~Episode of Summer VII~
折からの湿気は頬にまとわりつき、見上げた空には黒雲の粒がぽつぽつと浮かんでいる。
蝉の声がやや耳障りだった。夕立が空から来襲したならば、彼らも求愛の絶叫をすこしは控えるのだろうか。
「意外と遅かったな。コーヒーでも一杯飲んでて良かったかもな」
鋸山林道の舗装を横断する流水の上を、構わず突進してきた早間のDR-Z400SMは濡れた泥のあとにまみれている。
エキパイ……アンダーガード……そして、リア周り。その時になってはじめて志智は、自分が認めていた『汚れ』がもっぱら林道走行によるものだったと気づいた。
もちろん、都合三つの林道を走破してきた、志智と亞璃須のマシンも同じことではあるものの、早間仁のDR-Z400SMはその度合いが明らかに異なっている。
(それだけ……速く、激しく走ってきた、っていうことなのかな……)
オフロード走行の初歩すら知らない志智にとっては、なんとなく推測するしかないことだが。
「まさかあんなところで会うとはな。
何だよ、林道に興味が出たか……けど、VTじゃいくらなんでも厳しいぜ。おまけにあんな程度の荒れ具合で足踏みしてるようじゃ、さ」
「……どうも」
勝ち誇ったような早間の言葉に、わずかながら苛立ちを覚える自分がいる。
しかし、それが負け惜しみでしかないことも志智には分かっていた。
「オフ車以外で突っ込むなら、むしろ原付の方がいいぜ。カブとかな。
俺も最初は原付からはじめたんだ。
町の中を━━といっても、福島の田舎だから、コンビニまで何キロもあるようなところなんだけどさ。手早く移動するために免許をとったんだけどな。
近くのダートに間違って突っ込んでみたら、面白くて……それからが始まりさ」
「あいにく、バイクを二台買うような余裕はないんです」
「そうか。なんか、金がありそうな彼女連れてるのにな」
「彼女……?」
早間の視線がむいている先を振り返ってみると、そこには腰へ手を当ててふんぞり返っている亞璃須がいた。
「はあ!? 彼女!?」
「ん? 違うのか?」
「違う!」「違いませんわ」
「……どっちなんだよ……」
男女二人から、まったく正反対の返答を同時に聞かされて、早間は困ったような呆れたような顔で首をかしげる。
「しかしものすげーバイクに乗ってるな。
XR650Rなんて、日本じゃもてあますお化けマシンだぜ……というか、あれじゃないのか?
本当はスパーダが彼女のマシンで、三鳥栖……むしろXRはお前のマシンなんじゃないのか?」
「逆です」「逆ですわ」
「……まあ、それは正しいみたいだな……」
まず志智の長身と、小さな亞璃須を見比べて。
続いて、見るからにコンパクトなVT250スパーダと貫禄のあるXR650Rへと視線を移し、早間仁は深々とため息をついた。
「何にしても、VTで林道なんか走るもんじゃないぜ。
オンロードマシンにはふさわしい場所ってもんがあるさ。峠なり、ツーリングなり、街乗りなり、な。
もっとも、俺のDR-Zはどこを走っても速いけどな」
「……それは、周遊でも同じですか?」
「ああ、もちろんだが?」
早間の言葉には、年上だからという奢りもあったのかもしれない。
あるいは、見るからにマッチしないマシンに乗っている志智と亞璃須の二人をみて、侮りが生じたのかもしれない。
「だったら……俺のスパーダなんて軽くぶっちぎれるでしょうね」
だが、その軽い言葉が三鳥栖志智の心にある、何かへ火を付けたことは間違いないようだった。
「そう━━だな。
VTはいいマシンだと思うぜ。けど、いかんせん万人向け。そして250ccだ。
DR-Zは単気筒だが、400ccなんでね……排気量の大きいバイクが、そうじゃないバイクを対等に扱うのは不公平だろ」
「そんなもの、ですか……ね。
峠は軽いバイクの方が有利だって、言うじゃないですか」
「こいつだって十分軽いぜ。そこのXRほどじゃないにしろ……スズキが作ったレーサー直系カリカリのいいマシンだ。
曲がるのも止まるのも、250ccになんか負けないぜ」
「だったら、試してみたい、ですよね」
「意外と好戦的な奴なんだな。おもしれーや」
早間の返答には、肯定も否定も含まれていない。
しかし余裕混じりに志智を見かえす視線には、どんな挑戦からも逃げるつもりはないという意志が、明らかに含まれている。
「それじゃあ、決まりですわね」
そして、火花を散らす両者の視線を、満面の笑みでカットしたのは亞璃須だった。
「次の日曜夕方。二人とも都合はどうです?」
「俺はそれでいいよ」
「別にいいけどさ……XRの彼女、なんであんたが仕切るんだよ」
「ああ、彼女! XRの彼女ですって!
