とんでも武田騎馬軍団解釈! ――日本の騎馬武者を復活させる方法
拙作の『軍馬の勉強 ――騎士のランス突撃は可能だったのか?』で――
「日本の武士は馬から降りて戦ったのだ」
と結論付けたところ――
「武田の騎馬軍団は、モンゴル馬だったんだぜ!」
との反論をいただき、作者しばし考察。
うーん……残念ながら、間違いだと思われます。
なによりも物証があるので、戦国時代の軍馬が在来種で小さかったことを回避できません。
でも――
「モンゴル馬って、そんなに強かったの?」
「もしかしてモンゴル馬を、武田が南蛮貿易とかで入手していた可能性も?」
と思い追跡調査。
うん、モンゴル馬も日本在来種と大差ありません。ポニー種でした。
……惜しいなぁ!
ちなみに作者も武田騎馬軍団の成立には頭を捻っていて――
「なんとかして武田だけ、体高148センチ以上の軍馬を揃えていた! つまりはポニーじゃなくて……正真正銘の騎馬軍団だったから強かった!」
と考えたりも。
(ちなみにポニーの定義は『成長しても体高147センチ以下な馬全般』です)
そして日本在来種で体高148センチだと、ほぼ中間種に迫る勢い!
なぜならサラブレットと違い、日本在来種は脚が頑丈だから!
現代のハノーバー種は体高153~170とあるから……ちょっと小さい中間種に相当する?
うーん……軍用中間種の性能を90%で――
最大斤量 108kg
(騎手重量最大68kg+鞍10kg+鎧20kg+槍などの武装10kg)
『襲歩』で45km/h! 『速歩』でも30km/h以上を無理なく?
※ 斤量=馬に乗せる全ての重量
※ 大雑把にいうと『襲歩』=短距離走。『速歩』=中距離走です
馬上効果は148+81-150で79センチ!
これなら「地の利を得たぞ!」もできてます!
※ 平均身長150センチ、座高81センチとして
性能80%で――
最大斤量 96kg
(騎手重量最大56kg+鞍10kg+鎧20kg+槍などの武装10kg)
『襲歩』で40km/h! 『速歩』でも30km/h以上はギリギリ可能?
……鎧20kgは相当に絞っている感じ。
それに体重56kgは、当時の人でも小柄となるはず。
しかし、性能80%で考えても無理とはいえない?
性能90%なら、普通に成立した?
とにかく鎧武者を乗せながら、少なくとも30分ぐらい戦闘機動できそうだから――
これなら武田騎馬軍団ですわ!
そりゃ信長も驚きますって!
「あいつら馬から降りないで戦ってる! あり得ない! なのに強い! さらに何十分も戦い続けられるだと? 武田の騎馬軍団は化け物か!」
となったでしょう!
また、当時の名馬が体高149センチ(鬼鹿毛:武田信虎の愛馬)と記録にも残っています。
決して体高140センチ台は不可能な数字ではありません。
しかし、鬼鹿毛を譲る譲らないが原因で、信虎と信玄は関係を悪くしたそうですから……さすがに軍団を作れるほど集めるのは厳しい?
それに乗って戦う前提だと、人材や武装、戦術と……何から何まで一新する必要もあります。
でも、140センチ台後半の軍馬を所有してれば、花の慶次のような無双も不可能ではない?(苦笑)
……武田家の戦略・戦術を記した軍学書『甲陽軍鑑』に「軍馬からは降りて戦え」とある理由も、分かってしまったかもしれません。
体高140センチ台――少なくとも140センチ台後半の名馬であれば、騎乗したまま戦った方が強いでしょうし、それを期待されたと思います。
でも、それが可能なのは限られた名馬だけ。
そのほとんどは大物武将が所有し、ほぼ最前線へ出てきません。
だから『甲陽軍鑑』は血気盛んな若武者達を戒めたのでしょう。
「お前らの所有している軍馬で、騎乗したまま戦うとか無理だから。夢見てないで降りて戦え」と。
ちなみに軍馬から降りるという戦術は、日本以外でも実施されています。それほど珍しい発想でもないようです。
さらに色々なことにも説明はつきます。
軍馬は重要だったし、品種改良も切実に求められていた。
なぜなら中間種級の名馬は、本当に強かったから。
だから戦国の世が終わってからも、侍たちは軍馬を尊んだ。
「鐙を外す」なんて敬意表現も、実際に騎乗して戦う者がいたから発想できた(後世の創作説あり)
そして武田の騎馬軍団も実在し、戦国時代当初は強かった可能性があります!
でも、この名馬級を軍団レベルで用意する『騎馬軍団ドクトリン』には、重大な欠点もあるようです。
それは――
名馬の補給が非常に困難
なことでしょう!
どんなに大切にしようと戦場へ出せば消耗――死亡することがあります。
しかし、その名馬は領内全体でも、年に僅かしか生産できません!
