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花魔法の詠唱はランダム学習とともに②

「よし、たくさんの花を今ここに集める!」


 すでにマツリは家に帰ってしまった『夜の梟堂』に、ゴローの声が響く。

 ゴローがヨルガオの指導を請け負ってから、火曜日がひとつ、金曜日がひとつ。いよいよ、ヨルガオの花魔法の追試は、明日だ。


「ルスィファルド、グェカヴァウピグ、ピィデ、カィ ヴァールァ!」


 ヨルガオの詠唱にあわせて、花々が一カ所に集まってくる。

 幻想的な光景だった。ヨルガオが花魔法で生み出す花は、月色に光る合弁花なのだ。ヨルガオの銀髪にその花弁が降りかかる様は息を呑むほど。間髪入れず、椅子に座ってふんぞり返ったゴローが、次々に指示を出す。


「おっし、次。一輪、いま手のひらに咲かせる」

「エ ルスィファル、ヤスィィム、カバルァ、ルゥク ピィフ!」


「よし次」


「次は」


「お次!」


 ヨルガオの詠唱は、たまに心許なくなるけれども、当初に比べれば圧倒的によどみなく、滑らかな者となっている。

 あっという間に、部屋は月色の花でいっぱいになった。

「よし。これくらいでいいだろう」

 ゴローが休憩を告げる。

「ふうっ、どうかしら。すこしは上達したかしらね」

 ヨルガオが、言う。

「ああ。これで多少の応用は大丈夫だと思う」

 ゴローは力強く頷いた。


(まあ、本当はあと一週間欲しかったが、スペーシング・エフェクト的な観点からは悪くないトレーニングができたはず)


 しかしゴローは、それを口にすることはない。

 いまのヨルガオに足りないのは、テクニカルな面というよりも、メンタル面での安定であるように思われた。


 自信喪失。


 学習性無力感。


 一定期間、成績不振が続いている生徒、特にプライドの高い人間にとっては最も警戒すべきは、それである。

 数回のレッスンではあるが、最初に『夜の梟堂』にやってきたときのようなツンツンした雰囲気は、ヨルガオからはあまり感じられなくなってきた。強気な少女であることには違いないが、そこにあるのはどちらかというとプライドと言うよりも自信といった類いのものだ。


 壁の鳩時計がパッポーパッポーと鳴る。

「おっと」

「ゴロー、もう帰らなくちゃいけないの?」

 ヨルガオが、少し残念そうな顔をした。

「ああ。これ以上居ると、明日が辛くなるわ」

 そう言って、ゴローはクローゼットの取っ手を引く。

 この鳩時計にあわせて元の世界に帰ると、ちょうど朝の四時になっているのだ。出勤時間は昼の二時。たっぷり八時間寝られる計算だ。

 さあ、帰ろうと。

 クローゼットに足を踏み入れたとき。


「ん?」


 スーツの裾が引っ張られる感覚に、ゴローは振り返る。

「ちょっと」

 ヨルガオだった。

 指先で、控えめにゴローのスーツを掴んでいる。

「なんだ?」

「あのっ、ゴローッ」

 色白の頬に、赤みが差す。

「あ、ありがとう。わたしっ、明日頑張るしっ! もしちゃんと合格したら、報奨金も弾んでやらなくもないわっ」


 ヨルガオの上目遣いに、ゴローは一瞬たじろいだ。

 学習塾ガッツでは、出会ったこともない強い眼差しだった。人生を切り開こうとする者の目だ。

「あー」

 ゴローは、ぽりぽりと頭を掻く。

「ヨルガオ」

 びくっ、とヨルガオの肩が揺れた。

「な、によ」

「ん。報奨金よりも、お前がここまで頑張ったことがまずは嬉しいよ。明日、頑張れよ」

 言うと、ヨルガオの目が大きく見開かれる。

 そのまま、ゴローはクローゼットに飛び込んだ。報奨金、ちゃんとせびらないとまたミネルバに怒られるな、と思った。


 再びクローゼットの扉を開くと、そこは明け方の青白い光に照らされた『子供部屋』であった。しぃん、と静まりかえる夜明け前の空気。

 五郎は手早くスーツを脱ぐと、ベッドにダイブする。

 スプリングに身体が沈み込む。


(あー、さっすがにしんどいわ)