志智? この言葉の響き、たまらなくいいものだと思いません?
もちろん『彼女』が意味するところは明確ですわよね?」
「知るかっ!」
「人の話聞けよ……ったく、これだからガキは。
まあいいや。来週の日曜なら、俺も暇してる。こちとら女の一人もいない、寂しい身なもんでな━━あ、そうだ」
と、その時唐突に。
早間は自分が口にした言葉で、何かに気づいたかのように、小さく手を打った。
「XRの彼女。あんた名前は?」
「日原院亞璃須です。まあ、将来的に名字は三鳥栖になるかもしれませんが」
「果てしなくどうでもいいな……じゃあ、日原院さん。
俺が三鳥栖に勝ったら、知り合いの女の子、誰か紹介してくれ。
高校生でもいいぜ。そうだな、スタイルのいい子が希望だ。それが勝負を受ける条件ってことで、どうだよ」
「ああ……なるほど……ふむ。ま、そういうことでしたら」
「……おい、ちょっと待て」
亞璃須が志智を見つめる表情は、まるで特定の誰かを想定しつつ、その保護者に許可を求めるかのような色だった。
「いいでしょう。
わたくしに! 志智の彼女であるわたくしに、どーんとお任せくださいな!!」
「ちょっと待てと言ってるだろ! 俺は絶対に許さないからな!」
「……いまいち、何をもめているのか分からないが、とりあえず頼んだぜ」
「それじゃあ、日曜の夕方に川野で」
「ああ分かった」
「いや、ちょ……あのですね、早間さん。俺は━━」
「それじゃあなー」
心なしか浮ついた声で、早間はDR-Z400SMのエンジンを始動させると、さっさと走り出していってしまう。
残されたのは、企みの顔でほくそ笑む亞璃須と、呆然と立ち尽くす志智だけだった。
~~~~~~Motorcycle Diary~~~~~~
翌週の平日。大多磨周遊道路、川野駐車場。
「えぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇっ!?
ね、姉さんっ……ほ、ほんとにそんなこと約束したの?」
「もちろんですわ。このわたくしが嘘をついたことなど、生まれてこの方ありませんもの」
「昔はよく僕のこと騙して遊んでたよね……じゃなくて!
お、お義兄さんもそれでいいんですか!? だって、姉さんが紹介しようとしてるのって、千歳ちゃ━━」
「……ああ、そうだな。それが何か?」
「いだだだだだだだだっ!!」
橋を一つわたった先にあるドライブイン前の自販機で買ったコーヒーを口にしながら、三鳥栖志智は日原院ティックの顔面に鉄の爪を浴びせている。
盆も明けた時期とはいえ、まだまだ夏の匂いが大多磨にはあふれていた。
夕暮れ時に気温がさがるのが、すこしだけ早くなったように思えるとはいえ、首都東京は連日の熱帯夜を記録しつづけている。
「要は、勝てばいいのですわ」
すっかりその水面を下げた小河内湖をみつめながら、ゴスロリ姿の亞璃須は悠然とアイスティーのグラスを手にしていた。
「そもそも志智が勝てばこの話はなし。
それに、わたくしは女の子を紹介するとは約束しましたけど、どこの誰とも言っていませんし」
「で、でもスタイルがいい子……なんですよね!?」
「何で俺を見るんだよ。
そりゃあまあ……確かに千歳のやつは、いろいろよく育っちゃいるが……」
「ですよね! そうですよね、お兄さん!
