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降りじまひの雪 【吾妻橋の文吉留書】壱

作者: 小石 勝介

吾妻橋文吉シリーズの第1作目です。

 庭に控えていた文吉の足元に藪椿の花が落ちて転がった。見上げると光沢のある緑色の葉が冷たい風に揺れている。他の庭木は皆葉を落としているところでその緑は力強く紅色の花を際立たせていた。薄曇りの空には熱を感じさせない白い太陽が西に傾いている。冷え込みは相変わらずだが明日も晴れそうだ。文吉は、昔馴染みの北町同心島岡慶吾の組屋敷に呼び出されていた。他に誰もいない庭の真ん中で一人佇んでいると、文吉は岡っ引きだった父親が死んでからの慌ただしかったこのひと月余りが自然と頭を過ぎった。そして父のことを想い起こせばこの庭で肩車されて椿の花に触らせてもらった記憶も甦って来る。あれは文吉が四つか五つの頃だったろう。まだこの屋敷の主が健在で元服したての慶吾が同心の見習いに出たばかりだったはずだ。

「待たせたな、寒かったろう。上がって火鉢にでも当たってくんな」

 障子を開いて出てきた六尺近い大柄の男は羽織に袖を通しながら上がれ、あがれと手招いた。何度会っても顎髭の剃り痕が濃く目の大きい慶吾は、端午の節句に飾る鍾馗様に似ていると思う。彼の人となりを知らなければ、あまり近寄りたくない風貌である。嘘か本当か総勢十人程の町奴と火消しの喧嘩の仲裁に割り込み、全員をぶちのめした武勇伝の持ち主である。語る人間によっては、二十人だとも五十人だとも噂する。大人しく机の前で書き物をするよりも、竹刀を振り回す方が好きで、直心影流の免許皆伝であった。

 腰を深く折って挨拶を済ませた文吉は、下駄を脱ぎ懐から出した手拭いでさっと足を拭いて座敷に上がっていった。十九歳の若者にしては世馴れた如才なさを感じさせるのは、きっと八つの時から奉公に出た人形町にある小間物問屋相生屋の手代としてしっかりと躾けられたせいだろう。

「おかげさまで親父の四十九日も済ませることができやした」

「早いものだな……」

 頭を上げると慶吾が遠くを見るような目で顎を撫でているのが見えた。文吉の父辰蔵は彼のお手先だった。三十一歳になる慶吾にとっても先代からお手先を続ける辰蔵は親も同然である。捕物のいろはは実の親より辰蔵に教わったと、慶吾が火箸で炭をつつきながら昔を思い出すように独りごちた。口数の少ない慶吾である。暫く沈黙が続いた。きっと慶吾も自分とは違った親父を胸の内に思い浮かべているのだろうと文吉はその姿を眺めていた。辰蔵は良くも悪くもスッポンの辰と呼ばれ、一度食らいついたら放さないことで定評のある岡っ引きだったと耳にしている。それは文吉の見たことのない父親であった。思えば息子の前で十手を見せることは滅多になかった。ひょっとしたら岡っ引きと蔑まれて呼ばれる自分を息子に見せたくなかったのかもしれない。

――そんなこたぁねぇぜ。親父は立派だった。おいら誇りに思ってる。そうでなきゃ慶吾の旦那に頼みやしねぇ

 長い溜め息を吐いた慶吾が顔を上げた。それでもなかなか喋り始めない。文吉は焦れてきた。

「どうなんでしょう?」

 文吉の問いに慶吾の重い口が開いた。珍しく物言いに歯切れがない。

「それで親父さんの後を継いでお手先になりてぇという、おめぇの決心は変わらねぇのかい?」

 文吉は、瞬きもせずしっかりと慶吾を見返した。

「俺は、おめぇに心底すまねぇと思っているよ。俺等が間に合わなかったばっかりに、逃げる強盗に見張り番だった辰蔵の父っつあんがひとりで飛び出しちまった。父っつあんを殺しっちまったのは、俺達だ。おまけに賊の正体もまだ掴めちゃいねぇ。おめぇが父っつあんの敵を討ちてぇ気持ちもよっくわかるつもりだ。俺だって腸が煮えくり返っているんだぜ」

 慶吾は握った火箸を灰の中に荒々しく突き刺した。

「おそれいりやす」

「だがよぅ、おめぇは相生屋五兵衛の娘お澄美と夫婦約束してるって言うじゃねぇか。婿養子になるって辰の父っつあんが随分喜んでいたぜ。ゆくゆくは大店の若旦那だ。息子だけは堅気にしてえってぇのが父っつあんの口癖だったな」

「店は暇を出していただきやした。夫婦約束も反故にしやした。もうあっしには親父の住んでいた吾妻橋のおんぼろ長屋にしか帰る所はねぇんでさ」

 文吉は火鉢から離れると畳に額を押し付けるようにして頭を下げた。突然十六になるお澄美の泣き顔と罵声が頭の中を過ぎった。

「文吉さんが大きくした店じゃないか。柳行李を担いで小間物を見せながらお得意様を広げていった文吉さんが、小さかったこの店をいっぱしの小間物問屋にしてくれたんじゃないか」

 お澄美がにじり寄って文吉の腕を掴んだ。細い腕のどこにそんな力があるのかと思わせるほどで、文吉はふり解けなかった。

「あたしのことなんざぁいいよ。文吉さんだよ。今までやってきたことが惜しくはないの? 今までやってきたことはなんだったの? お父っつあんも本当の息子のように思って、文吉さんが相生屋を継いでくれるのを心待ちにしてたんじゃないか!」

 五兵衛に窘められながらも文吉の袖を引っ張りながら泣きじゃくっていた。お澄美の母親が文吉から娘を引き離して抱きしめた。

「……すまねぇ」

 そう口の中で吐き捨て、相生屋を出てきたのだった。

 五兵衛は、「仕方がねぇ、たったひとりの親父様を殺されなすったんだ。わかってやれよ」と何度も繰り返していた。娘とその母親に言い聞かせながら自分でもそう思い込もうしていたようだ。

 慶吾がずっと頭を下げたままの文吉に向かって重い口を開いた。

「まったく頑固なところも辰蔵の父っつあん似だぜ。十手は預けるが、ただひとつ約束してくんな」

 約束してくれなきゃ、十手は渡せねぇと言われて、文吉は顔を上げた。

「へぇ、そりゃあもうお手先として一生懸命努めさせていただきやす」

 また、慶吾が黙ってしまった。俯いて頭を捻りながら言葉を捜している様でもあった。慶吾は冷めたお茶を一口啜るとゆっくりと文吉に言い聞かせるようにきつい口調で申し渡した。文吉は思わず聞き返した。

「何度も言わせるんじゃねぇ。敵討ちは、しばらくの間許さねぇ。それは、俺と金治の親分でやる。俺等の仕事は私情を挟んじゃいけねぇ。江戸に住む人間が毎晩枕を高くして寝られるようにするのが俺等の勤めだ」

 金治もやはり慶吾の抱えた手先である。文吉の長屋とは隅田川を挟んで反対側の稲荷町に住んでいた。

「しばらくってぇのは、いつまでで?」

 膝を進めた文吉に、慶吾が一人前になるまでだとぴしゃりと言った。敵討ちを望んでいた文吉の心の中はすっかり看破されていた。

 慶吾は、オーイッと襖の奥に声をかけた。

 妻女の弥生が夫の一言だけで酒を運んできた。いつもころころとよく笑う。慶吾とは対照的に小さなかわいい妻女だった。文吉より三つ年上で、無口な夫の分までよく口が回る。

「あんまりお話が長いものですから、熱燗がぐらぐら煮立ってしまいましたよ」

 弥生は笑いながら文吉と慶吾の盃に酒をなみなみと注いだ。

「本当は、文吉さんに手札と十手を早く渡したくて堪らないのに、勿体つけちゃって、ごめんなさいね」

 むっとした慶吾が盃を文吉の前に突き出した。

「固めの盃だ」

 慶吾は無造作に飲み干すと懐から使い込まれた十手を取り出した。

「辰の父っつあんの形見だ。大事にしな」

 渡された十手は黒ずんでいて文吉には辰蔵のにおいが残っている気がした。


 八丁堀の島岡慶吾の屋敷を出た時はもうすっかり暗くなっていたが、十三夜の月明かりに提灯はいらなかった。店仕舞いの後で人も疎らになった両国を抜けて吾妻橋が見えてきた頃にはすっかり酔いも醒めて風の寒さに手拭いを首に巻いて歩いた。懐に突っ込んだ右手は十手を握り締めたままで、ずっと父親のことを思いながら歩いていたせいか、どこをどう歩いたのか思い出せぬまま壊れかけた長屋の木戸を潜っていた。

「何で灯りがついているんだ?」

 誰もいないはずである。表通りから入って三軒目。九尺二間の同じ棟割だが、自分の家を間違えることはない。右隣は大工の信さん親子四人が住み、左は同じ長屋に住んでいる浪人の藤堂数馬が近所の子供達を集めて手習い所として使っているため夜は誰もいなかった。

 障子越しに大きな話し声も聞こえてくる。若い男と女の声だった。男の声は辰蔵の下っ引をしていた塩売りの佐平である。幼馴染の佐平は文吉のひとつ歳下である。塩売りをしながら集めてくる情報は、なかなかのもので、辰蔵に重宝がられていた。その佐平の下らない冗談に女が声を立てて笑った。女の声にも聴き覚えがあった。文吉は、荒々しく立て付けの悪い障子を開けて、中へ飛び込んだ。

「おかえりなさいやし。文吉兄いのお内儀さんに晩飯をご馳走になっちまって、すっかり長居をしちまった。すみません」

 上がり框に着物の裾を端折って腰掛けている屈託のない佐平が頭を掻きながらちょこんとその頭を下げた。飯を食った後らしく、見たことのない新しい湯飲みがお茶を半分残して無造作に畳の上に置かれてあった。

「おや、十手を貰えたんだね。いよっ! 文吉親分、ご飯は? 食べる? それとも……」

 染がすりの小袖に襷がけの娘が前掛けで手を拭きながら笑っている。

「お澄美……なんでここにいる?」

「だってさっ、文さんのお内儀さんになるって家を出て来たんだもん」

「五兵衛のお父っつあんは?」

「おっ母さんと並んで、行っといでって、手ぇ振って送り出してくれたよ」

「本当かよ」

 文吉は、辰蔵の位牌に「帰えったよ」と線香をあげてから振り返った。

「さてと……」

 文吉が怒った声を出したので、察しのよい佐平が「あっしはこれで」とそそくさと逃げるように下駄をつっかけて帰っていった。

 お澄美が揉み手をして文吉の機嫌を伺いながらも言葉を出せずに口ごもっている。

「なに鯉みたいに口、開けてんだ。送っていくぜ。荷物をまとめな」

 文吉はわざと冷たい声でお澄美を睨み付けた。お澄美は今にも泣き出しそうな顔になった。内心お澄美の気持ちを嬉しいと思ってはいるが、これから岡っ引きとして足を踏み出す大事なときに好きな娘のことは考えちゃならねぇと文吉は懐から取り出した十手を辰蔵の位牌の前へ静かに置いた。

 お澄美が、「あの……」と口ごもった時だった。大きな音を立てて障子が開き、隣の大工一家が顔を出した。

「文さん、帰ってきたんだね。昼間はお内儀さんから引越し蕎麦もらっちまって、文さんが帰って来たら皆でお礼に行こうと待っていたんだ」

 信次に続いて太ったお捨が細い旦那を押しのけて蕪の乗った笊を框にドスンと置いた。

「かわいいご新造さんだねぇ。まったく文さんも隅に置けないやね。つまんないものだけど貧乏なもんでこんなことしかできないのさ。受け取っておくれよ。これからもよろしくね。わからないことがあったら何でもこのお捨さんに聞いとくれ」

