~Episode of Spring VII~
「どういう……ことなんだろうな」
二輪販売店『ハング・オフ・モータース』は、志智の自宅から歩いてもいける距離にある。
それでも━━月曜の黄昏時に。
もうすぐ千歳が腕によりをかけた夕食ができあがるだろうという時間に、志智がVT250スパーダにまたがってその場所を訪ねたのは、亞璃須の放った言葉が胸を騒がせてならないからだった。
「祇園田おじさん」
「よう、シー坊か」
ちょうど作業の合間だったのか。それとも閑古鳥が鳴いているのか。
大人の商売事情というものは、志智に測りかねるところだったが━━
どちらにしても店主の祇園田宗義はチェア代わりに仕立てた、フレームとシートだけのモンキーへ腰掛けて、のんびりしているようだった。
「なんだ、俺の言いつけを守って、さっそくオイル交換か?
いい心がけだな。よーし、今月は余ってる試供品もないからな。
俺の奢りでG3をいれてやろう」
「いや、オイル交換はいいんだけどさ」
「だったらプラグか?
あー、言ってなかったけどな。そのスパーダはイリジウム入れてあるから、数万キロは楽勝で保つぞ」
「プラグ交換でもないんだ」
イリジウムとはなんだろう。そんな携帯電話の名前を聞いたことが気がする。
頭の隅でそんなことを思いつつ、志智は祇園田に訊ねる。
「教えてほしいことがあるんだ。2stのバイクって……速いのかい?」
「そりゃあ速いさ」
祇園田は即答する。
「なんせ2stだからな……まー、そりゃあよ。バイクなんてのは基本的に腕だ。
けどまあ、どうにも2stだとな。うん、まあ2stってのはな。速いんだよ。おお」
「……何となくそういうものだっていうことはわかるんだけど、詳しく知りたいんだ」
「なんだ、2stに乗りたいとかそういう話か?
やめとけやめとけ。バイク便にも使うんだろう。向いてないどころの騒ぎじゃないぜ」
「バイトの話じゃなくてさ……。
亞璃━━知り合いが言うんだよ。同じ排気量だったら、4stは絶対2stに勝てないってさ」
「ほー。それで?」
「それって、本当に絶対なのか、ってさ。
俺にはよくわからなくて」
「勝つだの負けるだの言うってのは……ま、スピードのことだよな。
最高速━━それだけか?」
「いや、もっと総合的な意味での速さっていうのかな。
たとえば、結構長い距離で追いかけっこしたりとかさ……」
「まあ……正しいな」
祇園田は時間のかかる話になる、とでも言うようにコーヒーを志智へ差し出した。
「今は便利な時代だ……2stと4stの構造の違いは……ま、パソコンで検索でもすればいい。
問題は実際に乗って、走って、どうかってところだよな。お前が知りたいのはよ」
「うん」
「2stは━━速い。なんで速いかってな。パワーがあるんだ。
で、どうしてパワーがあるかってな。4stの2倍ガソリンを燃やすのさ。だからパワーも出る。これが本質的なところだ。
そして、4stにはどうあがいても追いつけないところだな。
なんせ向こうは2倍ガソリンを燃やすわけだ。そりゃ小手先の話じゃ、どうにもならない。
しかも、2倍ガソリンが燃えるわりに、構造が単純だからエンジンが軽いのさ……軽いバイクってのは、何をするにも有利なんだ。
そりゃあ、エンジンの排気量が同じだったら、4stにゃあ勝ち目がないよな……」
「そっか……」
「シー坊が生まれるよりずっと前……フレディー・スペンサーってライダーがいてな」
祇園田が指さした店内の一角には、B2サイズのポスターがある。
ゼッケン34。ラッキーストライクのロゴをあしらわれたスズキ・RGV-Γ500。
「あのライダー……シュワンツよりちょっと前だ。
まあ、ちょっとと言っても10年近いけどな。お前にとっちゃ、90年代前半も80年代も似たようなもんだろ」
「まあ、そうだけど」
「ああいう時代。ああいう丸っこいアナログな時代。
今ほど尖った感じのデザインじゃない時代さ……日本でもバイクのレースが大人気だった時代だ。
ホンダがな。4stのマシンで2stに喧嘩を売ったことがある。それも最高峰のレースでな。
