~Episode of Spring VIII~
━━ホイールベアリングを交換したばかりのマシンが空走するほど軽やかに。
毎日は過ぎ、土曜はあっという間に来る。
「んむ……」
「あっ、おにいちゃん、おはよう」
「あー……千歳か。今何時だ。もう遅刻かな……」
「もう、おにいちゃんったら。今日は土曜日だよ~」
土曜の午前は。
週の後半に深夜バイク便のアルバイトをこなす三鳥栖志智にとって、どこまでも惰眠をむさぼることのできる、解放のひと時である。
「そうか……そういえば、そうだったな」
「んっ」
それを知っているがゆえに、午前十時をすぎたこの時間まで、妹の千歳も彼を起こすことはない。
洗濯を終えたばかりなのか、男物のシャツを胸元にかかえたままニコニコと笑っている千歳は、いつにも増して楽しそうだった。
「なんだ? 何かいい事でもあるのか?」
「ううん。おにいちゃん、すっごくよく寝てたから、よかったなあって。
さっきまで見てたの。えへへ~」
「眠るだけなら誰だって出来るだろ……」
「でも、疲れてるときはちゃんと休んでほしいし。
木曜日とか、金曜日とか、いつも寝不足のままで学校いってて辛そうだから」
「……あのな、そーいうことは、お前が気にしなくてもいいんだよ」
ぽん、と頭の上に手を乗せて、髪型が乱れない程度になで回す。
「うん。……おにいちゃん、いつもありがとう」
じっと目を閉じておとなしくしている妹を見ていると、勝手に右手が頬へ移動してしまう。
「むにー」
「お、おにぃひゃん……」
「千歳は柔らかいよなー。っても、女子だから当たり前か」
「あっ……う、うん……ん」
顔を真っ赤にしてうつむく妹。
しまった、ひょっとして脂肪が多いとか勘違いさせてしまっただろうか、と動きを止める志智。
「うむ……」
「あれっ。お、おにいちゃん……?」
「いや。あのな、千歳。俺はこのくらいでいいと思うぞ」
「ひ、ひゃい!?」
励ますつもりで千歳の両肩を叩く志智。
なぜか瞳に驚き色の星をちらかつせて、飛び上がる妹。
揺れるビッグツイン。ああ、これも脂肪は脂肪か。やはり気にしているのだろうか。自覚のない兄は勝手に納得する。
~~~~~~Motorcycle Diary~~~~~~
その日の午後━━まだ早い時間。
(低回転……2stが苦手な領域……とすると、やっぱりここだよな)
約束の夕方よりも早く大多磨周遊道路へ到着した志智は、あふれかえるツーリングライダーや四輪の観光客が通り過ぎる合間を縫うように、川野駐車場からふるさと村信号までの繰り返し━━俗に『大人区間』とよばれる領域を走り込んでいた。
もっとも驚くほどの短い直線で前走車をパスしては、フルバンクのコーナリングを繰り返す本気組と、スパーダの走りは明確に異なっている。
(ここで前に出る。そして、ここまで……引っ張る)
志智が前走車を抜き去って。
あるいは新聞配達のカブよりも遅くまでスロットルを絞って、クリアな空間をつくり、試行錯誤を繰り返しているのは、たった一つの複合コーナーである。
それも小河内湖から大多磨の山へのぼっていく側ではない。
帰り道……つまり、下りである。
「……よし、あとは本番勝負だな」
ブレーキの利きを確かめるかのように、右レバーを何度も握りしめながら、川野駐車場へVT250スパーダは滑り込む。
リザーバーが別体式になったフロントブレーキマスター。志智がその意味を知るべくもない、布バンドの中で黄金色の液体がゆらゆらと揺れている。
「志智」
「亞璃須か」
振り向けば、ふるさと村から折り返してくる間に到着していたらしい日原院亞璃須が、ゴシックロリータのスカートを翻しながら歩み寄ってくる。
その表情は自宅にいるとき彼の妹がみせたものとは正反対であり、いかにも面白くなさそうな半眼には、ネガティヴな感情がありありと表れている。
「……んー」
「なんです? わたくしの顔をじっと見て」
「ふん……ふーん」
「今度は上から下までなめ回すように見ますわね」
「いや、何もかも正反対だよな。お前って」
「は?」
額に血管の筋を浮かべる亞璃須は、何かに感づいてるようだったが、確信には至っていないらしく、志智の首根っこをつかむこともなければ、詰問の言葉を浴びせることもない。
「ところでお前さ、今日も後ろからついてくるのか」
「ええ、そのつもりですけれど」
「……勝負だとみなしてないんじゃ、なかったのかよ」
「そうですわね。勝負というには条件が不公平すぎますもの。
ですから、志智が勝つのをあきらめた時点で、わたくしがあのR1-Zをけちょんちょんに煽りたおしたあげく、パワーバンドに入れて必死で加速するところを、ウィリーしながら抜き去ってあげますわ。ドヤ顔で。中指立てながら」
「い、いや……べ、別にそこまでしなくてもいいと思うが……」
ひょっとして何か2stのマシンに恨みでもあるのだろうか。志智の背筋に冷たい汗が流れる。
「わたくしの志智につまらない黒星がつくくらいなら、こっちの方がマシです」
「いや、負けは負けで変わらないだろ。その場合」
「世間がそう記憶しなければ十分ですわ。
この日はわたくしの志智が敗れた日ではありません。650ccのモタードに乗った美少女が、くっさい白煙をまき散らす2stのネイキッドで粋がっているライダーを一人、虐殺した日として記憶されるのです」
「……それがお前の粋な心遣いなのか、個人的な憎しみなのかよくわからないんだが」
「はっ、知れたことを言いますのね、志智。
愛とは! 常に憎悪混じりなものです!!」
「………………」
五月にしては冷たい風が吹く。
ツインテールにまとめた金髪が揺れる。そらした小さな胸は哀れみを主張し、『今すごくいい事を言った』と言わんばかりに志智を見つめるオッドアイは、滑稽さを助長している。
(まあいい……こいつは放っておこう……)
呆れ九割、感心一割のため息が口の唇からこぼれたその時だった。
「よう……なにやってんだ、あんたら?」
「あ━━どうも」
甲高い排気音が聞こえてきたと思うと、川野駐車場にあらわれたトラスフレームの黒影が一つ。
ばらばらとまとまりのないアイドリングが停止すると、周囲にツンとした石油の香りが漂う。
ヤマハ3XC R1-Z。
亞璃須は微かに眉をひそめ、その傍らにひかえる吉脇はなんともいえぬ満足げな表情で、目を細めている。
そして、三鳥栖志智の双眸には警戒と闘志のあふれた光が━━
「こんにちは、橋本さん。楽しみにして……ました」
「いいねぇ。嬉しいこと言ってくれるじゃん。
そっちもやる気は満々ってことかい」
「ええ……それは、その、かなり」
「くくくっ。いい。いいよ、あんた。なあ?