 お捨は、綺麗に掃除された部屋の中をめずらしそうに眺めている息子と娘の肩を押して「挨拶しな」と甲高い声を出した。

 五つになったばかりの妹のお三津がませた口を利いた。

「ご新造さん、明日もまた一緒に遊んでね」

「そうね、明日も、明後日も毎日遊んであげるね」

 お茶の用意をしていたお澄美が文吉に話の腰を折られる前に先手を打ってお三津の頭を撫ぜて微笑んでいる。

「おい、おい……」

 文吉が口を挟もうとした時、今度は溝板を挟んですぐ前の箒売り一家が入ってきた。

「ご新造さん、使ってくれよ」

 そう言って新品の棕櫚の箒を差し出した。

「何でぇ、なんでぇ、みんなして。みんなお澄美の味方かい。蕎麦一杯で尻押ししやがって……」

「蕎麦だけじゃないぜ、文さん。風呂敷やら筥迫やら相生屋の小間物をたんと貰ったさ。うちのかかぁが大喜びだ」

 七味売りの駒八が悪びれた様子もなくけろりとして笑っている。

「あたしゃ櫛に化粧水貰ったよ」

 お捨が髪に挿した柘植の櫛を文吉に見せびらかす。お三津の頭に挿された真新しいとんぼ玉の簪は結構値の張るものだ。

 文吉が呆れている間に長屋中の住人のほとんどが精一杯のお返しを持って集まってくる。長屋の差配をしている銀蔵爺さんの顔も見えた。寒さ避けに差配の首に巻かれた豆絞りの手拭は相生屋の染め抜きが見えている。その後ろからさっき帰ったと思っていた佐平が一升入りの柳樽を二つぶら下げて駆け込んできた。

「姉さんに頼まれやした酒、酒屋を叩き起こして買ってめぇりやした。縁起物でっせぇ」

 おっ、酒盛りかぇ、いいねぇという声が間髪入れずに拡がった。

「盃が足らないよ、みんな家から自分の茶碗持っといで!」

 そう叫んだのはお捨だった。


 さすが商人の娘と言うべきか、三日もせぬうちに愛想の好いお澄美は長屋の住人の心を容易く掴んでしまったようだ。昼下がり、喧嘩と間違えそうな賑やかな声がするので外に出てみると、井戸端で洗濯しながらお澄美が近所のかみさん連中と世間話に花を咲かせている。

 お澄美が来た翌日、文吉は相生屋に赴き主人の五兵衛に詫びた。お父っつあんは、手を振って送り出してくれたよと言ったお澄美の話は満更嘘でもなさそうだった。

「店のことは構わないよ。そのうち隠居でもするだろうが、大番頭の弥助に身代をそっくり譲ろうかとも思ってるんだ。そんなことより、今すぐとは言わねぇ。まだ半人前だと言うおまえさんの気性はよく知っちゃいるつもりだが、いつでもいい。ちゃんと祝言を挙げておくれ。一生の頼みだ」

 謝りに来たはずの文吉は、反対に拝まれてしまった。店にいた時から娘に甘い親だとは思っていたが、居心地の悪くなった文吉は、生返事のまま早々に帰ろうとすると、五兵衛が傍に来て耳打ちした。

「お佳代が会いに行くだろうが、黙って追い返してくんな」

 お佳代は、相生屋の女将、つまりお澄美の母親だった。芸は売っても身は売らぬ元日本橋の芸者で気風のよいお佳代に旦那の五兵衛は頭が上がらなかった。なぜか文吉も女将に気に入られていたが、苦手であった。どうしても女将の前にでると、男意気を常に見せておかなければ叱責が飛んだ。そんな母親の気性と美貌がお澄美にも少し伝わっている。

 やっぱり、お澄美はいい女だ。

 親父にも、お澄美の花嫁姿を見せてやりたかったなと、白無垢のお澄を思い浮かべながら、井戸端をぼんやり眺めている時だった。

「親分、なかなかいい御内儀殿ではないか」

 子供たちを帰した藤堂数馬が、手蹟指南所の看板を外しながら文吉に声を掛けてきた。

「藤堂様の指南所もなかなか盛況じゃござんせんか」

「隣で煩くさせてすまぬな」

 数馬の指南所の評判は頗るよい。噂を聞いて遠くの町からも多勢通って来ていた。特に子供たちに人気があった。手習いの練習に子供たちが厭きた素振りを見せると、三国演義の英雄譚を面白おかしく話して聞かせるのだ。その話の中に親孝行しろだとか、弱い者を助けろなどとうまく織り込んで小さな子供にもわかるように話す。壁ひとつ隔てた隣でぼんやり寝そべっていた文吉の耳にも届き、思わず聞き入ってしまったこともある。

「大先生の具合は、どうです?」

 噂によると、数馬の父はさる西国の小藩で剣術指南役をやっていたという。藩命により上意討ちのため九歳になった数馬を連れ江戸に上って来たらしいが、心ならずも病に臥せり、今はこの貧乏長屋の一番端の棟で寝たきりになっている。生活は数馬が子供たちに手習いを教えてその謝礼で賄っていた。国元を出てから十五年の歳月が流れ、風の便りに国に残した母が死んだという。勿論、上意討ちが済むまでは国へ帰れない。

「相手は、見つからねぇんで?」

「まあな、江戸にいるのか、いないのか……それさえもわからん。生きているのやら、死んでいるのやら」

 他人事のように数馬が投げやりな態度をみせた。言外に今更藩命などどうでもいいという口振りであった。

「出過ぎたことでしょうが、何か見分けのつくところを教えてくだされば、塩売りの佐平の仲間に頼んで捜させやすぜ。あいつら江戸中に散らばって行きやす。何か手がかりが掴めるかもしれやせん」

 腕を組んだ数馬が苦笑した。

「すまないな。その時は是非親分に頼むよ」

「その親分ってのは、止めてくだせぇ。こそばゆくっていけねぇ」

「それじゃ、藤堂様っていうのもやめろよ。数さんでいいよ」

 その時、表にある雑貨屋から老婆の悲鳴が聞こえた。確かに、どろぼうと叫んだ。

 十手を腰に差して走って行く文吉の後ろを数馬もついてきていた。

「お杉婆さん、何を盗まれた?」

「……煎餅、一枚」

 前歯の一本欠けた店番の年寄りは、聞き取りにくい声で、「うちのは大きくて味がいいから、三文だよ」と怒っていた。思わず文吉は、頭をかいて笑っている数馬と顔を合わせた。

 文吉と同じ長屋に住む七味売り駒八の六歳になる息子甚太が、じっと店の前で眺めていたかと思うと、焼いたばかりの熱い煎餅を素手で掴み源森橋の方向に逃げて行ったそうだ。

「心配するねぇ。どこの誰だかわかってるんだ。煎餅一枚とはいえ、盗みは盗みだ。二度と悪さしねぇように、きつくお灸をすえとくよ」

 文吉の慰めに店番のお杉は、「面倒は嫌いだよ、煎餅一枚のことなんだから大袈裟にしないでおくれ。後で、甚太のおっ母さんに代金は貰っとくから」と文吉と数馬を追い払うように顔の前で手を振った。

「いや、それではまずい。正しいことは正しい、悪いことは悪いとあのくらいの歳から教えてやらねばならぬ。それにお杉さんが走って追いかけられないことをいいことに盗みを働くなど赦せることではない。まぁ、大袈裟にはせぬゆえ案ずるな」

 数馬が文吉の袖を引いて帰ろうと促した。

 再び、長屋の木戸を潜ると、数馬が思案げに重い口を開いた。

「文さんは、しばらく相生屋で奉公していたから知らないだろうが、甚太のところは、父親の稼ぎだけじゃ足らず、母親も縄暖簾で働いている。うちの指南所に来ねぇかいと誘ってみたんだが、とてもそんな余裕はねぇと断られたよ。そんなに高くはないんだがな……。中には金の代わりに大根を置いていく家もあるっていうのに」

 昔見た数馬の父親は痩せていても武士の威風が漂っていたが、浪人暮らしが長いせいか、息子の数馬はどこか肩の力が抜けていて飄々としている。文吉はふと聞いてみたくなった。

「大先生は昔さる藩の剣術指南だって聞いてますが、数馬さんもヤットウが得意なんですかい?」

 数馬が笑いながら否定した。これを見てみろと腰の刀を抜いて文吉の目の前に差し出した。

「父上が、煩いので武士の嗜みだといつも大小を腰に差しちゃあいるが、よくできているだろう」

 銀紙を刀身に貼り付けた竹光だった。中身は昔質屋に入れて、米と父の薬代に化けたよと笑った。

「父上には、内緒だぜ。頭に血が上ってそのまま帰らぬ人になっちまう」


 日暮れても甚太は帰って来なかった。長屋の子供たちが母親の作る晩飯の匂いに惹かれてそれぞれの場所へ文吉の前を駆けていく。だが、七味売りの行商に出ている父親の駒八も縄暖簾で働いている母親も帰ってこない。誰が植えたのか甚太の家の境に紐が縮れたような満作の黄色い花が冷たい風に揺らいでいる。

 戸口の柱に寄りかかったまま中に入ってこない文吉を心配したお澄美が手を拭きながら出てきた。昼間の話は文吉が話して聞かせていたので察しはついているようだったが、お澄美の顔に不安の色が浮かんでいた。

「甚太ちゃん、まだ帰ってないの?」

 文吉はそれには答えないで満作の花を指差した。

「あの花は昔からあそこで咲いていた。おいらがここに住んでいたのはおめぇんちへ奉公に上がるまでだったが、なぜか覚えている。そう言えば、父っつあんも捕り物があると何日も家を空けたっけ……。そんな時、父っつあん恋しさに外へ飛び出すとあの縮れた花が目に飛び込んできた。あの頃は、もっといっぱい咲いていたけどなぁ。ありゃあ今と同じ季節だったのか。でもあの頃はまだおっ母さんも生きていたからなぁ、淋しくはなかった」

 お澄美の伸ばしてきた手が文吉の手を優しく握り締めた。お役目で文吉も家を空けて、お澄美もたったひとりで文吉の帰りを待っていることもあるだろう。気丈でいられるだろうかとお澄美から問われたが、文吉は答えられなかった。


 鼻水を垂らした甚太が帰ってきたのは、暮れ六つの鐘を聞いてから四半刻経ってからだった。

 暗い上がり框に甚太は腰掛けて足をぶらぶらさせた。他にすることがなかった。手の届くところに朝母親が握ってくれた握り飯一個と沢庵が二切れ皿に乗っている。硬くなったお握りと干からびた沢庵。一匹の蝿が沢庵の上で動かない。この季節の蝿は、どこか元気がなかった。動かないと思っていたら、ふいに力なく飛び回る。握り飯に蝿が止まる度に甚太は手でしつこく追っ払っぱらった。しかし、追っ払っているうちに何故か悲しくなった。おいらもみんなに追っ払われているみてぇだ。腹の虫はさっきから喧しかったが、その冷たくて硬いお握りに手をつけたくはない。食べてしまえばおっ母の温もりと匂いが部屋の中から消えてしまいそうな気がした。食べなければおっ母はずっと甚太の隣にいる。

「今までどこに行ってたんだ。捜したぜ」

 突然入ってきた男に甚太は驚いてもっと暗い部屋の奥に逃げて行った。幼い甚太もその若い男がどんな職業か知っている。悪いことをするとぶっ叩かれて遠い所に連れて行かれるよと、おっ母が教えてくれた。

「なんで俺が甚太に用があるか、わかるかい?」

 目の前の男が甚太の肩に手をかけて腰を屈めてきた。逃げ場を失った甚太は身体を硬くして震えそうになるのをかろうじて我慢した。そして、頷いた。懐から細かい割れ目の入った煎餅を取り出してみせた。そして、いつぶん殴られのかと目を丸くして男を見上げた。

「おや、食っちゃいねぇのかい?」

 男は不思議そうに甚太を見た。また、甚太が頷いた。男と顔が合うと優しい目をしていた。騙されねぇぞ。優しそうな顔をした奴ほど、腹の中が黒ぇんだ。おっかあが教えてくれた。それに、別に食いたくって盗んだんじゃねぇや。出来立てだよと言うお杉婆さんに向かいの留松が母親に甘えて焼き立ての煎餅を買ってもらったからだ。甘えやがって、おいらだっておっ母と一緒なら買ってもらえるんだ。きっと……貧乏だけど無理に甘えれば、きっと……後で金を払ってくれる。そしたらおっ母と半分こして一緒に食うんだ。

「甚太、おめぇ何をしたか、もうわかる年だよな。おめぇのしたことは悪いことなんだぜ。泥棒っていうんだ。泥棒して捕まったら、牢屋に入れられて、百叩き、悪くすりゃ遠い海の向こうに島流しだ」