で、それに乗っていたのはやがて世界チャンピオンになる男だった。それがフレディー・スペンサーだ」
「へぇ」
「……『ファスト・フレディー』の名前を聞いて、「へぇ」だもんなあ……俺が年をとるわけだよな」
志智の何気ないつぶやきは、予想外のダメージを祇園田に与えたらしい。
なんとなくばつの悪い思いで、志智はやや酸味の強いコーヒーを口へ運びつつ、次の言葉を待つ。
「まあ、とにかくだ。
結果から言うと、そんな男が乗っても4st……つまりホンダのNR500は、ヤマハやスズキの2stに勝てなかったんだ。
最高峰レースで、ホンダが必死こいてそれだ」
「そっか。やっぱり……どうにもならない、のかな」
志智の瞳はあくまで平静を装っている。
しかしそれはあくまでも装いだ。
薄皮一枚はがしてみれば、そこにあるのは大きな落胆である。
(ふん、なんか訳有りかな、こいつは)
祇園田宗義は幼い頃から三鳥栖志智を見ているのだ。
声でわかる。空気でわかる。ぎこちなく固まった表情でわかる。
何より、じっと琥珀色の液体を見つめる悔しそうな視線で、彼には伝わる。
「なあ、シー坊。一応、聞くが……2stって言ってもいろいろだ。
まさか原付スクーターと比べてるわけじゃないだろ。お前のスパーダと何を比べてるんだよ」
「ヤマハの……R1-Zっていうバイクだよ」
「3XCか。皮肉なもんだな」
「皮肉?」
「さっきホンダが2stに4stで喧嘩を売った話をしただろ。
こいつはあくまでレースの話だが、市販のバイクでもホンダは4stで2stに喧嘩を売ったことがある……。
それがVT250F。お前の乗ってるスパーダのご先祖様さ。
ライバルだったのはヤマハのRZ250。R1-Zのエンジンはな……TZR250っていうレーサーレプリカのエンジンそのまんまなんだ。
TZR250は250ccスポーツバイクとして、RZの後を継いだマシンだった……要するに、お前がスパーダとR1-Zを比べているのは、VT250F vs RZ250の競争みたいなもんってことだ」
「その……VTとRZの戦いっていうのは、どんな結果だったの?」
「皆まで言う必要はないわな。同じ250ccの4stと2stだぜ」
「そっか。よくわかったよ」
わかったと志智は言う。しかし、何がわかったというのだろう。
(何一つ納得しちゃいないくせにな……)
もはや隠すことのできない落胆と、それでもという意地にも似た感情が三鳥栖志智の瞳にはある。
(けど、それでいいんだ。
エンジンの形式やマシンの性能差で納得していいのは……プロのレーサーくらいなもんさ)
遠い過去からモーターサイクルの発展を、そしてそれを駆る者たちの競い合いを見てきた祇園田は知ってる。
(バイクを走らせるのは人間だ。
マシンの速さを最後に決めるのは腕だ……サーキットですらそうだが、路面の条件が悪くなればなるほど、腕の比率は高まる……)
凹凸一つないほど整備された、フルサイズサーキットですら。
そして、無数の悪条件と戦うオフロードならば、
━━さらには、あらゆる不確定要素をふくむ公道ならば。
~~~~~~Motorcycle Diary~~~~~~
「どうにも……ダメだな」
水曜日。川野駐車場。
5限までの授業の後、情熱的な色の切符を受け取っても文句が言えないほどの素早さで、大多磨周遊道路までスパーダを走らせた志智は、しかし苦悩の中にあった。
練習、という言葉を公道で用いることが許されるならば、絶好の条件と言えるはずだった。
平日。それも夕方という、もっとも交通量の少ない時間帯の大多磨周遊道路は、ほとんど志智ひとりの貸し切りといっても過言ではない。
━━川野駐車場から月夜見第一まで休み無く二往復。
対向車がいないことを確認して、ブレーキングを限界まで詰めてみた。アクセルをこれまで試したことがないほど大きく開けてみた。
(速くなっていない……)
それでも━━志智の表情には憂いばかりが降り積もっていく。
タイムを取っているわけではない。
