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~Episode of Spring II~

「……ねむ」

 三鳥栖志智みとすしちが出会う木・金・土の朝は常にひどい眠気と共にある。

 広くない自室。方角のよくない窓。

 1990年代に製造された中古洗濯機は、今朝もアパートの渡り廊下で元気に動き続けているが、水の消費量が多いことを彼の同居人は気にしていた。

(まだ七時半か。もう少し寝るかな……)

「おにいちゃん、朝だよ。ご飯できてるよ、ほら起きてっ」

 枕元の時計をみて、二度寝の快楽をむさぼろうとした志智の思惑は、薄い扉のむこうで呼ぶ同居人の声にうち砕かれる。

「……ちぇー」

 花粉症というわけではないのに、目ヤニがひどかった。きっと昨夜のアルバイトでさんざんトラックの排気ガスを浴びつづけたせいだろう。

「おにいちゃーん」

「ああ、起きてるよ。すぐ行くから」

「ん」

 満足げな同居人の声と、ぱたぱたと去っていくスリッパの音。

 もっとも、目と鼻の先にあるキッチンへそれがたどり着くまで十歩にも満たない。

「ふぅ……は。ねむぃな、こりゃ……」

「おはよう、おにいちゃん」

「ああ、おはような。千歳ちとせ

 志智が自室を一歩出ると、そこはトーストから飛び出したばかりのパンと、味噌汁の匂いで満ちていた。

 その空間は、面積にすれば1Kにも満たないだろう。

 キッチンとリビングを兼ねた憩いの場へ、申し訳程度のテーブルへ志智と同居人のふたりが腰掛けたなら、あとは椅子を並べるスペースもない。

「おにいちゃん、昨日も遅かったね」

 制服の上からかけたエプロンを外しながら、その少女はいたわるときの目で口を開いた。

 ポニーテールというには少し控えめにまとめた髪が、小首をかしげる仕草にあわせて揺れている。

 高校一年生という年齢にしてはよく育った胸元。

 それは制服の上からでも、80年代のレーシングカウルのように豊かなふくらみを主張していた。

「千歳こそ、朝早かったんだろ。作り置きでもいいって言ってるじゃないか」

「ううん。朝ご飯はちゃんと食べないとダメなんだよ。

 それに、おにいちゃんがガンバってくれてるんだから、わたしも早起きくらいしないと」

「……そーいうの、気にしなくていいって言ってるだろ」

「えへ~」

 長い腕を伸ばして、頭をくしゃりと撫でてやれるほどに近く、小さなテーブル。

 100円ショップで買ってきた食器の隣には、980円で手に入れたトースターが放熱にあわせてキン、キンと音を立てている。

「おにいちゃん、おにいちゃん。ほっぺも」

「……むにむに」

「えへへ~」

 そのままとろけてチーズにでもなってしまいそうな顔をしている彼の妹を、三鳥栖千歳みとす ちとせという。

 ゆえあって兄妹でふたり暮らしを強いられている志智にとっては、たった一人の大切な家族であると共に、対外的にはなかなか兄貴への甘えが抜けない困った妹、ということにもなっている。