 男に脅かされ甚太の目から涙が溢れ出した。止まらない。

「おや、もうすっかりその煎餅は食っちまったと思っていたぜ。腹は空いていねぇのか?」

 甚太は腕で目を擦りながら今度は首を横に激しく振った。振りながら目の前の男にも聞こえるほど甚太の腹が鳴った。

 いつの間にか、男の後ろにおっ母より若くて綺麗な姉ちゃんが笑っていた。

「甚太ちゃん。こんな暗い所でお母っさん待ってないで、家においでよ。お姉ちゃんたちと一緒にご飯食べようよ? いっくらおかわりしてもいいんだよ」

 甚太は首を横に振りながらも音をたてて唾を飲み込んだ。十手を腰に差した男から、「世話をやかしやがる」と笑われ、いきなり甚太は抱えあげられた。


 慌てて食わなくたって飯は逃げねぇよと、噎ぶ甚太の背中を文吉は笑いながら擦った。

「玉子焼き、作ってきたよ。たくさんお食べ」

 お澄美が作ってきた熱くて甘い玉子焼きは、すぐに無くなった。

「そんなに腹空かせていたのに、何で煎餅を食わなかったんだい?」

 文吉の優しい顔に甚太が戸惑った。茶碗を舐めるように最後の米粒まで全部食べた甚太は一瞬泣きそうな顔をしたが、俯いていた顔をあげた。

「別に食べたかなんかねぇ……。泣き虫の留松の野郎が煎餅を買ってもらうのを見ちまった。おっ母に甘えやがって!」

 消え入りそうな細い声にお澄美が戸惑いながら空いた甚太の茶碗へ白湯を注いで、甚太の顔を覗いた。なんで甚太が煎餅を盗んだか文吉だけでなくお澄美にもわかる気がした。

「お姉ちゃんもご飯炊くのが上手だけど、おいらのおっ母はもっと上手いんだ。でもおいらんチは貧乏だから、おっ母は夜遅くまで働いてなきゃならないんだ」

「毎日、たいへんだねぇ。ひとりでお留守番してるんだ。偉いわねぇ。さびしくないの?」

「淋しくなんかないやい」

 甚太が虚勢を張った時、表で来客を告げる女の呼ぶ声がした。甚太の母親ではなかった。彼ががっかりと肩を落とすのがわかった。

「あら、親分。賑やかなこと」

 入ってきたのは、無反り一文字の櫛をさした島田髷、無地小紋の紋付で博多帯を締めた艶やかな女だった。どこから見ても粋な深川芸者である。お澄美が文吉を睨んだが、薄化粧のその芸者に見覚えがなかった。きつい目を意識して柔和に細めている。本性は強い女のようだ。

「嫌だネェ、お忘れですかい? 文吉親分、いや、文ちゃん。そんな鳩が豆鉄砲食らったような顔をして、私ですよ。小さい頃一緒に遊んでたお梶ちゃんですよ。今は駒吉てぇ名で三味線を弾いてますがね」

 駒吉と名乗った芸者は科をつけてくるっとその場で一回りして笑った。なんとも知れぬいい匂いが風に漂った。が、初めて嗅ぐ匂いに甚太は手で鼻を覆った。

「……まさか? 俺の家の前に住んでやがった、泣き虫のガリガリのお梶かい?」

 今は箒売りの夫婦が入っている棟にひとつ歳下のお梶は住んでいた。色の黒い手足のひょろっと長い娘だったが、面影がない。こんなに艶っぽい女だったかと改めて文吉は昔を思い起こしてみた。

「文ちゃんが辰蔵の小父さんの後を継いだって聞いたから、挨拶に来たのさ。うちの置屋は文ちゃんの縄張りだからね」

 ざっと中を見回した駒吉は、お澄美を見て甘いため息を吐いた。

「しっかりしたご新造さんだねぇ。塵ひとつ落ちちゃあいない。あの頃、あたしのことをお嫁さんにしてくれると言った文ちゃんはどこにいっちゃたんだろ?」

「そんなこたぁ、約束した覚えはねぇぜ」

 扇子で口を隠しながら駒吉は冗談だよって笑った。

「後で、若い者にお祝いの角樽、届けさせるからね」

 駒吉が身体をくねらせるようにして框から腰を上げると、「お茶も出しませんで」とお澄美の妙に明るい声がした。

「塩撒かれないうちに退散、退散っと」

 お梶が框から離れるのと、佐平が飛び込んできたのが一緒だった。

「てぇへんだ、文吉兄い。辻斬りだ。源森橋の先の瓦焼き場。斬られたのは井筒屋の番頭!」

「井筒屋の番頭って、太兵衛さんかい?」

 佐平を避けたお梶が心配顔で佐平に聞いた。

「こりゃ、また掃き溜めに鶴のような綺麗な姉さんで。その太兵衛さんでございやす」

「何寝ぼけたこと言ってんのさ。佐の字、行くよ!」

「そりゃ、俺の台詞だぜ、お梶」

 仕度のできた文吉が十手を腰に差して框から飛び降りるや、目を丸くして驚いている佐平の背中を押した。

「嘘でぇ、あの真っ黒けのお梶がこんな別嬪になるわけがねぇ」

「何、口から泡吹いてんのさっ。今は深川の駒吉姉さんだ。覚えときな」

 文吉は、お澄美に振り返った。

「甚太のおっ母が帰ってくるまで預かっていてくれ。明日甚太とお杉婆さんの店に謝りに行くからな」

 おまえさんっ、行っといで! 飛び出した文吉の背中へ向かって火打石を叩き合わせるお澄美の声が夜空に響いた。


 中之郷瓦町、瓦焼き場の途切れた長勝寺近くの水溜桶横に隠されるようにして井筒屋の番頭太兵衛が死んでいた。

 最初に太兵衛の死体を発見したのは、火の用心の見回りをしていた木戸番小屋の番太郎だったが、悲鳴を聞いて駆けつけた時には誰もいなかったそうだ。太兵衛は既に事切れていたという。文吉は、十手の先で太兵衛にかけられていた筵をはずし、提灯を近づけると目を剥いた太兵衛の顔がごろんと横を向いた。お梶が思わず袂で口の辺りを押さえた。死体のすぐ傍に中を抜き取られたらしい縞の財布と掛取りの帳面が落ちている。太兵衛の右脇腹から左胸に向かって深く斬り上げられていた。

「居合い抜きで正面から一太刀だな。顔も見られているはずなのに大した自信だ。番頭さんは、ほとんど斬られたのが分からなかったんじゃねぇかい。死に顔がそんなに苦しんでいない。即死だな。相当の手練だぜ。南無阿弥陀……」

 聞き慣れた声に驚いて振り返ると、数馬だった。不思議そうな文吉の顔に「佐平殿の大きな声と御内儀が心配そうに甚太と表に出ていたので、後を追ってきた」と先回りして笑った。ただの野次馬さとも付け足した。

「するってぇとかなり絞り込めやすかね」

「なんとも言えんな。腕の立つ侍、浪人者を含めても江戸にはごまんといるからね。私も得意じゃないから、斬り口を見たぐらいでは、どこの流派なのか、わからない」

 慶吾が稲荷町の金治と遅れてやって来た。

 慶吾も数馬と同じ見立てだったが、昨夜向島であった辻斬りと同じ手口だと言った。殺されたのはやはり大店の若旦那で、二十両が財布の中から消えていたらしい。

「場所が近ェ。かなりの小判を抜いているはずなのに今夜も掛取り帰りの番頭を狙った。臭うぜ。ただの刀好きの試し斬りじゃねぇ。恐ろしいほどの借金を抱えている奴の仕業かもしれねぇ。もし、まだ金が足りねぇとしたら、明日もやるぜ」

 二件の場所の近さから、近くに住んでいる侍の仕業かも知れねぇ。明るい内に何か手掛かりを集めてくれと慶吾は文吉等手先に命じて帰っていった。


 聞き込みを終えて、家に帰ったのは、夜中の九つを過ぎていたが、お澄美は仕立物をしながら文吉の帰りを待っていた。

「お休みになりますか?」

 父親の位牌に手を合わせ、瓦町の辻斬りの件を心の中で報告した後でもうひとつの心の引っ掛かりに触れた。

「甚太のおっ母さんは戻ってきたかえ?」

「ええ、あれから直ぐに……。帰りにお杉さんに会ったとかで飛んで帰って来ましたよ。何度も何度も申し訳ないくらいに頭を下げて……甚太も泣きながら帰って行きました」

 お澄美の洟を啜り上げる小さな音が聞こえた。恵まれた家庭の中で今まで知らなかった生活をこの長屋で一気に体験したのかも知れない。貧乏長屋に引き込んでしまった文吉は、後悔に似た感情が芽生えた。お澄美のことが好きだから強く店へ帰れと言わなかった。いや、言えなかった。

「甚太のおっ母も、もっと早く帰ってこれるといいんだがな。そうもいかねぇか……。どっちにしても明日は、甚太にけじめをつけさせなきゃいけねぇ」

「そのことですけど、甚太のおっ母さんが明日、店を休んで一緒に雑貨屋へ謝りに行くそうです。おまえさんも忙しいだろうから、わたしもついて行きます」

「すまねぇな。そうしてくれると助かるぜ、正直明日は忙しくなりそうだ」

 掻い巻きを引っ掛けて文吉は横になった。夜着に着替えたお澄美は行灯の灯を落とすと文吉の隣に滑り込んだ。

 実はね……

 お澄美は文吉の背中に顔を埋めて甚太の母親が帰って来た時のことを話し始めた。明日謝りに行こうと言ったお澄美に対して、「もうお金を払ったんだからいいでしょう。どこが悪いの! お手先のおかみさんだからって、余計なお世話だよ」と面倒臭そうに酒臭い息で甚太の母親が怒鳴った。お澄美が、駒八の女房の剣幕に、気後れしていた時だった。

「ちょうど帰ってきた数馬さんが、それはもう、凄い剣幕で怒り始めたの。金を払えば良いというものではない! 甚太をちゃんとした大人にするのが母親の役目だって」

 文吉は身体を捻ってお澄美に向き直った。

「いいこと言ってくれるじゃねぇか」

 お澄美がこっくりと頷いた。お澄美もどうして甚太が煎餅を盗んだのかその理由を甚太の母親に告げた。

「それでね。こんこんと数馬さんの説教が始まって、明日お杉婆さんの所に一緒に謝りに行くことを承知してくれたの。自分が悪かった、お師匠さんの言う通りだって甚太のおっ母さんが、泣きながら数馬さんに何度もお礼を言ってた」

「数さんもいい先生だな」

 文吉は、自然にお澄美を抱きしめた。文吉の腕の中で目を閉じたお澄が嬉しそうに泣いていた。



 佐平の塩売り仲間に頼んで本所一帯の聞き込みに当たらせ、文吉は辰蔵の代からの下っ引寅蔵と自身番屋で報告を待った。飾り職人の寅蔵は四十になる。腕には島帰りを示す二本の刺青があって、昔の仲間からの情報が取れる男である。辰蔵と島岡慶吾の人柄に惹かれて下っ引になった。

 文吉は、急に金遣いの荒くなった者、博打に負けて大きな借金を抱えた者、あるいは、多額の借金を申し込んでいる者などの知らせがある度に、慶吾と共に寅蔵を引き連れて調べに出たが、皆外れた。

 昼になって稲荷町の金治がふたりの下っ引を従えて、番屋へ入ってきた。皆陽に焼けた顔に疲れが浮かんでいた。金治がどかっと端近に腰を下ろして、溜息のような荒い息を吐いた。

「文吉、すまねぇ、交代だ。日暮れまでは慶吾の旦那のお供は俺がやる。浅草の方を廻ちゃ見たが何にもなしだ。悪いが、業平橋から大横川沿いを探っちゃくれねぇか」

 お手先としてはまだ見習い同然の文吉は慶吾からも顎で行けと命ぜられ寅蔵と番屋を飛び出した。まず、昨夜事件の起きた中之郷瓦町に向かった。ずっと、歩きながら考えた。

 最初に向島で殺された若旦那の住んでいたのが浅草花川戸町だった。向島の料亭「粋長」からの帰り道に襲われたことになる。そして、井筒屋の番頭太兵衛。井筒屋は中之郷瓦町に入って二筋目を右に折れてすぐの松倉町にある。金治は土地勘のある地元の人間だとあたりをつけ浅草方面を探ったのだろう。犯人は、殺された二人が何者なのかを知っている。そして、二人が大金を持っていたことを知っていたに違いない。そこで襲って金を奪った。残された手がかりは今のところ、どちらも一刀で斬殺した凄腕の奴だということだけだ。