しかし、自分が速く走れているときは感覚が教えてくれるものだ。乗れていると。うまくなっている、速くなっていると。
(あのバイクより速く走れるように思えない)
目を閉じる。志智の脳裏にはR1-Zの爆発的な加速が焼き付いている。
もちろん大型バイクのテールランプを見つめるのは初めてではない。
『おやっさん』のZRX1200は志智のスパーダより遙かに強烈な加速力を持っている。
いや、およそ排気量で勝るマシンはすべてそうだ。教習所用にデチューンされたCB400SFですらも、スパーダに加速で劣ることはないだろう。
(あの……鋭い加速)
だが、志智を悩ませているR1-Zの加速はどこか違う。
それは巨大な砲弾を火薬の力で押し出すような、大排気量マシンの加速ではない。
鋭利なナイフ。あるいは、アイスピック。
尖った切っ先。それを迷わず一点にたたき込むような鋭い加速なのだ。
「スパーダをあんなふうに加速させるには……どうしたらいいんだろう……」
━━そして、三鳥栖志智がもっとも本質的に見誤っていることは。
VT250スパーダをそのように加速させることなど、絶対にできない。
その事実に気づいていないことなのだ。
━━と、刹那。
「……ん?」
「やあ」
いつからそこに立っていたのだろう。そのバイクはいつこの川野駐車場へ滑り込んできたのだろう。
志智はその男とバイクにまったく気づいていなかった。
スパーダのすぐ後方。
横からみれば、顔なじみ同士が寄りそっているかのように、ヤマハ製のスーパースポーツバイクが一台停まっている。
「キミは……学生かい? 授業のあと、すぐ走り込みか。
気合いが入っているじゃないか」
その男は中年。あるいは青年。どちらに属するのか、なんとも判定しかねる顔立ちだった。
中性的というほどではないが、年齢の色がきわめて薄い。淡く笑う口元は、少年のようですらある。
背は決して低くないが、184cmの志智には及ばない。
それでも日本人の平均からすればすこし高いと思えて、スーパースポーツにまたがっていても、足つきに余裕が見て取れた。
「どうも、こんにちは」
「ああ、こんにちは、だ。
今時、キミみたいな奴は珍しいな……それにしても、なんだってこんな平日にまで走り込みを?」
「あ、いえ━━」
なぜ自分が社交辞令の挨拶に続けて、言葉をつむいでしまったのか。
誰かに尋ねられても、志智は答えられなかったに違いない。それはたった一つの表現しか当てはまらないものだったから。
つまり、何となく、と。
「週末に……その、R1-Zと一緒に走るんです」
「ふぅん……キミのスパーダとかい。
だけど、ここで走るということは……仲良くツーリングするわけでもないんだろう」
「ええ、どちらが速いか━━勝負するんです」
「くすっ」
この表情を破顔一笑と言っていいのだろうか。
男の笑みは女性的な匂いすら感じられる。
「VTとヤマハの2stがバトルか……何度見たことかな……」
「え? 見たことがある?」
「いや、似たような取り合わせならね。
昔はずいぶん目にしたもんだった。キミは━━ちょっと時代錯誤なことをやっているね。
僕たちにとっては、素晴らしい時代錯誤だけれど」
「はあ……」
訝そうに眉をひそめることはあっても、三鳥栖志智が男の言葉によって嫌な気分になることはない。
(なんだろう……この人……すごく話しやすいっていうか……)
理由はまったくわからないが、なぜか志智は目の前の男がすべての答え━━そう、すべてだ━━を知っているようにすら思えた。
どこか古いデザインのライダーズジャケットも、見たことのないグラフィックのあしらわれたヘルメットも、なぜか意味を持っているように感じる。
遠い時代から、何もかも見続け、そしてこれからも時を刻んでいくような……そんな仙人のような雰囲気がある。
「つまるところ、キミはスパーダでR1-Zを負かすビジョンが見えないわけだ」
「え、ええと、ビジョンっていうほどじゃないかもしれないですけど……なんていうか、自信が持てなくて」
「それはまあ当然のことさ。
