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~Episode of Spring IV~

 ━━なあ、千歳。俺が危ないことをしたら、お前はどう思う?

(つまらないことを訊いたかな……)

 小河内湖側にある大多磨周遊道路・川野駐車場をめざして走るならば、それはいちど全線を下見することに等しい。

 少しずつ冷え込んできた夕暮れの空気を、ライディングジャケットの袖口で感じながら、三鳥栖志智みとす しちは出かけるときに妹と交わした言葉を思い出していた。

 ━━危ないことってなに? おにいちゃん?

 ━━別に大したことじゃないけどな。たとえ話だよ。

 ━━わたしは……怖いなあ、そういうのは。してほしくないよ。おにいちゃんに何かあったら、わたし生きていけないもん。

(バカな兄貴だ、俺は)

 一抹の後悔をかみしめながら、山肌に残る白いものを見つめる。数日前に降った雨は、この山間部では雪になっていたらしい。

 とはいえ、路面はすでに乾いており、春先のモーターサイクルライダーがもっとも嫌う白い欠片━━つまり、凍結防止の塩化カルシウムも見られなかった。

「気兼ねなく走れる。それはいい、か」

 月夜見第二駐車場を抜けた先で、この時間には珍しいトラックを軽やかにパスし、じりじりと平均速度をあげていく。

 コーナーの途中でも70kmを超えなかったスピードメーターの針がほとんど三桁に張り付こうという頃、志智の駆るVT250スパーダは大多磨周遊道路の北端、川野駐車場へ到着した。

