~One Year Before IV~
それから十日ほどの後━━
「相変わらずヘタクソすぎますわ」
「うるさいな」
VT250スパーダを前に、そしてXR650Rを後ろにして、二人のライダーが川野駐車場まで戻ってくると、たちまち険悪な睨み合いが発生した。
平日とはいえ、すでに春休みである。
暦通りの仕事ではない者も含めて、そこそこに賑やかな川野駐車場で、これでもかというほどに対照的な志智と亞璃須は、注目を集めずにいられない。
片やスタンダードきわまりない250ccネイキッドを駆る長身の少年。そして、片や見上げるばかりのビッグオフに乗る金髪の美少女である。
髪をみれば金と黒。上背をみれば短と長。またがるマシンの排気量なら大と小であり、せいぜい共通しているのは、どちらのマシンも色鮮やかなホンダレッドをまとっていることくらいだった。
「昨日も言いましたけど、志智はブレーキが甘すぎです。そのくせ突っ込むから、あんなふうに進入で挙動が乱れるんです」
「奥深くできっちりブレーキした方が、うまく曲がれるって言ったのはお前じゃないか」
「志智のはブレーキじゃなくて、むりやりスピードを殺そうとしているだけですわ。
もっとサスペンションの動きを意識してください」
「そんなこと言われてもな……」
バネの動きを示しているつもりなのか、両手のひらを上下に動かしてみせる亞璃須に、志智は憮然として眉をひそめる。
「じゃ、次はわたくしが前を走りますわ」
「ああ、わかった」
「言っておきますけど、ブレーキタイミングを間違えて後ろから突っ込まないでくださいね」
「そんなミスするかよ」
「どうだか分かったものではありませんわ」
罵り合いに限りなく近い会話は、エンジンを切ることも忘れて交わされている。
そして、川野駐車場を飛び出して、数分が経ったかと思うと、今度は順序を逆に━━つまり、XR650Rが前、スパーダを後ろにして戻ってくるのだ。
続いて展開されるのは、こんな会話である。
「どーですか、わたくしの芸術的な走りは!!」
「……あっという間に離されて、よく見えなかった」
「はあ? これだから志智は。負け惜しみですの?
最初のコーナーではちゃんと見えていたでしょう? ああやってブレーキはかけるんです。これでもオンロードのやり方にあわせてあげてるんですよ?」
「まあ……最初のところくらいは……」
「じゃ、次は実践してもらいますから。
目の前で見たばかりですし、簡単ですわよね? もしできなかったら、よっぽどのお馬鹿さんですわよね?」
「……くそっ。今度は俺が突き放してやるからな」
かくして、再び志智のスパーダと亞璃須のXR650Rは、前後をいれかえて走り出す━━そして、またダメ出しが始まる。このループだった。
二人が周回しているのは、大多磨周遊道路の中でも川野駐車場とふるさと村信号の間である。
片道でおよそ3km弱。往復してもせいぜい6kmに満たない距離だが、適度にストレートとコーナーが入り交じり、高低差も比較的すくない。
いわゆる峠の走り屋たちにとっては、もっとも好まれる区間でもあり、実にアベレージスピード100km超で駆け抜ける者もいるという、高速ワインディングに限りなく近い中速区間である。
(それにしても……こいつ、うまいな)
前を睨めば小さな少女の背中。だが、彼女がまたがる鉄馬はその体格に不釣り合いなほど巨大である。
バリバリという雷鳴のような音が跳ね上がるたび、XR650Rは信じられないようなダッシュを見せる。到底、VT250スパーダでついていける加速ではない。
(これでも加減してるっていうのが……くそっ)
はじめは最初のコーナーへ入る以前に、圧倒的な差がついてしまっていたのだ。
だが、それではレッスンの意味がないと悟ったのか、亞璃須は香蘭橋を渡るまでハーフスロットルを維持するようになった。
それでも志智のスパーダは追いつくどころか、背中に食いつくのが精一杯である。ただのストレートであるというのに、だ。
(大型ってやっぱり速いんだな……)
エンジンの排気量差というものを、ここまで実感させられたのは志智にとって初めての経験だった。
「フロントをぐっと沈めて……一気にバイクを傾けて……加速……か」
前方を走るXR650Rの挙動を見つめながら、なるべくそれをトレースしようと心がける。
ライディングテクニックが他のスポーツにおける技術と一線を画しているのは、手取り足取り教わるものではないという点だ。
そもそも、それが不可能なのである。たとえGPライダーの駆るレーシングマシンのタンデムシートへまたがったとしても、その時点でモーターサイクルの特性は二人乗りのそれへと変化してしまう。
ほんの数キロの重量でも明確な変化となって現れるというのに、マシンの後端、しかも高い位置に何十キロもの人間が乗った状態で、参考になるはずがない。
何よりモーターサイクルのパッセンジャーは、背中に掴まることはできても運転者の両手には届かない。足など触ることすら難しい。
(くそっ……なかなかうまくは……!!)
