできた。青く透き通った海原が広間を満たし、参列者達の着物を浸し、髪を弄り、一面を水の世界に飲み込んでゆく。 

 全てが水に包まれた世界の中で、花嫁が静かに歩を進めていた。白い鷺のような、可愛らしい小鳥のような、美しく愛らしい花嫁が。

 水で満たされた視界の中で、無数の魚が泳いでいる。小さな魚、大きな魚──その中の一匹が体をうねらせながらゆっくりと宙を横切り、花嫁の顔を隠していた。真珠色をした美しい魚が。

 ぼんやりと透ける魚の体の向こうで、花のような唇が微笑んでいる。空広もまた、ゆっくりと水の中を進んでいた。優雅にゆらめく海藻の茂みをかき分け、顔に触れようとする海月の触手を優しく払いのけながら。

 体を包むのは、いつかのように安らかで温かな水。遥かな天から降り注ぐのは、白い陽の光。溢れる海は真昼の夢が見せた幻なのか、それとも──。 

「また考えている。考えれば全てが分かると思うのは大間違いよ」

 花のような唇が紡ぐのは、深き海の妙なる音色。

「どういうつもりだ?」

 奏でる返事は、穏やかな水面のよう。

「私の持参金は気に入らなかった?」

 水の世界で波打つ豊かな髪を、空広はそっとかき分ける。

 現れたのは、もはや隅から隅まで知り尽くした美しい顔。それは深き海の底で結ばれた、愛しい女の顔。

「……お前は誰だ……」

 甘い唇が咲きほどける。

「私は、宇津免嘉(うつめが)──」

「“絶えることの無き永遠の海、果てることの無き美しき宙”……か」

 女の肩越しに見えるのは、広間を睥睨するように飾られた漆黒の刃。鞘の中で、あの光が嗤ったような気がした。蒼き海を切り裂くように輝く、ぬめる刃の光が。

「宇津免嘉──お前が求める代償は、何だ?」

 花婿と花嫁は、息が掛かるほどに顔を近づける。

「何も。私の望みは、あなたと共に永遠をゆくこと」

 その吐息は、理性をとろかすたおやかな海の薫り。 

「……信じぬ」

 いつの間にか広間の人々は無限の海に洗い流され、代わりに無数の魚たちが二人を取り囲んでいた。魚たちが高らかに歌い上げるのは深き海の祝福の綾語。もう見なくても分かる。ぱくりと開けた魚の口の中で歌っているのは人の顔だ。新たなミャークの王と王妃の誕生を祝う、ひしめき合う婚礼の客たちだ。

 歌声に包まれた広間を、すっぽりと暗い影が覆った。見上げる二人の上に落ちてこようとするのは、海の空高く跳ねた鯖。牙の並んだ巨大な口を開けて、全てを暗い口に飲み込まんとして。

 鯖が囁くのは永遠の睦言だ。


 ──私と共に歩みましょう 絶えることの無い永遠の道を 私の愛しい竜宮の寵児──


 そして全ては、混沌の海で混じり合う。





 第一部・完


 <第二部・11話に続く> 


「竜宮の寵児 -異伝・仲宗根豊見親-」第二部もまだまだ続きますので、引き続き宜しくお願いします!


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