「来ましたわね、志智」

「もう来てたのか、亞璃須ありす

「怖じ気づいて来なかったら、どうしようかと思いましたわ」

「ふざけろよ」

 軽く笑い飛ばした志智に、日原院亞璃須にっぱらいん ありすもまた薄い笑顔でこたえる。

 亞璃須の服装はいつものようにゴシックロリータのそれだった。

 しかし、彼女の背後ではハイエースから執事の吉脇が、彼女の愛馬たるXR650Rを引きだそうとしている。

「妹が━━千歳がさ、危ないことはしてほしくないって言うんだ」

「でもここに来ましたわね。妹さんの願いに反する形で」

「まあ……そうだよな」

「それはなぜ? 妹思いのあなたがどうして? わたくしが勝手に約束した勝負なのに? 投げ出してしまっても良かったのに?」

「……わかってることを、わざわざ口にさせようとするなよ」

「女という生き物は、たとえどれだけ自明であっても「愛してる」と口にしてほしいものです」

「ん~…………」

 グローブを外して、自分の両手を三鳥栖志智みとす しちは見る。

 震えてはいない。しかし、その表面には汗が浮かんでいる。

 人差し指と中指は、勝手にブレーキレバーを握る形に動こうとする。

 それ以外の指と手首は絶妙の呼吸で共謀して、スロットルをひねる形に━━

「そうだな、認めるよ。

 俺は期待している。……楽しんでいるよ。危険なばかりで、何も得るものなんてないはずのバトルに」

「バトルだなんて格好をつける必要はありませんわ、志智。

 あなたとあの男はこれから追いかけっこをするだけ」

「追いかけっこ、か」

「そう、追いかけっこ。ささやかな遊びです。でも、とっても楽しい」

「そして、勝者と敗者がいる」

「あなたは勝ちたいですわね」

「━━まあな」

「その目がみたくて、わたくしは出しゃばりました」

 身長184cmの前に、148cmが立っている。

 巨人を見上げるときの角度で。そしてただの友人には許されないほどの近さで。

「真っ赤になるまで熱した鉄板へ、とびきりの稲妻と一万本の針をぶちまけたような目」

「………………」

「楽しみですわ、とても」

 その一瞬だけ日原院亞璃須にっぱらいん ありすは童女のように無邪気な笑顔をみせた。

 遠くから、か細くも気高い四気筒の咆吼が聞こえてくる頃には、亞璃須の姿はハイエースの中へ消えている。

「来たな……あれっ」

 そのとき、三鳥栖志智は気づいた。

 少し離れた場所から自分のスパーダへ視線をおくっている男女がいる。

 いや、それはあくまでも控えめなものだ。興味津々といった様子ではない。

 こんなバイクも今日は走っているのだ、という程度の淡々とした━━それでいて、冷静な。

「……ここに、あったのか」

「?」

 声を発した主。

 すなわちライディングウェアをまとった一人の青年は、志智を見ることはなく遠ざかっていく。

「なんだ……?」

 疑問を解消する時間はなく、彼の対戦相手は到着した。

 川野駐車場。気温12度。風ほとんどなし。ベストコンディションというのには、やや冷える。


~~~~~~Motorcycle Diary~~~~~~


「よう、ちゃんと来てくれたんだな」

「………………どうも」

 芦谷あしやに対して志智が軽い会釈だけで済ませたのは、あふれ出しそうな感情の熱をおさえきれないからだった。

 今は━━口数など少なければ少ないほどいい。

 びっくりするほど挑発的な。失礼なことを言ってしまうかもしれない。

(そのくらい、俺は……)

 三鳥栖志智は闘志をたぎらせ、もてあましている。

「音、ちょっとうるさいかもしれないが、今回だけだから勘弁な」

「………………」

「消音バッフル、外してきたんだ。

 キャブレターもいじってきた……やるからには、フルパワーでいきたいからな」

「そう、ですか」

「そっちはどうだ。そんな新車のMC41についてそうな、ツーリングタイヤでOKなのか」

 曲線がのたくったようなパターンが刻まれた、スパーダのフロントタイヤを指さしつつ、芦田は訊ねる。

「………………いや、俺はタイヤとか詳しくないんで」

「そうなのか。気を悪くしないでほしいんだが、こっちはラジアルのハイグリップだ。

 無理だと思ったら、必死にならない方がいいぜ……勝負とはいえ、事故ってはほしくないからな」

「俺も、同じですよ」

 丁寧に、なるべく丁寧に。

 乾いた唇を上下させながら言葉をつむぐ志智しちの脳裏には、千歳ちとせの困った顔がよぎっている。

「ふぅん、そうか」

 対して、芦田の表情は自信満々といった様子だった。

 負けてたまるかという領域を通り越して、いや、負けるはずがないのだと確信したときの爽やかさすら感じさせる顔だった。

 志智はどうかと言えば━━暗黒の中にまたたく青い炎である。

 それは目立たず、主張しない。しかし、おそろしく高い温度を持ち、触れればヤケドどころではない。

(先週とはずいぶん違うじゃないか。

 結構なことだ。俺としては、そっちがその気になってくれれば、それでいい……)

 街中ならば、どんな因縁をつけられても文句を言えないだろう志智の鬼気迫る視線に、芦田はこの上ない満足感をおぼえている。

「さあて。二人とも、準備は万全ですわね?」

 視線を絡め合う二人に割り込んだのは、亞璃須ありすの声だった。

 フリルあふれるゴシック・ロリータから、ボディラインをあざやかにトレースするレーシングスーツ、いわゆる革つなぎへと変身した彼女を、芦田は一瞬「誰だこいつは」という目で見る。

「まさか、とは思うが……あのときのゴスロリお嬢ちゃんか?」

「その呼び方、やめてほしいと言ったはずですけど。まあ、そういうことですわ」

 亞璃須が眉をひそめると同時に、背後でトタタタタッ、と太い排気音が自らを主張しはじめる。

 キックスタートを終えた吉脇が、車体を亞璃須の前まで引っ張ってくる。

「……まさか」

 このマシンをみるとき、ほとんどのものがそうであるように、芦田は小排気量マシンと勘違いしたのだろう。

 250? 400? いや、50もXRにはあるのだ。

 だが、シートに白く描かれた文字は『650R』。

「おいおい、マジかよ……こんなバケモノ、あんたが乗るんじゃないだろうな、ゴスロリお嬢ちゃん」

「そのまさか、です。わたしくがあなたたちを後から追いかけて、ジャッジ役をします。

 勝負を邪魔するようなことはしませんから、お気になさらず」

「生意気なこと言いやがって……ピストン一個しかないくせに……」

「そちらのピストンこそ四つもある割に、原付に毛が生えたようなサイズですけどね」

「ちっ」

 ぴくぴくとコメカミをふるわせながら、芦田は亞璃須に背を向けると、同意を求めるように志智を見つめた。

「依存はないか、三鳥栖みとす

「ああ。こういう形になるってことは、分かってた」

「そうか、お前ら知り合いだからな……スタートはどうする。横一列に並んでやるか?」

「いや」

 そのとき、はじめて志智は自分の精神に。心に。

 そしてもっとも直接的には━━声帯へ課していた制限を解き放った。

「芦田さんが先でいいよ。どうせ……どうせ俺がぶっちぎる」

「……言ってろよ、高坊が」

 CBR250RRとVT250スパーダ、四気筒と二気筒あわせて六つのプラグで。

 そして三鳥栖志智と芦田浩平。二人の視線の中間点で。

 七つの火花が散る。弾ける。ガソリンを、酸素を、闘志とプライドを、灼く。


~~~~~~Motorcycle Diary~~~~~~


「分かっているかもしれませんけれど、対向車線を使うのはストレート以外御法度です!!

