ままならない事
今まで自分には生まれつきハンディキャップというものがございました。ですが、私からすると、その、彼女の言っていた、所謂『ハンデ』とは思ったことがございませんでした。それも当然と言えます、だって、当たり前なのですから。
てのひらさえ見えない暗闇のなか、いつも思っておりました。他のお人には、自分の姿がどう映っていて、どういう世界で、果してどんな『色』というものを持っているのかと。それらは、さながら、空というものに意味を見出だすように、答えは無く、それを考えるのが馬鹿らしい、とにかく、無意味でした。
はて、一人の少女と出会ったのは、いつ頃でしたか、爽やかであったり、優しい、包み込んでくれる香りがし、されど鼻がムズムズする日でしたか、蝉という虫がここで生きているぞ、とばかりに自己主張激しく叫んでいる日でしたか、はたまた、美味しいものが多く、ついつい食べすぎてしまう日でしたか、かと思えば肌を突き刺すような日でしたか……、そうでした、あれは特になにもない、涼しい日でした。いつも通り暗闇のなか意気揚々と杖をついて歩いていたら、軽い衝撃に一瞬遅れて聞こえた、可愛らしい小さな悲鳴と、ふわりと女性特有の甘い香りがしたのです。瞬間的に謝罪しつつ、私はなんとか倒れまいと、足と腰に力を入れて、踏ん張りました。ところが、彼女は尻餅をついてしまったらしく、「いったぁ……」と罪悪感をふつふつと沸かせるような言葉を発しました。
私は慣れたように謝罪し、手を差しのべると、小さく、細い手が乗ったもので、私は弱く掴んで引き起こしました。「ごめん、どこか怪我はないか?」と聞くと、少し手を擦りむいたようでした。これはいけない、と思い、罪悪感のままに「消毒をするからおいで」なんて言ってしまうと、その子はこう怒りました。「軟派な人。もしかしてハントですか? 消毒とか構わないですから。では」静かな怒りの声に、「『ハント』ってなんだい?」と聞いてしまうも(よく考えてみれば、返事としてはあまりにもお粗末でした)声はやって来ません。不思議にも、気づけばその子はいなかったのです。
残ったのはその子の残り香と手の感触、おまけにハントという言葉への追求心。ついでに言うと、これが私と彼女の出会いでした。
この頃、自分には唯一の友達がいました。
「ハントってなんだい?」
すると、彼女は、暫し沈黙して「知らないかなぁ」と応えたのです。二度目になりますが、自分の友達は彼女しかいません。幻想郷という、この世界を記すらしい彼女が知らないのだから、とうとう手立てはなかったのです。
「どうしたの? 急にそんな言葉」と聞くものですから、私は先日の事を嬉々として語りました。
「それは怒るでしょ。それよりまた抜け出したの? 気を付けてよ、外は危ないんだから」
なんて注意されたものの、自分にとっては、『子供の探検』をするような行動でしたので、何度言われても止める事は、出来ませんでした。
「うん。でもここは退屈他ないんだ」
「わかるけど」
いつも薬品というものの、鼻をつんざく臭いと、消毒の、言い様のない匂いが堪らなくなって、逃げ出す事も冒険の理由の一つになりますが、そうして、やっぱり、彼女に注意されるのです。
彼女は阿求、姓は稗田と申しておりました。稗田は昔から病弱なものでしたから、よく“ここ”に来ておりまして、自分が幼い頃、ここを探検していると、話しかけてきた方なのです。その際、話が合い、帰った後も三日に一度くらいは、来てくれるのです。全然、稗田には頭が上がらない思いでもあります。
稗田が帰ると、寂しさが無数の手になり、追ってきて、自分は、結局のところ、また外に出るのでした。
あそこでは無い経験が、外ではおおいにあります。
例えば、風。
例えば、土を踏み締める。
例えば、喧騒。
例えば、匂い。
どれもが毎日違うようで、それだけでも気持ちは浮き、そうなると、足取りも軽くなり、そして転けてしまうのです。
