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~Episode of Summer IX~

(偶然かな……?)

 先行する志智のスパーダとVTRの距離は、およそ100メートル弱といったところだろうか。

 たとえ先行するモーターサイクルが転倒したとしても、十分余裕を持って止まれる距離。逆に言えば、それぞれを意識せずにいることができる、最低限度の距離ということになる。

 自分を追いかけてきたとは必ずしも言い切れない……それほどの距離だった。

 ━━だがしかし。

「うっ」

 左へ大きくバンクし、コーナーの立ち上がりでアクセルを開けようとしたその瞬間、志智はミラーへうつる黄色いヘッドライトの光芒を見て、驚きの呻き声を漏らしてしまう。

 速い。あっという間に差を詰められている。

(いきなり全開で攻めに来てるのかよ……)

 こちらが本気で走っていないとはいえ、これほどのスピードで走れるライダーにはなかなか遭遇できるものではない。

(実は亞璃須の奴が乗ってる、とかじゃないだろうな……)

 そんなことを考えながらも、志智の両足は無意識のうちにステップへつま先立ちになっている。

 ブレーキレバーへかけた二本の指へ電気信号が通い、目つきは狩人のように鋭くなっていく。

「そっちがそう来るなら……!!」

 直線区間に入る。右手が勝手にアクセルを全開にし、ブレーキングをぎりぎりまで遅らせていく。

 過酷な下り傾斜での減速G。タンクへ引っかけた片膝と、ステップへ押しつける踵のグリップだけで五体を保持し、ハングオン。

 突き出した膝と地面の間には、小石の一粒ほども入り込む余地がない。

(どうだ……?)

 突き放しただろう。ついてこられないだろう。

 ほんの一コーナー、ほんの小さなストレートではあったが、三鳥栖志智にとって最大限のプッシュ。平均時速は100kmをゆうに超えている。

 これについてこられる同クラスのマシンなどは━━

「くっ……!!」

 だが、いる。志智のすぐ背後に。

 何の変哲もない丸ライト。女子供でも乗りこなせそうな高いハンドル。

 日本人の体格にあわせて設計したとしか思えないほどコンパクトなVTRの車体が、振り向いて手を伸ばせば届きそうな距離に接近している。

(嘘だろ……VTRってこんなに速いのか!?)

 その光景は志智にとってショックだった。

 おなじVTエンジンの排気音が、奇妙な二重奏をかなでていることに気づく。

 ヘルメットの中で鳴る風の渦巻き。まだ緑色の葉が一枚飛んできて、シールドにキスしていく。

「こっちの方がパワーはあるはずなのに……!?」

 同じエンジン。車重も変わらない。

 それでいて、スパーダの方がエンジンパワーは勝っている。そのはずだ。それなのに、自分は追い詰められている。

 ならば、答えは一つしかない。

(向こうの方が……うまいってことか?)

 首の後ろに冷たい汗。しかし、同時に瞼の奥が熱くなる。

 危ないぞ、と脳裏でもう一人の自分が叫んでいた。

 いまお前は一線を越えようとしている。それも準備なく、突然に。

 ━━それは、とても危険なことだ。

「っ……くう!!」

 処刑台へあがる囚人が無駄なあがきをするように、『52段のどん詰まり』でフルブレーキング。フロントタイヤが汲々と泣きわめく。

 ぶるぶると震えるハンドルを力任せに押さえつけて、右へ大きく車体を傾ける。ミラーを見た。VTRのヘッドライトは遠ざかっている。

 続くストレート! こちらの方が速い! さらに差が開く。

(どうだよ!!)

 が、コーナーが二つ、三つ、四つ重なると、結果は同じだった。

 志智の背後には、亡霊のように黄色いヘッドライトが迫ってくる。

「なんなんだ……なんなんだ、こいつは!!」

 焦りが自分の中にある精密な何かを狂わせていくのが分かった。

 諦めてしまえばいい。それでも遮二無二アクセルをあけ、ブレーキを遅らせることしかできない。

 そんな抵抗をどれだけ繰り返しただろうか。

(これでも……ダメなのか……?)

 自分の中で張りつめていた糸がぷっつりと切れそうになる感覚。

 背後のVTRはなぜか抜きにかかろうとしない。

 いや、抜けないのかもしれないとも思う。しかし、自分の方が遅いことには変わりない。そんなことはわかりきっているのだ。

「……ふるさと村の先……川野の区間なら!!」

 ヘリポート脇のコーナーを大きく回り込み、志智が正真正銘、最後の悪あがきを試みようとした頃。

「あれっ」

 不意にミラーへ映る亡霊の姿は消えた。

 スパーダの排気音とかさなりあうように響いていた、VTエンジンの咆哮も今は一重である。

(止まった……? ペースを落とした?

