火曜日金曜日は、飲み会パスします!
これは完全に趣味なのでのんびり更新です
町外れ。ひっそりと佇む古びた家屋――『夜の梟堂』。
魔女ミネルバが営む、このルマンド村にある唯一の魔法塾である。その二階の実技演習室に、凜とした声が響いた。
「いきますっ、カーヴァ・フゥプズ(風よ)!」
簡易な風魔法だ。声の主である少女のつけている腕輪が光り、彼女を中心に空気が渦を巻く。窓を閉め切っているはずなのに、室内には爽やかな風が巡っている。
「よっし、いいぞマツリ!」
それを部屋の隅で見ていた男は、弾んだ声を上げる。ひょろりとした風采に、やや長く伸びた襟足を無造作に結んでいる。若くはないが、年寄りでもない。微妙な頃合いの年齢である。
「はいっ、ありがとうございます。ゴロー!」
マツリと呼ばれた少女が笑う。先ほど風魔法を行使していたときには大人びて見えた顔が年相応に輝いた。年の頃は十四歳かそこらだろうか。栗色の長い髪が、いまだに緩く吹いている風になびいている。
「おう! 頑張ったな、マツリ」
ゴローと呼ばれた男がカッカッと笑った。
よく見ると、マツリが床に届くほどに裾の長いゆったりとしたローブを着ている野に対して、ゴローはワイシャツに黒いズボン、つま先のとんがった革靴という出で立ちだ。男女の装いの差というには、随分とちぐはぐである。
「はい、週末の復習試験では、どうにか赤点補習にならないといいんですけれど」
「マツリなら大丈夫だ、俺たち、出来ることは全部やっただろ?」
「……はいっ!」
ゴローが言うと、マツリは力強く頷いた。
そのとき、壁に掛かっている時計が、パッポーパッポーと鳴きだした。鳩時計の形をしているが、小窓から飛び出してきているのは小さな梟だ。
「うおっ、やべ!」
ゴローが声を上げる。
「あ、ゴロー、もう時間ですか?」
「ああ、悪いな。ミネルバにもよろしく言っといてくれ」
ゴローは手近な椅子に駆けてあったジャケットを拾い上げて、帰り支度をはじめる。そして、実技演習室の片隅に置いてある、古びた両開きのクローゼットにかつかつと歩みを進めた。
春のうららかな陽気である。クローゼットにコートでも?
事情を知らぬものが見れば完全な奇行であるが、マツリは何の疑問もない顔で、ヒラヒラと手を振っている。
あ、と。思い出したようにゴローがクローゼットに手をかけたまま、振り返る。
「マツリ、最初におさらいした花魔法、やってみ」
にやり、と笑う。
不意打ちの要求に、マツリは一種ギクリと硬直した。
マツリは、村から歩いていける場所にある国立魔法学校に通っている。マツリが生まれた年に村で生まれた赤ん坊のなかで、魔法適正のある少女はマツリだけだった。入学許可の出る年頃になると、賢者と呼ばれる魔法使いを夢見て意気揚々と王都にある王立魔法学校に入学をしたものの――現実は甘くなかった。
代々魔法使いの家に生まれたエリートたち、立身出世にとりつかれた親によって英才教育を受けてきた同級生、それに何より辛いのが、マツリと同じく一般家庭から入学してきたにも関わらず成績上位を易々と取ってしまう人間が存在しているという事実だった。……このままでは、留年からの退学。
入学二年目にして、そこまで追い込まれたマツリは、こうして村に唯一の魔法塾で補習を受けることになったのだ。家に余計な金を使わせてしまった、という負い目から必死に勉学と実技に明け暮れていたものの、なかなか結果は出なかった。
しかし。
マツリは、目を閉じると、ふぅっと大きく深呼吸をして体内の魔力循環を整える。
「いきますっ!」
目を見開いて、両手を天井にむけて掲げる。
「……ルスィファルド、グェカヴァウピグ、ピィデ、カィ ヴァールァ(花々よ 集え いま ここに)!」
複雑な詠唱である。
マツリの声に応えて、空中から光り輝きながら花や花びらが出現して、マツリとゴローのあいだに降り注ぐ。
「……っ、できたっ」