 それと一般車には迷惑をかけないこと!

 区間はここから月夜見第一駐車場を折り返して、およそ20km!!」

 亞璃須ありすの声に志智しち芦田あしだが左手を挙げて了解の意思をしめす。

 CBR250RRが先に駐車場を出る━━続いてスパーダも。そのとき、シグナルはブルーになったのだ。

 二台のマシンが一斉にフル加速。

 その後をややけだるい感すらある吹け上がりで、亞璃須のXR650Rが続く。

「さて、始まりましたか」

「よう吉脇さん。モタロリちゃんたち、面白そうなことやってんじゃん……ヨ」

 三つの背中を見送った吉脇に声をかけたのは、ZRX1200の『おやっさん』だった。

 プライベートな面識でもあるのだろうか。吉脇も当然のような顔をして応じている。

「レースごっこねえ……バイクブームの頃はそこらじゅうでやってたな。

 あんな危ないことやらせて、大人としてはどうなのさ……ヨ」

「昔と今では違いますよ。

 我々の頃は無法地帯もいいところでしたが、今の若者は踏み越えてはいけないラインくらい知っているでしょう」

「ま、そうだよな」

「とはいえ、ラインは踏み越えてはいけないものであって━━」

 吉脇は細長いケースをとりだすと、その中にある薄茶色の物体を手に取った。

 葉巻である。おそらく携帯用のシガーケースなのだろう。

 一緒におさめられていたカッターで先端を切り落とすと、握り拳ほどもあるごついライターでじわじわとあぶるように着火する。

 カットした面を口元へ運ぶ頃には、独特の芳香と共に紫煙が立ち上っている。

「そこに足を置くくらいは……若さの中で許されてもよいと思いますがね。あなたも一本いかがです?」

「あ……お、おう。もらうよ。

 葉巻かー。ハナバ産のやつが好きでなー。はははは」

 これでいいのか、と確認するように目線をチラチラと吉脇へ投げながら、『おっちゃん』は差し出されたもう一本の葉巻をカット。

 ターボライターで先端をあぶりながら、口にくわえる。そして、猛烈に咳き込む。

「ぐぉへっ!! げほっ! ごほっ……ごほ……ほっ……ぶへー!!」

「葉巻は吸い込みながら火をつけてはダメですよ」

「ブ、ブルジョワめえ……」

「せめてバブリーと言ってほしいですな」

 仕える主にはなかなか見せない喫煙の姿で、そして決して見せない悪戯っぽい笑みで、吉脇はそう言った。


 すべてのコーナーをぎりぎり青切符で曲がれるようになって二流。

 大多磨周遊道路で明らかに『速い』と表現されたいならば、その先へいかなければならない。

(まずは小手調べだぜ、三鳥栖……!!)

 川野駐車場を出て、すぐに彼らは一本の橋を渡る。

 その先にある左コーナーは大多磨周遊道路を走る者にとって、技量をはかる一つのポイントだ。

 ホンダの誇るカムギアトレーン・250ccマルチエンジン。17000rpmをゆうに超える領域から、芦田のCBR250RRはハードなブレーキングを敢行する。

 しかし、ただ止まるだけなら教習所の中でも出来ることだ。減速もほどほどにCBR250RRは左側へその車体をバンク。時速100kmをメーターが指し示したまま、コーナーを抜けていく。

