狂気
僕は都心に住む高校生だ。駅から歩いて五分ほどの場所にある十階建てのマンションの四階に弟一人と母さん、父さんと住んでいる。弟とは三つ歳が離れているが比較的仲は良好だ。週に三回は取っ組み合いの喧嘩をするほどである。母は専業主婦で一日家にいる。父は反対にあまり家には居ない。その日はいつも通り学校でのかったるい授業を受け終わりいつも通りの道を通り、いつも通りエレベーターに乗って家に帰ってきた。
「ただいまー」
いつもならここで「おかえりなさい。手洗い、うがいしてきなさいよ」と言われるはずなのだが今日は返事がなかった。買い物にでも行っているのかと考えたがそんな考えはすぐに消えた。玄関を入ってすぐの廊下の先はリビング キッチンがありキッチンの方から料理をしている音が聞こえてきたからだ。ああ、料理をしていて気付かなかったんだな。と一人納得したため、リビングの手前にある自分の部屋へ荷物を置きに入った。おかしい。なんだか自分の部屋なのに違和感がある。いつもの位置にいつもの物が置いてあるのだが、何か違和感を感じた。母が勝手に入って掃除でもしたのかと考えたので母に聞きに行った。
ドアを開け、リビングへと入る。母は背を向けて何かをしているようであった。
「母さん、俺の部屋掃除した? 」
と、声をかけても一向に返事は帰ってこない。憑りつかれた様に一定のテンポで何かを切っているようだ。
「母さん……? 」
「なあに? 」
良かったいつもの母のようだ。
「何作ってるの? 」
「おいしそうにできてるから待ってなさい」
話が噛み合わない。話している間も何かをトーントーンと切り続けている。怖い。なんだか無性に母が怖くなってきた。
「ちょっ、ちょっとコンビニ行ってくるよ」
「おいしそうにできてるから待ってなさい」
同じことを繰り返し言う母が怖くて逃げ出そうとリビングから出た。そのまま玄関へ行き靴を履く。
「おいしそうにできてるから待ってなさい」
振り向くと包丁を持ち、無表情で母が立っていた。焦点はあっておらずどこを見ているのか分からない。
「おいしそうにできてるから待ってなさい」
ドアを閉める前に見た母の顔はもはや別人というほど変わっていた。
エレベーターに乗り1階まで降りる。ちょうどそこで弟に偶然出会った。
「なにしてんの兄さん。そんなに汗かいて」
弟に指摘されるまで自覚していなかったが、全身は雨の中傘を差さずに帰ったかのように濡れていた。
「ちょっと運動をな」
「ふーん。変なことしてるんだね。あっ、エレベーターきたよ? 乗らないの兄さん」
「家に帰るのか……? やめておいて方がいい!!母さんが変なんだ」
「母さんが変?余計心配じゃないか、兄さんはやく帰ろう? 」
仕方なく、内心ビビりながら家へと戻ってきた。恐る恐るドアを開け中に入る。
「た、ただいま……」
すると、奥の方から
「おかえりなさい。手洗い、うがいしてきなさいよ」
といつも通りの返事が聞こえた。安心しさっきのことなど忘れリビングに入ると
「おいしそうにできてるから待ってなさい」
という無表情の母と弟が立っていた。
こんなこと現実に起こったら家には絶対帰りません