4st乗りにしとくにゃ惜しいな。そういうぶち切れた目。2stにこそ向いてるんだけどな」
「そう、なん、ですか」
感情を抑えかねているように、志智の視線が放つ鋭さと、途切れ途切れの言葉は一致しない。
だが、橋本伽藍にとってそれはたまらなく望ましいものであるらしかった。
「暴発寸前の核爆弾って感じだよな。今のあんた。
バイクなんてのはバカじゃないと乗ってられない……公道でかっ飛ぼうと思えば、なおさらだ。なあ?」
「………………」
火花は散らない。
ただ、かぶったプラグのような志智の視線に、橋本が乱暴に火をつけようとしているだけ。
「今時、そういう奴もめっきり減ったが……絶滅しちゃいない。
俺からいわせれば、潜ってるだけだ。世の中に目立たないように、深く静かにな」
「俺は……別に、そんなつもりは、ないですよ」
「さあ、どうかな。まあすぐに分かるさ。
百の言葉をかわすより、たった一度走ればいい。バイク乗りがわかり合うには、それで十分だ。なあ?」
「━━ちょっとお待ちになってくださいます?」
が、冷水は突然、橋本のシリンダーに浴びせかけられる。
「……なんだこのチビのおじょーちゃんは」
志智と絡み合う橋本の視線をさえぎるように、シルバー基調のレーシングスーツに着替えた亞璃須が立つ。阻害する。面前にいる。
「格好ばかり一人前みたいだが……いや、ちょっと待て。
その金髪、さっきまで三鳥栖と話してたゴスロリおじょーちゃんか?」
「ご名答です。
盛り上がって頂くのは結構ですが、勝負する以上、それなりのルールは守ってもらいますので」
「何がルールだ。勝手に仕切るなよ。女の出る幕じゃないぜ」
「まず、走行区間ですが」
「話聞けや……そういえば決めてなかったが。ま、そりゃ、定番なら。なあ?」
依存はないか、と確認するように橋本は首を動かして、亞璃須の頭の向こうにいる志智をみる。
志智がうなずき返すタイミングと、亞璃須が橋本の視線を遮る位置にふたたび移動するのとは、同時だった。
「うぜぇ……」
「では、定番通り川野から月夜見第一まででよろしいですわね?」
「別にかまわないぜ。
俺のR1-Zはもともとそのつもりでセッティングしてあるしな……もっとも、大人区間の短期決戦なら、マシンの差が縮まってかえっておもしろいんだが」
「パッシングは基本的に直線区間。コーナーで対向車線を使うのはご法度。
もちろん一般車両には迷惑をかけないこと。それもよろしいですわね?」
「今更いわれるまでもないぜ。バイクで峠走ってれば常識だろ、そんなことはよ」
「結構です。
わたくしはあなた達二台のあとから、あれで追いかけます。不正行為もないでしょうけど、念のためですわ」
「はーん? 女なんぞが何に乗って俺達を追っかけてくるってんだ。
スピードは男のもんだぜ。女が強い時代だからって、調子こいてると━━」
肩をすくめながら紡ぎ出される橋本の言葉は、吉脇が押してきたXR650Rの姿を認めたその瞬間に止まる。
「ぁぁ……なるほど……そぅいゃ、芦田の奴……ふん……これか。モタロリ……」
「は?」
「いや、何でもねえよ。好きにしな」
橋本は何かに納得がいったような顔で、一人うなずく。
「ま、CRMやYZならともかくだ。ピストン一個しかない4stがついてこられるかは、怪しいけどな」
「それはどうも。
そちらこそカウンターシャフトのシールはちゃんと生きてます? YPVSのホルダーは腐食してません? 途中で焼きついて止まっても、助けませんから自己責任でお願いしますね」
「うるせえな。そっちこそビッグシングルのケッチンで足折るんじゃねーぞ」
「はっ」
「へっ」
「………………」
三鳥栖志智は思う。
ほんの一月前にも、目の前で似たようなやりとりを見せられた気がする。
「ま、くだらねえ茶々が入っちまったが……一切合切、俺がぶっちぎれば済むことだよな。
なあ?」
違いがあるとすれば。
自分の方が速い。お前を抜いてやると。
(出来るかな……)
今この時も、志智が確信を持てずにいることだった。
~~~~~~Motorcycle Diary~~~~~~
特にスタートの合図もなく、黒の2stと赤の4st━━ヤマハR1-ZとホンダVT250スパーダの二台は走り出す。
先に行けと言わんばかりに、スロットルを緩める橋本に、志智は頑として首を振る。
(ふっ、そうはいくかよ……なあ)
川野駐車場から飛び出た直後のストレート区間。
二人はお互いに先を譲り合ったまま、速度標識もほほえみかけてくるほどの低速で走行する。
小河内湖にかかる香蘭橋を渡ったそのとき、とうとう橋本がハンドルから両手を離した。
スロットルは全閉だが、2stらしいエンジンブレーキの弱さが手放しでの安定した走行を可能にする。
(こんだけ長い直線だ……差をつけようとすれば、いくらでもつく。
けど、それじゃあおもしろみがないんだよ……なあ?)