 『夜の梟堂』は、生徒数の減少に悩んでいる。そのため、なにか報酬がもらえるわけでもなければ、なにかキャリアにプラスになるわけでもない。昨年、あの世界に迷い込んでからというもの週二回の慢性的な睡眠不足だ。

 体力的にも、もうあまり長く続けられないような生活だ。しかし、五郎の自尊心を保つためには必要なものであるように感じられた。

 学習塾ガッツは、教育者としての五郎のプライドは日々ずたずたになるけれども、癪なことに経営は上手くいっている。上手くいきすぎているほどだ。

 人生も、教室経営も、随分とままならないものだよな。

 そう思いながら、目を閉じて。

 あっという間に、五郎は眠りに落ちた。


***


「木下先生」

 顔を上げる。

 大河内雪菜だった。

「どうした、もう授業終わりだぞ?」

 いつも、そそくさと帰る彼女が、自分から五郎に声をかけてくるなんていうことは珍しいことだった。学習塾ガッツでは、五郎は目立たないうえに変わり者の塾講師でしかないのだ。

「や、うちの親、めんどくないかなって」

「何言ってんだよ」

 雪菜は、いわゆる女子グループの中心に居るような生徒だ。少し美人で、少し気が強い。少し傍若無人で、少しキョロ充。そんな生徒だ。

 おそらく、母親が五郎へねちっこい相談電話をしているのを後ろで聞いていたのだろう。それを聞いて、我関せずで言われるほどに鈍感な少女ではないようで、五郎は少し感心した。

「べつに、そうじゃないならいいんだけどさ。木下先生の授業、正直、田中先生よりもずっとわかりやすいしさ。なんか、わたしも成績ちゃんと上げてみようかなって」


「うおお、偉いじゃないか」

 言うと、雪菜がにんまりと笑った。

「偉い? うん、知ってた」

 スクールバックを肩に背負って、雪菜は笑う。

 それから、五郎は五分ばかり雪菜と話をした。

 五郎が思っていたよりも、数段明るく、聡い子だった。勉強についても、やる気がないわけではないらしい。暗記が苦手なのがネックだけれども、総じて頭の回転は悪くなさそうだ。おそるおそる五郎が言う。

「実はさ、学校とかで言われている『エビングハウスの忘却曲線』がさ、君らの勉強とは全然関係ない実験だとしたら、どう思う?」

「あ、それ! お説教で聞いたことある」


 『エビングハウスの忘却曲線』。

 おそらく、日本の教育現場で最も有名な心理学用語である。曰く、人間はあることを学習して――


 二十分後には、学習したことの四十二%を忘れてしまう。

 一時間後には五十六%を忘れてしまう。

 一日後には、実に七十四%を忘れてしまう。


 だから、勉強したことの復習は必ず次の日には実行せよ。そんな教師のお説教の前説として人気の学説である。

 しかし。

 エビングハウス氏が行った実験は、『まったく意味を成さない音節を暗記する』というものであったことはあまり知られていない。


「へぇっ、マジで?」

「そう、マジ。意味のあることを勉強しているんだったら、忘却曲線だけを安易に学習に当てはめるのは、安直が過ぎるかなっていうことだ」

 ふーん、と雪菜はキラキラした目を五郎に向けてくる。

「基礎研究としては大いに意義のある知識だけどさ、そのあとにより学習に効果的な実験結果が得られているわけで……」

「脳科学? 学習理論? なにそれ、めっちゃ面白そうじゃん」

 予想外の反応だった。

 いままで、欲しくて欲しくて。

 でも、現実世界ではついぞ得られなかった反応。

「大河内さん、成績上がるよ」

「ほんとにっ?」

 ケラケラと笑う雪菜を見送ると、田中が室長席で大きくため息をついた。今日は取り巻きの生徒たちが来ていない日なので、脂ぎった太い指で不機嫌そうにパソコンを叩いていた。じろりと五郎を睨んで言う。