━━ゆえに、ライディングテクニックを盗むならば、後ろから見ることだ。
なぜ自分は安定しない。なぜこのバイクはスムーズに曲がらない。なぜあのマシンのようにもっと速く加速できない。
思うように止まり、曲がり、そして加速してくれないVT250スパーダと格闘しながら、志智は前を行く亞璃須のXR650Rを見つめる。
そこには答えがわかりやすい形で示されているからだ。
後方から見るモーターサイクルは、あらゆる情報を伝えてくれる。
乗り手の重心移動、シフトチェンジのタイミング、さらには前後のサスペンションがどのように動いているかまで。
音も無駄な情報ではない。その大小高低は、時として驚くほど細やかにスロットルワークを伝えてくれる。
「ブレーキ……どうやったらあんなふうに……」
もちろんテールランプをみれば、どこで制動を始めているかもイージーに把握することができる。
志智が最初におどろいたのは、亞璃須が恐ろしいほど遅いタイミングでブレーキを始めていることだった。
そんなところから制動しても止まれないだろう。志智にはそう思える地点で、はじめてブレーキングをスタートする。
「……ぐっ!!」
本当に止まれるのか。背中をぞっとするものが走り抜けていく感覚に震えながら、志智は力を込めてブレーキレバーを握りしめる。
巨大なゴム紐でつなぎとめられたかのようだ。ずいぶんハードにブレーキングできたつもりだった。だが、それでも亞璃須と同じポイントからはブレーキできていないのである。
「と、とと……と」
車体が左右に揺れる。ぎこちなく志智がスパーダの車体を倒す頃には、亞璃須のXR650Rがあざやかなリーンを見せ、一気に遠ざかろうとしている……。
(本当にあいつ……上手いな……)
それでも━━追いついてみせる。
幾度も。幾度も同じことを繰り返す中で、少しずつ志智のブレーキングポイントは奥へ。そして、制動距離は短くなっていった。
~~~~~~Motorcycle Diary~~~~~~
(それにしても……上達が早いですわね)
まもなく三月最後の週末が来ようという金曜日。
いつものようにマシンを降りれば罵倒の言葉を浴びせつつも、亞璃須は志智のライディングが恐ろしいほどのスピードで洗練されていくことに、驚きを隠せずにいた。
数あるライディングテクニックの中でも、ブレーキはそう簡単に上達しないものだ。
街乗りの延長線上で可能になる急制動など、教習所のそれと大差はないし、かといってワインディングでブレーキを詰めていこうとしても、自爆事故の危険が異常に高まるだけである。
「……なんかむかつきますわ」
ブレーキを終え、さあコーナーに向けてバンクというタイミングでミラーを見ると、すぐ背後にスパーダのヘッドライトがあるのだ。
丸いライトは自分を背中からつつくようにそこで笑っている。どうした、追いついてしまったぞ。食いついてしまったぞ、と言っているように思える。
ミラーを見ることをやめると、少しのあいだ心の平安が訪れた。
しかし、そのうち自らのXR650Rが響かせる咆哮の中に、VTエンジンの排気音が混じっていることに亞璃須は気がついた。
(やっぱり……そこにいるというわけですわね)
彼女が走っているのは、まったく同じ場所である。
川野駐車場を出た第一コーナー。その場所で亞璃須の背中に食いつけるだけのブレーキングスキルを、志智は身につけてしまったのである。
(わたくしだって、コースでさんざん練習してここまで来たのに……)
どこか相手がずるいことをしているような。自分は大金を払ったのに、隣ではコイン一枚の値段で同じものを買われたような━━
「ふう……どうだよ。また少しはうまくなっただろ?」
「………………志智」
川野駐車場とふるさと村の間をたっぷり二十往復はした後の夕暮れ。
あと三十分もすれば一気に暗くなってくる、そんな時間だった。
「なんだよ」
ああ、また何をダメだと言われるのやら。
もはやいつでもかかってこいという顔で、否定の言葉を待ち受ける志智に、亞璃須はわずかに頭を下げてこう言った。
「ちょっとあなたのスパーダに乗らせてもらえません?」
「はあ?」
その言葉は志智にとって、まったく予想の外だった。
思考が止まる。なんと反応していいか分からなくなる。
そんな時、まるで頃合いを見計らっていたかのうように、吉脇がカフェオレをそそいだ紙コップを差し出した。
亞璃須は当然の顔でそれを受け取り、志智は申し訳なさそうに会釈しながら右手を伸ばす。
そして、周囲にたむろするライダーたちは「なんだか今日は様子が違うぞ」という顔で、二人を見ていた。
(……おいおい)
口の中に広がる甘い味に安らぎを覚えながら、三鳥栖志智は必死で頭の中を整理しようとする。
「なんで━━」
「………………はい」
(しおらしくするなよ……)
どこか弱気な顔で、上目遣いにこちらをみている亞璃須に、志智は抗しがたいものを覚えた。
「な、なんでだよ?