千歳ちゃん、体育の授業とかだともうすごいんですよ! あと水泳も大変なことになっちゃって!
僕、後ろの席なんですけど、暑い日とかだと白いブラウスに透けた線が……ああ、もううわーい!!」
「おい、亞璃須。こいつから殺していいか?」
「さすがに殺されるのは困りますけれども……まあ、若さというものですわ。
むしろ志智がおとなしすぎるくらいなんです。わたくしはいつだって一夏の過ちを待っていますのに」
「姉弟そろって好き勝手言ってくれるよ……」
DR-Z400SMとの対決を前に、志智が何か特別な訓練をしているかと言えば、そんなことはなかった。
亞璃須にきいても、2stを相手にするよりは気楽だの一言であり、もっぱら事情を聞いたティックだけが慌てている。
「で、でも万が一にもお兄さんが負けたら……ぼ、僕だって他人事じゃないですよ……」
「だから負けなければいいって言ってるだろ」
「そんなことを言ったって、勝負は何が起こるかわかりませんよ!
パンクとか! ガス欠とか! あ、そうだ! そのDR-Zが走るときに、釘まいておいてもいいですか!?」
「卑怯すぎるだろ……それに俺も釘を踏んだらどうするんだよ」
「ダイジョウブです、お兄さん。
スパーダがチューブレスタイヤですから、釘を踏んでもしばらくはハシれます。でも、DR-Zはチューブですからパンク=走行不能です」
「れ、冷静に考えてるところがむしろ怖いな……」
「天使である千歳ちゃんの純潔をマモるためなら、殺人未遂までは許されるとオモうんです」
「そ、そうか……?」
どこか光の失せた瞳で言い切るティックに、志智は薄ら寒いものを感じながら、話題を変えるように亞璃須の傍らへ控える吉脇を見た。
「吉脇さん、DR-Zってどんなマシンなの?」
「なあに、2stに比べれば遅いマシンです」
「亞璃須と同じこと言うな……」
「レーサー直系のマシンであることは事実ですな。
とは言っても、結局は公道前提の国内仕様です。周遊に限っていえば、スパーダと戦闘力の差はほとんどないでしょう」
「あなたはわたくしのXR650Rに一度勝っているんですから、400ccのマシンなんか怖がらなくても平気ですわ」
「それはそうかもしれないけどさ……」
横綱を打ち負かした力士が、なぜ大関との取り組みを恐れるのか。
そんなことを言われているようで、志智としては思わず苦笑せずにはいられない。
(勝った……俺はたしかに亞璃須のXRに勝ったことがあるけれど……)
その記憶は三鳥栖志智にとっては、夢の中で過ごした幻の一日のようにおぼろげで。
(今でも……なぜ勝てたのか、わからないや……)
そして、指を鳴らせばその瞬間に溶けてしまう催眠術のように、儚いものだった。
~~~~~~Motorcycle Diary~~~~~~
夏休みの日曜日は潮の満ち引きのように、いつの間にかやってくる。
「さて、そろそろいくか」
「あ、おにいちゃん。バイクで走るの?」
「ああ」
三鳥栖志智、そして妹の千歳が住まう狭いアパートでは、生ぬるい湿気と高い温度とは相反して、春の陽気にも似たうららかな空気が流れていた。
(最近、千歳のやつが機嫌いいからな……)
妹思いではあっても基本的に鈍感な兄は、その理由が━━ただ自分が家へいる時間が長いから、その一点であることには気づいてもいない。
「そっか~。残念だな~。うん、でもおにいちゃんはバイク大好きだもんね。
たまには乗ってあげないとね」
「たまには、って……バイク便のアルバイトで毎週何日も乗ってるだろ」
「お仕事と趣味は話が別ですっ。
だって、お仕事は生活に必要だけど、趣味は私との綱引きだもん」
「つなひ……あ、ああ、よくわからないけど、さ」
豊かな胸元もあらわなタンクトップ姿で、えっへんと腕組みしてみせる千歳。その両腕の上にはち切れそうな果実がずっしりとのっている。
どこかのXR650Rに乗っている少女には、決して不可能な構図だった。
