第二集 11~15
―11.シャワー―
改めて思う。この状況はいったい何なのだろう。記憶がなくなるまで飲んで二日酔いで俺が匂うのは分かる。だが、たまたま助けてくれた女性の家に入り、シャワーまで借りていいのだろうか。朝からパシられ、朝食を作らされたが、冷静に考えればあそこまでの麗人に付き合わされるというのは、すさまじいほどの‘おつり’じゃないか。いろいろ考えると興奮してきた。彼女はどんな石鹸を使っているのだろうとか。
石鹸入れに緑色の固形石鹸が置いてある。思わずそれを手に取ってみた。ウタマロと彫ってあった。
洗濯用だろ。これ。
いや、きっとバスタブで衣類を洗う時に使っているのか。そうだろう。
そうだ、神楽坂さんはシャンプーを使っていいと言っていた。壁に埋め込まれたアイボリーカラーの棚に置いてあるシャンプーボトルを手に取る。透明なボトルの中で、黄色がかった粘性の高い半透明の液面が揺れる。たしか彼女は「ボタニカルシャンプーを買ってみたから使ってみて」と言っていた。そうは言われても、男の俺はシャンプーにこだわったことがないので、シャンプーの質というものがよく分からないのだが。
BOTTAKURU SHAMPOO
その表示を見た瞬間、それまでの興奮が一気に萎えた。
―12.めんどくさい―
髪を乾かして、シャワーからあがると彼女がシャンプーの感想を聞いてきた。あのボタニカルシャンプーはまがい物だった。悪質な類似品というか、そもそもジョークグッズかなんかじゃないかと思ってしまうものだった。
「あれって、僕を騙そうとしてたんですか?」
思わずそう聞いてしまう。すると彼女は何のことだかさっぱりと、口をポカンと開けて首をかしげる。どうやら本気で騙されて買ったらしい。こちらも口がポカンと開いてしまいそうだ。そして、それよりも先ほどから彼女がせっせと作っている小学生の自由工作としか思えない代物が気になる。
「あと、それ何作ってるんですか?」
「あー、これね。あたし天才でしょー。
これ、握ると歯磨き粉が出てくる歯ブラシよ。
ほらあ、歯磨き粉をいちいちチューブから捻りだすの面倒くさいでしょっ。
これ改良して商品化したら絶対売れると思うの。
それで起業しようかなあ。そしたらもっとお金がいっぱい入って来るかもっ。
ねっ、天才でしょ!」
なんかもう、めんどくさくなってきた。
―13.副業―
料理の仕方を全く知らない。洗濯用石鹸と身体を洗う石鹸を間違っている。ボタニカルシャンプーが冗談みたいな類似品。世間ずれもしていなく、騙されやすい彼女。そして仕事があると言って、俺をパシらせて自分はソファーでくつろぐだけ。ここで俺はある疑問にたどり着く。
「神楽坂さんって、どうやって稼いでるんですか?」
「お、気になる感じ?」
再びソファーに逆向きに座って爛々とした瞳をこちらに向けてくる。いかにもお姉さまと言った風貌なのだが、仕草のひとつひとつは少女のようだ。そんなちぐはぐさも魅力的に思えてしまわなくはない。
「鉤爪師って儲かるんですか」
「え、儲かると思ってたの?」
じゃあなんで高級マンションに住んでんだよ。
「あたしには副業というか、ちゃんと稼ぎ口があるのよっ」
そう言って彼女は、テレビの画面を手元のリモコンで切り替える。中に丸々ひとりの人間が入りそうなくらいの巨大な液晶モニターは、ワイドショーから一変して企業名と数字の羅列された表に変わった。彼女がボタンを押すと、ギザギザの赤や青の波が画面の中で踊った。イコライザの波形にも見えるが、違う。これは株価レートというものだ。
「あたしは差し詰め、波の上の魔女と言ったところかしら」
にっこりと笑う彼女の笑みは、まさに魔女と形容するにふさわしい妖艶なものだった。そう、彼女の稼ぎ口は投資。といってもデイトレードではなく長いスパンで行う中長期投資というものらしい。デイトレードは秒単位で変動する相場に張り付き、タイミングを逃さない瞬時の戦略的判断が必要になる。だから疲れると。
「そもそも疲れないで稼ぐために投資家になったんだから
それじゃあ本末転倒だわっ。働いたら負けなのにっ」
動機がまるでニートなんだけど。
「あ、これで働かないで稼げるなんて考えないでねっ。
結局、個人投資家は異端者であることは確かよ。
誰もが始められても、誰もが成功するわけじゃない。
必要なのは、先見の目、真実を見抜く力、法則性を導き出す手腕、
それらの才能と努力の積み重ね、そして運も」
「自慢じゃないけど、あたしの先見の目は確かよ。
何よりもこの資産が証明しているわっ」
大きく手を広げて、ピンと胸を張る。彼女が言う資産というのは、今生活しているこの高級マンションの一室を指している。部屋の所在は最上階。悠々自適な個人投資家。絵に描いたような話が、今目の前で展開されている。俺は興奮を覚えずにはいられなかった。彼女の聡明な瞳がより輝いて見える。まさしく波の上の魔女がそこにいた。
「だから、あたしみたいな先見の目がある人が起業したら成功すると思うの。
株価投資の知識が役に立たないわけがないしねっ!
