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~Episode of Spring V~

 五月。緑が萌え盛り、風と空気に暖かさが宿る季節。

 冬の気配はいよいよ夜の世界からも追い払われて、やがて訪れる夏の影すらも感じる月。

「おにいちゃん、起きてよ。ね、お弁当忘れてたよ~」

「ん……?」

 三鳥栖志智みとす しちは二時限目が終わった後のうたた寝から、心地よい呼びかけによって引き戻される。

 目を開ければ、そこには程よく伸びた栗色の髪をアップ気味にうしろでまとめた妹の姿がある。

 その目元は少しだけ困ったように丸まり、小さな唇と反比例するようにたっぷりと育った胸元が存在を主張していた。

「なんだ、千歳ちとせか。まだ朝じゃないだろう……おやすみ」

「もう学校にいるよ~。

 おにいちゃん、今日、先に出ていったのはいいけど、お弁当忘れていったでしょ。だから届けに来たの」

「……そういえば、そんなことがあったような気が……するな」

 片足を夢の世界へ突っ込んだまま、志智しちは自分の置かれた状況を整理する。

 ああ、そうだ。昨夜はいつものようにバイク便のアルバイトがあって、まったくの寝不足で。

 それでいて、今朝はくだらない日直の野暮用を仰せつかり、30分ほど早く学校へ来て、花への水やりや日誌の記入といった雑事をこなさなければならなかったのだ。

(朝早いって言い忘れてたから、千歳のやつが慌てていたっけな……)

 それでいて文句の一つも言わずに、弁当を包んでくれた自らの妹を好ましく思いつつ、家を出たことだけはよく覚えている。

 結果として、その証というべきものを忘れてきたわけだから、意味もないというわけだが。

「いや━━ああ、思い出した。目が覚めたよ。悪かったな、千歳」

「お、おにいちゃん……こんなところで頭なでられたら、その……は、恥ずかしいよぉ……」

「ん? 何がだ?」

 ぽーっと頬を染める千歳。志智は怪訝そうな顔をしつつ、ほっぺたぐにぐにもほしいのだろうかと勘違いしてしまう。

「まあ、なんにせよありがとうな」

「うんっ。でも、おにいちゃん、すごく眠そうだったけど、疲れてない? 保健室いかなくていい?」

「ただの睡眠不足くらい、なんてことないだろ……教室の中って、どうも眠くなるんだよな」

 窓に向けて視線を巡らせると、そこは羨望と冷やかしに眼差しでこちらを見るクラスメイト━━はどうでもよいことであり、見事に晴れ渡った青い空があった。

「今日は外で食べたいな……屋上でもいくか」

「あ、お昼屋上で食べるの? やたーっ」

「……喜ぶようなことか?」

「だ、だってね、おにいちゃんいつも教室で食べてるよね。亞璃須ありすさんとかと一緒にね」

「まあ……そうだけどさ」

 なぜか目をきらきらさせる千歳に、志智は首をかしげながらそう言った。

「ね、ね、おにいちゃん。わたしも一緒にいっていい? 屋上」

「好きにしていいぞ」

「わ~い!! おにいちゃん、ありがとう! それじゃあ、お昼にね~!」

「……変な奴だな……」

 ぱたぱたと上履きの音を立てながら教室から出て行く千歳を見送りつつ、志智は独りごちる。

「別に昼飯くらい、いつでも一緒に食えるだろうにな……」

「━━わたくしにはむしろ、妹の気持ちがわからない鈍感なあなたの方が滑稽ですけれどね」

「……ふーん?」

 志智の視線は三時限目開始まで二分の位置をさしている時計に。

 そして、彼の前に立った日原院亞璃須にっぱらいん ありすの胸元は六時三十分を示している。

「ふん……ああ、なるほど……うーむ」

「? なんですの、わたくしと時計を見比べて」

「千歳のあとだと……これは……ひどいな」

「は? なにか━━は? とても━━は? すごく━━は?

 失礼なことが聞こえた気がしましたけど━━は?

 も・う・いっ・ぺ・ん━━は? 言ってもらえますか、志智?」

「わかったわかった。俺が悪かったから、睨むな。顔を近づけるな」

 右目には海より深い青。左目に闇ほどに濃い黒を宿した、亞璃須ありすの不満顔が間近にある。

 こうして半眼になっていてもなお、実に愛くるしい顔立ちをしていると言ってよいだろう。

 彼女に睨み付けられて「ご褒美です」と言う者すらいるかもしれない。

 だが、普通の高校にいれば、言い寄る男に事欠かないであろう彼女の周りにそれらしい影がないのも、そして同性から嫉妬混じりの中傷にさらされないのも━━

「そもそも、あなたはわたくしの運命の相手なんですから、もう少し配慮があって然るべきです」

「またそれか。転入初日にやらかしてから、ブレないよな……お前は」

志智しち。あなたには義務があります。

 わたくしを引き立て、わたくしの良い点を褒めたたえ、足りない点には目をつむる義務が」

「つまり、お前の胸が視界に入ったら俺は自動的に前が見えなくなるわけか。

 ろくに会話もできないな」

「むっ、胸が足りないとは決まったわけではないでしょう!!