腕組みをして顎をしゃくる橋本。ついに志智のスパーダが前に出た。
(そーら来た!!)
一速へたたき込んで、橋本はR1-Zのスロットルを捻る。スムーズに前へ加速していく志智のスパーダに比して、R1-Zの初期加速は実に緩慢だ。
しかし、タコメーターの針が7000rpmを指したその時。
「ひょお!!」
ぶるりと車体が震える。フロントフォークが浮き上がり、そのままウィリーしそうな感覚にとらわれる。
パワーバンドへ到達したR1-Zの並列二気筒エンジンは爆発的な加速をみせる。
すでに最初の左コーナーへ侵入しようとしている志智へ追いつき、そのまま立ち上がりで横に並んでしまう。
(見たかよ……これが2stのパワーだ!!)
11000rpm。スピードメーターの針はすでに3桁の領域へ突入。
狂い泣く女の絶叫にも似て、チャンバーからは甲高い排気音が響き渡る。4速へ入れれば、そのままスパーダを追い越すことは容易だ。
しかし、橋本伽藍は半車体ぶんほど、スパーダの前へ出たところで早すぎるプレーキングを始める。
(悪いが……最初は様子見させてもらう)
その理由は二つあった。
まずはタイヤである。
R1-Zに履かせているのはダンロップ製のラジアルハイグリップタイヤだった。21世紀のハイグリップらしく、その特性は走り出しから迅速に発揮されるとしても、タイヤが冷えた状態で無理を利かせられるほど、彼の信頼は獲得できていない。
そしてもう一つ━━
「はーん……なるほど、確かに上手い。芦田の奴が食われるわけだ……」
橋本は志智の背後にぴたりとつける。
コーナーの進入。二次旋回。そして立ち上がり。どれをとっても、スパーダの挙動はスムーズだった。
(ここまで洗練されてると……なるほど2ダボに乗っていても抜かれるかもな……)
CBR250RRを駆り、志智のスパーダに敗北した芦田浩平は、橋本伽藍の後輩にあたるのだ。
(まっ、あいつがNSRに乗ってれば、楽勝だったろうが。なあ!)
コーナーの立ち上がりにかけて、7000回転を割らぬよう橋本は丁寧にスロットルを保持。
ようやくタイヤに熱が入ってきたらしく、リアタイヤはR1-Zの45馬力に達するパワーを完全に受け止めている。リアサスペンションとシートを通して伝わる接地感。
いい感覚だった。スポーツグレード以上のタイヤでなければ得られないダイレクトなインフォメーションは、橋本を満足させるに十分だった。
(上手いには上手いが、所詮は4st……)
川野駐車場から小河内湖の外縁部をなぞるように駆け抜ける『大人区間』。中速コーナーが続くその区間で、橋本はスパーダの旋回性能やパワーを容赦なく調べ上げる。
その調査結果は上々といえた。
(俺と差はない……だったら、負ける要素はねえだろ。なあ?)