そっちは大型バイクだろ。250ccなんか乗ってもつまらないんじゃないか?」
「排気量が違えば別の味があるものですわ。
それにモタード化したとはいっても、オフ車とオンロードマシンでは、車体の特性が違いますもの」
「そういうものなのか……まあ、興味があるのはわかるけどさ。
これ、バイトでも使うから、何かあったらまずいんだよな……どうしたもんかな」
「バイト?」
「ああ、俺バイク便やっててさ。
うちは千歳━━妹と二人暮らしだから、少しでも稼がないといろいろ大変なんだ」
「………………え」
明日の天気は晴れらしい。あるいは、隣の家が犬を飼い始めたそうだ。
そんな日常の口調で家庭事情を語る志智に、亞璃須は絶句した。
「志智、あなた……いろいろ大変な環境なんですね。わたくし、知りませんでした」
「お前には関係ないことさ。気にしなくていいし、同情とかやめてくれよ」
「む」
そのとき、亞璃須の中で小さな怒りがめばえた。
「同情なんてっ、このわたくしがするわけないでしょう?」
「……まあ、お前はそういうやつだと思ってるけど、念のため、さ」
「………………むむむ」
むかむかとした感情は、少女の中で急速にふくれあがっていく。亞璃須はその理由を志智がそっけない態度を取っているからだと解釈した。
(違う違う。違いますわ。そんなこと)
だが━━本当は。
(お前には関係ない、だなんて。なんでっ!!)
紙コップを持つ右手に力が入り、嫌な音を立てた。
「……いや、何かわからないけど、怒らせたなら悪かったよ」
「うるさいですわねっ。理由もわからないのに謝られたって、頭に来るだけですわ!!」
「な、なんだよ本気で怒りやがって。
……まあ、それなら詫びの気持ちってことでさ、乗っていいよ。それでどうだよ?」
「むむむむむむ」
「何なんだよ、本当に……」
納得いかない。拒絶してしまいたいと思いつつも、亞璃須にとって志智の言葉は魅力的なものだった。
(あのスパーダ……なんだか、ただのスパーダではない気がしますわ……)
志智がそうであるように、亞璃須もまたスパーダを目の前で見ている。けれど、悲しいかな、志智の技量はスパーダのポテンシャルに追いついていない。
(わたくしが乗れば……それが分かるはず……)
━━要するに、彼女は。
志智の上達がやたらと速い理由は、ライダーではなくマシンにあるのではないかと思っているのだ。
「じゃあ、ちょっとだけ乗ってあげます」
「なんで上から目線なんだ……俺はここで待ってるからさ。壊さないでくれよ」
「誰に向かって言ってるんです? 当たり前ですわ」
「おっ」
不満げな表情で亞璃須がスパーダへまたがると、志智は何かを発見したように笑った。
「……へえ」
「なんです、にやにや笑って」
「お前くらい小さいと、やっぱりつま先浮くんだな。ちょっと新鮮だよ」
「ほっといてください!!」
セルを回したかと思うと、いきなり一速フルスロットル。
ものすごいエンジン音を響かせて、亞璃須の乗ったVT250スパーダは川野駐車場を飛び出していく。
「うわっ……思いっきりぶん回すと、ああいう音なんだな。自分で乗ってるときとは、聞こえ方が違うよな……」
「ふふふ」
どこか新鮮な気持ちで、志智がスパーダの後ろ姿を見送っていると、近くに立つ初老の執事が笑っていた。