「あのさぁ、木下先生。あんまり生徒遅く帰らせるの良くないんだよねぇ、ほかの先生たち帰れないじゃん」

 お前が言うな。

「それと、あんまり変なこと吹き込まないでよね。ウチの評判に関わるんだから」

 じゃあ生徒の成績上げてから言えよ、と五郎は思うが、ぐっと飲み込んで「すんません」と頭を下げた。

 講師室で帰り支度を整えていると、同僚から「災難っすね、木下先生。一杯どうです?」と誘いがあったが曖昧な笑みでそれをかわした。

 今日は、火曜日である。


***


 なにやら、騒がしかった。

 クローゼットを出た瞬間に、いままで極めてのどかで穏やかだったルマンド村の空気が、いつもと違うヒリヒリとした空気に満ちていることを、ゴローは感じ取った。

「なに、これ」

「ゴロー!」

「マツリっ? ちょ、近っ」

「いいから、お願い助けてっ!」

 マツリにネクタイを引っ張られて、『夜の梟堂』の二階の一角。大窓に引きずられた。小高い丘に建っている『夜の梟堂』からは、ルマンドの村を一望できるのだ。

「あれっ!」


 マツリが指さす方を見ると、もうもうと煙が立ち上る塔が見えた。

「っ、時計塔が」

 町に出たことがないゴローでも知っている。あの時計塔は、ルマンド村の誇りである立派でひゅっとして格好いい、偉大な魔法使いの作ったものなのだという。

 その時計塔のてっぺんから、もうもうと煙が立ち上っているのである。まだここからは炎は見えていないので小火レベルだろう。しかし、あれは早く手を打たなければ、時間の問題だ。

「やっべえじゃん」

「うん、ゴロー流に言うと、やっべえの」

「あれ、どうしたの」

「子どもがいたずらをしていたみたいで、それで」

 マツリが言いよどむ。

「あれ、あいつは?」

 あいつ、というのはもちろん銀髪の令嬢だ。

 ヨルガオ。

「ヨルガオちゃんが、子どもを助けようとして、あの中に!」

「まっじかよ!」

 さあ、と血の気が引くのが分かった。良い意味でも悪い意味でもプライドの高いヨルガオは、煙に巻かれる子どもを捨て置くことなどできなかったのだろう。

 マツリに案内されて時計塔まで走る。

 この一年間、『夜の梟堂』から外に出ることはなかったゴローにとって、この町の風景は刺激的だったはずだ。色とりどりの髪色の村人たちに、竜に引かれた馬車、角とコウモリの羽がある黒猫が道ばたであくびをしている。

 しかし、その光景を楽しんでいる暇はなかった。

 ヨルガオ。

 無事で居てくれ。

 時計塔の前。

 すでに、黒山の人だかりである。

「くそっ、ヨルガオっ、ヨルガオーッ!」

「っ、ゴローっ?」

 なかば煙に巻かれた時計塔の先端。そこには、小さな男の子と胸に抱いたヨルガオが顔を出していた。このままでは、もう長くは持たない。

「くそ、マツリ、魔法でどうにかならないのか?」

「っ、わたし、今日は学校で実習があって、魔力切れで」

 魔力切れ。マツリはしばらくは魔法が使えない、ということだ。一年間で成り上がってきた、王立魔法学校の次席という腕前を頼れないのは痛かった。

「おい、ヨルガオはその実習とやらを受けていたのか?」

「う、ううん。実習は、上級者コースだけだったから、ヨルガオちゃんは違うはず」

 つまり。

 この場所で頼れる魔法使いは、ヨルガオただひとりということだ。

「ヨルガオっ! ヨルガオー! いいか、落ち着いて俺の言うとおりに――」

 そのとき。

 ごうっ、と時計塔から炎が上がる。

「きゃあぁあっ」

 ヨルガオの悲鳴が響いた。腕の中の子どもも、ぎゃあぎゃあと泣きわめいている。

 この分では、ゴローの声はまったく聞こえはしないだろう。

「くそっ、大人は何してるんだ」

 五郎の声は野次馬に聞こえてしまったらしく、がたいのいい男が言い返してくる。

「あんな高いハシゴないんだよ。それに、あの煙じゃあもう時計台に上れない……こういうときの魔法使いのはずじゃねぇのかよ、『夜の梟』は一体どうしちまったんだ!」

 男の声は、悲痛だった。

「あー、くっそぉ!」

「ご、ゴローっ?」


 気づいたときには、身体が動いていた。

 行き場をなくして地面に置かれていたバケツを引ったくると、ざばりざばりと頭から水をかぶっていく。ああ、先週買ったばかりのスーツだってぇのに。時計塔の入り口のドアを蹴破った。

 時計塔の中は、機械仕掛けの地獄のようだった。大きな歯車がいくつもかみ合って回っている音と、もうもうと立ちこめる煙。火元はどうやら上の方なので、今すぐに大炎上することはないだろう。火種が落ちてくる前に、どうにかしなくては。

 ゴローは、迷わず階段を駆け上る。

 こういう時計塔には、小さな窓がいくつか開いているはずだ。昔、大泥棒が小国のお姫様のとんでもないものを盗んでいくアニメ映画で見たことがあるぞ。

「あった!」

 壁に沿った螺旋階段を百段以上は登って、息が切れてきたところで、やっと小窓にぶち当たった。顔を出すと、十五メートルばかり上に、ヨルガオが子どもを抱いて身を乗り出していた。ビンゴ!