変化はスタートからおよそ2km後。ふるさと村信号前のストレートだった。
「行くぜ……!!」
上り右コーナーの立ちあがり。2速フルスロットルでスパーダの背後、接触ぎりぎりの領域まで接近する。
視界が開けた。直線があった。
決して長くない、しかしスーパースポーツバイクであれば、200kmに近い領域まで達するそのストレートで、橋本のR1-Zはスパーダをあっさりとパッシングする。
共に3速フルスロットル。勾配はほとんどない。それだけに元々のエンジンパワーが如実にあらわれる。
「ふっ!!」
余裕をもった追い越しとブレーキング。工事車両がうっすらと砂をまいていくこともある左コーナーを、ハングオンでフルバンク。
R1-Zの前後タイヤ。その端の部位がはじめて接地する。
リザーバータンク付きのサスペンションがぐわんと縮み、サイドスタンドの先が僅かにアスファルトで火花を散らす。
「━━終わった!!」
ふるさと村の信号は青。そして、これからは厳しい上りがつづく。
橋本はすでに勝利を確信していた。そして、その観測は間違っていなかった。
この競い合いが上りだけであるのならば。
(速い……本当にすごい……なんてパワーだ)
三鳥栖志智は、2stの加速力を目の前でみせられてもなお、動揺はしていなかった。
しかし、モーターサイクルを駆るライダーである以上、感動にも近い驚きから逃れることはできない。
あれは。今、自分をあっという間に抜き去っていったあのマシンは、同じ250ccなのだ。車検もなく、免許の区分も変わらず、その気になれば自分だって乗れるマシンなのだ。
(それなのに、あんなに違うなんて━━な)
この場所。あるいは、その以前で抜かれることは確定事項だった。
いや、橋本がその気になれば、これより先のポイントでも抜く場所には事欠かないのだ。
なにしろ上り勾配である。旋回性能に大きな差がない以上、パワーのあるバイクが圧倒的に有利なのだ。
(どこでも抜かれる……だけど)
志智の胸にはそれでも勝算があった。
「ふぅっ……!!」
すでに前へ出た橋本は決して気づかない、ギリギリのブレーキング。
いや、重力が彼のマシンを引っ張る上りでは、ほとんどノーブレーキに近い。
ブレーキレバーへ指を二本、軽く引っかけるだけだ。
ステップへつま先立ちになり、腰をずらす。
大げさに膝を出すことはしない。そんなことをしなくても、体の重心をしっかりずらせばよく曲がる。三鳥栖志智はハングオンというフォームの本質をよく理解している。
時速100kmの領域を極力キープ。しかし、厳しいコーナーで一度速度が落ちると、回復にはどうしても時間を要する。
右へ。左へ。コーナーを曲がるたびに、じわじわと橋本のR1-Zが遠ざかる。
ミラーを見ると、亞璃須のXR650Rがすぐ後方へつけている。
その表情まで読み取れるほど志智の視力はよくない。
だが、視線は鏡越しにでも意図を伝えてきた。自分に任せれば、いつでもあの気に入らない2stマシンを、抜き去ってやる、と。
(心配するなって……)
ヘルメットの中でごうごうと風がなる。視界の左右。センターポールとガードレールが非常識なほどの速さで迫っては、後方へ消え去っていく。
シールドに羽虫が一匹張り付いた。
一つの死。五分の魂の喪失。志智自身も一つミスを犯せば、この羽虫のようにガードレールへ、あるいはコンクリートで固められた法面へ張り付くことなる。
(不思議だな……)
それは、どこか心地よい空想だった。
(もうこんな気持ちにはならないと思っていたのに……もう死んでもいいなんて、考えないようにしていたのに……)
フルバンクしながら減速帯のギャップを超えた拍子に、リアタイヤが僅かにブレイクする。ほとんどのライダーが気づかないであろう、その挙動を志智の五感は鋭敏に察知している。
(あいつが近くにいるからかな……)
再びミラーをみる。
小さな体と巨大な車体でアンバランスな足だしリーンアウト。ずりずりとドリフトするリアタイヤを完璧にコントロールしつつ、亞璃須のXR650Rは志智のスパーダにぴったりとつけている。
(亞璃須がすぐ側にいるから……俺は……あの頃みたいに……)
ついに橋本のR1-Zが視界から消え去ろうとしていたその時。
三鳥栖志智は悔しさでも、焦燥でもなく、眠りにつく直前に訪れるような、心地よい安らぎを感じていた。
~~~~~~Motorcycle Diary~~~~~~
「いーちびょおー! にーびょおー!! さーんびょおー!」
月夜見第一駐車場へ飛び込んだ橋本のR1-Zは、セパレートハンドルをぎりぎりまで切って、小半径のUターンに入る。
さあ、折り返しだ。左側へちらりと目を抜けて、ほんの数秒前まで対向車であったものが自分の進むべき場所を横切らないか確認する。
邪魔者はなし。月夜見第一駐車場から一気に飛び出すと、そのまま奈落の底へ落ちるような下りへと突入していく。
「ごーびょおー!! ろーくびょおー!……おっ」
その声は何も鼻歌を口ずさんでいたわけではない。対向車線、上り側。赤く細い車体に、背の高い男がまたがっている。
「なーなびょお、はーちびょおー!!━━しめて十六秒!!」
すれ違う一瞬。橋本は志智へ視線を送っていたが、相手からは返ってこなかった。
(月夜見第一に入ってから八秒ですれ違い……つまり、ざっと十六秒差!
そりゃあ顔を合わせるのも恥ずかしいってもんだ!)
勝利の確信は橋本の胸で深まる。一ヶ月前、志智が芦田のCBR250RRを抜き去ったコーナーを、悠然とクリア。ミラーには何者も映っていない。
(これがまっ昼間なら、車の一台もいて、往生するんだろうが……なあ!!)
勝負の日時に休日の夕方を選んだのは、交通量が一気に減るからなのだ。彼の疾走を遮る者は何もない。
(おまけにこいつは下りでこそ、真価を発揮する!!)
ブレーキレバーを握りしめるたび、ぐっと沈むフロントフォークの感触が橋本伽藍には心地よかった。
今このとき、R1-Zの泣き所は見事に解消されている。
それはフロント荷重の不足である。ストリートのファンライドを基本としてデザインされたヤマハR1-Zは、本来スポーツバイクにあるべき━━たとえば、TZRシリーズがそうであるように━━前後の荷重配分がなされていないのだ。
具体的には、リアにやや荷重が偏っており、上り勾配などでは特に顕著な挙動を示す。ごく単純なコーナー立ち上がりでスロットルを捻っただけなのに、フロントがふわりと浮き上がることもあるほどなのだ。
これは7000rpmから一気に爆発するパワーとも相まって、峠道での走行においては危険な挙動ともいえるのである。
「社外のリンクを入れて、ケツあげしてるとは言っても、もともとの特性は隠せないから……なあ!!」
橋本にいわせれば、上りで志智のスパーダをミラーから消した走りも、全開ではないのだ。
パワーは確かに使っている。しかし、その出しどころは加減していると言えるのだ。危険を考慮しなければ、もっと速く、強く加速してみせる。橋本にはその確信がある。
(とはいえ、ここはサーキットじゃないからな……さすがに死ぬのは御免!!)