ですが、この日はさらに良いことがありました。
「大丈夫ですか?」
そうです、再会できました。
「大丈夫。ん? 君は」
「この前はごめんなさい」
あの時の甘い香りが鼻をくすぐりました。少女は、頭を下げたのでしょう。勿論、自分は怒っておらず、何故謝られたのかさえ、理解が追い付きませんでした。
「なんで謝るんだ?」
「せっかくの善意を……、私はハントなんて勘違いを」
「いや、全然気にしてないけど、そのハントとはなんだい? あの日から妙に気になってね」
「そうね、良ければ、団子屋で話さないかしら」と提案され、自分はその時、新たな予感に興奮していた事を、よく覚えています。
お茶しか頼まない自分に、少女は怪訝な声で聞きました。
「お金がないんだよ」
「なら、お詫びとして出すわよ」
丁重にお断りしました。女性に出させる男は最悪だと阿求から聞いたのです。
それに、貧困というよりかは、裕福なのかもしれません、裕福というよりかは、貧乏なのでしょう。収入はないので、殆どお小遣いとして渡され、それらは、団子を一つ頼むと尽きてしまうほどの銭で、無論、それに対して不満を覚えた事は、一度たりとて、ございません。当時は、なにかを成すことも出来ません自分でしたから、粥とお漬け物を頂けるだけで、満足なのでした。
「ハントって言葉の意味は、えっとね、確か軟派な男で、すぐ女を遊びに付き合わせようとする男って意味になるかしら?」
もやもやが晴れました。お茶のように胸が暖かく、心地よいものでした。
それからは、暫く彼女と談笑しておりまして、とうとう、彼女はお帰りになりました。店主に時間を教えてもらうと、日暮れ時でしたもので、そろそろ、帰ろうと銭を支払い、心に熱をもったまま、“あそこ”に戻ったのです。
ただ、懐は寒くなりましたが。
何度か彼女に会うと、態態向こうから声をかけてくれたのが、自分は何故か嬉しく思えて来る。(同じように、阿求が外で声をかけてくれても、ここまで胸は弾まないのに、何故かしら、とこの頃は不思議でした。しかし、毎日会う度に、それは運命であるかの如く、必然のように心を奪われていきました)
「貴方とはいつもここで会うわね。どこにお住まいなの?」
純粋な質問は、私を困らせました。
「えっと、あそこだよ」
指を座した場所に、彼女は心底驚いた声色で、「まぁ、ご立派ですこと」
なんて笑いあって、また言葉を交わせることを心待ちにするのです。
日に日に増していく心の熱は、茹だるような暑さを伴うようで、それらは、乾杯の声がそこかしこで聞こえるようになっても、変わりません。寧ろ、今の季節のように、まだまだ温度は上昇していきました。一時間程度では到底足り得ません。一生を共にしたいと。
なのに、願ってはいけないことだったのか。熱をもったまま、彼女の手は呆気なく私のてのひらからこぼれ、感触を無くしては遠くへ行きました。人生最大の鼓動と一緒に吐き出した彼女への想いは、恐らく彼女へ届かなかったのでしょう。
数分にも感ぜられる長い沈黙は、謝罪の言葉で破られました。「私には誰かに恋をすることは出来ないの。少し、距離をとりましょう? そうすれば、秋から冬へとうつりかわるように、貴方の想いも徐徐にさめていく……と思うわ」
初めて心が砕かれた思いを経験しました。あの後の事は記憶にございません。
こうして、私の一世一代目の大勝負は幕を閉じたのです。
「いつまで引きこもってるのよ? 情けない」
様子がおかしい私を心配してくれた稗田が酷評をぶつけてきました。砕かれた心の欠片を踏み抜いていくようで、聞いていて心地よいものでは、到底ありません。そうして、私はとうとう口にしてしまったのです。
「稗田になにがわかる、私は彼女を心の底から愛している。彼女はさめるといったが、そんな様子は全然無いじゃないか」
「だったら何回でも気持ちをぶつけなさい。いくら怒られても外に出るような奴の言葉とは思えない」