「よーし、上出来。さすがだな、マツリ!」
ゴローはにんまりと笑って、クローゼットの中に飛び込んだ。
完全な奇行――ではない。
「あーあ、ゴロー先生、行っちゃった」
次に会えるのは、炎の日か……そう言いながら、マツリはクローゼットの扉を閉める。クローゼットの中には、古ぼけたトンガリ帽子がひとつ入っているだけだった。
***
「あのぉ。先っ生、この間のテストの結果見ましたぁ~?」
ねっとりと絡みつくような声に、「もちろんですよ、僕もビックリしました!」テストの結果が、良かろうが悪かろうがどちらにもとらえられるニュートラルな声で言いながら、木下五郎は素早くパソコンを操作する。
「っんも、私もびぃ~~っくりしちゃってぇ」
電話の相手は、大河内雪菜、の、母親である。
学習塾ガッツ。
しがない塾講師(非正規雇用オブ非正規雇用)である木下五郎の勤務先だ。『やる気のアップの少人数学習!』を謳っているため、著しいやる気のなさを遺憾なく発揮している生徒やそもそもの生活態度になかなかの問題がある生徒たちと、それを自分の子育ての失敗だという結論には絶対にしたくない保護者が通ってきている。
パソコンの画面が、大河内雪菜の成績を表示した。
国語 32点
算数 21点
ちなみに、150点満点である。急いで問題別の正答率と照合した。
「んー、お母さん。僕としても非っ常に悔しいです」
声のトーンを『テスト結果は悪かったモード』に切り替えて、五郎は言葉を続ける。
「ただ、実は僕も昨日の段階で雪菜さんの成績の分析をしていたんですけど」
していない。いま見た。
「正答率が八割を超えるような基礎問題。それについては、前回よりも二つか三つは多くとれているんですよ」
「えぇ~? そうなんです?」
雪菜母の声色が、少し軽くなる。いけるぞ。
「はい、僕としても雪菜さんの成長は感じているところです。悪いところばかりに目を向けてしまうと、ご本人のやる気にも差し障りますし……もしかしてですけど、結構、怒っちゃいましたか?」
必殺もしかして。
ありがちなそれっぽいことを言って、「え、先生なんでウチの事情がわかるんですか?」と一気に心を開かせる、しがない塾講師の必携スキルである。
これ、スカしてしまうと逆効果だが、それは滅多にない。
もしかして……。
「怒鳴ったりしちゃったんですか?」
「家だとケンカになったりとか?」
「テストで出来なかった問題も、家に持ち帰ってやらせるとマルだったり?」
そう。
どの家もどの子どもも、それなりに似通った「お悩み」を持っていて、子育てまっただ中の親はそれを「ウチだけの大問題」だと思って深刻になっているものなのである。
「そうなんですよ! ダメだな、と思っているのに、私ったらぁ」
雪菜母も、案の定乗ってきた。
学習塾ガッツに電話をしてくる保護者の中で、勉強のアドバイスを本気で受けたいと思っている人間というのは正直少ない。子どもとの関係の不安であったりとか、子ども本人には言えないちょっとした懺悔だとか。見栄や人間関係もあってママ友には言うことの出来ない、そういった愚痴の捌け口を探しているのだ。
「ええ、はい、ええ。こちらとしても、精一杯やらせていただきますので。はいっ、また、今後ともどうぞ、はい、よろしくお願いいたします。はいっ、はいっ、失礼いたします。はーい……」
通話が切れたのを確認してから、そっと受話器を置く。
ディスプレイに表示された通話時間、三〇分四五秒。
……五郎の勤務時間六時間の十二分の一、である。こう言った電話が多い日には三件以上で、一時間半。受け持ちの授業で四時間、授業の準備と片付けで一時間……はい、すでに勤務時間オーバーでございます。
この他にも、本部から指示されてくる授業計画やら営業計画やらの作成と提出が待っているわけだ。もちろん、非正規雇用者に残業代など支払われない。申し訳程度の、顧客対応手当なるものが出るだけだ。月額で九百九十円って。やってられんわ。
