第一集 1~10
―1.コンタクト―
人の人生というものはこうも一瞬で転落するものか。いや、この場合は会社の運命だが、それに振り回されるこちらとしては、転落するのは同じこと。
青井商社、衝撃の倒産
ああ、衝撃だ。何よりもの衝撃だ。八月で内定が出て、それから大学を卒業する今の今までの半年間、卒論を除けば遊びに遊んだのだ。それがこれだ。冗談じゃない。しかし、スマートフォンに表示された経済ニュースは冗談ではなく事実を語っている。よりによって卒業式をちょうど終えたこの時期にこの知らせ。二日前の朝まで続いた卒業祝賀会、今になって二日酔いがぶり返してきそうだ。
そして、俺がとった行動は、迎え酒だった。
とりあえず預金を数万ほど下ろし、独り暮らしのアパートからほど近い繁華街でひとり散財する。ひとり酒を選んだのは、おそらく愚痴が止まりそうになかったからだ。それでも聞いてくれそうな友達がいないことはないのだが、そこにつけこんで誘うようなことはしたくなかった。
それって、俺が依存しているみたいじゃないか。
駅を取り囲むようにして広がった繁華街。ネオン看板をぶら下げた雑居ビルがひしめく中に、周りにそぐわぬ暖簾を下げた一軒の居酒屋がある。ひとり酒をたまにするときはこの店のカウンターだ。飲み屋の大将にくだをまくなんていうドラマの一場面をするわけではない。そこは、コミュ障の現代若者らしく、酒と会話をするのだ。いや、この言い方だとむしろ古くさいか。おちょこに注がれた熱燗を誰も相手がいないのに、一度目線の上に高く掲げてから飲み干す。なんだか、やくざみたいな飲み方だ。続いて出てくるお通しをつまむ。きゅうりの漬物と、きんぴらだ。美味い。そしてほのかに甘い日本酒と非常に合う。それからこの店自慢のおばんざいの数々を楽しむ。この店は、とにかく小鉢と一品料理の種類が多く、ひとり酒にはこれ以上ない至高の店だ。サイズが小さいせいか値段も手ごろ。酔いが回れば金銭感覚が狂って、追加注文を次々にしてしまう。上手い商売手口だが、それにやり込められて全く悪い気はしない。
それどころか、大いに満足している。そのことをカウンターに並べられたとっくりと皿の数が証明していた。とここまでが記憶のあるところ。この日俺は成人の日の初酒以来、酒で記憶が飛んでしまった。ぐらぐらする視界の中、臀部の辺りにアスファルトの質感を感じる。裏通りの壁にもたれかかりながら寝ていたらしい。時刻は夜中だったということしかわからない。時計を見るという文化人的発想が、そのときの俺には欠如していたんだろう。
「おいっ、ぼくっ!」
そう上から呼ばれて見上げた。髪の長い歪んだ女の人がレモンの香りの息を吐いていた。鼻の下が伸びていると言われた。なんのことかピンと来なかった俺は、口をあんぐりと開けて、餌を待つ池の鯉みたいだったという。そして、差し伸べられた細い腕に、自力で立てない俺は縋り付いた。すると華奢な体躯に似合わない力で引き寄せられた。背は高めで、俺との身長差はさほどなかった。自然に肩を貸してもらうような格好になった俺は、近くのバーに担ぎ込まれることになる。
そこのソファーで俺は、力尽きた。
「ぼく、起きた?」
また上から声をかけられた。目を開けると、そこに彼女はいた。あのとき鼻の下が伸びているぞと言われた理由が分かった。そして思いきり目が冴えた。目鼻立ちの整った男顔の美女が、ブルーライトカット加工で青く光る眼鏡をかけていた。ぴっちりと整ったスーツから伸びるしなやかな手足。控えめながらも、女と主張する胸のふくらみ。顔をとっても、身体をとっても、目が覚めるほどの美人とは、まさしく彼女のような人のことを言うのだろう。
「ここは……」
ソファーで力尽きたというのは、そのときソファーで目が覚めたからということで推測した。暗く落ち着いたバーは窓がなく時間間隔がとんと沸かない。もう四時よと彼女が言った。
「あんなになるまで飲んでいたなんて、若いのに……」
俺のことを若いと言うということは年上だ。艶やかな手つきでパイポを吸う仕草は、いかにも経験豊富な年上のお姉さまといった具合だ。パイポからはレモンの香りが漂っていた。彼女の息の香りはパイポのものだった。