 松倉町から左に曲がり、横川沿いに歩くと法恩寺橋の近くに殺された太兵衛の家があった。残された女房とまだ幼い息子が井筒屋から出向いた数人の手代と一緒に慌しく葬式の準備をしていた。太兵衛の女房はまるで悲しみを押したたむように忙しく働いている。生真面目に生きた太兵衛は、四十を過ぎて番頭に出世してからはじめて嫁を貰った。井筒屋の主人からの紹介で嫁ぎ遅れの二十八になった無口な女であったが、一粒種の息子が生まれてからは、仕事一辺倒の太兵衛も家庭を顧みるようになり人も羨む鴛鴦夫婦と評判だった。

 まだ分別のつかない年頃の息子は時折太兵衛を揺さぶった。昨日まで店へ出かける時はいつも抱きかかえてくれていた父が今は目を開けない。もう店へ行く刻限はとっくに過ぎていると母親を困らせていた。

 息子が気付かぬほど太兵衛の眠っているような死に顔がせめてもの救いだと文吉は思った。井筒屋も暫くは残された親子の面倒を見てくれるだろうが、残された者の行く末を思うと文吉は、まだ姿の見えてこない下手人に怒りがこみ上げてきた。

 文吉と寅蔵は焼香させてもらうとすぐに出た。聞くことは昨夜、番所まで遺体を引き取りに飛び込んできた女房から全て聞いた。取り乱して要領を得ない女房から聞き出したのは、太兵衛を恨んでいる者も殺したいほど憎んでいる者もいないということだった。

「主人がいったい何をしたって言うんですか? そりゃあ仕事熱心なあまり掛取りで行き過ぎた取立てもするでしょうが、それって殺されなくっちゃならないほどのことなんですか? まだまだ、これからだったんだ。一緒にやりたいことがいっぱいあったんだ。返してくださいよ。夫を生き返らせてくださいよ、旦那!」

 こんなことになるまで、自分が幸福だったなんて気づきもしませんでした。不運なんてものは、前触れもなく突然やって来て、そんなことを教えてくれるんですね。少し落ち着いてから太兵衛の女房は誰に言うともなく呟いた。筵を被された遺体の隣で悔しそうに唇を噛む女房を慰める言葉が見つけられない文吉は自分が情けなかった。

――親父なら何か気の利いたことを言って慰めたに違げぇねぇ。

 太兵衛の家を出て、法恩寺橋を渡ってみたものの行く当てがなかった。

 文吉の暗い顔に寅蔵が低い声で、らしくない説教をたれた。

「なぁに、すぐ忘れまさぁ、人ってぇのは生きている限り、昔のことに拘ってちゃあ前に進めるもんじゃねぇ。それに太兵衛さんの忘れ形見をしっかりと育てなきゃならねぇ」

「そんなもんかい……」

 上目遣いに頷く寅蔵は親父のことも言ったのかもしれないと文吉は思った。

 確かに昔のことに引きずられちゃ、前に進めねぇ。慶吾の旦那に親父の敵は追うなと約束させられっちまったが、佐平とあいつの仲間にこっそり頼んである。文吉は、形見の十手を握り締めた。

 浅草御門の東側にある浅草下平右衛門町にある呉服問屋が盗賊に狙われているという情報をつかみ、辰蔵は下っ引を要所に配置して見張っていたところを殺された。まさに丑三つ時だった。後ろから手拭いで首を絞められ、匕首で腹を何度も刺された形跡がある。ふたりや三人の仕事ではなさそうだ。岡っ引きが張っていることに勘付いた賊等は、押し込みをやめる腹いせに偶然十手を持ってその場にいた辰蔵を殺したのだろう。辰蔵は首を絞められながらも呼子の笛を吹いた。しかし、寅蔵達下っ引が駆けつけた時は、もう誰の姿も見えなかったという。殺しにも相当慣れた連中だと考えられる。そして、何の手がかりも残していなかった。

「なぁ、寅さん。この近くにえれぇ腕の立つ御侍さんは知らねぇかい?」

「さぁ、そいつぁ、知りませんが、最近梅乃屋に四日ほど前から新しい女郎が入ったそうで」

「女郎? それが何か関係あるのかい」

「あんまし根を詰めると体に毒ですぜ。若親分も息抜きにいかがです? いやいや、冗談ですよ。お武家の娘さんらしく、器量は十人並みらしいんですが、若くて躾がいいんで評判になっております。会ってみやすかい? 空振りになるかもしれやせんが」

 寅蔵が声を出さずに薄笑いを浮かべて眉間に怒りの浮かんだ文吉の顔を下から覗き込んだが、その目は決して笑ってはいなかった。

「なんでもそいつの父親が身請け金の三十両を持って乗り込んだらしいんでやんすが、身売りの値は確かに三十両だが、身請けの値は違うんだ。五十両耳を揃えて持っといでと置屋の女将にさんざん言われて若い衆に摘み出されたそうです。その時刀を抜いたんで若い者がひとり腹に怪我をしやしたが、娘が飛び込んでその場は納まったとか……」

「なんで慶吾の旦那といる時に言わねぇんだよ」

 寅蔵は稲荷町の親分がいたもんでと、文吉を上目遣いに見た。

 梅乃屋は、深川の岡場所にある。吉原のような公娼地にありがちな格式ばった窮屈さはなく、海に向かって澱みなく流れていく隅田川のようなおおらかさがあった。深川の岡場所は、場所柄木場の番頭や酒間屋米間屋の手代などがよく利用している。


 勢い込んで裾を尻端折りにした佐平が自身番に飛び込んで来た。

「騒々しいぜ、どうした?」

 金治が佐平を睨み付けた。

「ありゃりゃっ……と、文吉兄いはいねぇんですかい? ならいいんですがね」

 踵を返して外へ出ようとする佐平に慶吾が「何かわかったのかい?」と声をかけたが、佐平は首と手を横にふって否定して見せた。その佐平が自身番を二三歩出たところで灯篭の影に身を隠した女から呼ばれた。

「ちょっと待ちな、佐の字」

 黒地に金扇を散らした振袖の裾をちょっと引き上げて駒吉が手招いていた。

「お梶、俺は忙しいんでぇ。こうしちゃいられねぇ。兄いを捜さねぇと」

「その文吉兄いに伝えとくれ。殺された太兵衛さんが最後に寄った並木町の蕎麦屋に寄って来たのさ」

「今から俺もその雷門の前の蕎麦屋へ行こうしてたんだ。そいで文吉兄いを早いとこ見つけなくっちゃならねぇ」

「だからさ!」

 駒吉が人通りのない小路に佐平を引き込んだ。

「文さんの初手柄にしてやろうじゃないか」

 駒吉は辺りを見回して誰もいないことを確かめて声を落とした。

 昨夜、掛取りから帰る途中に太兵衛が寄った蕎麦屋でひと悶着あったようだ。汚く張りのない着物を着た一見客の浪人が、かけ蕎麦を二杯頼んだのがきっかけだった。かきこむようにして蕎麦を腹の中に流し込んだ後、その浪人が支払いに壱両小判を出したのだ。掛け蕎麦一杯十六文、二杯で三十二文、一両出されれば、釣りは三分三朱と三百四十三文、金貨と併用しなければ五千九百六十八文。非常識なつり銭である。もちろんそんな用意は普通の蕎麦屋にあるはずがない。店の親父が、釣銭がないと騒ぎ始めた。最初から食い逃げするつもりで小判を出したのかと、大騒ぎする店主を宥めるように同席していた太兵衛が両替を申し出たのだ。

「たった今、集金してきた金がございます。少々小銭が多いので両替してもらえるとありがたいのですが……」

 太兵衛はにこやかに財布の中の一分金や一朱金を探しだしたという。

「その侍はたいそう感激し、送って行くと一緒に出て行っちまった。身なりは汚くても礼儀正しい謙虚なお人だと思ったが、恩を仇で返すとはとんでもねぇ野郎だ。おっと、まだそいつと決まったわけじゃねぇが、野郎は確かに店まで送って行くと言いやがった。そいつの死体はねぇんだろ?」と忿懣やるかたない早口で蕎麦屋の主人が駒吉に語った。

「蕎麦屋の亭主もそいつの顔を知らなかったってことは、その界隈に住んじゃいねぇってこったな」

 そこへ、ひょいと顔を出したのは、佐平の塩売り仲間で駒吉に警戒しながら佐平に耳打ちして行った。蕎麦屋の話を佐平に知らせた十六になったばかりの権太だった。

「ばぁか、駒吉姉さんはそんなんじゃねぇよ」

 佐平が一緒に行くかと、駒吉に振り向いた。

 三日前から、富岡八幡の境内で寝泊りしている怪しい浪人者がいるらしい。総髪で張りのない袴が染みで変色した汚らしい格好だからすぐわかると権太が教えてくれた。


 一の鳥居をくぐり永代寺門前仲町の中程に梅乃屋はあった。夜になれば、決して実を結ばぬ毒の色をした花々が一斉に繚乱し賑わいを見せる遊女屋街も陽の高い今は、力を温存して洩らさぬよう静かに疲れを癒している。遊女屋の建物自体も夜には見えぬ朽ちた醜い羽目板をそのままの姿で晒していた。

 女将の案内で二階の奥にある女の部屋へ通された。

 気だるそうにその部屋の主は立ち上がると、白粉と昨夜の男達が残した汗の混じる澱んだ空気を入れ替えるために連子窓を開いて外の風を入れた。そして、ゆっくりと斜交いに体を捻ると、左手を畳について細い身体を支えた。その化粧の落ちた青白い顔の女は、十手に臆することもなく、客でない男の前で解れた髪も梳こうしない。刺繍の入った真っ赤な綸子の長襦袢の襟をだらしなく合わせて、とてもお武家出身の女郎には見えなかった。

――女も三日女郎をやればそれなりになっちまうのかい

 歳は十九だと聞いていたが、表情が消えているせいか判然としない。希望を失って開き直っているのか、それとも吹っ切れてしまったのか文吉にはその女の心が読めなかった。茶を運んできた女将に寅蔵が、けが人が出た不始末を何故自身番に届けなかったのかとどすの利いた声で凄んで見せると、女将は慌てて階段を駆け降り帳場で紙に一両小判を包むと、寅蔵の袖の中に突っ込んだ。

 愛想笑いで体裁を繕う女将に、「あっちへいってな」と寅蔵が目配せした。

 女将を強請った強面の寅蔵を目の前にしても、その女は動じなかった。

いや、そんな寅蔵を薄く笑って眺めていたのだ。

 女は、千勢と名乗った。

 文吉の問いに父親の借金の形でお定まりの道行きだと、他人事のように恥をどこかに置いていった顔で答えた。

「そのお父上のことだが、三十両っていう大金を持ってきたって聞いたが、その金はどう工面したんだい?」

「どうしたんでしょうねぇ、またどっかで借金してきたんじゃないですか?」

 深くて悲しい溜息を千勢はついた。父親の存在を懸命に否定している。文吉にはそう感じられた。

「実は、昨日瓦焼き場の前で掛取りから帰る途中の番頭さんが斬られて、集金した十二両近くが盗まれた。その前の晩、向島の料亭から帰る呉服屋の若旦那がやはり二十両盗られて殺された」

 斜に構えていた女の眉が動いた。

「まさか……。殺された方々は居合いで斬られたのではないでしょうね?」

「汚ねぇ野郎だぜ。安心させて近づいて、間合いに入った途端にバッサリだ」

 わざと寅蔵が悪態を吐いて千勢の反応を見た。汚いという言葉に千勢は顔を顰めた。

「安心しな。まだ、お父上なのかどうかは決まったわけじゃねぇ。だが、急に三十両もの大金を稼ぎ出した。三十両だぜ。別に真っ当に、いや、真っ当じゃなく賽の目で稼いだとしても構いやしねぇ。出どこさえはっきりしてりゃ、何の問題もねぇ」

「あの男が働いたり、博打をしたりできるはずがありません。侍なのです。祖父の代からの浪人だというのに、いつまでも武士であることに誇りをもっている。その誇りに母上も殺された。貧しさに食べるものもなく、一家を支えていたのは母でした。当然無理がたたり、その母が病に臥しても父は、幾らも稼ぐことができませんでした。人足など武士のする仕事ではない。質屋の帳面付けなど侍のすることではない。それじゃ、幼い弟を含め、家族四人、どうして生きて行けるのですか? 武士は喰わねどなどと申しますが、楊枝を銜えたってひもじさは癒えません」