「ヨルガオーッ!」

「え、ご、ゴローっ? あんた、なんでそんなとこに」

「いいからっ、今から俺の言うとおりにしろっ」

 声の限りに叫ぶ。

 熱い煙が喉にまとわりついてきた。ヨルガオが抱いている子どもは、すでにぐったりとしている。まずい。ヨルガオ自信も、薔薇のような目を真っ赤に腫らしている。息も上がっているように見受けられた。パニック寸前だ。

 ゴローは、できるかぎりゆっくりと、『夜の梟堂』で指導していたような調子で、現状とりうる最善手を語りかける。


「っはぁ!? 冗談でしょ」

「冗談じゃない」

「バカじゃないの? それだったら、風魔法で飛翔したほうがマシよ!」

「その、風魔法ってぇのは、お前が使い慣れたもんか?」

「ぅっ」

「繰り返し練習したもんか? 自信のある魔法なのか? 答えろ、ヨルガオっ!」

「……ちがう」

「じゃあ、今のお前ができる最善の魔法を考えろよっ、花魔法詠唱の再試、どうだったんだ?」

 ヨルガオは、ゴローの質問に苦笑した。

 なんて、この場所にそぐわしくない。

「合格した」

「おっしゃあっ、やるじゃねえか、おめでとうひゃっほーっだああぁあ!?」

「ちょっ、本当にバカじゃないの?」

 子どものように喜んで、はしゃぐあまりに窓から落下しそうになるゴローに、ヨルガオは今度こそ、へらへらと笑った。


(よし、あとはあいつを信じるだけだ……)


 なるべく、平時と同じ心理状態を作り出す。

 なるべく、普段と同じ脳波の状態に近づける。


 それが、絶対に失敗できない本番における鉄則だ。

 一流のアスリートたちは、脳波測定器を使って自分の右派のコントロールを学ぶというのはスポーツ科学の分野では当たり前のことになりつつある。しかし、一般的な学習。特殊な計器など使えない中でも、できることはある。


 周囲の環境を、練習と同じにそろえること。

 同じ声、同じ匂い、同じ音。

 それを、練習時と本番時になるべく揃えることでパフォーマンスは向上する。そう裏付けるデータが存在しているのだ。

 

 ヨルガオの詠唱練習は、誰とやっていた? 誰の声で指示が出されていた?

 そう、ゴローが身を挺してやってきたのは。

 たった、それだけのためである。


「うげっほ、げほげほっ」

 塔の中の気温が上がってきた。火の周りが思ったよりも速い。

「ゴロー、大丈夫っ!?」

「ああ、大丈夫だ」

 ひゅう、と喉が鳴る。煙を吸い込んでしまったようだった。少し肺に入った、というやつだ。ならば、姫姉様ことゴローにできることはただひとつ。

 サムズアップ。

 十五メートル上空の銀髪の生徒に、にっこりと微笑んだ。

「いくぜ」

 俺の合図で飛べ、というとヨルガオは腕の中の子どもを抱いて、こくりと頷いた。

「いち」

「にの」

 さん!


 ヨルガオの銀髪と、王立魔法学校の制服、夜色のローブが中空に舞う。

 きゃああぁあっ、と地上のギャラリーから悲鳴が上がった。

 しかし。


「沢山の花っ! 沢山、集める! あそこに!」


 落下していくヨルガオに、ゴローは力の限り叫んだ。


「ルスィファルド、ヴァエキュ オゥク、グェカヴァウピグ カヴァルァ!」


 その声に応えるような、滑らかな、非の打ち所のない詠唱だった。窓の前を落ちていく瞬間、ヨルガオと目が合う。

 「……まじかよ、あいつ」、ゴローは思わずつぶやいた。

 ヨルガオは、笑っていたのだ。


 刹那。

 花、花、花花花花、花!