「吉脇さん、どうしたんですか」
「いえいえ。大したことはありませんが、志智様」
志智『様』。
彼の主人にとって、ただの知り合いでしかないはずの自分に対し、この執事はいつも様付けをするのだ。
「やめてくださいよ、俺なんかにそういう呼び方」
「お嬢様の友人は私にとってすべて敬うべき方ですから」
「そんな……困るな。
まあ、いいですけど。それより、どうしてそんなに楽しそうなんですか」
「志智様、一つおうかがいしますが、スパーダのシート高をご存じですか?」
「えっ、シート高?」
志智はそんなことを気にしたこともない。長身の彼にとって、とりあえずどんなバイクでも足はつくものだからだ。
「スパーダのシート高は740mmです。これは本来ならお嬢様でもしっかり両足がつくレベルなのです」
「はあ……」
「むしろ、志智様のような方なら、足が窮屈で仕方ないはずなのですよ」
「え?」
だが、シート高を気にしたことのない志智も、その言葉は意外だった。
VT250スパーダに乗っていて、足下に窮屈さを感じたことなど、一度もなかったからだ。
「それにあの音はノーマルマフラーのVTとは少し違う音です。ノーマルのVTはもう少し牧歌的というか……まるで仕事道具のような音を出します」
「………………」
柔らかな吉脇の表情が、何か意地悪い秘密でも隠しているかのように、志智には見えた。
「志智様、あのスパーダはどこで買われたんですか?」
「えっと、近くの店で。『ハングオフ・モータース』っていうんですけど……でも、小さなバイク屋ですよ」
「そうですかそうですか」
「吉脇さん……何か知ってるんですか?」
老紳士は何も言わず、空を見上げた。
その仕草が示すところは、限りなくイエスに近いように、志智には思えた。
~~~~~~Motorcycle Diary~~~~~~
(これが本当にVT……?)
メーターを見つめればその針は11000rpmを指し、速度は100kmを超えている。
亞璃須は子供の頃からオフロードマシンに乗っている。が、それ以上にあらゆる種類のオンロードマシンも経験しているのは、金銭の面でまったく不自由しない家の生まれであるから━━それだけではない。
「本当はオンロードのレースがしたかったのですけれど、お父様が許してくれませんでしたし、ね」
口元を笑わせながら、スパーダのスロットルを捻りあげる。
彼女は単にアスファルトの上を駆けるのが好きなのだ。スピードも好きだった。オフロードに比べて、指数関数的に危険性が増すとわかっていても、三桁の単位で走り、曲がるのはこの上もなく快感だった。
(ずいぶんいじってるみたいですわね……)
右手。スロットルを捻ると、角度にして70度も動かすことなく硬い感触が伝わってくる。
ここが全開だ。これだけでノーマルのスロットルでないことが分かる。
ストリートでは必要ないはずのハイスロットル。しかも、本来穏やかな特性を誇り、スロットル操作にはお世辞にも敏感でないはずのVTエンジンが、驚くほどの軽やかな吹け上がりを見せているではないか。
(エンジンの回転がちゃんとハイスロについてくる……マフラーを変えてあるだけだと思っていましたけれど……ひょっとして、中までいじってある……?)