 あなたの妹さんが早熟すぎるだけです!」

「そりゃまあ、千歳のやつは育ちがいいけどな……」

 くわっと強ばった亞璃須の表情を、ぷるぷると震える肩を、そして微動だにしない胸元を志智は見ていない。ろくに会話もできないからだ。

「いつも並ぶのは後ろの方だって言ってたな。女子にしては背、あるよなあ」

「あ、ああ……そっ、そういう意味でしたか……」

「……なんだ?

 背を高くしたいなら、定番は牛乳らしいが、俺達の身長はたぶん遺伝だからな。まあ、分の悪い努力だと思うぞ」

「わ・た・く・し、は! 別に背が高くなりたいわけじゃありませんからね!!」

「ああ……ふーん」

 志智の机に拳を一撃。

 千歳とは対照的にVツインエンジンのアイドリングのような足音で亞璃須は去っていく。

(いったいこいつは何の話がしたかったんだ……?)

 その小さくも毅然とした背中を見送りながら、そんなことを志智は考えていた。


~~~~~~Motorcycle Diary~~~~~~


 数時間後。昼休み。

 中高一貫校である南田磨校の屋上は、ゲート付きのブリッジで連結され、中高の校舎ごとに行き来ができるようになっているが、それを渡る者はすくない。

「三限と四限にいろいろ考えたんだが、どうやらこいつは胸を大きくしたいらしい。千歳、やり方を教えてやってくれ」

「えっ……え……ええ~~~~!?

 あのあの……あ、亞璃須さん……お、おにいちゃんの言ってること、本当ですか?」

「志ぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃ智ぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃ!!

 あなた一体何を考えてるんですか!! どうやったら、わたくしの話がそういう解釈になりますか!?」

「いやだって、別に牛乳飲んで背を高くしたいわけじゃないんだろ?」

「だからといって、胸の話はしてません!!」

 どすん、と。

 志智の机へ叩きつけられた時の数倍の威力で、亞璃須の右拳が屋上のコンクリートを打つ。

 足下にはシート代わりに広げられた小さなクロス。

 千歳と志智の弁当がその上に並び、亞璃須が購買でかってきたやきそばパンは、まだラップにくるまれたままで転がっていた。

「いや、だったら何だって言うんだよ、わからねーやつだな……千歳、箸くれ」

「はい、おにいちゃん」

「いただきます」

「いただきます~」

「いいですか、志智。

 わたくしはつまり、妹さんからしたら上級生の教室には入りにくい……もちろん昼食を一緒にたべたくても、なかなか難しいということを━━」

「今日の弁当はいつにも増してうまいな」

「新しい隠し味に挑戦したんだよ~。あのねあのね、おにいちゃん。なんだと思う?」

「そう言われてもわからないな……なんか爽やかな感じがするが……はむ」

「妹さん本人が言いにくいことですから、わたくしが説明してあげようとしただけですわ! そういう心の機微というものをですね━━」

「むぐむぐ……まあ、とりあえずうまいから隠し味の正体は不明のままでいいかな」

「おにいちゃん、お米粒ついてるよ。ぱく」

「ああ、悪いな。お前も唇にソースがだな……ほれ」

「ひゃん」

「ぬあああああ!!

 わたくしの前でぇぇぇ、兄妹いちゃつくなあああああああああああああああああ!!」

 亞璃須ありすの絶叫が屋上全体に響き渡り、志智たちと同じようにランチを楽しんでいた者がいっせいに振り向いた。

 太陽が一瞬、雲に隠れる。

 バスケットボールだろうか。何かが跳ねる音がグラウンドから聞こえてくる。やや遠くの甲州街道からは救急車のサイレンも。

「……平和だな……」

「う、うん。そうだね」

「……兄妹仲がいいのは大変よろしいことですが、志智。

 あなたはもう少し優先度というものを考えるべきです」

「だから、その運命のなんとかはお前が勝手に言ってるだけだろ」

 男の食事は早い。志智は瞬く間に弁当の残りをたいらげると、それが当然であるかのようにコンクリートの上へ寝転がった。

「え? えっ? おにいちゃん?」

「あー……」

 いや、日差しに暖められた堅い感触は首から下だけである。

 志智の後頭部は、すっぽりと千歳の膝の間におさまっていた。

「寝不足なんでな。千歳、残りの昼休みこうさせてもらうわ」

「う、うん……わたしは別にいいけど」

「……言っておきますけれど、膝枕の感触だったら、わたくしも負けていないと思いますわ」

「お前の膝は遠慮しとく。あんがい鍛えられてて堅そうな気がする」

「ぐぬぬ……」

「あ、亞璃須さん、落ち着いて……おにいちゃん、本気で言ってるわけじゃないと思うから……」

「まあ、それに……誰かに見られたら恥ずかしいし、な」

「………………」

「………………」

「……くぅ」

 真実、寝入っているのか。あるいは狸寝入りなのか。

 実の妹である千歳にも判別はつかなかったが、少女二人の交わし合った視線は、戸惑いにも似た驚きの色を含んでいた。

 五分が過ぎ、十分が過ぎる。

 兄の寝顔を幸せそうな微笑みで見つめる千歳の不意をついて、亞璃須の指が志智の頬を突き刺した。

「ん……ぐ、う……」

「起きない……本当に寝てますわね」

「おにいちゃん、寝付きすっごくいいんですよ」

「……鈍感な志智らしいですわ」

「あはは……そうかもしれませんね。

 おにいちゃんがもしわたしだったら、三年生の教室にもずかずか入っていって、一緒にご飯食べちゃうんだろうなあ……」

「ええ、そうですわね。

 あなたと志智の立場がもし逆だったら、肉親の膝枕は恥ずかしくないけれど、自称・運命の相手の膝枕は見られたら恥ずかしいだなんて、口が裂けても言わないでしょうね」

「もちろんですよぉ」

「……ほんとうに、仕様のない人」

 午後の授業前を告げる予鈴が鳴りひびくまで、二つの微笑みが三鳥栖志智を見おろしていた。