 このマシンが登場したとき、決して望めなかった絶大なグリップをもつラジアルハイグリップタイヤは、そのコーナリングにもすました顔で応える。

 ミラーを一瞥すれば、ほとんど変わらない速度で後方から赤い車体が追いかけてきた。

「へえ……コーナリングは互角ってことか。嬉しくなってくるなぁ、おい!!」

 誰が聞くわけでもないフルフェイスヘルメットの中で叫びながら、芦田は次のコーナーへむけてスロットルをひねる。

 四気筒エンジンがそれより少ない気筒しか持たないエンジンに対して絶対的に勝る点は、なんといっても吹け上がりである。

 いかなる抵抗も存在しないのではないかという勢いで、タコメーターの針は飛び上がり、20000rpmの領域へと近づいていく。

「━━ふっ、う!!」

 シフトダウン一発。軽く膝をだしながら右へバンク。

 川野駐車場を出てから続く、この二つのコーナーとそれをつなぐ比較的長いストレートだけで、ほとんどのマシンは脱落すると言ってもよい。

(コーナリング……エンジンパワー……そして、ブレーキ。全部が表に出るからな)

 ミラーを見つめるのは余裕の証だった。映る赤いスパーダの姿。

 離れている。第一のコーナーよりも明らかに、だ。

(大したことはない……!!)

 カムギアトレーンが紡ぎ出すCBR250RRのエンジン音は、カムチェーンを採用したいかなるエンジンにも実現できない、芸術的な狂奏である。

 無数のギアが超高速でかみ合い、圧倒的な回転数でまわるクランクと上下するピストンが、この世に唯一無二ともいえるエキゾーストノートを実現する。

 高く、それはどこまでも高く。そして、金属的。

 まさにエンジンというものをソプラノの方向へ追求しきったなら、この音になるだろうといったサウンド。

(すぐにミラーから消してやるぜ、三鳥栖!!)

 芦田のCBR250RRは川野駐車場から続く『大人区間』のメインである、中速コーナーが連続する領域へと飛び込んでいく。


「速いな……こいつ」

 芦田さんでも、あなたでも、あんたでもない。

 すでに志智の中では、CBR250RRは『こいつ』なのだ。競い合う相手。闘争心をぶつける相手として、その者を表現するなら、年の差など関係なく、そうなってしまうのだ。

 VT250スパーダ。

 V型二気筒DOHCのエンジンは8本のバルブを寸分狂いないタイミングで上下させ、志智のスロットル操作にこたえてくれる。

 芦田のCBR250RRと志智の走りには明確な差があった。

 エンジンパワーは確かに違う。芦田がコーナーを抜け、全開加速するたびにスパーダとの差は、目で見てわかるほどに開く。

 だが、それがわかっていながら志智はスパーダのスロットルをラフには開かなかった。

 むしろ機嫌を探るかように、じわじわとその角度を変え、しかし、コーナーへ飛び込んでもほとんど変化させることはない。

(このくらいのスピードで曲がれれば……突き放されることはないよ、な)

 芦田は気づいていなかったが、志智のスパーダはCBR250RRよりもわずかに速いスピードで各コーナーをクリアしていく。

 それが結果的には、ストレートでの差を埋め、両車の距離を一定間隔に保っている……。

 そろそろ逃げられてしまうか、という距離を保ったまま志智のスパーダと、芦田のCBR250RRは『大人区間』を抜ける。

 キャンプ場を備えた施設『ふるさと村』へ分岐する交差点。

 青信号を二台のモーターサイクルは駆け抜けつつ、右へフルバンク。厳しい登りの領域へと突っ込んでいく。

(正念場になるとしたら……この辺からだな)