耳に響いてくる排気音は、しばしば耕耘機と陰口をたたかれるVTのそれとは到底思えない。
(いいチューンですわ)
だが、全開一歩手前の場所にわずかな谷があることもまた事実だった。恐らくストリート用に装着したサイレンサーが邪魔をしているのだろうと亞璃須は推測する。
「まっ、これだけ消音と性能が両立した排気系なら、誰も文句はつけられないでしょうけれど」
自分のXR650Rが大爆音マシンに思えてくるほどには、彼女が借りたVT250スパーダは静かであり、それでいて明らかにノーマルよりも速い。
(それにこのサス……)
減速帯の上をフルバンクで駆け抜けても、ほとんどフロントの姿勢が乱れない。
どう考えてもノーマルの足回りで可能な所行ではなかった。亞璃須はトップブリッジにクランプされた、フロントフォークを見つめる。
(スパーダにプリロード調整なんてついてましたっけ……)
その頂点には、時計回しにねじこむことでスプリングのテンションを調整できる機構が備わっている。
言うまでもなく、スポーツマシンの装備だった。しかし、VT250スパーダはスポーツバイクである前に、ファンバイクである。どう考えてもVTシリーズにこんな装備がついているとは思えなかった。
「とすると、VFR……CBRかもしれませんけれど、フロントフォークを変えてますわね。
この分だと、リアサスもノーマルではなさそうですわ」
もっとも、リアについては亞璃須の評価は一歩劣っていた。少し荷重が足りていないというか、バネが強すぎるように感じる。
とはいえ、それは自分自身がライダーとしては規格外の軽量であるからで、サスと車体のマッチングの問題ではないだろうとも見抜いていた。
「タイヤも……ただのツーリングタイヤかと思っていたのに、妙にグリップしますし」
亞璃須はミラーを一瞥して後続車がいないことを確認すると、わざと直線区間の途中で思い切りブレーキレバーを握りしめてみる。
フロントタイヤがたちまちロック━━しなかった。彼女の握力はただの少女に毛が生えた程度しかない。その入力では、スパーダが履いているフロントタイヤのグリップを超える制動力は生み出せなかったのだ。
(……XRならちゃんとロックするんですけど)
無意識に最初の一引きを手加減したことは事実である。だが、それにしても彼女の右手ができる最大の仕事率であったはずなのだ。
「何にしても……少しだけ、秘密が解けたような気がしますわね……」
ほんの数km乗ったばかりのスパーダを、ふるさと村の信号で華麗にブレーキターンさせながら、亞璃須は呆れたように呟いた。
~~~~~~Motorcycle Diary~~~~~~
「いいマシンですわ、今のあなたにはもったいないほどです」
川野駐車場に戻ってきた亞璃須の放った言葉は、それだけだった。
「そうなのか? まあ俺はこれしか乗ったことがないからな」
「……反応次第ではもっと詳しく説明するつもりでしたけど、止めにしておいて正解でしたわ」
「なんだよ。どうせ俺はバイクのことなんてよく分からないよ」
「本当にもったいないですわねえ……志智がもっとうまくなれば、わたくしのXRと同じくらいには速く走れるマシンですのに」
「……なんだよ」
心底、残念そうにため息をつく亞璃須へ、志智はどこか納得のいかない顔で言った。
「それじゃあ何か? 俺の腕次第で、お前にも勝てるっていうことなのか?」
「まあ、そのポテンシャルはあるマシンですわね」
「万に一つどころか、億に一つも勝てないとか言ってなかったか?」
「ノーマルのVTだったらそうです。でも、あなたのスパーダは少し違いますわ。多分……どこかのレースで……」
「は?」
「いえ、何でもないです。どうせ志智には分かりっこありませんもの」
「………………なんだよ」
肩をすくめる亞璃須に、志智はやはり納得のいかない顔で、三度目の言葉を繰り返した。
それからまた幾日かの時が流れた。
四月に入ると、志智のスパーダはブレーキングだけでなく、コーナリングでも亞璃須のXRに食いつくようになった。
亞璃須が驚きつつミラーを見ると、志智は体をシートからコーナーのイン側へずらすフォーム……つまり、ハングオンの姿勢をとっていた。
一体どこで勉強してきたのかと訊ねると、さっきすれ違ったバイクがこうやっていたから真似しただけだと、志智は言った。
(……理論も知識もないくせに、ただ真似をしてみただけで、あんなにコーナリングスピードが上がるだなんて)
危険だと、その時彼女は言うべきだったのかもしれない。
それはレーシングテクニックであり、公道でわざわざ用いるほどのものではないと。
何よりたまたま見ただけのものを、高速で走るモーターサイクルで安易に真似てみるなど、即転倒につながりかねない行為だと。
(でも……)
けれど、亞璃須は言わなかった。
(もしかしたら……志智なら)
たとえ異常に高性能なマシンの補助があったとはいえ、自分のブレーキングスキルにたちまち追いついてしまったほどの男ならば。