『鉄溝渡り』。小川をわたる橋の継ぎ目。その鉄板と、路面に刻まれた縦溝がライダーを容赦なく苦しめる難所。
縦溝は舗装工事のし直しで撤去されて久しいものの、増設された減速帯は大型スーパースポーツほどの高性能サスペンションをもたないR1-Zにとって、厳しい相手である。
(だが!! なあ!)
がくがくと車体が揺れるにもかかわらず、橋本はブレーキレバーを握りしめる。下りではまったくと言っていいほど効かない2stのエンジンブレーキ。それを最初からアテにせず、ただフロントホイールに装着された、二枚のブレーキディスクと高性能メタルパッドにすべてを預ける。
120km近い領域から、一気に速度が落ちる。
R1-Zの乾燥重量は140kg弱。オフロードバイクや2stレーサーレプリカに比べれば、やや重いといえるその数値も、現代の250ccや400cc以上のマシンに対しては絶対的な優位を誇る。
(止まる! 曲がる! 加速する!! 自由自在の140キロだ!!)
『鉄溝渡り』をぬけ、『52段のどん詰まり』が目の前には広がっていた。
(もう……これで終わっただろう)
52の減速帯へ進入する。ブレーキレバーをじわりと握りしめつつ、シフトダウン。そのたびに跳ね上がる排気音が、橋本の口元を笑わせる。
(このまま右へ切り返して、減速帯が終わったら一気に加速する……)
ストレートの先には、サーキットのシケインにも似たゆるい左コーナー。
この区間一つとっても、スパーダとの差はさらに開いたはずだ。
(中間地点で十六秒……全体で三十秒は稼ぎたいところだな……)
いや、腕の差が出る下りならば、一分以上もありえるだろう。
(そうとも……)
なぜなら、自分は2stに乗っているのだから。
(ああ、そうだとも……)
このマシンが4stに負けるはずがないのだから。
(俺は……速い!! 芦田よりも、どんな4stよりも! 俺の方が! なあ!!)
しかし、満悦の笑みをうかべる橋本伽藍の表情は、まもなく凍り付くことになる。
~~~~~~Motorcycle Diary~~~~~~
(見えた━━もうちょい)
三鳥栖志智のVT250スパーダは、一度は見失った橋本のR1-Zをふたたび視界に捉えつつあった。
『52段のどん詰まり』。橋本が減速帯に入って直ちにはじめたブレーキングを、志智はコーナーが迫ってきてから開始する。
がくがくとスパーダのフロントが上下する。
しかし、そのサスペンションは確かに路面の凹凸に追従しているのだ。
力強く握りしめられたブレーキレバーがマスターシリンダーを押す。
ブレーキフルードの油圧が、ダブルディスク・対向4ポッドのR1-Zに比べれば、貧弱にもほどがあるスパーダの片押し式2ポッドのシングルディスクを制動させる。
ブレーキディスクの制動はすなわち、ホイールの、そしてタイヤの、何より車体の制動だった。
しかし、それはタイヤが路面をとらえていなければ無意味なことである。どんなに優秀なブレーキも、高性能パッドも、軽量化されたホイールも、タイヤのグリップが路面との戦いに負けた時点で、何の意味もなさなくなる。
━━それはつまるところ。
(要するにタイヤが滑らなければいいんだろ……少しくらい無理をしても、さ!!)
きゅう、とタイヤが啼く音を志智は間違いなく聞いた。
橋本伽藍が下りの制動で聞いたことのない音。タイヤがそのグリップの限界点付近へ達しつつあることを示す音。
そして、公道においては危険すぎる水準へ飛び込んでいる音である。
「はっ……ふ!!」
『52段のどん詰まり』がやっかいなのは、右へ続くカーブの半ばまで減速帯が続いていることである。
だが、志智はお構いなしにフルバンク。
3速で全開。普通のライダーならば、2速の領域まで速度が落ちるところを一つ上のギアでクリアする。
ゆえにその立ちあがりスピードは、明らかにR1-Zを上回っていた。
(加速で負けるなら、まずコーナリングスピードをあげないとな……)
それも車体性能に大きな差がないとすれば、ブレーキングで上回るしかない。しかも、相手が大きく速度を落とさざるをえない悪条件。
つまりは減速帯の上で。
「いけるいける……すぐそこ!!」
入り口に減速帯を備えたコーナーを一つクリアするごとに、志智と橋本の差はどんどん詰まっていく。
下りではブレーキングの差が出る。そして、それ以上にパワーの差が縮まる。
R1-Zの爆発的な加速力も、それを発揮できる平坦な直線はすくない。上りであれば、重力がR1-Zとスパーダの差を大きく広げていたが、今は同じだけの力が両者の距離を縮めてくれるのである。
二灯のテールランプが近づく。コーナーをR1-Zが立ち上がるごとに吐き出す白煙へスパーダの赤い車体が突っ込む。
微かに鼻孔くすぐるだけだったオイルのにおいが、今は不快なほど濃厚に感じられる。
「もう……手が届く!!」
しかし、それでも志智に勝利の確信はない。
(あれがうまく行くか……それが全てだ!)