 千勢の肌が興奮したためか赤みを帯びてきた。力を込めて襦袢の袖を握り締める。激しい怨嗟に身体を振るわせ始めた。

「恨み言ひとつ言わずに母が死にました。それだけであったならわたくしどもはこんな不幸の極みに落ちることはなかったのです。あの旗本奴がわが家に訪れて来なければ……」

 千勢の赤い袖に湿った黒いしみが広がっていく。

「ゆっくりでいいんだぜ。話したいことは全部話しちまいな。すっきりするぜ」

 文吉の声に顔を上げた千勢は懐紙を取り出して涙と洟を拭った。

 しばらく沈黙が続いた。それは千勢が話すことを躊躇ったわけではなく、あまりにも多くの辛い出来事に押し潰されそうになっていたのかもしれなかった。


 旗本奴の治郎吉が土井家家老と名乗る田島亮斎とわたくしどもの陋屋を訪ねてきたのは、母の一周忌が過ぎ、萩の花が風に揺れる彼岸会の頃でございました。

 突然の来客にわたくしはお茶を出した後、十になったばかりの歳の離れた弟新之助を連れて外へ出たのです。

 その時盗み見た田島亮斎はすがめがちの細い目で白髪の混ざった恰幅のよい終始笑顔を絶やさぬ老人で、父吉川八左衛門はわけも分からず恐縮しきっておりました。

 時を置いて帰ると、父は呆けた顔をして一人放心していました。声をかけても暫くは上の空でございました。そして、父が嬉々として言ったのでございます。

「新之助喜べ。御旗本二百三十石土井家との養子縁組じゃ」と、……

 今にして思えば、そんな上手い話がわたくしの家族に降りてくるはずもないではありませんか。世事に疎い父は当主かその妻の縁戚でなければ末期養子は認められないということなど知らぬようでしたし、そんなことに気づいたとしてもあの田島亮斎にかかれば上手く言いくるめられたことでしょう。亮斎に、何故新之助を、と父が訊ねたそうです。すると子供を亡くしたばかりの御妻女が偶然見かけて、あの利発そうな子はどこの子じゃと家来に調べさせたと申されました。

 新之助は六歳の頃には経書の素読も一通りできたと父の自慢が止まらず、

「そればかりではございませんぞ。拙者は伯耆流抜刀術にいささか自信を持っておる者ですが、新之助の素振りを見ましてもなかなかのものがございまする。いやっ、これは失礼つかまつった、田島殿。親馬鹿と申すものでございますな」

とうわべだけの空威張りでしょう、大きな高笑いを続けておりました。

 長い浪人暮らしに、本物の武家の暮らしなど知らぬ父は有頂天になり、ほどなく人誑しの亮斎の言いなりになってしまいました。新之助をさる然るべき武家の家に預け、そこから養子縁組の運びにと、まだ父を無定見に信じていた新之助は亮斎に命じられた治郎吉に連れて行かれました。父はどう工面したのか蓄えていた金をあらかた新之助に持たせ、使いの治郎吉にも幾許かの心付けを渡しておりました。新之助に恥ずかしい思いをさせたくないと思った父の精一杯の心づくしだったのでしょう。悲しい顔をした新之助が何度も振り返りながら引っ張られるように治郎吉から手を引かれて歩いて行った方向を、父は満足そうな笑みを浮かべいつまでも見送っておりました。

 それから半月ほど経った宵の口、父と差し向かいで粗末な夕餉を取っておりましたところに亮斎がひどく慌てた様子で飛び込んできたのでございます。もうひとり養子候補が現れた。それも主家の遠い縁戚にあたり、家老の田島と張り合っている者どもが裏で画策しておると……

「五十両用立ててくれ」延々と語る亮斎の本当に言いたかったのはこの一言だったのです。勿論そのような大金などあろうはずもありません。諦めかけていた父に治郎吉が囁きました。知り合いで困った人に低利で金を貸してくれる者がいると。言葉で話すと何故そんなことで騙されたとお思いでしょうが、奴等の言葉の巧みさに父は追い立てられるように巣鴨に住んでいる按摩の中村検校から二十両の借金をし、証文を書いてしまったのでございます。本当は五十両あればよいのだが、取り敢えずはこれで反対派の工作ができる。養子縁組が決まった暁には御内儀様より格別の御計らいがあり、この金はすぐに返すことができようと、亮斎はひったくるようにしてその二十両を懐に納めそそくさと帰っていきました。

 一ヶ月が過ぎ、気を揉む父に数人のやくざ者と大勢の座頭がおしよせました。期限が過ぎたので利息の十両を入れて三十両、耳をそろえて返してもらおうかと凄まれてしまいました。払えないのなら娘を預かっていくと、無理やりわたくしを引っ張ってすぐさま女郎として売られてしまったのでございます。

 父はすぐに土井様のお屋敷を訪ねましたが……

 その通りでございます。当家には田島亮斎なる者も中間に治郎吉と申す者もいないということでございました。

 今思えば、あの者たちの狙いは新之助ではなくわたくしだったのでございましょう。武家育ちの女郎というものがたいへん評判がよいと聞きます。まだ生娘だったわたくしはこの店の男どもに入れ替わり立ち代り犯され続け、この道の手管を教え込まれました。死のうという気すら思い浮かばぬほど慌ただしく初めての客を取らされました。

 

「弟の新之助さんは?」

 寅蔵の問いに千勢は力なく首を振った。どこかに売られてしまったか、殺されてしまったか亮斎も治郎吉も居所がわからない今となっては捜しようもないと、深い溜息をついた。寅蔵が後でゆっくり二人の人相特徴を教えてくれと頼んだ。

「辛い話をさせちまったな。だがそんな話を聞かされるとますますお父上を見つけて糺さなきゃならねぇ。お父上はどこにいなさるか聞いていねぇかい?」

「親分……」

 千勢は畳に手をついた。文吉は千勢に一瞬睨まれたのかと思うほど必死の形相だった。

「千勢は一度死にました。初めての客を取った後、女将さんが夕餉の膳を用意してくだすっていたのです。見も心も疲れていたわたくしは、ついふらふらと箸を取りました。死にたい、死にたいと犯されながら思っていたはずなのに、今までに見たこともない山盛りの真っ白なご飯、今まで口にしたことのない焼き魚に香の物……。気がつくとわたくしは涙を流して咽返りながら食していたのでございます。わたくしの食べ方が滑稽だったのか女将さんが『腹を壊すよ。ゆっくりお食べ』と茶を入れながら笑っていました。わたくしも憎いと思っていた女将さんの顔を見て笑い返したのです。その時千勢として育った十九年間が死にました」

 考えてみれば梅乃屋の女将は関係がない。騙されたのは父だ。落ち着いて周りを見ると千勢よりももっと貧しく悲しい境遇から売られてきた女もたくさんいた。千勢はそう付け加えた。そして最後に言い放った言葉の意味がわからず文吉は思わず聞き返した。

「父を武士のまま死なせてくださいまし」

 千勢の必死な眼差しに文吉は気圧されて腰を上げた。

 

 永代島にある富岡八幡の境内に駒吉と佐平がいた。すぐ目と鼻の先の門前仲町梅乃屋に文吉と寅蔵がいることなど知る由もなかった。大鳥居から正面参道をゆっくり歩き不審な浪人者を捜した。さすがに縁日でもない普段の日には人通りが少ない。

「権太の野郎、がせかよ。もっともこの寒空、じっと同じ所にいるわきゃねぇか」

「うるさいねぇ。口を動かす暇があったら、もっと周りを見な」

 御本殿から左に上っていくと人の気配がした。駒吉は佐平の肩口を引っ張ると手水台の影に隠れた。

「いたよ。あの浪人じゃねぇのかい。何だい、なんだい。正気じゃないね」

「静かに、おし!」

 駒吉が口の前に人差し指を立てて佐平を睨んだ。

 痩せた総髪の男が地面に座り、何度も気合一閃刀を抜いては、鞘に納めていた。それは終わることが無い光景だった。もちろん居合いの修練に他ならないが、それにしても尋常の目ではない。眉間を寄せ、泣いているような悲しい眼でまっすぐ前を睨んでいた。その男の身体から湯気が立ち上り、張り詰めた空気に包まれている。本殿後ろの森から時折、落ち葉が風に飛ばされてくると、男は、それを眉ひとつ動かさず真っ二つに斬った。そして、再び正座すると息を整えながら目を閉じる。駒吉の背筋に冷たいものが走った。

 何のための修練だろう?

 何を斬っているのだろうか?

 ふいにそんな疑問が駒吉の頭に浮かんだ。何故あの男の考えていることを覗こうとしたのだろうか。いや、覗こうとしたのではない。あの男の体が訴えているのだ。余りにも強い怒り、怨嗟、慨嘆が入り混じった目の光は底が無いほど暗かった。きっとあの男は、この世にある全てのものを斬ってしまいたいに違いない。

 この世を怨んでいる。そして、自分自身さえも憎んでいる。

 駒吉は、誰にも話したことのない自分の胸の内を覗いた。好きで芸者になったのではない。両親に早く死に別れ、そうしなければ生きていけなかった。水仕事の合間にあかぎれの手で三味線の練習を繰り返した。人目を忍んで寒風吹き荒ぶ隅田川の土手に上り声を絞り出しながら喉を鍛えた。

 苦界に落ちずにすんだのはひとえに世の中を敵に回しても怯まない勝気な駒吉の性格と血の滲むような努力のお陰だった。

――似ている

 だから駒吉にもあの殺気に隠された男の心が見えたのかもしれない。

 だが、駒吉は首を横に振った。でもわっちには、女将さんや姉さんがいた。置屋の女将やたくさんの姉さんなど駒吉の心意気を可愛がる人々の善意ある厳しさが、支えてくれたことを忘れない。駒吉は一人ではなかった。

「何でぇ、でも同情はしないよ」

 駒吉はふっと閃くと、佐平に耳打ちした。

「よし、佐の字。わちきが言うことに何でも大きな声で『へい』とお言い」

「なんでぇ、なんでぇ」

「言うことをお聞き!」

 駒吉は、自慢の柳腰をくるりと返し後ろの佐平に、甲高い声をかけた。艶やかな巽芸者の駒吉は目立ちすぎるほど目立っている。

「忘れ物しちまったよ。新しい着物つくるのに女将さんに借りた二十両、今日持っていくことになっていたんだ。取りに帰るから、五つになったら吾妻橋に迎えに来ておくれ」

「へいっ! 姐さん……」

 それじゃあ、囮だと言いかけて佐平は声を呑んだ。佐平も駒吉も浪人者の目が光ったのを見た。そして、五つまでには後半刻ほどでしかない。


 陽がだいぶ傾いてから文吉は、慶吾のいる吾妻橋西側の自身番に戻り事のあらましを報告した。すぐに巣鴨の中村検校の所へ慶吾から命じられた稲荷町の下っ引三名が駆けていった。理由は何でも構わぬから、とにかくしょっ引いて来いと慶吾が怒鳴った。

「伯耆流抜刀術、吉川八左衛門っていうのかい? そいつぁ臭ぇな。それで大河端町のそいつの家にゃ帰った様子はねぇってんだな」

「へぇ、おそらく娘の近くにいるんじゃねぇかと。いや離れられねぇんじゃねえですかい?」

「よし、夜回りの人数を増やすぜ。しばらくはみんな外に出ねぇよう触れて回れ」

 慶吾が手配りをしている所に佐平が血相を変えて飛び込んできた。

「兄い、てえへんだ。駒吉が、危ねぇ!」

 焦る佐平を叱りながら落ち着かせて事情を聞いた文吉は、壁に立てかけてあった差股を掴んで走り出した。そこにいたみんなも手に突棒や袖搦を持って後に続いた。

「もうすぐ五つじゃねぇか。馬鹿が! 何考えてやがる!」

 橋の中央に人影が二つ見えた。ひとつはまさしく駒吉で、腰が抜けたのか欄干に手を添えて後ずさりしている。

「二本差しが怖くって、目刺しが食えるかってんだ」

 声の震えた駒吉の啖呵が聞こえた。

 総髪の男が柄元を握ったまますっと腰を落とした。文吉が素早く差股を男に向かって突き出しながら駒吉の前に出た。

「お梶! 何してやがる! トットと引っ込んでろ」

 文吉に並んで慶吾が十手を構え、男を牽制しているうちに寅蔵が帯を掴んで後ろへ投げ飛ばした。

「なんだい、投げるこたぁねぇだろ。くそジジイ!」

 駒吉が佐平に抱き起こされながら悪態を吐いた。

「吉川八左衛門、神妙にお縄を頂戴しろい!」

 慶吾が腹の底からの大声を出し、恫喝した。普通の悪党は慶吾の大声で竦んでしまうが、吉川八左衛門と呼ばれた男は不敵に笑って捻り気味に腰を割った。

「木っ端役人が! 我が祖は関ケ原の時、東照神君家康公の馬前を守し武士ぞ。お目見えもできぬ町方風情にこの吉川八左衛門、指一本触れさせぬ!」

 抑揚のない早口で八左衛門は唸った。

「関が原? いつの話をしてやがるんだこの唐変木。文吉、こいつぁ、危ねぇぜ。目が飛んでやがる。間合いに入るんじゃねぇぞ」

 八左衛門の笑っていた目が細く冷たく光った途端に風が鳴いた。避ける間もなく半身に十手を構えていた慶吾の胸と左腕が切られた。文吉が咄嗟に差股を突き出して刀の軌跡を変えなければ、腕は切り落とされていただろう。もんどり打って後ろに倒れた慶吾の周りを文吉と寅蔵、それに稲荷町の金治がすかさず庇った。決して油断していたわけではない。戦慄を覚えた。直心影流の免許皆伝を受け、同心仲間でも抜群の腕を持つ慶吾がまるで歯が立たない。文吉らは突棒や梯子を突き出しながら八左衛門を牽制しつつも、八左衛門の身体から発散される威力に少しずつ後退させられている。八左衛門が刀を抜いては納める度に突き出す得物の長さが短くなっていく。一息に斬っては来ず、まるでじわじわと人を殺すことを楽しんでいるような動きであった。