 中空に、月色に輝く合弁花が大量に出現した。

 花はまるで鉛のように一気に地上に落ちていくと、ヨルガオの落下地点に吸い込まれるように集まっていく。山のように、夢のように。

 着地。


 ぼふぅっ!

 

 ヨルガオの身体が、花の山に吸い込まれる。落下の衝撃に、大量の花が舞い上がった。ギャラリーたちは悲鳴も忘れて、花の山に釘付けになる。


「……っぷは!」


 ヨルガオが、顔を出した。

 とたんに、野次馬たちから割れんばかりの完成が上がる。拍手、拍手、拍手!

「坊やをすぐに医者につれていけ!」

「さすが王立魔法学校の生徒さんだ。ああ、助かった、助かった!」

「ん、あなた、どこかで見た顔なような」

 口々に、好き勝手なことを言い始めるギャラリーたち。

 しかし。


「さて、と」

 ゴローは、ゆっくりと時計塔の中を振り返る。

 鐘楼部分は、火の海だ。内部に居るゴローに、火の粉が、焼け落ちた梁が、襲いかかってくる。

「くそおお、死んでたまるか、死んでたまるかっ」

 必死に階段を駆け下りるが、そこら中に燃えかすが落ち、まだ燻っていたり燃えさかっていたりするそれらを避けるので手間取ってしまう。

 ばきっ。

 頭上で、音がした。

「うあ、やっべ」

 ゴローは、凍り付く。

 バキッ、バキバキバキバキ。

 いよいよ焼け落ちた鐘楼が、崩壊しようとしていた。

 あの量の木材が、しかも炎を孕みながら落ちてくれば、ひとたまりもない。


(あー、俺。死ぬんだ)


 スローモーションで落ちてくる炎の塊を見上げながら、ゴローは思った。

 マツリもヨルガオも、俺がこんな死に方したら絶対気にするよなぁ。

 雪菜にも、学習理論教えられなかったな。 

 異世界で死んだら、いったいどの天国にいくんだろ。


 ああ。


「あーっはっは、まったく。けったい。実にけったい!」


 しかし、いつまでたっても灼熱の炎は落ちてこず、代わりに真っ黒な高笑いが響いた。途端に巻き起こる凄まじい風に、ゴローは叫んだ。

「なっ、なんだこれっ」

「なんだこれぇっ? 決まっているでしょうっ」

 あっはっは、と。笑う声は、どこまでも漆黒。

 ゴローは、この声に嫌と言うほどに聞き覚えがあった。どこまでも性悪で、どこまでも腹黒で、そして、どこまでも強大な魔法使い。

「フゥプズッ!」

 一節詠唱。

 その瞬間に、がれきは吹っ飛び、火は消え失せた。

「そう、ルマンド村の大魔法使い!」

 とんがり帽子に、空飛ぶ箒。その出で立ちは、この世界では一流魔法使いの証左である。

「……おっせぇよ、ミネルバ」

 彼女こそ、ルマンド村の大魔法使い。

 『夜の梟堂』の塾長。宵闇のミネルバであった。


***


「はー、塾講師やってて死ぬ思いするなんてな」

 やんややんやの大騒ぎになった村からほうほうの体で引き上げてきた『夜の梟堂』のティールーム。ゴローは盛大にため息をついた。ミネルバが煎れる薬草茶を飲むと、とたんに喉の火傷が癒えてくるのが、唯一の救いだった。


「っていうか、マツリも俺呼んでどうしようってつもりだったんだ?」

「ゴローだったら助けてくれるって思ったから」

「いやいやいや、俺はほんっとにただの塾講師なんだって! 魔法とか仕えないの、分かる?」

 ゴローは、決してこのような事件の二度目がないようにと心から祈る。

「……何で黙ってたのよ」

 そのとき、ずっと黙りこくっていたヨルガオが口を開いた。

「ん? なにが」

「なにがって、塾長先生様のことよ!」

「へっ、なんだよその塾長先生様って」

「ふむ、それは私のことだろう」

「ミネルバは黙ってろ」

 ヨルガオの顔がこわばる。


「み、ミネルバ様になんてことを!」

「なに、こいつそんなに偉いの?」

 へらへら、とミネルバを指さすゴローに、ヨルガオが激高した。

「宵闇のミネルバ様よっ? この国の最高峰の魔法使い四人のうちの一角よ?」

「……まじ?」

 ゴローは、硬直した。え、そんなにすごい人でしたか?