テール・トゥ・ノーズの至近距離でヘリポート脇のコーナーを駆け抜けつつも、三鳥栖志智の心臓は鼓動を早めるばかり。
(志智の方が速い……ですけど、やっぱり2stは反則ですわね……)
日原院亞璃須のXR650Rは、両者の激闘を一歩引いた距離で見つめていた。
もっとも、彼女にとっても全力でダウンヒルを走る志智のスパーダを追いかけることは困難である。
マージンを残す余裕はなく、少しでも気を抜けば自分が突き放されてしまうほどに、志智のブレーキングは猛烈であり、その総合的なスピードは恐ろしい領域に達している。
(あのエンジンさえなければ━━)
しかし、志智が橋本のR1-Zに追いついた時点で、亞璃須には両者をじっくりと観察する余裕が生まれていた。
なぜならぱ、橋本のR1-Zは志智のスパーダほど速くない。
しかし、大多磨周遊道路は峠道である。片側はあくまでも一車線であり、ところどころへ出現するセンターポールは追い越しを困難にしているばかりでなく、対向車も想定しなければならない。
結果として、志智のスパーダは橋本のR1-Zにぴたりとつけたまま、僅かにスピードを落とすこととなる。R1-Zからすれば、いわゆる『煽られている』状態である。
(ブレーキングは志智が圧倒的に上ですけれど……それだけじゃありませんね)
亞璃須が見つけた両者の差異は高速コーナーにあった。3桁の領域へ飛び込もうというコーナーでは、スパーダの車体が明確に安定しているのだ。
対するR1-Zはというと、ブレイクするには至らないまでも、今にも吹っ飛びそうな危うさがどこに見える。
(二台の差……まずサスペンション。そして、フレーム)
両者の重量には、ほとんど差が無い。
しかし、R1-Zの鉄フレームとスパーダのアルミフレームでは、剛性の差が歴然としている。
(R1-Zはフロント荷重が不足していることを考えても、スパーダの方が安定していますわね……)
もっとも、それは志智自身が気づいていないスパーダのモデファイされた部分にも、原因があるのだが━━
(でも、このままでは志智は勝てませんわ)
厳しい下りで両者のエンジンパワーは差が小さくなっている。
だが、ふるさと村の信号を過ぎ『大人区間』へ戻ってくれば、そこはおおむね平坦路が続く。
しかも、終点である川野駐車場付近には、長いストレートが二つもある。志智がどんなにVTエンジンのパワーを使い切ったとしても、全開の2stに追いつけるはずがない。
(たとえあのR1-ZがVTと同じ二気筒でなく……単気筒だったとしても、です)
VT250スパーダ、40馬力。R1-Z、45馬力。共に二気筒。
だが、250ccの2stエンジンには単気筒でありながら、スパーダと変わらぬ40馬力をたたき出すものも存在するのだ……。
(いったいどうするつもりです……志智?
今なら。今ならわたくしにバトンを渡してくれれば……あなたの代わりに━━)
XR650R、61馬力。
確実にR1-Zをストレートで追い抜ける、そのパワーが日原院亞璃須の小さな胸を悩ませる。
(信じられん……まさか!? なぜ!? どうして!?
いったい何が起こったってんだ!? エンジンパワーが知らないうちにダウンしてるのか!?)
スロットルを捻るも、むなしい叫び。R1-Zの1KTエンジンは快調そのものだった。ぐん、と後ろから蹴り飛ばされるような加速は、ミラーに映るスパーダを確かに引き離す。
だが、コーナー。その進入で差は簡単に詰まる。ブレーキングで負けている。その事実を橋本が認識するまでに時間はいらなかった。
(なるほど、これか……!!
うまいもんじゃねえか! 芦田の奴を抜いたブレーキングってのは、これか! なあ!)
それでも橋本は目の前の事実を認めないほど頑固ではなかった。
むしろ、志智が自分よりも勝るブレーキングの技量を持っていると知って、喜びの感情すら浮かんでくる。
「世の中ってのは広いなあ……おい! なあ!
ますます━━ますますもって、4stに乗らせとくのは惜しいぜ、三鳥栖!」
黄色へ変わろうとするふるさと村の信号を、二台のクォーターマシンが駆け抜ける。
(だが、ここまでだ!!)
右コーナー。その先に広がるのは、往路でスパーダを抜いた直線である。
(勾配さえなくなれば……なあ!)
3速全開。フロントが浮く。構いはしない。着地の瞬間、ハンドルががくがくと震えても、橋本は加速をやめなかった。
ストレートエンドのブレーキングは、文句無しだった。オーバーランしてしまうか、と冷や汗が出るくらいが、本当のフルブレーキングなのである。
橋本のR1-Zはそのとき、確かに真のフルブレーキングを敢行できていた。
(……終わったな、三鳥栖!!)