 そのとき、志智は自分の右手を縛っていた鎖をほどいた。


~~~~~~Motorcycle Diary~~~~~~


「くぉ……!!」

 突きだした左の膝をアスファルトへ擦りつけつつ、芦田のCBR250RRはヘリポート脇のコーナーを90km以上のスピードでクリアする。

 左コーナー。それはライダーにとって本能的にいやなものだ。

 スリップダウンすれば、たちまち対向車の餌食になってしまうし、センターラインを割ってしまうことも御法度。

 そもそも、むき出しのアスファルトに比べて、まるでグリップしない白線や黄線にタイヤが乗った瞬間、おそろしい目に遭うことも珍しくないのだ。

 大型バイクと異なり、4ストローククォーターマシンでは、フルスロットルのたびにフロントが浮き上がりそうになることはない。

 それでも上り勾配で前輪から荷重が抜けていることは、ハンドルを握る芦田の両手から。

 そしてタンクをホールドした両脚にひしひしと伝わってくる。

(怖ぇぇな……だが、それだからこそ!!)

 楽しい。後ろから自分を追いかける者がいる。

 それはいい腕を持った乗り手で、けれど自分はもっと速い! その証明を今している!

「前に行きたいんだよ……バイクに乗ってるんだからさ!!」

 レッドゾーン。乗用車ならせいぜい8000回転にも満たないそれは、モーターサイクルにとって五桁が常識の世界。

 しかし、その中でも20000回転までまわすことを許されているバイクは、彼のCBR250RR以外にほぼ絶無といってよい。

 前方には延々とつづく赤い減速帯の絨毯。

『92段のどん詰まり』である。

 文字通り、92もの減速帯をカーブ途中までつらねた直後に、橋の継ぎ目が金属むき出しで設置されているという二輪にとってはどこまでもありがたくないポイントだ。

 下りになると、これが『52段のどん詰まり』となる。

(さすがにここは減速しないとな……)

 ガタガタと揺れる減速帯の上では、ただでさえフロントタイヤのグリップも怪しくなる。

 しかも、その状態でコーナリングを強いられ、鉄板の上も通過するとなれば、プロのライダーでも嫌な顔をするだろうというところだ。

(あいつも……三鳥栖のスパーダもここはしんどいだろうな)

 ミラーには誰もいない。ゴスロリ少女のXR650Rが遠くのコーナーを立ち上がってくるだけだ。

「なんだ、もうあきらめたか? 大したことないじゃないか!!」

 ━━もし、芦田浩平あしだ こうへいがこのとき。

 消音バッフルを外すことなく。そのエンジンの咆吼をすこしだけ抑えて。

 周囲の音に耳を澄ます余裕があったのなら……気づいたかもしれなかった。

 彼の背後。タイヤがふれあおうかという距離まで接近した三鳥栖志智みとす しちを。

『92段のどん詰まり』のブレーキングで、一気に芦田の背中へ張り付いたVT250スパーダのエンジン音を。


(クレイジーなブレーキングですわね……)

 やや距離をおいて、二人を見守っていた日原院亞璃須にっぱらいん ありすはすべてを見ていた。

 立ち上がりの速度を意図的におさえつつ、無駄のないコーナリングに終始していた志智の走りは、ふるさと村の信号を抜け、勾配が一気にキツくなると同時に、エンジンパワーを限界まで使い切った走りに移行する。

 それでもCBR250RRとVT250スパーダでは、純正状態ですら5馬力の差がある。

 ましてや、消音バッフルを取り去り、排気の抜けがよい状態の芦田に登りでついていくのは、簡単なことではない。

(離れず……詰められず……でしたけれど)

 ヘリポートを抜け、橋の継ぎ目である鉄板と、路面に掘られた溝が連続する『鉄溝渡り』の区間へさしかかってから、志智のスパーダは距離をつめていくだろう。

 亞璃須はそう予想していた。

 ところが実際はそのさらに手前である『92段のどん詰まり』で、スパーダはCBR250RRのテールへ張り付いてしまう。

 揺れる減速帯でのブレーキングはどんなライダーでも嫌なものだ。

 しかし、志智が見せた制動は━━

(わたくしのXR650Rでもあれができるか、どうか)

 それでも亞璃須は芦田より遙かに速いスピードで『92段のどん詰まり』のコーナーをクリアすると、鉄板の上でリヤタイヤがスライドする感覚にもかまわず、二台の250ccを追いかける。


「なんだ━━なんだ、それ!?」

 芦田が自分のすぐ後ろにスパーダがいることへ気づいたのは、『鉄溝渡り』を抜けて、折り返し地点である月夜見第一駐車場へ駆け上がろうとするタイミングだった。

 もっとも、『鉄溝渡り』の名前は今となっては半分ほど過去の遺物である。

 かつて存在していた横滑り防止用の道路溝━━グルービングは近年の工事で残らず撤去されているからだ。

(そんなバカな……いったんちぎったと思って、スロットルを緩めすぎたのか?)

 3速にいれたまま、全開。ミラーの中のスパーダが遠ざかる。大丈夫だ、こちらの方がはやい。

 しかし、ブレーキングを終えてバンキング。

 13000rpmもの超高回転を保ったまま、コーナー出口。さあ、マシンを起こそうというタイミングで振り返れば━━

(ぐっ……!!)

 いた。今にも追突しそうなほどの至近。

 そのとき、芦田はすべてを悟った。『92段のどん詰まり』でミラーにスパーダの姿がなかったのはこれだ。

(近すぎてミラーの死角だった……そういうことかよ!!)

 ヘルメットの中。額から流れ落ちる冷汗の感覚。

(コーナーが俺より遙かに早いってことか!? だとしたら、俺は……俺はずっとこいつに煽られ続けてたわけか!!)

 大切なものがボロボロになって崩れ落ちていくような感覚。

 腕自慢のライダーにとって、コーナリングスピードは誇りそのものである。まして、彼が駆るのはレーサーレプリカとしてその名をはせたマシンなのだ。

「スパーダに煽られる2ダボ乗りがいてたまるかよ……!!」

 月夜見第一駐車場が見えた。この時間帯では観光客もいないが、減速は穏やかである。

 志智のスパーダも、抜きにいこうとはしない。

 砂利敷きの駐車場内を、やや大きな円を描いて折り返す。

 彼らが下りへむけて飛びだそうというタイミングで、亞璃須のXR650Rもやってきた。

 こちらはあざやかなブレーキターンで切り返し、二人の背後へぴたりとつける。

(なんなんだこいつら……高校生のくせに、いったいどうやったらこんな腕が身につくんだ!?)

 混乱を胸に秘めて、それでもスロットルの開度だけは徹底的に、下りのステージへと彼らは突入する。

 そう━━ジェットコースターのような下り、と思えるのはそれを客観的に見ているからだ。

 人間の、ライダーの感覚は容易に麻痺し、錯誤を起こす。

 その点、大多磨周遊道路の下りはきわめて恐ろしい道だ。

 周囲の景観が影響しているのだろうか。

 奈落の下へ落ちていくような下りストレートが、平坦に見えることもあるのだ。

(とにかく……ブレーキだな)

 ミラーを見る回数が極端に増える。

 それでも芦田は強烈なフロントへの荷重にも平然と耐え抜く、ハイグリップタイヤを信頼している。

 そして、軽量なマシンを操る者の宿命としてブレーキングテクニックに信仰といえるほどの自信を持っていた。

(ブレーキで負けなきゃ、こいつは俺を抜けない……対向車線が使えない峠道だ……エンジンはこっちの圧勝だからな……!!)

 下界へとダイヴ。やや厳しい右コーナー。その先はゆるいS字を描く大多磨周遊道路屈指のロングストレート。

(ここで突き放す……!!)

 登りですら、国内仕様の大型バイクをリミッターへ当てることも可能なポイントである。

 CBR250RRのパワーにまかせて距離を広げるには、十分なはずだった。

 そして、ブレーキに勝るならば。芦田の勝利は間違いないものとなるはずだ。

 繰り返すようだが、対向車線を使えない峠道でコーナーで抜き去ることなど不可能なのだ。

(俺は勝つ……VTなんぞに負けるわけがない……!!)

 だが、カタルシスは恐ろしいほど早くやってきた。

「━━━━━━ばっ!!」

 赤い弾丸が、彼の前方へ射出されていく。

「バカかあああああああああああああああああっ!! 死ぬぞ!!」

 芦田の絶叫は、CBR250RRの美しきエンジン音にかき消された。