(わたくしを追い越すくらいに……)
何もかも。およそテクニックと呼べるものは、すべて吸収してしまうかもしれない。それだけの素質があるかもしれない。
その時の日原院亞璃須は、そんなどこか淡くも強い確信を抱いていたのだった。
~~~~~~Motorcycle Diary~~~~~~
そして、四月の第一週が終わろうとする土曜日のこと。
「明日で春休みも終わりですわね」
「そうだな。月曜から学校だしな……」
夕方から雨になるという予報を無視するかのように、彼と彼女は今日も大多磨周遊道路にいた。
空はいよいよ暗くなり、ツーリングに来ていたライダー達も足早に去った。
いまや川野駐車場には、二人のマシンと吉脇のハイエースが止まっているだけだ。
「……終わり、ですわね」
「……終わり、だな」
その言葉を志智と亞璃須は噛みしめる。
なぜか特別な意味があるかのように思えた。明日が来て、明後日が来ようと毎日はつづくのに。この大多磨周遊道路がなくなるわけでもないというのに。
━━ここに来れば、会えるはずなのに。
「あの」
「あのさ」
同時に声を発し、譲り合うように黙る。
「……いろいろ考えたんだけど、まず言いたいことがあるんだ」
「なんですの?」
「ありがとうな、亞璃須。お前の教え方とか別にうまいとは思わないけど……何だか、すごくやる気になるんだ。
はは、スパルタって言うのかな。負けてたまるかって思えて……さ。ずいぶんマシな走りができるようになったと思う」
「……どういたしまして」
照れたように笑う志智に、亞璃須も微笑みで返す。
「それじゃあ、わたくしも言いたいことがあるんですけど」
「なんだ?」
「志智。あなた恐怖心はないんですか?」
「………………」
笑顔はまじめな詰問の表情へと変化する。
「ここは公道です。
砂が落ちているかもしれないですし、オイルがぶちまけられているかもしれません。
バイクは不安定な乗り物ですわ。そんなものに遭遇したら、簡単に転んでしまいます。その時、対向車がいたらおしまい。公道を走るってそういうことです」
「……いつも俺を置き去りにするような、走りをしてるやつのセリフとは思えないな」
「これでもわたくしはこの先に何かあったら━━と考えて走っています。
でも、あなたは違いますわよね?」
「………………」
志智の沈黙は肯定を表している。
「時々、考えます。あなたの後ろを走っていると、嫌でも考えさせられます。
あのままガードレールへ突っ込んで、死んでしまっても構わない……そういうつもりで、志智は走っているんじゃないかって」
「……あまり間違ってない、かな」
「なぜです?」
詰問は、僅かな怒りを含んだ。
どうしてそんなことをする? と彼女は彼を責め立てていた。
「あなたは最初に会ったとき、言いましたわね。
死ねるならそっちの方がいいって━━あの言葉、今でもさっぱり意味がわからないですけれど」
「………………」
「でも、わたくしの前を走っているときの志智……その後ろ姿を見ていると、どこか通じるものがあるように思えます。
なぜです? 志智には自殺願望でもあるんですか?」
「それは、お前には関係な━━」
そこまで唇を動かして。
志智の言葉は止まる。今にもこぼれ落ちそうなほど、瞳いっぱいに涙をためた亞璃須を見てしまったから。
「バイクに乗るのは楽しくないんですか……」
「………………」
「わたくしと……一緒に走るのは、つまらないですか……?」
「お前……なんて顔してるんだよ」
「あなただって、ひどい顔です。暗い目です。一緒に走って、ここに戻ってきて……そういうときは、そんな顔しなかったのに」
「………………」
そのとき、二人の頬へ空から雨粒が落ちてきた。
まるで芝居のシナリオにそう書かれていたかのように、志智と亞璃須は慌てた様子で頬をぬぐった。
そして、その液体が雨であることを確認すると、一抹の安堵をみせる。
「……明日、さ。最後だけどさ」
「はい」
しばらくの沈黙のあと、三鳥栖志智は口を開いた。
日原院亞璃須はまるで従順貞淑な婦女のように、うなずいて言葉を待った。
「俺と一緒に走ってくれ。いつもみたいじゃなくて……もう一度、お前と勝負したい」
「勝負、ですか」
「嫌か?」
「いいえ、望むところです。でも、今の志智ではまだわたくしには勝てませんわ」
「そうはっきり言われると、ぐさっと来るな」
「嘘はここまでうまくなった志智に失礼ですもの」
ほんの少しだけ茶化すように、亞璃須は笑う。
けれど、次の瞬間には真顔になっていた。
「それでも━━やりますか?」
「やる」
雨の勢いが増す。服が濡れる。髪が重くなる。
それでも彼と彼女は動かなかった。老執事が差し出す傘を、受け取ろうともしなかった。
「本気で……死ぬ気で走る。そしてお前に勝つ」
「いいでしょう。それならわたくしも本気で走ってみせます」
遠くで鳴りはじめた雷の音すらも、今の二人にはモーターサイクルのエキゾーストノートに聞こえていた。