はぁ、っと海より深いため息を吐く。
隣でキーボードをバチバチ叩いていた校舎長の田中が睨んでくる。
「あのねぇ、木下先生。これ見よがしにため息つくのやめてもらって良いですかね。生徒が聞いたらどうするんです」
や、まだ二時っすよ。生徒来てないじゃないすか……とは言えずに、「すんません」と頭を下げる。担当する授業のコマ数によって収入が変わってくる五郎のような非正規講師にとっては校舎長に目をつけられるのは生活に関わる事態なのだ。
「まあ、成績伸びてないからねぇ~。教え方の問題か分からないですが、ちょっとマズいよねぇ」
校舎長が追い打ちをかけてくる。
雪菜は、現状は五郎の受け持ちの生徒だが、数週間前までは田中が指導していたはずだ。それを、まるで五郎の責任であるかのように。
「あんなに、上から押さえつけるようなご指導では、やる気もなくなりますよね」
ぼそり、と五郎が言うと、田中がギョロギョロとした目で睨み付けてくる。逃げるように講師室に向かった。
本当であれば、必殺もしかして、なんていう心理術を悪用した不義理な真似はしたくないのだ。しかし、田中がそれを許してくれない。
田中は、生徒の成績不振ややる気のなさをヒステリックに怒鳴りつけ、それを「愛の鞭」と言い張る男だ。そして、保護者の方も「厳しく指導してくれる熱血先生!」と言って田中をチヤホヤする。バカな、あいつは女子生徒がブラジャーをつけはじめたかどうかを見極めるのに心血を注いでいる以外なにもしていない。
五郎の専門は、国語でも算数でも英語でもない。
学習理論と脳科学だった。
人間の学習、というものを科学的にとらえて、最大公約数的な、というか最小公倍数的な効率の良い学習方法を導き出す。アメリカでは、教育や学習というのは科学的な仮説推論そして実験に基づいて行われるものだ。
それが、いまの日本の教育現場では――「俺が若い頃はこうやって勉強した!」という何の根拠もない持論、「隣の○○ちゃんは、夜の十二時まで勉強しているのに、うちの子ったら!」という見栄、「とにかく沢山書くんだ! 沢山時間を使うんだ、習い事? 寝言は寝てから言え!」なんていう努力をしたという形だけを追求する努力教……そう言ったものばっかりだ。
たまに五郎が「脳科学的な見地から言うと」と学習アドバイスをすると、まるで胡散臭い詐欺師のように保護者や同僚たちから扱われる。たとえそれがデューク大学とワシントン大学の共同研究による正式な論文からの引用であっても、多くの人間が田中のクソみたいな経験則のほうをありがたがるのだ。実際に成績が上がって、ホームページを華々しく飾る実績を作っているのは五郎の生徒たちが大半なのに。
俺を信じてくれさえすればもっと成績を上げることができるのに――そんな気持ちを抱いて、五郎は毎日、やらされ業務に明け暮れる。
淡々と仕事と授業をこなして、終業時間を迎える。
田中とべちゃくちゃと喋っている女子中学生たちを横目に、コーヒーを飲んだ。
(早く帰ってくれねぇかな……)
講師室にいる同僚たちも、同じ表情をしている。
生徒が全員帰宅するまで、講師は帰ってはいけないルールになっているのだ。田中がお気に入りの生徒を遅くまで残せば、その分講師たちの帰宅は遅くなる。もちろんその待機時間に対して、時給は出ない。
「どうです、木下先生。このあと」
はげ頭の同僚、鈴木が親指と人差し指をCの字にしてクィックィッと口に近づける。飲み会の誘いだ。
五郎は、すいませんです、と頭を下げる。
今日は、いかなる理由があり、いかなる美女からの誘いであっても飲み会には行けないのだ。ましてや、はげ頭の四十代と飲みに行く時間などない。
帰宅後のことを考えて、五郎はニヤリと笑った。
そう、今日は火曜日。
魔女ミネルバの運営する魔法塾『夜の梟堂』の講師として、出講する日なのだ。