~~~~~~Motorcycle Diary~~~~~~


「こ、こ。だな」

 片や死を宣告された者は。

 赤いVT250スパーダにまたがる三鳥栖志智みとすしちは、ごく平然とその右コーナーを睨みつけていた。

 下りロングストレートの終焉。幾人ものライダーが、そしてモーターサイクルが重力と制動の戦いに負けて、犠牲になっている場所。

(130……こんなもんか)

 視界の中心。路肩の縁石と、法面がぐわっと大きくなる。

 そこに叩きつけられたのなら、人間の五体など容易に砕け散ってしまうのではないか。

 そんな狂気の速度で志智は芦田のCBR250RRを抜き去る。

 いや、抜いたというのは語弊があるかもしれない。芦田が先にブレーキレバーへ手をかけただけなのだ。志智はそのポイントをフルスロットルのままで通り過ぎただけなのだ。

「っ━━とぉ!!」

 はじめは綿飴へ指を突き刺すように、しかし次の瞬間にはレバーも折れよとばかりにフロントブレーキを握りしめる。

 フォークが沈み、タイヤが地面へ押しつけられる。

 急、という鳴き声がきこえた。タイヤがもっとも効率のよい仕事をしている時の音だ。志智の口元に会心の笑みが浮かぶ。

 時間にすれば、ほんの数秒にも満たない。

 その短時間に志智のスパーダは、実に40km分もの運動エネルギーをタイヤからブレーキディスクへ、パッドへと熱変換し、そのままコーナーへ飛び込んでいく。

「はん……」

 膝を出すこともなく。大げさなハングオンもない。

 その速度はスパーダの性能からすれば安全圏だ。後方のCBR250RRにとってもそれは同じことである。

 現にミラーに映る芦田のマシンは、志智とほとんど変わらない速度でコーナーを旋回していた。二台のメーターを見ることのできる神がいたとしても、似たような表示を網膜に焼き付けることだろう。