「まあ、ヨルガオとやら。そんなに怒らんでやってくれ。こいつは、私のことを片田舎で魔法塾をやっているものの大して生徒も集められずに出稼ぎに出ているしがない魔法使い、くらいに思っているんだ」

「はい、片田舎で魔法塾をやっているものの大して生徒も集められずに出稼ぎに出ているしがない魔法使いだと思っていました……」

 ゴローが言うと、ミネルバはカッカッカと笑った。

「いやあ、異邦人とやらはこれだから面白いっ! 雇ったかいがあるというものだ」

「ゴロー、本当に知らなかったんだね……」

 冷や汗を流すゴローに、マツリまでも苦笑いをする。

「なかなか初心者相手に教える、というのには私は向いていないからな。一時期わっと流行ったこの『夜の梟堂』もあっというまに経営難さ。それでこいつを雇ってみたけれど、正解だったなぁ」

 ニコニコと笑っているミネルバの腹黒さに戦慄しつつ、ゴローは薬草茶をすすった。


 パッポーパッポーと鳩が鳴く。


「……じゃあ、俺はこのへんで」

 失意のうちにクローゼットへ向かう背中に、ヨルガオが声をかけた。

「ご、ゴロー」

「あ?」

「わたし、これから毎週『夜の梟堂』に来るから!」

「はぁ。でも、お前もう再試終わったんだろ? もともと、それまでの契約のはず……」

「決めたの!」

 ヨルガオが、きっぱりと言う。

「最初の試験、正直に言うと0点だった。それが、再試験は、十点満点中七点よ」

「うん、すごかったねぇ、ヨルガオちゃん。再試を受けた中でトップだもん」

「ああ、先ほどの花魔法もなかなかのものだった。筋が良いかもしれんな」

「たぶん、いままでで、一番良かったかもしれない。それに、領主として領地の子どもの命を救えたのも、ゴローのおかげだわ。あんたの教え方、気に入ったの」

 ありがとう。

 そう言って、ヨルガオは勢いよく頭を下げた。

「ゴロー先生、これからも、お願いします!」

「あー、まあ、そこまで言うなら」

 きぃっ、とクローゼットの扉を開ける。

「おし、ヨルガオ。来週からも頑張ろう。ただし! 先生っていうのはナシだ」

 そう言って、ゴローはクローゼットの中に消える。

 ありがとう。

 また、ヨルガオの言葉が響いた。

 そう。身体的にもしんどい。夜はぐっすり寝たい。しかし、ゴローがこうして『夜の梟堂』にやってくる理由は、たったひとつ。成績が上がった生徒の、快心の、満面の笑顔が見たいのだ。


 顔を上げたヨルガオが、マツリと顔を見合わせて魔法のように、花のように笑いあう。「懐かしいねぇ、こういう時代」と、ミネルバがニヨニヨと笑って薬草茶をすすった。


 『夜の梟堂』に、束の間の静寂が訪れる――


「――って!」

 バタン、とクローゼットが開いた。

「ヨルガオ、お前いま、領主って言わなかったか、領主って!」

 自室のベッドですやぁと眠りに落ちようとしたところからの、リターンである。ゴローの息は上がっていた。

 ミネルバがゲラゲラ笑っている。

「ほんとに知らないのね……」

 ヨルガオは、はぁっとため息をつく。

「いかにも、わたしはこのブルボン公国の領主ツチミカド家の長女にして、次期領主。ヨルガオよ」

 ツチミカド家。

 のちにマツリから聞くことになるが、大魔法使いの家系として名高い名家である。

「ま、まじかよぉおおぉっ!」

 次期領主の教育。不意にのしかかった重大任務に、ゴローの絶叫が響き、ルマンドの漆黒のケタケタ笑いがそれに和声をくわえるのであった。


 平和で暢気なルマンド村。その村のはずれに建つ古びた建物はこの村で唯一の魔法塾は、『夜の梟堂』。

 そこには、異世界から、ひとりの男が火の日と金の日に講師としてやってくる。彼は自ら魔法を使うことは出来ないけれど、彼が『夜の梟堂』から送り出した生徒たちは、のちにその時代を代表する魔法使いとなってゆく。


 奇跡の魔法塾『夜の梟堂』。


 そのように名前が知られるのは、これからずっと後の話である。

 


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