 お澄美! 殺されるかもしれねぇ、そんな不吉な予感が文吉の頭を過ぎっていった時だった。

 突然後ろからたくさんの石礫が飛んできた。

 振り向くと達磨横丁の長屋の連中がいつの間にか集まって石を投げている。お澄美の姿も見えた。お捨の家族も箒売りもいた。俸手振りも表具師も、人足をやっている者も角の羅宇屋もいた。権太の知らせでみんな手に武器を持って駆けつけてきたのだ。鑿を持った者、金槌を持った者、包丁、物干し竿、なかには杓文字をもったおかみさんもいる。

「文吉親分、とっ捕まえておやりよ。花川戸の若旦那は、晴れてこの春にゃ婚礼が決まってたんだってよ。結納の日取りを決めて向島から帰る途中だったそうだよ」

 杓文字を振り回すお捨のひときわ大きな声が響いた。甚太も遊び仲間と一緒にせっせと石を拾って、親たちに渡している。

「おいおい、気持ちは嬉しいが、下がっててくんな。あいつはもう正気じゃねぇんだ。人を殺すことに何とも思っちゃいねぇ。怪我でもされた日にゃ、寝覚めが悪いぜ」

 八左衛門は投げつけられた石で顔面を血だらけにしながらも構わずにゆっくりと前へ歩を進めてくる。差股を突き出すが自分の間合いが近づいたのか八左衛門は黄色い歯をみせて「蛆虫どもが!」と笑うと大きく手を広げて威嚇した。次に腰を屈めて捻った時が刀を抜く時だと誰もが緊張した。

 いきなり鞘を押し下げて居合いに構えた黒い影が飛び込んできた。

「数さん! そいつぁ……」

 竹光じゃねぇのかと叫びそうになった文吉を黙らせたのは八左衛門の喚声だった。

「何者! その構えは我と同じ伯耆流か?」

「自己流だよ」

 普段通りの笑顔を浮かべて数馬はゆっくり下駄を片方ずつはずすと、鏡のように八左衛門の構えを真似て左半身に構えた。

「文さん、早くその八丁堀の旦那を後ろに下げてくれ。今のうちに腕の付け根をしばっちまえば怪我が軽くなる」

 八左衛門がしっかりと腰を落とし、右手を前に出したまま鯉口を切った。数馬もそっくりに腰を落として鯉口を切った。

 居合いは、刀を抜くときに鞘走りをして剣速を加速させる。つまり、鞘との摩擦抵抗で力を溜め、切っ先が鞘を離れた瞬間一気に反作用で振り抜くのだ。普通に振り下ろす何倍もの速さがそこに生まれる。双方が居合いの構えを見せたということは、速さが勝負ということになる。そして、二の太刀の攻撃。三の太刀……

 互いに先を読み合っているのか睨み合ったまま動かない二人であった。瞬きをすることも忘れ見守る文吉や長屋の住人も咳きひとつ立てられない緊張に身体が縛られた。隅田川の川音が大きく聞こえてくる。ふっとその川音に皆が気を取られたとき二つの影が交錯した。倍の速さで抜いた数馬の太刀に一瞬怯んだ八左衛門の横をすり抜け背中に立った数馬は、後ろから柄頭を八左衛門の後頭部に向かって強か打ち下ろした。

「今だ、文さん!」

 倒れ込んだ八左衛門に飛びついて押さえ込んだ文吉の横から金治が取り縄で縛り上げた。

 引っ立てられて行く八左衛門を見送る数馬に文吉は、礼を言いに戻った。

「しかし、数さん。それ竹光じゃなかったっけ……」

「ほら、竹光だよ。だからあいつよりも早く抜けた。竹光でも振りぬけば大根ぐらいは切れる。居合いは先に抜いた方が勝ちさ」

「それにしても、そんな理屈通りにゃいかねぇ。数さんの嘘つき。さすが、お殿様の剣術指南だ」

「そりゃ、父上だよ。ま、蛙の子だけどな。しかし、誰にもこいつは竹光に見えていないはずだ。内緒で頼むぜ。でないと、父上の頭に血が上っちまう」

「数さんが本当は強かったってわかったのは嬉しいが、ただ、……」

 文吉は、言葉を呑み込んで頭を掻いた。欄干に両手をついて身体を支えながら下を覘くと、何もなかったように隅田川が滔々と流れていく。川面に千勢の悲しい顔が浮かんだ。

「昼間、野郎の娘に会って来たんでさぁ。頼まれちまったんだ。父を武士のまま死なせてくださいましってね」

 そんなこと俺には出来やしねぇと洩らした文吉の肩を数馬がとんと叩いた。

「そいつは、お奉行所が考えてくれるよ。文さんが気に病むことはない。それより、文さんは罪のない人がこれ以上斬られるのを食い止めたんだ。誇りに思っていいと思うぜ」

 ほら、振り向いて見なよという数馬の声にゆっくりと文吉は振り返った。そこには、佐平達下っ引に押し戻されながらも帰らない長屋の店子達がいた。

 お澄美が泣きながら文吉の前に駆け出してきた。釣られてみんなも制止する下っ引達をふりきって二人の周りに集まってきた。みんなの顔はお澄美とは正反対に笑っている。文吉の初手柄を自分のことのように祝福している顔だった。

「数馬様、本当にありがとうございました。うちの人の命の恩人……」

 お澄美はそこまでやっと言うと腰が抜けてその場に蹲った。涙が止まらない様子だ。文吉は、手を差し伸べてお澄美を立たせた。

 歓声が沸いた。

 その輪の外で泥だらけになった裾をちょいと持ち上げた駒吉が佐平の頭を後ろから思いっきり殴ると、足早に帰って行った。

「何、怒ってるんだよっ、待ちなって、みんなで祝いに一杯やろうぜ。一番のお手柄はおめぇじゃねえか」

 振り向いてあっかんべえをする駒吉の後ろを佐平が追いかけて行った。



 巣鴨から金治親分の下っ引達が、中村検校の死体を見付け、ちょうど検校の屋敷の荷物を運び出そうとしていた男を引括って帰ってきた。男の二の腕には自分の名を彫りこんであった。

 治郎吉――。

 渡り中間の格好をしているが、無宿渡世に生きる町のダニのような男であった。検校はやはり、吉川八左衛門の手にかかって一刀の元に斬殺されていた。それは、一瞬の隙に有り金を持って隠れた治郎吉によって、納戸の隙間から一部始終を覗かれていた。騙す相手を物色してきたのは治郎吉だが、みすぼらしい浪人姿から八左衛門の剣鬼の部分を想像できなかったのであろう。大番屋へ引き立て治郎吉に大きな石を抱かせて吐かせたところによると、田島亮斎を騙った年寄りこそ座頭中村検校その人であったのだ。斜視ではあったが、実際には少し目が見えていた。ということは、幕府が盲人保護のために高利貸しの営業を認め、特権を与えたことを利用しての謀りに他ならなかった。

「八左衛門の息子、新之助はどうした?」

 慶吾の厳しい責めに観念した治郎吉が誰もいない民家の井戸に投げ捨てたとついに白状した。

 その井戸の底をさらって、身包み剥がれた裸の子供の死体を引き上げた文吉達は暗澹とした気持ちで近くの寺に埋葬した。

「さっぱりと晴れねぇ幕切れですが、これ以上巻き添えになる人間が増えなかったのは、数馬様のお蔭でございます」

 達磨横丁長屋の突き当たりが数馬の棟である。文吉は、数馬と寝たきりの藤堂兵庫を相手に今回の辻斬り騒動の顛末を告げた。菓子折りを持つお澄美、そして下っ引の佐平も神妙な顔で、膝を揃えて座っている。数馬の父は、穏やかな表情でまっすぐ文吉を見て話を聞いていた。肩の力の抜けた洒脱な雰囲気の息子とはまるで正反対の謹厳な風貌の持ち主である。

「藩命で国を出て以来、毎日数馬と二人きりで修練を重ねてまいりましたが、皆様のお役に立てることができたとは、……。ちなみに様子を聞くと数馬の使った技は、我が流派に伝わる秘剣池の月と申す。わが身を水面にたとえ、鏡のように相手を映し……」

「父上、お体に触ります。秘剣の話は、その辺で」

 咳払いをした数馬が父親の話を遮った。「自己流だって言ってたじゃねぇか」と佐平が小声で呟いたのをお澄美と文吉が睨んだ。

 体調もよいのか、久しぶりに他人と話をするのがやはり嬉しいのだろう。兵庫の顔の筋肉が緩んできた。

「しかし、若親分にしてみれば、その吉川八左衛門と申す浪人者は、滑稽でござろう?」

 そんなことはござんせんと顔の前で手を振る文吉に兵庫が言い添えた。

「武士の矜持を捨てられなかったのは、おそらく今が、武士のありようから遠く離れていたからでしょう。彼のしたことは決して許されることではないが、少しわかるような気がいたす」

 兵庫は自分のことのように述懐すると、もう刀を握れぬかもしれぬ痩せ細った手の先を寂しそうに眺めた。数馬等親子が何故この長屋に住んでいるのか、知らない者はいない。重い空気が流れた。

 文吉は、思い出したようなふりをして懐から紺色の袱紗を取り出し、中から分厚い熨斗袋を差し出した。

「北町奉行曲淵甲斐守様よりのお気持ちでございます。お父上様のお薬代にして欲しいと預かってめぇりやした。本来なら島岡の旦那が届ける所でございやすが、あいにく斬られた所が捗々しくなく、代わりにあっしがお届けに上がった次第で。お納めくださいやし」

 恐縮した兵庫が固辞しようとしたのを息子の数馬が「ありがたく戴く」と箪笥の上の粗末な神棚に袋を供えた。

「あと、駒吉の姉さんにも金一封出たんですよね。兄貴」

 お梶を褒める佐平の言葉に駒吉のことをまだ怒っている文吉の機嫌を直したいという下心が見える。

 あまり長居をしたんでは、お体に障りやすからと腰を上げかけた文吉を兵庫が留めた。

「若親分。こんな時ではござるが拙者の頼みを聞いてくださらぬか? お頼み申す」

 身体を起こそうとして咳き込む兵庫を数馬がすばやく支えて、お澄美が背中を擦った。

「申し訳ござらん……御内儀殿」

 父上、もうお休みくださいという数馬を遮って、兵庫が頭を下げた。

「もう拙者も長くない。けじめをつけたいのじゃ」

 数馬は、呼吸の荒くなった父親にぬるい湯で溶いた薬湯を飲ませた。

「牟礼藤九郎という男を捜してくださらぬか!」

 少しだけ落ち着いた兵庫が持てる力を振り絞り文吉ににじり寄った。

 

 牟礼藤九郎は、数馬の遠縁で父の親友、互いに剣を研鑽し合った仲だと教えてくれた。小さい頃、よく竹馬を数馬のために作り、遊んでくれたという。その叔父が上意討ちの相手なのだ。叔父の藤九郎は、城中で藩主の弟を斬るや、そのまま妻女とともに逐電した。