(じゃあ、もう一発いくか……)

 はみ出し防止の用のセンターポールが立つ左コーナー。このRは特に厳しい。

 直前で実に110km。コーナー中心までポールたった10本分の距離。

 志智のスパーダは再びあざやかな急制動で、速度を80kmまで落とすことに成功し、フルバンクのままコーナーを駆け抜けていく。

(あとは……どのくらい離せるか、だな。だけど……)

 志智の胸に懐かしさにも似た何かがこみ上げる。

(あのときは……もっと、速かったような……)

 ほんのわずか。脳裏が真っ白になり、ブレーキングポイントを誤る。

 それでも限界にはほど遠い。タイヤをきしませながら、平然と志智はうねるような右コーナーをクリアしていく。


「なんだ……あれは……」

 そのマシンの状態を知りたければ、後ろから追うべし。

 そして、乗り手の技量を知りたければ、後ろから見るべし。

 志智の後塵を拝した芦田の目からみると、VT250スパーダのブレーキングは毎回、路肩へ突っ込んでいくような信じがたいものだった。

 それでいて、志智のマシンは挙動を乱さず減速している。

 なおかつ、フロントフォークを沈めたまま鮮やかにターン。軽いリーンインといった程度の姿勢で、バンクセンサーを擦ることもなく、遠ざかっていく。

(ふざけんなよ……!!)

 若さの激情がどれだけ燃えさかっても、命と引き替えの賭を敢行できる者は多くない。

 芦田は志智と同じ場所からブレーキングをはじめることができなかった。

 皮肉なことにコーナリングスピードは負けていないのである。

 そして、彼自身が自負する通り、エンジンパワーでは圧倒していた。長いストレートでは明確に差が詰まる。

 だが、その先に決まって構える厳しいコーナーで、詰めた以上の差が開く。

「タイヤも、エンジンもサスも……こっちが上のはずなのに、なんだよ……それは……!!」

 気がつけば亞璃須のXR650Rが背後にぴたりとつけている。

 ふるさと村の交差点をぬけて右カーブ。

 取り締まりのメッカでもあるそのストレートで、彼女のXR650Rは芦田の前へ鼻先だけ出て━━そして、譲った。

(終わり、ってことか)