などと一時間に及ぶ激昂と激励をいただきました。やはり彼女には頭が上がらない思いと、とどまるところをしらない想いがいりまじり、矢も盾もたまりませんでした。その瞬間に杖を手に窓から走り出たのです。
想い人は探しても現れません。名前もしらない彼女を、私はどう呼んでいたのか忘れてしまい、宛もなく歩いては「おーい、お前」と彼女を呼びました。
「なんだ?」耳にした声は落ち着いた、凛とした彼女の声ではあらず、幾分か幼さの中に活発さを滲み出すような声でした。期待をした私は思わずがっくしと肩を落とし、事情を話すのです。すると少女はあらんことか、笑いだし、次には、「幸運だな」と腕を叩いてきたのです。「私はそいつを知ってるぜ。なんせ友達だからな」
この時、私には希望の光が見えました。感謝でいっぱいの気持ちを抑えると、話は進み、彼女を連れて来てくれるらしく、私は帰路を辿ってあの日の鼓動を思い出し、正座をしていました。
木の扉が開くと、甘い香りと共に彼女の声がやってきます。「正座してどうしたのかしら? 貴方いつの間に魔理沙と知り合いに? うちに来てまたお茶でも飲みに来たと思ったらついてこいって言うし、着いたらついたで黙りこむし……」
はたと気付く。あの少女が魔理沙で、その魔理沙が、彼女のいつも言う、悩みの種だと言うことが。そして私は思う。なんて偶然なんだろう、と。
「お前が好きだ。季節が変わればさめるといったが、私はどんどん想いが溢れるばかりで、お前の事しか考えられない。どうか側にいてほしい」
「あの……ね? 私にはお付き合い出来るような」彼女の困惑を、魔理沙が霧払いするように、こう遮りました。「お前自身はどう思ってんだよ。そいつは真剣に心を見せてんだ。御託より、お前の心も見せるべきじゃないか? 好きか、嫌いか、二つしかこの場には必要ないはずだぜ」
「えっと、私も……好きよ」
その時、謂うなれば福音が鳴ったのかと錯覚した覚えがあります。ようやっと、一世二代目の勝負で勝利を得たのです。
「おい、私の勝ちだぜ」
彼女と私の呆気にとられた、お間抜けな声をどうでもよさげに、魔理沙でも彼女でも、まして知り合いでもない声が扉の外から聞こえてきたのです。「はいはい。わかったわかった」ただ、女性にしては低いのです。そしてその声は消え、走り去ったらしい音。彼女は憤慨しました。
その後はただただ、幸せと言うほかない人生を送りました。八意という薬師から不可思議な錠剤をいただき、服用すると、たちどころに視界が広がり、渇望していた空の色、町並み、鏡から見た私の姿。そして、ウエディングドレスというものを見にまとった、美しい銀髪の彼女。
「初めてお目にかかりますわ、旦那様。十六夜咲夜と申します。どうか、今後とも幸せにしてくださいませ」
こうして、私の人生の帳が下ろされました。まこと、良い人生だったと、私はあの世でも自慢が出来る事でしょう。私を私足らしめてくれた稗田。偶然と私が呼んだ魔理沙。そして交際を許し、私の目の為に奔走したレミリア様とその家族。病院の皆。
最後まで愛して止まない、咲夜。皆には、死して尚礼を尽くさねばなりません。ありがとう。
「なるほど、これがあなたの一生ですか。罪はあらず、善良と言うほかない。そして一つの悔いもなければ、人生を全うした事に誇りさえ持てている。そんな人間、他にはあまりいないでしょう。貴方は『白』です。天国でも妻である十六夜咲夜とお幸せに」
彼女は閻魔である。四季映姫は『浄玻璃の鏡』を置き、今しがたまた一つの魂を裁いたところであった。彼女の性格故か、はたまた職業か、いつも同じ事の繰り返しだ。魂がやって来て、手鏡で人の行いを閲覧しては裁く。同じことの繰り返し。だが、四季映姫は誇りをもってこの仕事を毎日全うしている。そんな彼女はたった今、悩みが出来た。
「あー、私もあんな恋したいなぁ」
……閻魔でも、ままならない事はあるようだ。