長く戦っていれば名馬は減る一方。
そして騎乗して戦っていた武田の宿将達も、次第に馬から降りて戦うことを強要されはじめます。
なぜなら補給される軍馬では、騎乗したまま戦えないからです!(もしくはゴリ押しして、敵陣中で軍馬が潰れる大失態を犯した?)
武田勝頼に代替わりしてから色々とあったと聞きますが……これも大きいような?
自分は誇り高い武田騎馬軍団の一員だった。
在りし日は、まさに無双! 愛馬と共に戦場を駆け巡ったものだ。
しかし、いまや自分を栄誉ある武田騎馬軍団とは呼べない。
まるで足軽のように戦場を、泥と血に塗れて這いずっているからだ。
再び名馬と共に戦場を駆けるようなことは、二度とないのだろう。
のような失意があったとか?
ようするに空軍のエースパイロットが、陸軍の最前線へ送られるようなイメージです。
(『長篠の戦い』で武田武将の死に方や死亡位置に、自殺――信玄への殉死――説すらある怪しさを受けて。詳しい人には鼻で笑われそう)
仮に武田領で毎年25頭、体高140センチ超えの名馬を産出できたとします。
馬の耐用年数は20年だそうですから、25×20で1000頭です。
これはMAXの数字ですから、産地そのものを広げない限り増やすことはできません。
この1000頭が中間種の85%も性能を出せれば、相当な脅威となるでしょう!
なぜなら騎乗したまま戦えて、馬上の有利と速度差を存分に押し付けてくるからです!
そして、これを踏まえての武田騎馬軍団一万騎となります!
真実に騎馬兵と呼べるのは1000騎だけ。残りの9000騎は馬に乗って高速移動する歩兵にすぎませんが――
「ぎゃー! 武田の騎馬兵が一万おる!」
と敵方は怖気ついたことでしょう!
……いかにも信玄が好みそうな戦略に思えなくも?
どうやら信長や家康は騙されたようですし。
そして武田以外が『騎馬軍団ドクトリン』をやらなかったのは、できなかったから。
まず産地を押さえなきゃだめだし、その育成にも20年かかります。
とにかく時間が必要なので、信長のように大勢力となるだけでは不十分です。
しかし、消耗に弱かった。
万が一にでも全滅させちゃったら、翌年から総数25騎にまで減少!
そこから大事に育て直しても、年に25騎ずつしか増えていきません!
ありとあらゆる意味で、信玄にとって戦国時代は長引き過ぎたんだろうなぁ……。
そして海外から馬を輸入しなかった理由も?
体高140センチ代後半の馬を、ぽこじゃか産んでくる中間種とか……実は戦国時代だと垂涎の代物だったはず!
(現代のハノーバー種は体高153~170センチ。近代化前だから90%で考えても体高137~153センチ。少し血統や種を厳選すれば、当時でも存在し得る)
戦国大名は、最初の火縄銃2丁に2千両を払いました。
中間種になら、ほぼ同等の値段をつけると思います。
ですが、わりと戦国大名たちは南蛮人と会話してたのに――
「お前の国の馬は、どれくらいの大きさだ?」
「それを日本まで持ってこれるか?」
とならなかった模様。
それは信玄が140センチ台後半を、軍団レベルで用意したように見せかけたから――
「大きいといってもその程度なら、大金を投じるほどではない。どのみち名馬クラスは異国でも高価だろう。それなら木曽から取り寄せた方が早い」
と判断しちゃったのかも?
※
馬は生後6か月程度で乳離れするそうです。
そして生後6か月なら、まだ成人した個体の半分程度だとか。
荷物としても軽く、水や飼料も少なく済みます。
そして仔馬を10頭つれてくるだけで、一万両(現代の価値で10億)は堅いでしょう。
なぜなら10頭の全てが、それまで日本に存在しなかった大きさに育ちます。
これだけでお釣りがくる勢いなのに、繁殖まで可能なんですから。
……買い手と売り手でwin-winできそうなのに、どちらもその事実を認識してなかった典型例?(苦笑)
いや、誰かが試みていた可能性は否定できない?
そして昨今いわれはじめたように「日本の軍馬は小さかったから、降りて戦うのが主流だった」も事実であり続けます。
武田騎馬軍団が事実であり、騎馬武者が活躍するのと同時にです!
また、これからは戦国ものを観るときに――
「映ってないけど下馬して戦ってる奴もいるんだろう。やけに準名馬級が多い気もするけど……まあ、そこはもったのかな」
とでも脳内補正すればよいだけです!
おお、ええやん!
我ながら面白い推論立ったわ。
なんぼなん?
ごめんなさい、これ論拠がないんです。
確たる証拠を上げられない以上、どこまでいっても妄想止まりに……
で、今回はおしまい(苦笑)