 それにしたって……)

 志智の胸にはどこかすっきりとしないものが残っていた。

 だから、直進しかしたことのない、ふるさと村の信号を右折。すぐにUターンする。

「……ここか……」

 VTRの姿は折り返してすぐに見つかった。

 登り車線、ヘリポートの手前。左手にある小さな駐車スペースに銀色の車体が停まっている。

(そういえばここ……取り締まりにも使ってるよな……)

 刹那、頭に嫌な想像が浮かぶ。実は自分がVTRだと思っていたのは何かの間違いで、白バイだったのではないだろうか。

「いや、そんなことはない……よな……?」

 じっと目をこらす。赤いパトライトもなければ、ごてごてとしたサイドボックスも無線のアンテナもない。

 ただの250cc。自分のスパーダと同じVTエンジンを積んだ、ホンダのモーターサイクルに過ぎないではないか。

「………………ようし」

 なぜ、その隣にスパーダを止めたのかと問われたならば、志智はなんとなくと応えただろう。

 興味を持ったから。気になったから。そんな言い方もできるかもしれない。

 だが実際のところは━━

(……本当に『いる』って、確かめたいだけなのかもな)

 果たして、ちょうどヘルメットをとったVTRの主は亡霊でもなければ、両足が透けている様子もなかった。

「あの、こんにちは」

「……ああ。さっきの奴か」

 その男は中年だった。30代か40代か、詳しくは分からない。

 だが、高校三年生という青春の絶頂点にいる志智にとって、どのみちその男は『おじさん』と呼ばれる年齢だった。

「速い……ですね」

「言うことはそれだけか?」

「えっ」

 VTRの男はひどくぶっきらぼうな口調でそう言った。

 あまりに非友好的な態度に、志智が怒りよりも驚きを覚えてしまうほどである。

「なってない……お前の走りはなってないよ、でっかいボーヤ。

 まず突っ込みがダメだ……あんなタイヤに負荷を掛けるブレーキしてたら、小石一つで吹き飛んじまう。

 コーナリングも体重移動が甘い……もっとリアタイヤに荷重をかけてやるんだ……それに……」

「あ、あの、すいません」

「………………なんだ?」

 無精髭に手を当てながら、VTRの男は志智を見つめる。

 疲れたような目からは、面倒だこんな話はさっさと切り上げたい━━そんな意志がありありと伝わってくる。

「すいません、俺、テクニックとかはよく分からなくて」

「……ふん。

 それでよくあれだけ走れたもんだな。普通だったら、一回ドカンとやって死んでるもんだぜ」

「そう……かもしれませんね」

「せっかくいいマシンに乗ってるのに……お前の腕じゃ、そいつが泣くってもんだ……」

「はい」

 男の言葉は、バタフライナイフのように鋭く、遠慮がなく。

 そして、昭和の時代の物語に出てきそうな……どこか古くさい匂いがした。

「その、いつもここを走ってるんですか?」

「……ああ、そうだ。

 お前らみたいなちゃらちゃらしたのは、川野とかでぐるぐるしてりゃいいさ……だがな、周遊で一番面白い区間は『ここ』だ」

 そう言いながら男は、登り側へむかって指をさしてみせる。

「コーナーのRも多彩だし、見通しもまあまあいい……路面も文句はない。

 本当に腕の差がでるのはこの区間だ。サーキットよろしくSSどもが、ごっこ遊びしてる川野じゃねえよ」

「そう……なんですか」

「俺はいつも『ここ』と『あそこ』の間を走っている……」

 つまるところVTRの男は、今いる駐車場と志智を追いかけ始めたポイントを往復しているらしい。

(なんだか、不器用な人だな)

 志智は男の言葉からそんな印象を受けていた。

 確かに攻撃的ではある。しかし、不思議と嫌みはない。こちらを馬鹿にしているようでいて、声色からは気遣いが強く感じられる。

 と、その時。

「……ああ、下りが不満なら、試してみてもいいんだぜ」

 男は思い出したように、そう言った。

「試す?」

「上りで、だ。そっちの方がパワーあるしな。有利だぞ」

「………………」

 なぜ突然、そんなことを言うのだろうと志智は思った。

(やっぱり不器用っていうか……)

 どう考えても、技量の差は明白ではないか。

 志智は追い詰められて、VTRの男は追い詰めた側だ。

 上りを走れば確かにマシンパワーの差が出るかもしれない。だが、それに何の意味があるのだろう。

(そっちの方がどう考えてもうまいのに……)

 まるで、VTRの男はひどく出来の悪い脚本に沿って、嫌々ながら決められた言葉を並べているような━━

「いえ……あの、もう帰るつもりなんで」

「………………ああ?