「じゃあ、安全運転でね、おにいちゃん。亞璃須さんとティックくんも一緒なの? 二人にもよろしくね」
「ああ、わかったよ」
「ね。お出かけするなら、今日もしてして」
「はいはい」
「えへへ~」
頭を撫でてやると、うっとりと瞳を閉じて幸せそうに千歳は微笑む。
(いい子だ)
この表情をみるたびに、三鳥栖志智は一つの思いを新たにする。
どこの馬も骨とも知れない奴には、絶対に千歳を渡したりしないぞと。
(……ああ、そうだ。渡しはしないさ。
どっちにも━━な)
玄関へ向けて歩き出した志智の背中に、どっかーん、と言いながら千歳がぶつかってくる。
何だよ、と訊ねると妹は何でも、と応えた。
もう一度、兄は妹の頭を撫でてやった。
~~~~~~Motorcycle Diary~~~~~~
大多磨周遊道路、川野駐車場へ到着すると、すでにゴスロリ姿の亞璃須と吉脇のハイエース、そして早間仁のDR-Z400SMがそろっていた。
そして、なぜかぐったりと肩を落として座り込んでいるティックと、どこかくたびれたようなホンダ・グロムの姿も、また。
「何かあったのか?」
「本人に聞いた方が早いですわ」
亞璃須の言葉にティックの様子をうかがった志智だったが、白目をむいて完全な放心状態のようだ。
仕方なく志智が残った早間に視線をむけてみると、
「いや、なんかな?
彼女と付き合う資格は僕にあるから勝負しろ!……って、そこの金髪少年に言われてな」
「あ、なるほど、よく分かりました」
「登りだけで125ccをちぎるのは、なんか気が引けたぜ……」
ばつの悪そうな表情で頭をかく早間。
「ま、そういうわけでこっちのウォーミングアップは終わってるんだがな。
三鳥栖、お前はいらないのか」
「はい、檜原側から走ってきたんで」
「しかし、XRの彼女、クソ暑いのにすげえ格好してるよな……まあ、いいんだけどさ。
月夜見第一までのアップダウンで勝負らしいが、それでいいか」
「はい、俺はそれで構いません」
思わぬハプニングで出鼻をくじかれた志智の闘争心も、早間と言葉を交わし、、黄色いDR-Z400SMを前にしていると、少しずつ火がついてくる。
(そうだ……林道ならともかく、ここなら……このバイクなんかに負けない……)
それに三鳥栖志智には一人の兄として負けられない理由もある。
もっとも、その事を思えば絶対的な性能差があることはわかりきっているのに、それでもなお勝負を挑んだティックの行動は、好ましいとは言えないまでも、どこかくすぐったいものだった。
「先に……出ますか、早間さん」
「まさか。排気量の大きいバイクが先行できるかって」
「そう、です、か」
「……こえー目、するなお前」
不意に早間はどこか恐れすら含んだ声で、ヘルメットのあごひもを締め直した。
「俺は……な。
あの地震のときは東京にいたんだが……実家がなにしろ福島だからな。
すぐにすっ飛んでいって、いろいろ復興を手伝ったんだ」
「………………」
「あんときは大混乱でな……人間、九死に一生なんて目に遭うと、いろいろ変わっちまうんだよな。
いまのお前は……その目はそんな奴らに似ている」
「別に、大したことは……ない、です」
淡々と語る早間に対して、志智は冷たい炎が予想しない方向から吹いた風に揺らめくような。
そんなどこか━━遠慮を含む口調だった。
「俺は……何も大したことなんて、ないですよ」
「ふーん……ま、そうかもな。
東京にいたなら、死ぬか死なないか、なんて目には遭いようもない、か。
そのメッキ、剥がしてやるよ。必死で追いかけてきて転けてもいいが、死ぬんじゃねえぞ。
そういうのは津波の後片付けで見飽きたんでな」
「………………」
アイドリングに近い回転数で、ゆっくりと川野駐車場から出る志智のVT250スパーダ。
早間仁のDR-Z400SMは、死神が重病患者をつけ回すときの間隔で、その後に続いた。
~~~~~~Motorcycle Diary~~~~~~
(言ったろ……排気量が違うってな!!)