「で?なんでああなってたのよっ」
痛いところを突かれた。はぐらかそうにも上手い嘘は付けない。彼女の聡明な瞳が、俺から嘘をつく能力を奪い取った。結局俺は、その場で吐いてしまった。友達を愚痴に付き合わせる目的で連れまわすのは性じゃないと言っておきながら、それに見ず知らずの、それも年上の女性を巻き込んだのだ。このバーにたどり着いたのは彼女の介抱あってのものだし、酷く情けない。
「すみません、ありがとうございます」
「いいってのよ。こういうのは行きずりの女に話すのが一番いいのよ」
彼女は笑った。そこで一気に気分が軽くなった。包容力を感じさせる女神のような笑みに、心が浮ついたんだろう。いや、事実浮ついたんだと思う。
「そうなると、あなた、雇口がなくて就職浪人決定というわけねえ」
「ええ……、まあ……」
「じゃあ、うちで働いてみない?」
「えっ……」
目の前に突き出された彼女の名刺。神楽坂美祢と名前が書いてあった。職業には、「有限会社 メイクビリーブ 公認鍵爪師」と訳の分からないものが書かれていた。何をやっているのか具体的に教えてくださいと言ったが、はぐらかされた。思えばなんで俺は、この話に乗ってしまったのか。
「まあまあ、お姉さまのお遊びに付き合うと思えば。給料も考えているし」
答えは簡単だ。
俺は浮ついていたんだ。
―2.職務内容その1―
神楽坂美祢という目も覚めるほどの美人に俺は拾われ、彼女の掲げる「有限会社 メイクビリーブ」というよく分からない会社の商売に付き合うことになった。
「あの……、有限会社って確か廃止になりましたよね」
「ああ、それね。あたしがこの世に有る限り、続く会社って意味だから」
そんな有限会社知らねえよ。
―3.職務内容その2―
有限会社メイクビリーブ。設立者兼公認鍵爪師の神楽坂美祢がひとりで切り盛りする会社のようだ。いわゆる個人経営というもの。
「ところで、鍵爪師ってどんな職務なんですか?」
「主に、人の心を引っ掻き回す仕事よ」
それ、俺が今されていることだろ。
―4.仕事場―
バーの閉店時間は朝の十時。まさに眠らない町に合わせた営業時間だ。職務内容はよくわからないというか、半分騙されたようなものだが、彼女曰くこれから仕事が始まるからついてくるようにと。切れ長の瞳が眼鏡越しだと、いかにもきつい女性を連想させて、背筋が伸びてしまう。ヒールのこつこつとアスファルトを打つ音に導かれて、俺は普段着のままで、スーツ姿の彼女のあとを追う。歩く速さが恐ろしく速い。男の俺が小走りになってしまうほど速いのだ。
「ちょ、ちょっと、待ってください!」
「のろまね、仕事は時間が命よ!」
しばらくして、一軒の高級マンションの一室にたどり着いた。
「ああ~、やっぱり家が一番ね」
要するに早く帰りたかっただけ。
―5.仕事内容―
生活感がないほどひどく片付いた室内は、人の家というより、ホテルの一室を思わせる。皮張りの美しいつやを放つソファーに腰かけ、彼女はテレビをつけた。朝のワイドショーが流れていた。ここで忘れかけていたことを俺は思いだす。
「あの、仕事って何ですか?」
「ああ、お腹減った」
パシリかよ。
―6.冷蔵庫―
はじめての仕事内容は、彼女に朝食を用意することだった。ってこれ完全にパシリだろ。コンビニでいいですかと言うと、彼女はソファーに逆向きに座ってふくれっ面をこっちに向けてきた。
「え~っ、臼井くんの手作りがいいなあ」
臼井というのは俺の名字だ。臼井幸夫。親父は幸せな人生を歩んでほしいと幸の字を入れたらしい。しかし、勤め先が倒産で就職浪人のところをややこしい女に拾われる俺。これは苗字と組み合わさることによって「幸が薄い」という意味になっているのではと考えてしまう。
「いや、確かに僕はよく自炊してますけど」
「あたしはとんと駄目だから。冷蔵庫にあるやつ使っていいから」