 そうか。そいつは悪かったな……」

「悪い?」

「いや……なんでもない。忘れろ」

 VTRの男は不意に目を丸くしたかと思うと、次の瞬間には苦虫をかみつぶしたような表情で首を振った。

「チッ……だから俺はこんなこと……」

「………………」

 ヘルメットの中から発せられたその言葉は、三鳥栖志智の鼓膜には届いていない。

「じゃあな……」

 セルが回り、驚くほど控えめなVTRの排気音が響き渡る。

 会釈する志智をちらりと振り返りつつ、細く締め上げられたキャブ最終型VTR250のテールが遠ざかっていく。

「あっ。

 あの人のマフラー……ノーマルなんだ」

 スパーダのエンジンを始動し、愛機の音を耳にしてから、志智はようやくエキゾーストノートの違いに気づくのだった。


~~~~~~Motorcycle Diary~~~~~~


「祇園田おじさん」

「よう、なんだシー坊。もう閉店だが……んん? こいつは一応見ないといかんらしいな」

 その夜、早めの夕食を済ませた志智の姿は、二輪販売店『ハング・オフ・モータース』にあった。

 VT250スパーダを押して歩いたとしても自宅から五分。エンジンの力を借りれば、一分足らずでついてしまうその小さな店舗は、志智にとっては行きつけのショップであり、そして恩人の住居でもある。

「なんだなんだ、タイヤがすっかりスリップサイン出てるじゃないか。

 しかもお前……こりゃ、走り方ちょっと変わったな……」

「タイヤ?

 ああ、そういえばちょっと食いつきが悪いかなって思ってたんだけど……タイヤの減り方で分かることなんてあるの?」

「そりゃあ、山ほどわかるさ。ほれ、入りな」

 志智とスパーダを店内へ招き入れると、祇園田はリモコンのスイッチを押した。がらがらと大きな音を立てて、ゆっくりシャッターが下りていく。

「まずこのフロントだな……ど真ん中はまだ溝があるのに、少しサイドのあたりが減りまくってる。

 こいつはコーナーの入りで負荷を掛けている証拠だ。

 公道じゃあぶねーぞ、このやり方。無茶してないだろうな?」

「はは……凄いね。

 確かにちょっと新しいブレーキのやり方を試していてさ。それでだと思うけど」

「リアは端っこが見事に溶けてるな……脱出でパワーくれてる証拠だ。

 こいつは前から変わらないが」

 タイヤに人差し指をあてながら言う祇園田を見ていると、自分が大多磨周遊道路を時速何キロで走っているか━━そんなことまで当てられてしまいそうで、志智としては気が気でない。

「まあ……何にせよ、タイヤが交換時期だ。

 とっとと変えるぞ。そこに座ってろ。ああ、コーヒーとかは勝手にいれてくれ」

「ごめん、ありがとう。

 タイヤ代だけど」

「んなもん考えなくていい。あー……そうだな。タイヤメーカーの営業が置いてった余りがあるからな。

 ちょうど同じ銘柄だ。そいつを履かせるか」

「………………ありがとう」

 がちゃり、という音がしてスパーダのスイングアームに、メンテナンススタンドが取り付けられる。

 後輪を浮かせて、どこか宙ぶらりんなスパーダの後ろ姿。角張ったテールライトを眺める。

(VTRはもうちょっとシャープな感じだよな……やっぱり、世代が違うのかな……)

 志智はそんなことを考えながらコーヒーメーカーのスイッチを入れる。

 そして祇園田は、バックヤードからどう見ても在庫品のタイヤを1セット抱えて来ると、スパーダの背後で膝をつき、人を殴り殺せそうな大きさのレンチを手に取った。

「さて、だ」

 作業手袋をつけるが早いか、アクスルシャフトを抜き去り、後輪を取り外す。ものの数分もかかっていない。

「あのさ、祇園田おじさん」

「ん? ああ、なんだ?」

 スパーダのリアホイールをタイヤチェンジャーへセットしながら、祇園田は志智を振り返った。

「いや、大した話じゃないから、作業しながら聞いてくれればいいんだけどさ」

「そいつは気遣いどうもだな。

 シー坊にしちゃ上出来だ。千歳ちゃんにはまだまだ及ばないがな」

「及ぶつもりもないけどさ。

 VTRって……速いバイクなのかな? 250ccのVTRなんだけど」

「VTRぅ?」

 チェンジャーのアームがタイヤとホイールのすきまに吸い込まれ、張り付いたビードをこそぎ落とす。

 がぽっ、という音と共にホイールの中でタイヤらしい形を保っていた円形のゴムは、ぷらぷらと揺れるカーボンブラックの浮き輪となる。

「けっ、気に入らないバイクだな、ありゃあ」

