第三十九話
「ねえ、ジャス。ここって・・」
どなたのお屋敷? と続けようとして、アデレイドはその言葉を飲み込んだ。
そんな事は聞くまでもない。
目の前で、初老の男性執事がグレアムに向かってこう言ったのだ、「お帰りなさいませ、グレアム様」と。
つまりここはグレアムの家なのだろう。
グレアムとキャロラインは従兄妹同士。
確かにキャロラインの親戚の家だ。
商業区から離れたところにある貴族の屋敷が並ぶ区画。
またもやアデレイドとラナが乗る馬車に堂々と乗り込んだジャスティンと話をしているうちに着いたそこは、とても大きな屋敷だった。
整えられた庭は植木が複雑な模様を浮かび上がらせ、綺麗な水を吹き出している噴水は白く美しい。
アデレイドは一瞬自分の実家を思い出した。
一応貴族であるアデレイドの家は建物こそまあまあだが、とにかく古い。
そして荒れ放題汚れ放題だった。
本棚には何冊かしか本はなかったし、食器は必要最低限。
一目見て分かる、貧乏貴族。
借金がないのだけが幸いである。
それに比べてーー比べるのもおこがましいがーーこの屋敷は玄関周りは掃き清められ、葉っぱ一枚落ちていないし、屋敷の壁に蔦がはっているという事もない。
大きな扉を開けて入れば、天井の高い広間となっており、豪奢なシャンデリアが目に入る。
案内された、横に長いサロンでは、厚い絨毯の上に座りごごちの良さそうな長椅子と繊細な彫刻が施されたテーブルが幾つもあるのが見える。
天井まである本棚には分厚い本がぎっしり詰まっていた。
壁には立派な額縁に入った絵が飾られている。
暖炉やちょっとした台にも細かい装飾がされて、見る者の目を楽しませる。
振舞われた紅茶のカップにも細かい絵付けがされていて、さすがちゃんとした貴族は違う。
そんな事をつらつらと考えていたのは実は現実逃避をしていたからだった。
アデレイドは紅茶を一口飲み、ため息をつく。
アデレイドがグレアムを魅了したのはつい四週間前だ。
グレアムはそのせいでしばらく学園を休んで自宅療養していた。
復学してからも、まだ魅了の影響下にあるのか、アデレイドに優しくしてくれる。
それは、グレアムの身近な人々からしたら、苦々しく思う事だろう。
ここはグレアムの家。
自分が悪い事は充分承知しているので、罵られるのは仕方がないが、せめて心の準備はさせて欲しかった。
多分グレアムはそんなつもりで連れてきたのではないのだろう。
ただ魅了された人は、自分の気持ちが魅了によるものとは思っていないから、彼らの周りの人がアデレイドをどう見るのか分からないのだ。
彼らの周りの人から見たアデレイドは、魅了の魔法を使って、家族や友人、恋人の心を操る悪者だ。
どんな目で見られ、どんな罵声を浴びせられるかと思うと、胃がキュッと縮む。
「アディ、どうしたの?」
横からジャスティンの心配そうな声が聞こえた。
アデレイドはそちらを見ずに「何でもない」と答えた。
ジャスティンもグレアムと同じだろう。
アデレイドの状況を分かっていない。
今日、彼らと出掛けたのは間違いだったかもしれない。
ブレントには、魅了された人とどんなにいい関係が築けようとも、油断はするな心を許すなと言われている。
こういう事だったのか、と、アデレイドは大きく息を吐いた。
「アディ、どうしたの。具合が悪い?」
「ううん」
「じゃあ、何か気に障った?
グレアムさんの家に来たのが嫌だった?」
「違うわ、何でもないの。気にしないで」
「気になるよ。
ねえアディ、こっちを見て?」
ジャスティンが甘えるような声を出す。
アデレイドは首を振った。
今はジャスティンに付き合っている気分ではない。
「ねえ、アディってば」
「ごめん、ジャス。
話したくないの。少し放っておいて」
突き放した口調で言うと、ジャスティンが静かになった。
ジャスティンは音もなく立ち上がると、アデレイドの前に跪く。
下から覗き込むように顔を見られて、アデレイドは顔を逸らそうとしたが、ジャスティンの方が一瞬早く、アデレイドの両頬を押さえた。
「っ!」
「アディ、こっちを見て」
この距離で目が合ってはいけないので、アデレイドは目を閉じる。
「ジャス、すぐに手を放して。
ふざける気分じゃないの」
「アディが何を考えているのか教えてよ。
さっきからため息ばかり。
何か嫌な事があるのなら、はっきりと言って」
「・・・・・」
「グレアムさんの家が嫌なら、すぐに帰ろう。
ね、そうしようよ。グレアムさんはどこかに行っちゃったけど、放っておいて帰っても平気だよ」
ジャスティンはアデレイドの手を掴んで引っ張る。
アデレイドは首を振った。
「そんなのは失礼よ」
「大丈夫だよ」
「だめ、きちんと挨拶をしないと」
「・・・・」
ジャスティンが黙った。
アデレイドはそうっと目を開けようとした。
しかし、ジャスティンがアデレイドの顔を覗き込んでいたのでまた目を閉じる。
「ジャス、とにかく少し離れてくれない?」
「やだ。理由を教えてよ」
「理由なんて特にないわ」
「特にないのに気分が沈んでるの?」
「別に沈んでなんか」
「沈んでるよ。
グレアムさんの家に来るまでは笑ってたじゃないか。
グレアムさんの家が嫌なんだろ。
帰ろうよ」
「だめだって」
「いいから、帰ろう」
「だめ!」
アデレイドは苦悶に耐えるようにぎゅっと目を瞑り、大きく首を振った。
「いいから、ジャスティン。
私の事は構わないで、放っておいて」
「・・・・」
ジャスティンは黙り込んだ。
アデレイドもそのまま口を閉じる。
どのぐらいそうしていただろう。
ふと、アデレイドは瞑ったままの目の前がさらに暗くなったと感じた。
そしてその直後、唇に柔らかいものが触れた。
「ーー!」
驚いたアデレイドは目を開く。
すぐ目の前にジャスティンの整った顔があった。
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