「おにいちゃん、着替える時間ある? 遅刻しそうだからって、バイクで登校しちゃダメだよ」

「着替えなんて1分あれば終わるさ」

「う~ん、せっかくおにいちゃんカッコいいんだから。もうちょっときちっとしてくれたら、わたしとしては鼻が高いんだけどなあ」

「……高校の制服にきちっとも何もないだろ。着るだけなんだから」

 うっすらと塗ったマーマレードと共にパンの耳を口へほうりこむと、志智は席を立つ。

「ブレザー、どこだっけ」

「そっちにかけてある。コートの奥」

「あいよ」

 ワイシャツ。ネクタイ。ズボンにブレザー。二年以上の日々をすごした制服をもって自室へ入った志智は、予告とおり1分で姿をあらわした。

「いっぷーん、0秒」

「なにそれ」

「……いや、先週の話だ。それじゃあ行くか」

「うんっ」

 妹の笑顔をひきつれて志智は玄関を出る。

 否━━その前に彼らは振りかえる。リビングにある小さな仏壇へなにかを懐かしむ視線を向ける。

 二枚の遺影はこれまでもそうだったように、穏やかな表情で彼ら兄妹をみていた。


「いってくるよ。父さん、母さん」


~~~~~~Motorcycle Diary~~~~~~


「おはよう、志智。アルバイトの調子はいかが?」

「ぼちぼちだよ」

 八王子市は都下屈指の学生街にして、西の玄関口でもある。

 私鉄駅からほど近い、その中高一貫校は南田磨校の名を持ち、三鳥栖志智みとす しちや妹である千歳ちとせ、そして日原院亞璃須にっぱらいん ありすの通う学校でもあった。

「しかし、お前……」

「なにかしら? わたくしの魅力にやっと気づきました?」

「いや」

 毎朝毎朝、教室に入るたび傲然と胸を反り返らせたポーズをとって待ち受けているのはなぜなのか、と志智はたずねたくなったが━━

(どうせまた運命の相手がどうだとか、見初めた伴侶がなんだかとか、意味不明な説明が出てくるだけだろうな……)

 そもそも、無いものを強調する姿勢をとったところで、そこには空虚さしか残らない。

「さあ、一時限目は漢文ですわ。宿題は? 昨日の宿題はやってます?

 やってなかったら、ホームルームの間に写させてあげますけれど」

「バイト前に片付けたよ」

「うーん、それはつまらないですわね。

 ああ亞璃須さまっ、どうかどうか写させてください、何でもしますからあなたの伴侶として一生を共にしますから~!……とか、期待してましたのに」

「……お前はアホか。俺は俺は寝不足なんだ」

「学業に差し障るくらいでしたら、深夜のバイク便なんて辞めてしまえばいいですのに」

「そうもいかないんだよ。……お前にはわからないだろうがな」

 血の気の多い相手なら、そのままケンカにでも発展しそうな目で、志智は亞璃須を射貫く。

 それは彼なりの━━『お前はいまデリケートな部分に触れている』という意思表示であり、多少、悪口をいわれた程度では眉一つ動かさない志智にとっても、譲れないものがあるという証拠だった。

「ふふっ」

「そこで笑うなよ」

「凡百の女でしたら、あなたにそんな目で睨まれたら泣き出すと思いますけれど」

 亞璃須は細く長いナイフのように、あるいは一点を突き砕くアイスピックのような志智の視線を受け止めて、笑っていた。

 正確にはニヤニヤと笑っていた。

 楽しんでいた。嘲笑ではなくても、挑発とすら受け取れる表情だった。

「お前は本当に変なやつだな、亞璃須」

「あなたこそです、志智。

 今時、昼は学業、夜に働きながら妹とふたり貧乏暮らしなんて流行らないシチュエーションですわ。

 まるで悲劇の主人公みたい」

「お前が考えているほど、俺は悲劇の中にいるとは思っちゃいないけどな。

 働いているのだって、週の後半だけだぞ。土日は遊んでいるし、そこそこ気楽な毎日だよ」

「そうですわね。今のあなたなら。

 こうして三年生になって、わたくしと同じクラスで毎日過ごしているあなたなら、そう言えますけど。

 あの日あのとき、あの場所で。

 大多磨周遊道路で━━わたくしとはじめて会ったときのあなたは、悲劇どころか惨劇の方がふさわしくありませんでした?」

「………………」

 その沈黙は、第三者が見たならば無視であり、拒絶だった。

「………………」

「ねえ、志智?」

「………………うるせー」

「志、智」

 だめ押しのように、きらめく金髪をゆらして亞璃須が言う。

 イギリス人の母譲りだという青い右目と、父親から受け継いだ黒い右目がなぶるように志智を見る。

「聞こえないなら、もっと耳元でささやきましょうか」

「うるせーって言ってるだろ」

 そっぽを向いて片手を投げ出す仕草。やはり第三者がみたならばそれは拒絶だったが、亞璃須にとっては降伏宣言にも等しいものだった。

「……お前には借りがあるからな」

「そうですわね。まだまだ返しきれてないですよね?」

「ああ……そうだな。まだ……もう少し、な」

「じゃあ、今週末も来ますわね。周遊に」

「言われなくても行くつもりだったよ」

「そういうことにしておいてあげます」

「………………ありがとよ」

 窓際。

 ホームルームの開始を告げるチャイナがなり、暖かい春の陽射しが、志智を照らす。

 担任の声が徐々に遠くなり、ほおづえをついたまま三鳥栖志智はしばしのうたたねに耽る。

 その横顔を、教室の廊下側にいる日原院亞璃須にっぱらいん ありすは微笑みでみつめている。


「春眠━━」

 金曜日の午前がはじまっていた。