「気に入らないって言うと……」

「まず、エンジンだ。せっかくVT使ってるのに排ガス規制とかいってな……パワーをがっつり落としやがって」

「そうだね。32馬力……だっけ。スパーダよりはずっと少ないみたいだけど」

「おまけにあのフレームだ。ドゥカティモンスターへの対抗心丸出しだな。

 同じデザイナーが残したスケッチだって言うけどな。

 商売上の話としても……なんつーかなあ。物真似とはいわねーが、別の角度で攻めてほしかったもんだな……」

「………………」

 祇園田は━━要するに見た目のコンセプトがかぶりすぎていると言っているらしかったが、志智にとってはあまり興味のないことだった。

「何より、だ!」

 リアホイールへ新しいタイヤをはめこみながら、祇園田は声を張り上げる。

「こんだけしょーもねー材料がそろってるくせに、やたら乗りやすいと来てる」

「うん……」

「エンジンはアンダーパワーだが、クセがない。耐久性もピカイチだ。

 おまけに鉄のトラスフレームで、スパーダから退化してるはずなのに剛性もいい……高速コーナーでも車体がそうそう負けない。

 ああ、そうだな。同じトラスフレームでもR1-Zと比べると、よくできてるぜ……VTRのフレームはな」

「剛性……か」

「極めつけは足回りだ! VTRの足回りは……マジでいい!

 とにかくバランスが絶妙だな。よくもあんだけ仕上げたって足になってる」

「………………」

「日本の峠道あたりだと━━スパーダよりもいい足だぞ?」

「そう……なん、だ」

 祇園田がいつの間にかニヤニヤと笑っていることに気がついた頃には、スパーダのリアホイールが取り付けられていた。

「まあ、そんなホンダらしいっつーかな。

 そつなくまとまりすぎてて、気に入らないバイクなんだよ」

「………………」

「なあシー坊よ。さっきからずいぶん真剣な目になってるが、なんだ? 乗り換えるのか?」

「まさか」

「腕が同じならシチュエーション次第だが……まあ、普通はスパーダの方が速いな。

 けど、相手の腕があきらかに上ってなると」

「………………」

「燃えてるなあ、シー坊。なんだ、どこでぶっちぎられたんだ?」

「いや、そんなことはないんだけど、さ」

 コーヒーメーカーにセットされたカップから、すっかり湯気が立っていることも忘れて、志智は真新しいスパーダのリアタイヤを見つめていた。

 祇園田はスパーダの腹下へ滑り込ませたジャッキスタンドを踏みつける。

 ほんの10センチほど車体が浮き上がり、今度はフロントホイールが取り外される。

「なんていうのかな。今になってから……すごく、悔しくなってきた」

「ほー。そいつはそいつは」

 T型レンチがくるくるとまわり、ブレーキキャリパーが取り外される。

 アクスルシャフトを引き抜くと、ごとり、という音ともにフロントタイヤが転がった。

 人差し指をホイールの穴へ突っ込んでベアリングをチェック。特に引っかかる感触もない。

「まあ……無理はしないこったな」

「でも、悔しくてさ」

「その気持ちは分かるが……250ccってのはな。

 所詮、入門機。されど入門機だ。峠道でかっとぶには十分すぎるくらい速いマシンなのさ……」

 タイヤ交換の手順はフロントもリアも変わらない。せいぜいレバーを使ったとき、フロントの方が楽かという程度である。

 バランサーにセットされたフロントホイールがくるくると回る。修正のウェイトは5グラムが一枚だけ。良ロットと言えるだろうか。

「日本の峠……ミニサーキットなんかもそうだが。

 全日本レースとか出ていなくてもな……ローカルなところを走り続けてる奴ってのは、びっくりするほどいい腕してるもんだ。

 若い奴が数年くらい頑張ったところで、どうにも追いつけない━━その場所に特化した腕をな」

「………………」

「VTRはそういう奴が乗ると、手が付けられないほど速い……『小手先』のテクニックをどこまでも吸い込んで……許容してくれるバイクだからな。

 小さな積み重ねが、きちんと結果になって出てくる……」

「………………そう」

「あーあ、なだめるどころか火を付けちまったかな?」

「そんなことは……はは、あるかもね」

 三鳥栖志智の瞳で、イリジウムプラグのスパークよりも熱い火花が散っている。

 口にしたコーヒーはまだ熱かったが、今の志智にとっては氷よりもぬるい代物だった。

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