 VT250スパーダのテールはもう見えない。

 芦田の肩から力が抜ける。

 スローダウン。『大人区間』名物でもあるコークスクリューで車体をぐらりと乱しながら、なんとか川野駐車場までマシンを滑り込ませた。

 三鳥栖志智はすでにエンジンを停止させ、ヘルメットを脱いでいた。

 それだけの差が━━下り10kmだけで彼との間に生まれたのだ。


~~~~~~Motorcycle Diary~~~~~~


「一つ教えてほしいんだが……」

「俺に分かることなら、別に」

 がっくりと肩を落とす芦谷に相対する志智の脳裏からは、急速に競い合いの熱が去っていた。

 高揚はあまりない。なぜこんなことをしたのだろうとすら思う。

 手足にあるわずかな疲労感は果たして正当なものなのかと疑ってしまう。

「俺は……そんなにブレーキがヘタか? これでも結構自信があったんだけどな」

「いや、そんなことはないと━━思います、よ。芦田さん」

「そうか……今のタイヤはよく出来ているって言うが、ツーリングタイヤにそこまでグリップがあるとは恐れ入ったぜ……」

「………………」

 スパーダのフロントタイヤをしげしげと見つめながらそういった芦谷に、亞璃須は何かを言いかけたようだったが、口を開くまでには至らない。

「俺の腕は峠レベルでもまだまだってことなんだろうな……タイヤの性能も使い切れてないってことか」

「……十分うまいですよ」

「まあな。でもな、俺は自分が上手いってさ……ちゃんと証明したかったんだ。

 三鳥栖、お前はまだ高校生だろう? だったらわからないかもな。

 俺はもともと勉強ができる奴でもなかったし、付き合いが上手でもない……Fラン大学を出て、こんな時代に待っているのはせいぜいブラック企業の正社員がいいところさ」

「………………」

「タンクへこんでカウルバキバキのこいつを安く譲ってもらって、バイト先のガソリンスタンドで板金機材借りて……100円ショップの缶スプレーで色塗って……タイヤは用品店のセールに朝一で並んで……リアのオーリンズはオークションで落として……そのためにバイト代、一ヶ月分も飛んだかな……」

 自分に言い聞かせるように唇を動かしながら、芦田はCBR250RRのタンクへ手を当てる。

「こいつに乗れば、どんな奴にも負けない。どんな奴よりも速く走れる。

 峠道なら大型バイクだって━━SSだって目じゃない。ぶっちぎりさ。

 そう錯覚するくらいに……走れた。走ったつもりだった。お前みたいなとんでもない腕を持ってる奴に、ケンカを売っちまうほどに……夢を見させてくれたんだよ、このバイクは」

「俺にも……分かりますよ、そういう気持ちは」

「バイクはな、乗り手をヒーローにしてくれるんだ。

 生身の肉体じゃ、絶対できないことをさせてくれる……しかも、もっとも近い感覚で、だ。

 鉄の箱に乗せられて、ハンドル握って……何が凄いもんかよ。

 バイクってのは人間がまたがって、さ。足をついてやらなきゃ、直立することすらできない。

 そんな乗り物で走るから……速いから……面白いんだ。かっこいいんだよ」

「………………」

「すまない。負け組が愚痴っちまったな」

 目元に何かが光ったように見えたのは、気のせいなのだろう。

「ま、腕磨いておくわ……負けた俺が言うのもなんだけど、お前さ。

 あんな走り方、危ないぜ」

「今日みたいな時じゃないとしませんから」

「はは、ここ一発の本気ってやつか。

 カッコいいな……俺も一回くらいやってみたいぜ、そういうの」

 カムギアが鳴く。マフラーから放出される排気が泣く。

 びっくりするほど低回転を保って、川野駐車場から去っていくCBR250RRの姿はそれでも美しく、レーサーレプリカの完成形に見える。

「とりあえず終わったか」

「びっくりするほどあっけなかったですわね」

「お前には全部見られてたみたいだしな。

 でも……速かったよ。ぜんぜん楽な勝負じゃなかった。ブレーキングでさっさと仕掛けていなかったら、絶対抜けなかったと思うな……加速もいいし、コーナーも速かった」

「車体性能とエンジンで勝てないのは当然ですわ。

 サーキットのレコードだって、CBR250RRの方が上ですし」

「……そういうものなのか」

「でも、志智が勝ちましたわ。あなたの方がうまかった。それだけのことです」

「まあ……確かにそうかも、しれないけど、さ」

 志智はこの世のすべての満足感をあつめたような表情の亞璃須から視線を外して、ハイエースの傍らで身を休めているXR650Rを見た。

「なんだろうな。

 お前、やっぱり凄いよな……かなり本気で走ったつもりだったのに、楽々ついてきてさ。

 あのとき、どうしてお前に勝てたのか。俺━━今でもわからないよ」

 そう言って三鳥栖志智は困ったように笑い、日原院亞璃須は母性的な微笑みをうかべる。

「別に分かる必要もないでしょう」

「……どうして?」

「もう一度あなたと競ったとして。

 わたくしが勝ったら。あなたはわたくしの見初めた人ではなくなってしまいます」

「まあ、あの時の論理で言ったらそうなるんだろうな……」

「じゃあ、あなたが勝ったら? 志智、あなたがわたくしにもう一度勝ったら。

 あなたは日原院亞璃須をどうしたいんです?」

「………………」

 西日は山の向こうへ落ちて、川野駐車場へは届かない。

 空の青と赤だけが間接的に彼らを照らしている。

「今は分からないよ」

「でしょう?」

 芽吹く春。大多磨の緑も目を覚まし、すべてが歩き始める季節。

 彼らは今日もここにいて、ここで走る。

 大多磨周遊道路。三鳥栖志智。VT250スパーダ。そして、日原院亞璃須。

 ━━これはささやかな、けれど熱く、まばゆいモーターサイクルライダーたちの物語。


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