キッチンに立つ。料理はとんと駄目と言っていたが、キッチンにある料理道具一式は立派なものだ。フライパンや鍋が大きさの違うものが3つも4つもある。ステーキを焼くときに使う溶岩プレートまでもあるのだ。どうも言動が一致していない気がする。この、俺の背丈を優に超える巨大な冷蔵庫だってそうだ。料理をしない人間の持ち物とは思えない。首をかしげながら、俺は冷蔵庫の扉を開けた。
牛乳、紙パックコーヒー、おわり。
ミルクコーヒーしかできねえ。
―7.調味料―
結局あまりにも食材が少なすぎたというか、まるでなかったので近所のスーパーに出向いて買ってきた。買ったのは卵とパンとメープルシロップとバター。フレンチトーストをつくることにしたのだ。
「砂糖はありますよね」
「あたし、コーヒーは砂糖入れない派なのよね」
訳:砂糖はない
―8.たまご―
砂糖を買い直してキッチンに再び立つ。俺のすぐ隣に彼女がやって来て、まつ毛の長い瞳から視線を注いでくる。フレンチトースト自体は別にそこまで気を遣う料理ではないのだが、変に緊張してしまう。彼女のような麗人に見つめられるという状況は、モテたことのない俺には馴染みのないものだった。
「あの……、そんなに見つめないでくれませんか」
「臼井くんはケチねえ。減るものじゃないでしょ」
そうは言われても、ずっと見つめてくる。彼女の切れ長の瞳が放つ眼光はすさまじく、目が合っていなくともちくちくと刺さるように感じてしまう。落ち着かない。
「あの、見ているだけじゃなくて手伝ってくださいよ」
「えーっ、料理駄目だって言ったじゃん」
「卵くらい割れるでしょ」
彼女に渡した卵が調理台の上で、手刀の餌食となって砕け散った。
腕力を示せと言った覚えはない。
―9.料理教室―
いったいどこの世界に卵を手刀で割る女がいるだろうか。ベッタベタになった右手を洗う彼女がきまり悪そうにしているのを見ていると、なんだか俺を介抱していたときとは別人のようだ。
「割れって言ったから割ったのよ」
「いや、あれは割ったというより割れたっていうやつだから」
「そうね、あんな卵の割り方じゃ、中身と殻が混じってしまうもの」
あの所業を卵の割り方と言ってはいけないと思う。
「ねえ、見せて。卵ってどうやって割るの?」
この人は料理番組というか、そもそもドラマや漫画の料理をする場面、さらに母親や父親が包丁を握るところすら見たことがないのだろうか。経験豊富なお姉さまという見た目に似合わず、台所事情には全く世間ずれが見られない。
とりあえず、普通に卵を割る。やり方は簡単というか、料理で言えば基本中の基本だ。といってもコツはいくつかある。
①調理台の平らなところに軽く打ち付けて、ひびを入れる。
②ヒビに親指を軽くあてる。食い込ませるのではなく、左右に殻をくす玉のように開くイメージで。
③中身を落とす打点はボウルの底面からあまり高く離さない。これで黄身が崩れにくくなる。まあ、今回はすぐに黄身を割ってしまうからここをこだわる必要はあまりないのだが。
「へえ、やってみていい?」
①調理台の平らなところに強く打ち付けすぎて、砕け散る。
知ってた。
10.朝食
彼女の邪魔がなくなると、嘘のように料理は手早く進んだ。メープルシロップをかけると彼女は、いかにも育ちのいい手つきでナイフとフォークを使いながら、口に運ぶ。綺麗な食べ方をする人だと感心した。正直、彼女にディナーに誘われていたら、俺はオチていただろう。いや、この彼女に朝食を作ってあげているという状況は、俺もオチているようなものなのか。いいや、俺はこんな生活力のない女になんてオチない。そんなはずがない。
「臼井くん、料理上手ねえ。とっても美味しいっ」
口角を上げると可愛らしいえくぼができた。彼女が笑うと心臓の筋肉が少しけいれんを起こして、肩がつり上がってしまう。好きだとかそういうことを意識させるまでもなく、彼女の美貌は「魅力的な異性がいる」という事実を本能の深さにまで訴えかけるのだ。
「ねえ、もっと料理作ってよ。ちょっと足りないのよ」
「いや、もう材料が残っていないんですけど」
「なんでよー。卵6つも買ったじゃん。
フレンチトーストに使ったのは卵4つでしょっ。
ふたつ余ってるじゃん」
そのふたつをあなたが粉砕しました。