追う者と追われる者。その前後はあっという間に入れ替わった。
川野駐車場から出て、赤と黄色のマシンはまず小河内湖にかかる香蘭橋をわたる。
最初の左コーナー。その立ち上がりにひろがるロングストレートで、あっさりと早間のDR-Z400SMはVT250スパーダをパスした。
「所詮はVT! こっちとはパワーが違うぜ!!」
ハイスロットルに換装したアクセルを捻る。
FCRキャブレターのダイレクトなフィーリング。強制開閉式の利点は、ライダーに十分な技量があれば、直ちに必要なだけ空気の流入量を増やすことができる点にある。
バリバリと高鳴るエンジン音と同調して、パワーフィルターからの吸気音が早間の耳に聞こえてくる。
クラッチ、スプロケット、そしてチェーンを介してそのパワーはリアタイヤへ伝えられ、40匹の馬が地面を蹴り飛ばす。
もっとも、その最大馬力だけを見るならば、DR-Z400SMとVT250スパーダには、意外にも差はない。
しかし、250ccと400ccではトルクがまるで違う。これがコーナー立ち上がりの絶大な差となって現れたのだ。
(そして、元々がオフ車の足回り……こいつにとっちゃ!!)
きつく右へ曲がりこむコーナーに敷き詰められた赤い減速帯。
DR-Z400SMはブレーキングもそこそこに跳ね回る地面へ突撃する。
高剛性の倒立フロントフォークは路面の段差をやすやすと吸収。ライダーへ伝わる衝撃は、まるで柔らかな絨毯に載っているかのようだった。
「ちょろいもんだ……」
コーナーの脱出では時々リアタイヤをパワースライドさせながら、早間のDR-Zは一気にスパーダを引き離しにかかる。
だが、意外にもその差は開かない。ふるさと村の信号を抜け、さらにヘリポートを大きく回り込む左コーナーを抜けても、まだスパーダはDR-Zから一定の間隔を保ってついてくる。
(こいつ……)
立ち上がりでは確かに差が開く━━しかし、しばらくすると、いつの間にか差が詰まっている。
はじめは何かの間違いかと思っていた早間も、細かな震動にふるえるバックミラーを確認する頻度が増えていく。
そして、『92段のどん詰まり』をクリアした頃には、さすがの早間も志智の技量を認めざるを得なかった。
(あいつコーナーがえらく速いな……なるほど、所詮はVT……されどVTってことか……)
彼自身が指摘したように、志智のスパーダが装着しているタイヤは筑波のレースでも使われること。
そして、VT250スパーダという車種自体が、250ccツインのレースでは今もって最高レベルのマシンである事実を知っている早間からすると、これは驚きではあったが、理解不能というレベルではない。
「もっともこっちはまだ本気じゃないぜ……どこまで踏ん張れるか、だがな!!」
登り傾斜が厳しくなる従って、400ccの排気量が効いてくる。
きつい登りのコーナー立ち上がりではスパーダの加速が一瞬、遅れるのに対して早間のDR-Zはまるで平地のようにフロントをアップさせながら3桁のスピードを刻んでいく。
もとより早間を追う志智は、じり貧の状態にあることを強く自覚していた。
(650ccに比べれば……って言っても、やっぱり速いよな……)
パワーの差を見せつけられるのは、どんなライダーにとっても嫌なものである。
ましてブレーキングに差が出にくい登りで、小排気量のマシンが対抗しようとすれば、ただ一点コーナリングしかない。
それもハイスピードを保ちつつ、立ち上がりにかけていかに速度を殺さないか、これが勝負となる。
「よっ……と!」
右コーナー。ガードレールすれすれのアウトから一気に車体を倒しこむ。
センターポールへ肩がすれるのではないかというフルバンク姿勢から、2速11000回転。早めのポイントでアクセルを開ける。
VTエンジンがシングルのDR-Zに対して絶対的に勝っているのは、ツインエンジンであること、そして使える回転数が高く、広いことだった。
13500回転でシフトアップ。時速100kmに達しようとしているスピードメーターを、満足げに志智は見つめている。
(今のコーナーは……うまく立ち上がれたな)
フラットトルクでありながら、高回転まで伸びるVTエンジンの利点を最大限に生かしながら、特にヘアピンコーナーでのロスをなくすべく細心のスロットルワークを心がける。
(それでも……追いつけないかな?)