平坦路がおわり、下り勾配が戻ってくる。しかし、事実上最後の下りだ。
左、右と切り替えして、そこに待つのは『大人区間』名物のコークスクリューコーナーである。
逆S字にくねる下りの複合コーナーは、大多磨周遊道路最大の難所ともいえ、橋本が知っているだけでも幾人のライダーが命を散らしたか、数え切れない。
「ここだ……ここをクリアすれば、もう三鳥栖が俺を抜くポイントはない!!」
ブロッキングを知らない橋本だったが、ごく単純な心理でコークスリューの右コーナーをクリアしたあと、次に控える左にそなえてラインをアウトへ寄せた。
それは理想的な後続車への障害だった。なぜなら、コークスクリューコーナーをイン側からクリアしようとすれば、速度はがくんと落ち、スムーズな脱出は不可能となる。
━━そればかりか、速度を殺しきれなければ、対向のガードレールへ一直線なのだ。
「残念だったな、三鳥栖……」
勝利を確信した橋本が、目尻を笑わせようとしたその時。
赤い車体がイン側へ飛び込んできた。
~~~~~~Motorcycle Diary~~~~~~
「やっぱりここだったか……キミならそうすると思っていた」
その男は。
コークスクリューコーナーの対向車線、ガードレールの向こうで、スパーダとR1-Zを見つめていた。
左コーナー直前のほんの僅かなストレート部分で、R1-Zのインに飛び込むVT250スパーダの姿がある。
(驚異的なブレーキングだ……)
R1-Zのそれは基本に忠実で、そして安全なものだった。
コーナーの手前には必ずストレートにあたる部分がある。そこでしっかりと速度を殺す。しかるのち、バンクしコーナリングを始める。
だが、志智のスパーダは違う。逆S字であるコークスクリューコーナーの進入をはじめ、車体が大きくバンクしても、フレーキレバーを握ったままなのである。
フロントタイヤのサイドコンパウンドがまさに限界点を超えようかという領域。しかし、あくまでも一線を越えることなく、R1-Zを抜き去ったのだ。
(よほど技量に差がなければできないことだ)
あり得ないほど狭いスペースで、ありえないパッシング。
しかし、進路妨害ではない。それが証拠にスパーダはあきらかにR1-Zよりも速く、そしてスムーズに厳しいインからのコーナリングをクリアしようとしている。
「そして、後ろから来たR1-Zがキミを必死で追いかける━━」
そう、コーナーで抜かれても立ち上がりのパワーで追いつける。2stはそういうものだ。4stに負けることはない。
そして、最後のストレートで余裕のパッシングを……。
「今だ……今だ、やれ。そこで━━キミのひらめいたことを、やってみせろ!」
冷静だった男の声に熱がこもる。かつての情熱。峠の王者としての名をほしいままにしていた頃の、熱い昂ぶりを彼は確かに思い出していた。
(こ、こいつ……!!)
コークスクリューコーナーの進入で抜かれたのは、橋本伽藍にとって予想外のことだった。
しかし、勝利のシナリオが崩れるほどではない。一気にここから加速し、今度は自分がスパーダの尻をつつきまわす。
そして、最後に抜き去ればいい。それだけのロングストレートが『大人区間』にはあるのだから。
━━が。それは彼があくまでスパーダとの距離を至近に保っていた場合である。
(す、スピードが……ここまで……ぐっ!!)
はじめはスパーダがギアリングを間違えたのかと思った。あるいはガス欠でもしたのかと思った。
だが、そうではない。コーナーの脱出において志智のスパーダは理想的なアウト寄りのラインを走行しつつ、まったく加速しようとしない。
そればかりか速度を落としているようにすら思える……。
「ま、まずい!!」
スピードメーターの針がびっくりするほどの領域まで落ちている。橋本伽藍は慌てて左足を動かした。3速に入っていたシフトを1速まで落とす数秒。
だが、その僅かな時間が致命的だった。スピードメーターの針に比例して、タコメーターの針が落ちる。4000rpmを割った。
その瞬間をまるで見計らっていたかのように、志智のスパーダが加速した。
「くぅっ……くそぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉっ!!」
スロットルを捻る。ヤマハの一大発明である可変排気バルブYPVSが、R1-Zに必死で低回転からのトルクを与えようともがく。
しかし、それは所詮2stのレベルである。低すぎるトルクをなんとか補う程度のものである。
250ccエンジンのすべてを見渡しても並ぶものがないほどに、低回転から高回転まで全領域で安定したトルクを生み出すVTには、到底及ばない。
(やりやがったな……!!)
その時、R1-Zの加速は驚くべきことに原付並みといってもよいほどだった。対してスパーダは250ccらしい加速で、一気に差を広げていく。
じりじりと上がるタコメーターの針を橋本は見つめる。
まだか、まだ来ないのか! いや、やっと来た。7000だ。エンジンのパワーバンドだ。だが、その頃にはスパーダとの距離はかなり開いている。
「くそったれが……けどなあ! 最後までに差を詰めてやれば━━」
その瞬間。
『大人区間』のコークスクリューを抜けた平坦路。幾重にもつづく中速コーナー群の始まりに入った瞬間、橋本は驚愕に目を見開いた。
彼は今、はじめて志智がその全力を出し切ってブレーキングする姿を後方から見つめていた。
往路のそれとはまったく違う。橋本が車体を傾け始めるかというポイントで、スパーダのブレーキランプはようやく点灯する。
そして、ほんの一瞬で信じられないほど速度を落とすと、恐るべきクイックさでスパーダの車体をフルバンクへ持っていく。
(なんだ……!? なんだ、それは!?
どうやったら━━どうやったら、そんなことができる!?)
2速、そして3速を切り替えつつ、橋本はスパーダを追った。そのアクセラレーションは皮肉なことに、ほとんどミスがなかった。だが、スパーダの走りには一歩及ばない。
「くそっ……くそっ! くそぉ、くそぉ!!
うおぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉっ! くそがあぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁっ!!」
川野駐車場へのロングストレート。絶叫がR1-Zのチャンバーから鳴り響く排気音と重なり合う。
届かない━━あと一歩のところで。そう確信したとき、橋本はスロットルから手を離していた。
~~~~~~Motorcycle Diary~~~~~~
「負けた……俺の完敗だ……」
川野駐車場。ヘルメットを脱いだ橋本はそう言ってうなだれてから、エンジンを切っていなかったことに気づいたらしく、慌てた様子でキーを捻った。
しかし、未練をしめすようにR1-Zはアイドリングを続ける。ため息をつきながら、橋本がシフトペダルを押し込むと、ようやく1KTエンジンはディーゼリングを止める。
「ははっ、よっぽどエンジン熱くなってたんだな……水温計も結構いってるぜ……なあ」
「そうですね……」
橋本に笑いかけられてから、志智はスパーダの水温計がすいぶんと右側へ動いていることに気がついた。
真夏以外は街乗りでも水温計の針がほとんど動かないのが、VTエンジンに共通する特色である。実際、志智は思わずエンジンのダメージを疑ったほどだった。
「ま……あんだけ2速、3速ばっかで走ればな。
ニーハンといっても、正常かもな」
「あの……橋本さん。すごく速かったです」
「勝った側がそれ言うかあ?
お前、変な奴だなあ……まあ、芦田が勝てないわけだな」
「えっ、芦田さん? CBRの?」
「あいつ俺の後輩なんだよ。大学卒業したら、ウチの会社に引っ張るつもりでな。飲みに誘ったら、めっぽう速いVTがいるっていうからさ。
それで勝負をふっかけてみたら、この通り――返り討ちだ。情けねえったらな。なあ?」
「それは……えーっと」
「ふっ、お前が気にするこっちゃねーよ」
かっかっかっ、と時代劇の登場人物のように橋本は笑う。
「おもしれえなあ。おもしれえよなあ、三鳥栖。なあ?
あんたみたいな、とんでもねえ奴がいる……そんな奴と絡める……自分の腕を競い合える……バイクってのは、本当にいいよなあ」
「……そうなんですかね」
「んー? お前は違うのか?」
「でも、こうやって……その、やった後で言えることじゃないですけど。
橋本さんも俺も、とんでもないスピードで走って━━事故ったら死ぬかもしれないのに。そんなことして……いいんですかね」
「若いのに変なこと言う奴だなあ」
大きく肩をすくめると、橋本は神妙な顔になった。
「ま、こういうこと言うと何だがな……人間なんてちっぽけなもんだ。
生きるも死ぬも、仏様の手のひらの上だぜ。
気にしても仕方ないと思うけどな」
「……神様とか信じてないんですけど」
「別にそんなの好き好きさ。俺が言いたいのは、自分の命をどこに預けるかってことだ」
「命を……預ける?」
「そういうこった。俺達は必死こいて走ってたが、それでもお互いに転ばなかっただろ? 一線は引いて、マージンとって……走っていただろう?」
「それは……」
志智にはイエスといえなかった。
「そいつはちゃんと自分をコントロールしてるってことだ」
「………………」
「その上で、だ。何かあったときは、どーしようもない。
そんときゃ仏様の采配に任せるんだよ。運がよければ生きるし、ダメならそんときだ。
バイクに乗ってりゃ、自分だけじゃどうにもならん時はいつか訪れる。そういう時は割り切るしかないぜ。実際のところな」
「………………はい」
「おっと、モタロリのおじょーちゃんもお帰りだ。
しかし、お前達も変なカップルだよな。普通、乗るマシンが逆じゃねーか?」
「カッ――」
「はははははははははは! なーに、赤くなってるんだよ!!」
絶句する志智を指さしながら大笑いする橋本。
XR650Rを停車させた亞璃須が、いったい何事かという顔でその様子を見ている。
「ま……負けた俺はかっこわるく去るさ。またどこかで走ろうや」
「あの、えっと……橋本さん。2stって速いですね。なんていうか━━いい物を見せてもらいました。ありがとうございます」
「本当に変な奴だなあ、お前……あんな無茶苦茶な突っ込みするくせに、礼儀正しかったり……おじょーちゃんと仲良くな」
「あ、いや、別に亞璃須とは」
「じゃあな!!」
キック一発。橋本のR1-Zが走り出す。同時に訝しげな顔の亞璃須が近づいてくる。
「いま……わたくしのことで何か言ってませんでした?」
「言ってねーよ」
「嘘ですわね。亞璃須、ってはっきり聞こえましたけど?」
「それは幻聴だな。大多磨にいる霊魂の仕業に違いない。めでたいな、亞璃須。オカルト体質じゃないか」
「……別にいいです。吉脇に聞きますから」
「げっ」
志智が振り向けば、そこには、にやつきを抑えかねたような顔の吉脇がいた。
「ち、ちょっと待ってくれ……吉脇さん! 頼む! プリーズ!!」
「志智様、それは聞けぬ頼みというものです。お嬢様が望むなら、あなたの反応も含めて子細にお話ししなければ」
「なっ……!!」
「動揺するところを見ると、よっぽどわたくしに失礼な話をしていたみたいですわね? まあ、いいです。それなりのお礼をたっぷりしますから」
「く……ぐぐぐっ……くそっ……せっかく勝負に勝ったのに、なんでこうなるんだよ!!」
風張峠にわずか残った桜の花びらも散る五月。
月夜見からみつめる小河内湖は、来るべき梅雨にそなえてその水位をさげ、土の上を緑が覆い尽くす。
雨の季節が。そして夏が控えた五月。
三鳥栖志智と日原院亞璃須の物語は、まだまだ続く。