~~~~~~Motorcycle Diary~~~~~~


 大多磨周遊道路へ至る道は、南側の檜原街道経由と、北側の小河内湖経由が存在するが━━

 観光ルートとして名高いのはもっぱら後者である。

 対して、特に景観がすぐれているわけでもなく、だらだらと見通しの悪いコーナーばかりがつづく檜原街道を好んでえらぶものは決して多くはない。

 それが証拠に小河内湖経由の国道は、休日ともなれば渋滞の発生が日常であり、それに巻き込まれつつもマスツーリングの楽しさを満喫するモーターサイクルライダー達は、ゆうに数百を数える。

 しかし、ライディングの楽しみとは、往々にして主流から外れた場所にこそある。

「お先━━」

 狭い山道の決して長くない直線で、前走車をパスする権利は、250cc以上のモーターサイクルにのみ許された特権といえるかもしれない。

 どんなにハイパワーだろうと、四輪にそれは無謀である。

 不意に現れる対向車を避けられないからだ。

 そして小排気量のモーターサイクルにも厳しい。

 いくら二輪が加速に優れているとはいっても、それは排気量に比例するものだからだ。

(2st……とかいうのだったら、125ccでもニーハン並みに速いっていうけどな。どうなんだろうな)

 VT250スパーダを軽快にヘアピンカーブへ飛び込ませながら、志智はそんなことを思う。

 3月にはまだ頼りなかったタイヤのグリップというものを感じる4月という季節。

 まもなく午後三時にもなろうかという檜原街道は、大多磨へ向かう者より去る者の方がずっと多い時間帯だった。

 天気だけ見るのなら、朝から快晴。

 気温もよくあがって、絶好のツーリング日和といえる土曜日。

 しかし、志智にとっては水・木・金と連夜のアルバイトを終えて、やっと睡眠をむさぼれる貴重な一日である。

 よって、彼が起き出したのは昼過ぎのことだった。

 千歳が出かける前につくっておいてくれた『イトコ』丼をかきこんで、VT250スパーダに飛び乗ったとしても、このくらいの時間になることは避けられない。

(というより、このくらいの時間で……いいんだけどな)

 トコトコと前を行くW650をパス。よたよたとコーナーを立ち上がるCB1300を抜き去り、直線だけは威勢のいいイタリア製のスーパーバイクをマークすると、あっさり白旗をあげられる。