しかし、DR-Z400SMは逃げていく。だが、すでに『鉄溝渡り』の区間は抜け、月夜見第一駐車場が見えてきている。
(勝負は下りだ……負けて、たまるかよ。千歳のためにも━━だ!)
だが、三鳥栖志智はさらなる困難が下り傾斜で待ち受けていようとは、思ってもいなかった。
~~~~~~Motorcycle Diary~~~~~~
「そういえば、姉さん……今日は一緒に走らないんだね……」
「ああ、やっと帰ってきたのですね。我が弟ながら、ふがいないことですわ」
「ううう、ごめんなさい……」
白目の放心状態から、ティックの意識がようやく現実世界へ帰還したとき、その傍らには姉と執事の吉脇がいた。
「えーと、もしかして僕のこと心配してくれて、側にいてくれたとか?」
「ティック、わたしくと何年姉弟をやっているんです?」
「はい、そうですよね。姉さんはそういう人だよね……とほほ」
ぐったりと肩を落とす弟に、非情な姉はクスリと笑った。
「でもまあ、今回はあなたらしくもないことをしたと、少しだけ褒めてあげたい気分ですわ」
「そ、それはどうも……」
「千歳さんのためだというなら、XRを貸しましたのに」
「そんな凄いバイクでDR-Zに勝ったって、自慢にならないじゃないか……お兄さんみたいに、格下のバイクで速いバイクに勝つから凄いんだよ」
「格下、ねえ」
疑問を含んだ呟きで亞璃須が首をひねると、吉脇が同調するようにうなずいた。
「まだまだですわね、ティック。
あのスパーダ、そんなに遅いバイクだと思います?」
「えっ……で、でも、VTなんでしょ? 万人向けの乗りやすいバイクだって」
「確かに『素』のスパーダはそうしたマシンですが、志智様のスパーダについては一概にそうも言えませんな」
吉脇は広げた右手の指をひとつひとつ折りたたみながら、言葉を続けた。
「まず……フロントサスのスプリングが違います。確かVFRのものだったはずです。
リアサスはうまくリザーバータンクが隠されていて、見た目では分かりませんが、NSR用のオーリンズが入っています」
「そのせいで少し『ケツ上げ』ですわね」
「えっ……えっ、え?」
「バックステップもスパーダ用のものは珍しい。
さらにシートが作り直されています。ノーマルでは非常に低いシートなのですが、志智様が乗ってもそこまで違和感がないことからおわかりの通り、かなりシート高があがっていますな」
「最後はマフラーかしら? 塗装し直していて、銘柄がわからないけれどモリワキあたり?」
「あれはワンオフです。本当はもっといい音がするのですよ。
ウールを盛大に詰めてあるので、いまではストリート用の静音仕様ですが……」
「ああ、成程」
「でも……吉脇。どうしてそこまで知ってるんだい?」
「それは━━」
不思議そうに彼を見上げるティックに対して、口元だけを笑わせる白髪の執事。
「……今のところは秘密でございます」
「はあ……」
「………………ま、そういうことにしておきますわ」
真相を分厚いベールに隠した吉脇にたいして、亞璃須だけは何かに気づいたような顔で、遠い方向を見つめていた。
~~~~~~Motorcycle Diary~~~~~~
「くっそ……下りでも速いなんて、ずるくないか!?」
登りはパワーの差で負けても、下りならテクニックで。
エンジンパワーに劣るモーターサイクルの乗り手であれば、誰もが考えるその戦術が半ば破綻しかけていることに、三鳥栖志智はショックを受けていた。
(速い……加速もスムーズだけど、ブレーキが凄い……)
重力の恩恵を受けることができる下りでは、わずか150cc分のパワー差など消え去ってしまう。
そして、志智のコーナリング速度はDR-Z400SMに対して、明らかなアドバンテージを持っている。
その優位を生み出す要因こそは、吉脇が語ったスパーダで施されたモデファイの数々でもあるのだが、むろん志智自身の高い技量があってこその話である。
━━であるならば、本来追いつけないはずはないのだ。
「ブレーキングで離されるなんてな……!」
心臓が喉から飛び出しそうな感覚に耐え、ぎりぎりまでブレーキレバーへかけた二本の指を思いとどまらせる。
そして、『そのポイント』へ至ったならば、筋肉へ一気に指令を与える。
睨みつけるメーターの針が100kmオーバーから一気に半減していく。
今の志智にできるベストのブレーキングと言えた。だが、それでも前方を走るDR-Zはさらに離れ、逃げていく。
(なんでだ……ブレーキランプが……?)