「あの温厚な叔父上が何故刃傷におよんだのか、父上もそのことは教えてくれぬ」

 梅の白い花が芽吹き始めた大川の堤にどちらからともなく腰を下ろしていた。

「一輪ほどの暖かさ、か」

 数馬が川に向かって石を投げ込んだ。蕩蕩とした春の日を照り返して煌めく川面が乱れて波紋が広がった。その広がりに乗せて数馬の心が伝わってくる。わけも知らずに叔父上を討つことはできぬと……

「父上はああ言ったが、文さんに叔父上を捜し出して欲しい気もするし、見つけて欲しくないとも思う。ちょっと複雑な気持ちだ」

「広いお江戸でございますから、お父上様に安請け合いしちまいましたが、どうしたもんか……申し訳ない気がしやす」

 調子を合わせたつもりの文吉であったが、江戸中に散った佐平の塩売り仲間からそれらしい侍がいると知らせて来たのは、それから五日と経っていなかった。改めて父辰蔵が残してくれた情報網の確かさと早さに文吉は兜を脱いだ。さらに、その浪人者が、牟礼藤九郎であることを確かめるのに時はかからなかった。指先まで綺麗で静淑な内儀とやはり母親に似た器量のよい娘と三人で暮しているという。

「藩を出た時には、まだ奥方と二人だったはず」

 娘の歳が数えで十五という事は、出奔してからすぐに生まれたことになる。

「父と二人の旅でも子供心に辛いものがあったが、子連れではさぞたいへんな道行だったろうな。藩内でも評判の美しさではあったが、身体の決して強くないお方であった」

 文吉がご案内しやすと訪ねると、数馬は大仰に「参る」と答えて、白い襷と油紙に包んだ奉書を懐に入れた。油紙を透かして大きく上の文字が見える。わざとらしく大袈裟に振舞うのは、蒲団の中から数馬の一挙一動を鋭い目で見つめている父の兵庫を意識してのことだろう。数馬が、一度締めた袴の紐をもう一度締め直した。

 寝床から少し身体を持ち上げた兵庫から文吉は頭を下げられた。

「根岸にいたとは、……さすが文吉親分でござるな。我等だけでは到底見つけることはできなかった。礼を申す」

「いえいえ、大先生がお元気であれば、……あ、こりゃあ失礼いたしました」

 既に七年寝たきりの兵庫であった。

「構わぬ。本当のことじゃ。不甲斐無い我が身が恨めしくもあるが、ここは数馬にまかせるしかござらん。親分、見届けてくださいますな」

 支度のできた数馬が最後に自分で縫ったのであろう下手くそな継ぎを当てた足袋を穿き、使い込んで馴染んだ雪駄にしっかりと確かめるようにして指を通す。一つ一つの数馬の所作にいつもの飄々としたところはなく気合いを前面に押し出しているのを見て、文吉は不謹慎だと思ったが笑いを堪えずにはいられなかった。

「では、行ってまいります」

 立ち上がった数馬に兵庫から待てと声がかかった。

「今日は、父の刀を持って行きなさい。藤九郎は竹光では斃せぬ」

 一瞬体を硬直させた数馬が苦い顔をして文吉を見た。


 昼を過ぎたばかりだというのに、太陽が雲に隠れて肌寒かった。

 根岸の里は閑静な佇まいが多く、数寄を凝らした寮がいたる所に建っている。竹を編みこんだ生垣の洒脱な家並が続いた後で、川幅の狭い音無川に沿って少し奥に入り込むと農家の家に混じってひっそりと建つ粗末な家が見えた。

「庭に辛夷の白い花が咲いている家です。どうされやす。行きますか?」

 派手さはないがよく手入れされた庭に住んでいる者の上品でおかしがたい風を感じたが、小さな家だった。やはり、貧しい生活を強いられているに違いない。

「藤堂数馬です。叔父上はご在宅ですか?」

 数馬が、心張り棒のかかった障子を叩いて声をかけるや、内側で心張り棒を外す音がした。

「危ねぇ!」

 文吉が叫ぶよりも早く障子の隙間から刀が突き出された。障子が倒されるように開くと刀を構えた侍と頭に鉢巻を締めた白装束の若い娘が短刀を持って飛び出した。

「数馬、良くぞ受けた。さあ、尋常に立ち合え!」

「不意打ちで突きを出しておきながら、尋常に、はないでしょう。叔父上」

 まだ、数馬は刀を抜いていない。抜く気も見えぬいつもと変わらぬ数馬であった。

「遅いぞ、数馬。上意討ちの命を受けてから何年わしを待たせておる。兵庫殿はどうした! どこかに隠れておるのか?」

 疑心暗鬼から無用の緊張に捕らわれた牟礼藤九郎の視線が落ち着かない。

「私は一人で来ました。それに訳の分からない上意討ちなどするつもりはありません」

 力強い気合一閃、下段の構えから斬り上げてきた藤九郎の剣を数馬は上半身を捻ってかわしながら一歩踏み込み、藤九郎の柄と肩を押さえた。

「流水の受け、見事じゃ。じゃが受けてばかりいたのでは、上意討ちは果たせぬぞ」

 数馬に固められ自由を奪われた藤九郎が必死で抗おうとしている。しかし、二十五歳の若さに四十五歳の老体が敵うはずもなかった。藤九郎の息が上がっている。さらに数馬が藤九郎の首と腕を極め、剣を落そうとした時だった。

「父上を殺さないで!」

 白装束の娘が短刀を小脇に構え、両手の塞がった数馬に突進してきた。文吉は、その娘を素早く抱きとめ短刀を奪い取った。

「お上の御用を仰せ付かった文吉っていう者でございます。数馬様は、上意討ちなどしにきたんじゃありやせん。今日は久しく会っていなかった叔父上様にお話を伺いに来ただけでございます。刀を引いてくださいまし」

 泣き崩れた娘に「楓、もうよい」と藤九郎が声をかけた。数馬も手を離した。

「叔父上、私を人殺しにするおつもりですか? 私は、人を斬ることなど嫌いです。まして訳も分からず叔父上を斬るなど……」

 肩を落とした藤九郎が、刀を鞘に納めた。「強くなったな、兵庫殿以上だ」と、言った顔は、色濃い苦悩と複雑な感情を混ぜ合わせていた。


 やはり家の中にも白装束の上品な婦人がいた。若い頃はさぞや美しかったであろう面影を強く残し、座敷の中央に正座して懐剣を抱いていた。数馬は断りもなしに上がっていくとその婦人の前に対座した。藤九郎も楓と呼ばれた娘も数馬を囲むように座った。文吉は、その場を離れて裏にまわり、濡れ縁に腰掛けた。手入れの行き届いた庭を眺めながら話の終わるのを待つつもりでいた。

「伯母上も死装束ですか? お体のほうは大丈夫ですか? お強い方ではなかった」

 数馬の声が文吉まで届いた。聞いてはまずい話になりそうな予感がして、「あっしは、これで」と文吉が立とうとすると、数馬から「そこで待っていてくれ」と声をかけられた。

「文さんは、父上から頼まれた見とどけ人だ。帰るときも一緒だよ」といつもの笑顔が少し開いた襖の陰から覗いた。

 静かで細い声が聞こえた。

「数馬様、もうすっかり大人になりましたのね。早いものです、十五年ですか…… お父上は息災ですか?」

「いえ、七年ほど前に倒れてから、中気でずっと寝込んでおります」

「兵庫殿は、それ程お悪いのか?」

 藤九郎の問いに、立つことも叶いませんと数馬が答えた後、暫く襖の奥から声が途切れた。その沈黙を破ったのも数馬だった。

「叔父上より、二つ年上でございます。もう若くはございません」

「しかし、知らなかった。我等のためにまさか兵庫殿に迷惑をかけるとは……」

 数馬が神妙に仔細をお聞かせ願えればと乞う声が聞こえた。どこかに梅の木があるのだろうか、二羽の鶯の鳴く声が冷たい風に飛ばされた。ふいに寒いと背中の震えた文吉は何気なく空を見上げると、忘れかけていた雪がちらちらと舞い始めていた。明日は涅槃会(二月十五日)、降りじまいの雪に違いなかった。

 

 藩主の弟が、美人と誉れ高い寿津代という娘を陵辱した。寿津代は藤九郎の婚約者であった。城下を夕陽が赤く染め抜いた中、寿津代の屋敷に駆け込んだ藤九郎は、薄暗い部屋の中で今まさに自刃しようとする寿津代を何とか思い止まらせた。日頃悪評高い藩主の弟であったが、不当な仕打ちを受けながら不満のままにどうすることもできず、諦める者がほとんどであった中、藤九郎は我が身に降りかかった災厄を見過ごせなかった。恥を忍び、伝手を頼って城代家老に訴えたが、取り合ってもらえなかった。あろうことか、家老は隠微に笑いながら娘の方に隙があったのであろう、いやその娘が誘惑したに相違ないと言い放った。藤九郎は、思わず太刀を握り締め、周りの茶坊主等から窘められた。剣の腕は、藩内で剣術指南役である藤堂兵庫と並び称される藤九郎であった。何日か獣のようにつけ狙い、ついに城下の端で藩主の弟を斬殺した。その血は、辺りに群生していた白い百合を赤く濡らした。事情を知っている者達による同情と協力もあり、藤九郎と寿津代は、脱藩した。藤堂兵庫が藩命を帯びて藤九郎を追って来るとの噂が街道を流れたのは、時がかからなかった。仲の良かった兵庫と剣を交えたくない藤九郎は、街道を東に急いだ。しばらくして寿津代が身篭っていることを知る。誰の子かという疑念が沸かぬではなかったが、藤九郎は自分の子として育てることを決意して旅を続けた。

「短慮と冷罵を浴びせる者もおるだろうが、我等は人としての誇りを傷つけられたのだ。とても我慢できるものではなかった。私のしたことで、寿津代と楓が路頭に迷っても身から出た錆びといくらでも諦めることができるが、兵庫殿や数馬まで巻き込んでしまったことは慚愧の念に堪えられぬ」

 楓が縁側にいる文吉に熱い茶を運んできた。文吉が楓の頭を指差すと、まだ鉢巻をしていたことに気づいた楓が頬を赤らめて結びを解いた。

「最近我等の身辺を探る者達がおることに気づいていた。近々藩の誰かが襲って来るのではと思い、我等親子は戦うことを決意した。我等がここまで築き上げた暮らしを壊したくなかったのだ。水杯を交わしたばかりであったが、まさか数馬が来るとは夢にも思わなかった。わしの頭の中では、数馬はまだ八つの時のままなのだ。しかし、成人した数馬を見て不思議だがおぬしになら斬られてもよいという気持ちになった。きっと逃げ隠れているということに疲れてしまったのだろう」

 項垂れる藤九郎に数馬は苛立った。

「やめましょう……」

 数馬は大きく息を吐き出すと、懐から奉書を取り出した。

「こんなもののために我等は母の死に際しても国元へ帰ることができなかった。今更藩へ戻り復職することなどなんの意味があるのでしょう」

 藤九郎と寿津代がはっと息を呑んだ。いきなり数馬がその奉書を破り捨ててしまったのだ。

「何故父上は、叔父上の脱藩の理由を教えてくれなかったのだろう。もし、聞いていればもっと早くこんな馬鹿げた事をやめて別の生き方を探せたはず。反対に叔父上に味方し上意討ちにやってくる者を悉く退ける側にまわったのに」

「事情をすべて知って、我等夫婦を逃がしてくれたのも、江戸へ逃げるようにすすめてくれたのも兵庫殿じゃ」

 一瞬、数馬は言葉を探した。それならば父は何故上意討ちを受けたのだ? 今までは、藩内一の使い手であるために選ばれたものと思っていた。それも理由のひとつには違いないが、釈然とせぬ思いが数馬に湧き上がってくる。

「兵庫殿は、武士の心を大切にしておられる。君、君たらずとも、臣、臣たるべし。君に忠、自らを節することに厳しくし、私欲を忌む。そして、名誉を以て貴しとなすというお方なのだ。我等に示した慈愛も兵庫殿。上意討ちを拝命したのも兵庫殿なのじゃ」

「わかりませぬ。ならば、私は武士でなくともよい……。叔父上、また来ても構いませんか? 今度はゆっくり昔語りなどしたい」

 数馬は、母を犠牲にした父への悪態、武士の独りよがりな愚かさが口を吐いてしまいそうで、おそらくは父を擁護するに違いない叔父と言い争いをしてしまうかもしれない。久しぶりの再会に水を差したくなくて、その場を辞した。