排気量が同じなら、4stは2stに勝てない。両方に乗ったことがあるライダーなら、誰だってわかる。
何もオンロードマシンだけじゃない。オフロードでもそうなんだよ」
「そうなんですか……」
「ただ、2stには弱点があるからね」
「えっ」
その言葉を聞いたとき、志智は思わず右足を一歩踏み出していた。予想していたような顔で、ヤマハ製スーパースポーツ乗りの男は笑う。
「というより、2stは弱点だらけなんだ。
まず耐久性が低い……経年劣化に弱い……オイルで絶対に汚れる……うるさい……白煙が出る……プラグの寿命が短い……燃費が悪い……けれども。
キミが聞きたいのはそんなことじゃない。2stの走りにおける弱点だろう?」
「そ、そうです。俺はそれが知りたいんです!!」
「じゃあ、キミの乗ってるマシンにめんじて、教えてあげよう」
そう言いながら、男はスパーダへ視線を向けると、懐旧の目をした。
ただ車体を見るだけではない。ホイールを、ハンドルを、ブレーキマスターを、アンコ盛りしたシートを、マフラーですらも……。
(あ━━)
その瞬間、志智は気がついた。
この男と会うのははじめてではない。芦田のCBR250RRと勝負したあの日、スパーダを見ていた通りすがりと同一人物なのだと。
「2stの弱点は……トルクさ」
「トルク……? トルクってなんですか」
「キミは純真無垢だね。なかなか新鮮だよ。
トルクというのは、『力』そのものだ。トルクに回転数がかかって、仕事━━つまり、馬力になる。
まあ、そんな話はどうでもいい。2stっていうのは、4stよりずっと力がある。パワーがある。
だけど、4stに比べてその出方にムラがあるんだ」
「ムラ……ですか」
「キミはどっかんターボとか、ピーキーとか……そういう言葉は知ってるかい?」
「いえ」
「そうか」
志智が首を振ると、なぜか男は嬉しそうな顔をする。真っ白なキャンバスを前にした芸術家のように笑う。
「簡単にいえば、回転数によってトルクに違いがありすぎるんだ。
もっとピンポイントでキミの求めている答えをあげると、低回転ではスパーダよりずっとトルクが低い。つまり、遅い。
2stっていうのはおもしろいエンジンでね……仕上げ方次第では、高回転を逆に遅くして、低回転をパワフルにしたりもできるんだが……少なくともR1-Zはそういうエンジンだ」
「高回転まで回さなければ……スパーダより遅い……」
「そう。それこそホンダのVTエンジンがヤマハRZの子孫たちに対して、明確に勝っているポイントだ」
はっと目を見開く志智。
ひらめきである。つながらなかった一点がつながり、電流が通るようになった瞬間。闇の中で、たった一つの冴えた答えが導き出された時。
「4stが2stに対抗しようとするなら━━まして、R1-Zの1KTエンジンにVTで戦いを挑むなら。
そこに賭けるしかないと、僕は思うけどね」
「あ……あの、ありがとうございます!!
本当に……! なんだか、迷路の出口が見えた気がします!」
「いいって。大したことじゃない」
深々と頭を下げる志智に、男は軽く手を振って自らの愛機に乗り込む。
今となっては旧型に近いヤマハ製のスーパースポーツバイク。
しかし、その戦闘力は今でも一級品だ。ましてデザインに限るなら、ベストに限りなく近い領域へとどまっている。
鋭くも品を感じさせる双眼。流麗的なフォルム。そのカウルは深い紫にオールペイントされている。
2002年式ヤマハYZF-R1。それが男の愛機だった。
「━━あ」
エンジンが始動し、男が走り出してから志智は気がつく。
「名前……聞いておけばよかったかな」
濃厚にして重粛たるリッターSSの排気音が響き渡る。
(いい音、だな……)
川野駐車場に入ってきたとき、これに気がつかなかったのはきっと自分が考え込んでいたためなのだろうと。
志智は自らを納得させた。そんなことよりも気にすべきことがあったのだ。
(低回転……あのバイクのエンジン……その回転数を、落とす方法!!)
そこに光明があり、挑戦があり、そして勝利と高揚があるはずだった。