「……残念」

 左ウインカーを出して減速したドゥカティを追い越しざまに片手をあげつつ、志智の胸中に不満にも似た感情が残る。

「今日はあんまり気合いの入ったやつはいないのかな……」

 わざわざ通行量の減った時間帯にやってきておいて、そんな愚痴を漏らしてしまう。

 温泉のある数馬からはフリー。

 大多磨周遊道路へはいり、反対側の川野駐車場へ到着したところには午後四時になろうとしていた。


~~~~~~Motorcycle Diary~~~~~~


「来ましたわね、志智」

 大多磨周遊道路、北の入り口。川野駐車場。

 フリルだらけの傘の下で、ティーカップを手にする日原院亞璃須にっぱらいん ありすは、学校で顔を合わせるときより幾分、優雅にみえた。

 もっとも、志智からすればそんなものは錯覚以前の問題である。

 彼はこのゴシックロリータ姿の金髪美少女が、650ccもの単気筒マシンを自在に操る存在だという事実を知っている。

「まさかと思うが、お前、朝からずっといたのか?」

「そんなわけないでしょう。日曜日ならそうしたかもしれませんけれど、土曜の朝にあなたが来るわけありませんし」

「じゃあ昼」

「ばかばかしい。そんな時間、まともに走れたものではありませんわ」

 行き交う車も、モーターサイクルもすっかりまばらになった本線を一瞥すると、亞璃須はそういった。

「たまにはいいんじゃないか。観光客にまじって、ゆっくり走るのも」

「で、時速40kmで何往復もして信号前のストレートや、ヘリポート前で待機している人たちに目をつけられるんですの?

 何一つ得しないことですわね」

「……まあ、そうだけどさ」

 あきれ顔の亞璃須に、志智は嘆息で応える。

 大多磨周遊道路はツーリングのメッカであると共に、れっきとした観光道路でもある。

 月夜見第一駐車場からみおろす景観は季節を問わず人気があるし、五月ごろには遅咲きの桜を目にすることもできる。

 紅葉シーズンは平日までファミリーカーであふれかえるし、モーターサイクルライダーを目の敵にしている某公権力もまた、きわめて高い頻度で出没する。

「朝一。さもなくば夕方。これが土日の峠道をはしる鉄則ですわ。

 もっとも、あの人達は夜中でも走れそうですけど」

 亞璃須が視線を送った川野駐車場の一角には、スポーツカーの一団がたむろしていた。

 それこそサーキットのパドックから、そのまま直行してきたのではないかという車もいる。

 そして、また別の一角にはレーシングスーツを着込んだスーパースポーツ乗り達も。

「あのGSX-R1000なら、HID入れてますから夜道でも飛ばせそうですわね」

「━━しかし、この周遊道路。

 天体観測などの正当な理由があれば夜間でも入れますが、二輪ではすこし難しいかもしれませんな」

「どうぞ、志智様」

「あ、どうも」

 志智の元にティーカップを運んできた壮年の紳士は、ゴシックロリータをまとった亞璃須と並び立つと、いかにも執事という雰囲気をかもしだしているものの。

 どちらにしても、この駐車場内では異質きわまりない存在であることに変わりはない。

「吉脇さんには、土日休みとかないの?」

「そうですな。お嬢様が休めと言われれば、休みますが」

 にっこりと笑みを浮かべるこの執事は、なんでも亞璃須が生まれた直後からのつきあいだという。

 日原院の家とどんな関係があるのか志智は知らないが、特に分家筋でもないというから、正当な仕事として彼女に付いているのだろうが……。

(車の運転、わかる。お茶の用意、わかる。……でも、マシンの整備をやる執事ってなんなんだ)

 なんの飾り気もない鉄ホイールのハイエース。その中で身を休めるXR650R。

 新車で買ったときに、一度エンジンまでバラしてから組み直したという話を亞璃須から聞かされたことがあるが、レースにもチューニングにも興味がない志智には、その意味などわかるはずもなかった。

(……まあ、レーサーだっていうもんな。きっとプラモデルみたいに、部品バラバラで売られてるんだろうな)

 なんとなくその推測が間違っていることは察しがついても、真実は想像もできない程度に、志智は自分の未熟さを自覚する賢さを持ちあわせていた。

 ━━そのときだった。

「……おっと」

 上品とは言えない4ストロークの高音だった。しかし、その音を熱狂的に愛する層が存在するサウンドだった。

 VT250スパーダとほとんど変わらない車体サイズ。

 丸目二灯ヘッドライトのフルカウルマシンが、川野駐車場へ入ってくる。

「2ダボ、ですわね」

 そのマシンの外見は、カウルもタンクも素人塗りのブラック一色で覆われていたが、亞璃須はエンジン音だけで正体を適切に言い当てる。

「2ダボっていうと?」

「ホンダ・CBR250RR。きゅんきゅんエンジンの音がするでしょう?

 カムギアを使っているからですわ」

「……カム? ギア? なんだそれ。6速以上あるとか、そういうことか?」

「ああもう……えーと。バブリーなお金のかかったエンジンだと思えばいいですわ」

「そう……」

 亞璃須がこめかみを押さえる理由には無関心なままで、志智の視線はCBR250RRから下りるライダーにそそがれる。

 標準よりは、すこし低い身長。

 ヘルメットを脱いだ顔立ちは、いかにもスポーツをやっていますという感じだったが、快活さよりは鋭さの方が勝っていた。

「そこのスパーダ……誰のかな」

「えっ」

 CBR250RRの主は開口一番そう言った。

 そして、目が言葉と違う意図を語っていた。お前のマシンで間違いないか、と。

「あ、いや。それは……俺のですけど」

「そうなのか」

 アイコンタクトと声のトーンでお互いの年齢差を探り合う。ひとまず敬語の志智と、無礼にならない程度の口調を保つCBR250RRの乗り手。

「覚えてないかもしれないが、何度か絡んだことがあるんだ」

「ああ……えっと、そう……ですか」

「あんた速いな……VTでそれだけ走る奴、めったに見ないよ」

「どうも」

 特にうれしくもない、という社交の表情で会釈する志智に、CBR250RRの主は微かに笑った。

「俺と勝負してほしい」

「………………!」

 そのとき、三鳥栖志智の目が鈍角のそれから鋭角へと切り替わったことを、日原院亞璃須は見逃さなかった。

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