体を全方位から痛めつけるGに耐えつつ、前を走るDR-Zの車体を睨みつけていると、志智はそのブレーキランプが見慣れない光り方をしていることに気がつく。
コーナーの入り口をすぎても点灯し続けている。
通常、減速操作はコーナリングの開始前に終わらせるものだ。
リアブレーキで微調整をしているかと思えば、早間の右足はコーナリング中に仕事をしている様子はない。
(フロントブレーキをコーナーに入ってからもかけ続けているのか……そうか、あれは……!)
志智の脳裏によぎった記憶は、かつて4ミニの集団と競ったときは、自分を一瞬で抜き去った谷川淳の『深紫のYZF-R1』だった。
(あのR1もコーナーの途中でずっとブレーキランプが光っていたな……やってみるか……)
それが速さを生むテクニックだというのならば、三鳥栖志智の心に迷いはない。恐怖よりも、今のは目の前を走るマシンに追いつきたいという気持ちの方が圧倒的に勝っているのだ。
まず最初のコーナーでは、ブレーキを少し『甘く』した形でコーナーへ進入した。
そして途中でレバーへ力をこめてみる。すると、バンクしていた車体が起き上がり、あわや壁面へ突進しそうになってしまった。
「あぶねっ」
スロットルを緩め、シフトダウン。リアがロックし、尻を無様に振りつつもスパーダは路肩へタイヤをすりつけながら、コーナーをクリアする。
(今のじゃダメなのか……)
力が強すぎるのだろうか。次に志智が試したのは、掛け値なしのフルブレーキングだった。しかし、ブレーキレバーはコーナリングをはじめても完全にリリースせず、僅かだけ力をかけておく。
(おっと……!?)
前のめりの姿勢が長続きしていることが、よく分かった。
フロントフォークが沈み続けている。旋回がはじまると、これまで何百回と繰り返したコーナーの曲がり方と明らかに違う。
(よし、コンパクトに曲がっている……これか!)
その瞬間、コーナーの途中までブレーキングを引っ張るテクニックが減速のためではなく、旋回性を高めるためなのだと三鳥栖志智は悟る。
「いける……ついていけるぜ!」
新しいテクニックに開眼した瞬間である。
慣れ親しんだスパーダがこんなにも曲がる。さらに曲がる。その快感は乗り手でなければわからないものだった。
前方を走る早間との差がじわじわ詰まってくる。ふるさと村の信号が見える頃には、ほとんどテールトゥノーズの状態にまでなっていた。
~~~~~~Motorcycle Diary~~~~~~
「まさかここまでやるとはな……!!」
登りで突き放せるはずだった。下りになればさらに差は広がるはずだった。
それがどうだ。結局、今の自分はすぐ後方から煽られているではないか。
(VTにここまでのポテンシャルがあるとは、恐れ入ったぜ……)
そのポテンシャルを引き出す『コツ』を与えてしまったのが、他ならぬ自分であることなど早間は知るはずもない。
コークスクリューの進入では、追突しそうなほどの至近でスパーダが背中をつついてくる。向こうの方が速い。もはやそれを隠せる状況ではない。
「だがな……それでも前にいた奴が、勝ちなんだよ!」
吹っ飛ぶように減速帯の上をひた走り、揺れるサスペンションを押さえつけながらコーナーを抜ける。
それは爽快でありつつも、恐怖だった。震災後、福島の浜通りで目にした地獄が早間の脳裏によぎる。
(どうしようもないほど死んだ……どうしようもないほどひどかった……だが、それでもこんなことをしている!)