だから、この握ると歯磨き粉が出てくる歯ブラシは絶対に成功すると思う!」
何言ってんだこいつ。
―14.愛着―
彼女はしばらく株価レートを漁るように眺めていた。画面の上で踊る波を見定めて、どの波に飛び込むか決める。自分が乗れる波か。または、乗る価値のある波か。
「中長期投資で目をつけるのは、じわじわと長いスパンで成長をする会社よ。
手をつけない間に育っていく感覚があるのも中長期の醍醐味ね。
例えば、今現在あたしが株を持っている
このプライムKJCという会社はいい例ね」
画面にはなだらかに伸びる株価の動きがある。デイトレードは良くも悪くもスパンが短いので、勝つためには動きの大きい会社を選ばざるを得ないところがあるという。急成長を見せる会社を渡り歩くのはどことなく無粋に感じる。こつこつと成長していく会社を見守るのが性に合っているというのだ。
「その方が愛着ってのが持てるじゃない」
「ところでこのプライムKJCは何をやっている会社なんですか」
「さあ、芸能事務所とかだった気がするけど
あたしは市場の数字にしか興味ないから」
愛着ないだろ。
―15.鉤爪の女―
それからしばらく世間話をした後、俺は彼女から解放された。もっとも、もっといても良かったのだが、帰ってもいいよと言われたら帰ることしかできない。これ以上彼女の部屋に居座るのも気が引ける。まあ、いても彼女は文句も言わないだろうし、むしろ歓迎してくれそうだ。そもそも俺なんかを独り暮らしには広すぎるマンションに連れ込んだのは、暇つぶし以外の何でもないのだろうから。彼女がかなりの稼ぎのある個人投資家であるという事実と、メイクビリーブという遊びで作った名前だけの会社、鉤爪師というジョークだけの職業が何よりもの証拠だ。金に物を言わせたマダムが、若い燕を漁るとはよく言うが、俺はまさしくその燕なんじゃないかと思うわけだ。
だが自然と悪い気がしない自分がいるのは、男の性というものなのだろうか。
俺は自分に場違いな高級マンションを後にし、駅から近いレンタルビデオ店にいそいそと駆け込んだ。迷いなくくぐったのは、成人向け作品を扱うゾーンを間仕切るのれんだ。艶やかな黒髪に、ぷっくりと膨らんだ唇。吐息はレモンとスペアミントの香り。線の整った手足に、適度にメリハリのある身体。彼女に弄ばれるのは、男なら誰しも生殺しと形容するだろう。現に俺がそうなのだから。DVDの外箱を取り出し、裏面の作品詳細をちらりと見る。いつもは女優だけ見て気にしないはずの、レーベル会社の名前が目に入った。
発行元:株式会社プライムKJC
俺は彼女からもらった、、名刺の電話番号にかけてみた。
「もしもし、神楽坂さんですか」
「な~に?もしかして、あたしの声が聞きたくなったの~?」
「いや、そうじゃなくて、あの……ちゃんと自分が株を持っている会社のことは
知ったほうがいいと思います」
「あー、プライムKJCね。ポルノ関係の芸能プロダクションでしょ」
知ってたのかよ。
「何で知ってたのに、言わなかったんですか……」
「えー、だって知ったときの反応が面白そうだったから。
臼井くんって見た目真面目だし、そういうのかくれて興味あるとしたら
可愛いかなあって思って、それにしても知ってたんだあ。
あ、もしかして今そういうの見てるの?このむっつりス……」
俺が年上の女性の電話を無言でぶち切ったのは、反抗期のときの母親の電話以来だった。彼女の職業は「公認鍵爪師」。職務内容は人の心を引っ掻き回すこと。
俺が今、まさにされたことだ。