~~~~~~Motorcycle Diary~~~~~~


 同時刻。日原院の家━━すなわち、亞璃須の自宅。

「おや、あなたですか。久しぶりですね」

 吉脇の役職はあくまで亞璃須にお付きの執事ということになっているが、現実的にはそれ以外の雑務もこなさなければならない。

 古式ゆかしき明治、或いは騒がしくも華やかな大正、かくして激動の昭和も遠くなり、経理や調理などに専門の人材を置ける余裕は、日原院にっぱらいんの家にもなくなっている。

「ええ、結構なことです。

 あの時、見ていましたね……ふふふ、声をかけなかったのはお互い様というものでしょう。

 そもあなたが興味を持っていたのは、あの車体と彼だけではありませんか」

 ぶ厚い冬用のカーテンもそろそろ交換しなければ。

 携帯電話というものは不便である。なぜならば、固定電話の受話器ならば顎と肩で挟める分、両手が動かせるからだ。

 そんなことを考えながら、吉脇の左手は帳簿らしき紙にむかって、ペンを走らせてつづけている……。

祇園田ぎおんださんのところへは顔など出されて?

 ああ、まだならば早くしたほうがいい……あの人はそういうところ、うるさいですからね。ええ……まあ、そういう年の頃です。

 近いうちにまた『かっとび』の皆で集まって一杯やりたいものですね。もっとも、私の体が空くかはわからないところですが……はい。

 では、ごきげんよう。我が旧友━━谷川淳」

 通話終了のボタンをおすと、彼らの時代に流れていた音は無く、ただ静寂だけが訪れる。

「ツーツーツーという音も、いまでは懐古の一葉というわけですかね……」

 吉脇が目を細めて振り返るのは、遠い時。彼らの時。

 モーターサイクルが、ライダーが日本中にあふれかえり、何もかもが明るく見えた時。

「あのスパーダ……時代の忘れ形見と言えるかもしれませんね」

 不意に葉巻をやりたくなった。しかし、しばらくその機会はあるまい。

 仕える相手が学業を終えて帰ってきたとき、紙巻きのそれとはまったく異なる強い香りをまとって出迎えるわけにはいかない。

 それが可能なのはガソリンやオイルの匂いがすべてを覆い隠してくれるタイミング━━つまり、亞璃須をともなってトランスポーターのハイエースで大多磨周遊道路へ出かけた時だけなのだ。

「ふぅむ……」

 懐旧の記憶に心を沈める吉脇の鼻孔をくすぐるのは、どんな時でも前を行っていた『彼』のマシンが残す、カストロールの香りだった。

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