モーターサイクルになぜ乗っているのだろうかと考えたこともある。
ひとたび事故に巻き込まれれば、高確率で死んでしまう乗り物。
なぜ天から与えられた命をむやみに散らすのか、危険に晒すのか、その答えは今もわからない。
(死に急いでるみたいに突っ込んできやがって……ふざけんなよ!
お前に何がわかる! 何がわかってる! 本当の悲惨も、地獄も、何もしらない東京もんのお前に!!)
川野駐車場まで残すところコーナー二つ━━そのロングストレートで、耳元に両親の声が響いた気がした。
「………………っ!」
目元からあふれそうになる涙にも構わず、ブレーキング競争へ突入する。
イン側に滑りこむスパーダ。しかし、前に出さなければいいことだ。
もともとこちらの方が先にいる……ブレーキングで負けない限りはこれで。
「俺の……」
彼、早間仁の━━
「………………負け、か」
視界の右手に赤いスパーダの車体が見えたその時、早間はDR-Z400SMのスロットルから手を離していた。
「三鳥栖、お前……死にかけた経験とか、ないか?
さもなくば、死のうとした事とか」
川野駐車場へ戻ってきた早間仁が最初に発した言葉はそれだった。
刹那、志智と━━そして亞璃須が表情を固くするが、額いっぱいに汗を浮かべた早間は、その変化に気づく余裕も残っていなかったらしい。
「いや、気のせいかもな……。
しかし、ぶち切れた走りだぜ……命が惜しい奴は絶対にあんな走り方はしない……お前、どっちかというと、モトクロスとかに向いてると思うぜ」
「そう……です、か」
「ふふふ、負けたってのにあんまり悔しくないな。
最後に抜かれたときな、オヤジとオフクロの声がしてな。
無理するな、ってな。家ごと津波で流されちまって、未だに行方知れずなんだが……案外、この辺でこっそり暮らしてたりしてな」
「………………早間さん」
「悪い悪い、辛気くさい話をしたいわけじゃないんだ」
志智の表情から何を察したのか、早間は慌てたように首を振った。
「年上だからとお前のことを侮っていたのかもな。
お前は……大した奴だよ。腕もいいけど、なんかな……メンタルがすげえや……俺には無理だ。あそこまで無茶な突っ込みなんて、恐ろしくて出来ねえや。
まだ、俺は命が惜しいからな。
━━けど、お前はそうじゃないように見えたんだ」
「………………」
「……プライベートを根掘り葉掘り聞くのは、スマートではありませんわ」
「そーだな。ちぇっ、女の子は自分で探すかー」
端からみても無理をしていることが分かる笑顔で、早間は肩をすくめてみせる。
そして、右手をハンドルから離すと、人差し指をティックへと突きつけた。
「おい、さっき俺に完敗したそこの少年」
「は、はいっ? なんでしょう?」
「まあ、誰ねらってるのか俺にとっちゃどーでもいいけどさ。
告白するのは早い方がいいぜ。高校生活……意外とあっという間だからな」
「は!? はい……ええと、その……あ、ありがとうございます」
「じゃあな、三鳥栖……あとXRの彼女。
今度は少し肩の力抜いて走ろうや」
「………………」
「………………」
片手をあげて走り出したDR-Zの排気音が聞こえなくなった頃。
「えいっ」
「いて」
不意に、亞璃須は志智の背中を平手で叩いた。
力の限り。プロテクションパッドの上からでもわかるほどの衝撃が、背を通して胸に伝わる。
「何するんだよ」
「ね、志智。わたくしの大切な志智」
こつん、と背中に響いた感覚。
志智には振り返らずとも、それが亞璃須のおでこなのだと分かる。
「今でもまだ……いつ死んだって構わないとか、思っていたりします?」
「………………」
亞璃須の声はそのまま消えてしまいそうなほど、儚く。
そして切なく━━三鳥栖志智の鼓膜に、響き渡った。