 牟礼家の三人は忘れ雪の舞う中、いつまでも数馬を見送っていた。

 最後まで刀を抜かなかった数馬は無口になって、来た道を早足で戻る。音無川に沿って下りながら文吉は取り付く島のない数馬から遅れを取るまいと必死に着いて行った。怒っている様子の数馬に声を掛け辛く心なしか足も重くなった。

 ふと数馬が歩みを緩めた。

「文さん、十五年っていうのは、長いな。白髪の混じった叔父上など想像したこともなかった。昔はあれでも颯爽として、年頃の女から付文が何本も届いていたんだぜ」

「今でも十分ご立派なお顔立ちだと拝見しましたが…… しかし、大先生には何とお知らせしましょう?」

 右手を懐手にして、立ち止まった数馬は陽の落ちかけた山の方を見上げた。文吉も同じ方向を向くと、山懐がぼんやり藤色に染まって、もう雪は止んでいた。

「降りじめぇの雪は、すぐに止んじまう。忘れられねぇ日になっちまいましたね」

 だが、数馬はそれには答えなかった。佇んだままであった。

「聞こえていただろう。くだらねぇ理由だ。そんなことのために父上は十五年を棒にふっちまった。剣術好きの殿様のおかげで、父上の俸禄は百五十石だったそうだ。そんなもの惜しくも何ともないが」

「お侍さんにゃあ、おいらたちには判らねぇ面目っていうか誇りっていうか、どうしても守らなきゃならないもんがあるんじゃないですかい?」

「そんなものあるもんかい!」

 吐き出すように強く言い放った後、冷えたのか数馬は肩の辺りを気忙しく擦った。

「ちっと寒いな、文さん。どっかで一杯引っ掛けて行こうや。そこで父上に何と言い訳するか、ゆっくり考えようぜ」



「人違いでした」と短く言い放った数馬に、父兵庫は頷いただけでそれ以上何も言わなかった。隣に立っていた文吉にも兵庫は簡単な礼を述べただけで眠った。

 名残の雪が降った後は、暖かい日が続いた。長屋の空気も変わったような気がする。いや、僅かだが変化があった。甚太の母親が縄暖簾をやめてずっと家にいるようになった。縫い物が得意だと聞いたお澄美が実家の母に頼んで仕立物の注文を回してもらうことにしたのだ。収入は減ったが、七味売りの父親の商いと合わせれば親子三人生活するのに十分である。甚太も心なしか明るくなった。

 そして、隣の手習い指南所から三味線の音が聞こえるようになった。昼を過ぎると指南所は子供たちがいなくなるが、空き時間を利用して常磐津のお師匠さんが通ってくることになった。そのお師匠さんは元日本橋で一番売れっ子の芸者だったと弟子集めをしている。時々駒吉も三味線を片手にやって来るようになった。どちらかと言えば口三味線を弾いている時間の方が長いようだ。

 三味線の師匠は相生屋の女将お佳代である。お澄美に仕立物の口利きをすることを条件に、達磨横丁の長屋へ入ってきた。旦那の五兵衛は苦い顔をしながら、それでも指南所に算盤の師匠として入り込もうと何かにつけ数馬に画策してくるようになった。

「ごめんなさい。お父っつあんたら、数馬様にご迷惑かけてるみたい」

「何しょうがねぇよ。それによっ、吾妻橋の捕り物以来数さんに剣術教えてくれっていう若ぇ者がおしかけてくるみたいだぜ。これじゃあ謝礼が少なすぎたってお奉行さんに伝えてくれってよ」

 お澄美が突然長屋のかみさん連中に似た口ぶりになった。

「毎日隣の掃除に来ている若い娘さんは誰? お武家さんのご息女って感じだけど、文さんのことも知ってるみたいだけどっ!」

「知らねぇよ」

 寝そべって読売を読んでいる文吉の背中に乗ったお澄美が文吉の頬っぺたを思いっきり抓った。


 何度断っても毎日根岸から通ってくる楓に数馬は困惑していた。楓は、指南所の隅々まで綺麗に拭き掃除をすると、通ってくる子供たちの机を一台ずつ磨いて帰る。声をかけても口を真一文字にしっかりと結び、ただひたすらに掃除を繰り返し続けた。数馬は楓の気持ちを量りかねた。

 折角父上に嘘までついて事を穏便に済ませたのに楓殿から叔父上の消息が知れてしまったらどうするのだ。まさか叔父上に言われて、我が家のことを探りに来たのだろうか? 上意討ちを諦めたことに疑念を持っているのか? それに頼みもしない親切の押し売りも迷惑だ。

 堪りかねた数馬が楓の持つ雑巾を取り上げて叱ったのは、楓が来るようになってから四日が過ぎた昼下がりだった。

「楓殿、ご好意はありがたく思うが、もうお帰りなさい。あなたにここまでしてもらう謂れはない」

 楓は、数馬から雑巾を取り返し、固く絞って洗い桶にかけた。小さな声で嫌ですと呟いた。いつのまにか楓の大きな瞳から涙が零れている。

 自分の願掛けで来ているのですと、楓は数馬を見ずに答えた。

 自分等の家族が貧しくとも幸せでいられるのは、藤堂数馬や兵庫の犠牲の上に成り立っているのだということ。ご恩の報い方はこれ以外に思いつかない。こんな境遇に追い込んだ父と母を許して欲しい。わたしが父の子ではないかもしれないと思っているのは知っている。でも父はそんなこと微塵も見せずに私を可愛がってくれる。そんな大好きな父を数馬が殺しに来たと誤解して、思わず刃を向けてしまった。

「いくら謝っても足りませぬ」

 楓は、堰を切ったように思いの丈を数馬にぶっつけてきた。

「叔父上は、楓殿がここに来ていることをご存知か?」

 楓は、袖で顔を隠したまま頷いた。暫くして涙が止まったのか、果たして止めたのか袖を下ろしきっと顔をあげて数馬を見上げた。その目に数馬は釘付けになった。心の強い娘だと数馬は思いがけず惹かれてしまった。

「御父上様のお世話もさせてください。お世話をさせていただくことで父を許してほしいのです。殿様の剣術御指南役だった地位を捨てさせた父を…… そして、奥方様の死に目に会えなかったお詫びをさせてください」

 長屋の住人が好奇な目で中を覗いていく。お捨などは明り取りの窓から中を窺い、動く気がない。数馬は咳払いして楓を外へ連れ出した。

 暖かな陽射しに数馬は隅田川の水も温んできたような錯覚を覚えた。楓と一緒に肩を並べて歩くのは、心が和んだ。風が体をすり抜けていく。こんな気持ちは初めてだった。そっと楓の顔を盗み見た。楓が訝しそうに首を傾げて赤らめた顔を袖で隠した。物言いがはっきりしているのと掛け襟が黒いので数馬よりも大人びて見えるが、よく見ると十五歳の顔をしていることに数馬は気づいた。母親似の美しい娘であった。

「いかがなさいました?」

 黙り込んであてもなく堤を歩いている二人だったが、その沈黙に楓が耐えられなくなったのだろう。それでも一呼吸置くと穏やかに数馬へ声をかけた。

「ん、……思案していた。実は、あの日人違いだったと父に嘘を吐いてしまったのだ。ここで今更叔父上の娘御だと紹介するわけにもいくまい」

 ふたり同時に溜息をついた。

 偶然通りかかった駒吉が三味線を片手にふたりをからかった。

「いよっ、指南所の先生、思い詰めた顔しちゃってさ、大川に飛び込んで、心中かい?」

 馬鹿野郎と怒ってみせた数馬に「野郎は男だよ。どうだい? どっから見ても婀娜っぽい姐さんだろ」と品を作って笑いながら駒吉は早足で通り抜けた。

「申し訳ない。根はいい芸者なのだが口がどうも下品で……」

 数馬は、笑いを堪える楓に言い訳をしてしまった。そんな自分が不思議だった。

 数馬のいつ終わるかわからない弁明を遮って楓が遠慮がちに申し出た。

「私を通いの女中としてお雇いくださいまし。もちろんお金など要りませぬ。それならばよろしいのではありませんか?」

「しかし、それでは楓殿に非礼になる。そうなれば、きちんと相場以上のものは払う」

 楓が笑って、かぶりを振った。

「ならば楓はずっとここに来てもよろしいのですね」

 あっと言葉を呑んだ数馬を横目に、楓は二三歩先を駆け、腕を後ろに引いて胸を前に出すと川の風を思い切り吸い込み楽しそうに伸びをした。


 汗を拭きながら数馬は父に楓を紹介した。

「男だけではウジが湧きそうなので、身の回りの世話をしていただく方を雇いました。指南所の方も人が増え、いささか収入も増えたものですから。昼までわたくしが手習い指南所におりますのでその間に来ていただきます」

「おまえが早く嫁を貰えばよい。わたしは文吉親分の御内儀殿を見ていてつくづく思った。よく気のつく心根の優しい娘さんだ。おまえにも早くあのような娘が嫁いでくれればと願っておるのだよ」

 お澄美が何かと気を使ってくれて、掃除や洗濯から食事の準備それに兵庫の話し相手になってくれていることを数馬も知っている。

「いつまでもお澄美さんの世話になるわけにもいかんでしょう。それに家に来てくれる殊勝な娘など……」

 言い掛けて止めた。父の中気はよくなる兆しを見せず、数馬は話題がその方向に進んでいくのを嫌った。嫁を貰うということは病人の世話も請け負うということなのだ。

「とにかく楓殿と申します。本日より手伝って貰いますので、あまり我儘なことを言って困らせないでください」

「馬鹿者!」

 兵庫が寝たまま数馬を叱る声が響く中で、楓はずっと三つ指を突き、頭を下げたままであった。

 よく働く娘であった。難を言えば、お澄美のような愛想がないことぐらいである。病気のせいで時折気難しくなる兵庫に対して、気働きも利き兵庫を不快にさせることはめったになかった。だが互いに無口な性格のためか打ち解けるまでにはまだまだ時間がかかりそうだった。楓が来るようになって、お澄美の訪れる回数も減ったが、それでも兵庫と楽しげに語らうお澄美を見て、楓は悲しげな表情を浮かべた。

「楓さん、お父様は何をされてるの?」

 お澄美の明るい声が、懸命に拭き掃除をしている楓を振り向かせた。ちょっとした間があいたが楓がしっかりとお澄美と兵庫に身体を向けて答えた。

「偶然、親切な酒問屋のご主人に気に入られ、帳面付けや用心棒の真似事をしております」

「算盤もできるんだ?」

「昔、勘定方にいたと申しておりましたから」

 楓はしまったと思ったが、兵庫は「勘定方……」と呟いただけで、それ以上は聞いてこなかった。逆にお澄美に対して、禄を離れた者に昔のお勤めのことを聞いてはいけないと優しく窘めた。しかし、お澄美によって会話の糸口が掴めたのか、兵庫も幾分饒舌になり、初めて楓に声をかけてきた。

「楓殿は本当によく働く。母上の教えが良かったのであろうの」

 耳まで赤らめた楓に、お澄美がお茶を入れたのでちょっと休みませんかと声をかけた。お澄美がお盆に被せてある相生やと染め抜かれた布巾を取ると綺麗な茶菓子が三つ現れた。

「大先生もこれならあまり甘くないから、大丈夫だと思いますよ」

 お澄美が兵庫を抱き起こそうとすると、楓もすぐに兵庫の後ろに周り背中を支えた。思ったよりも細く軽い兵庫の身体に楓は涙を禁じ得なかった。

 兵庫から労われるように「かたじけない」と礼を言われた楓は、激しくなった胸の鼓動を抑えつけた。


 手習い指南所で子供たちを帰した後、彼等が提出した課題に朱を入れている数馬の横で、普段より早く来た相生屋の女将が茶を啜っている。

「先生、お澄美から聞きましたよ。感心な子じゃありませんか。自分の父親の過ちを娘が償おうっていうんだから。けなげだねぇ」

「別にあの子の父親が悪いわけではない。くだらぬ事情があったのです。しかし、女将さん、口に戸を立てといてくださいよ。父上には聞かせられない話だ」

 その時、開け放しの入り口から楓が顔を覗かせて、「今日はこれで……」と遠慮がちに顔を伏せて挨拶していった。泣いているのか目が赤かった。数馬もぎこちなく会釈を返した。

 それを見ていたお佳代が、わざと大きな溜息をついた。

「なんだい、なんだい。先生も、まだまだ、遊びが足りないね。女の気持ちってのがちっともわかっちゃいない。うちの文吉と一緒だよ。いい娘さんじゃないか。追いかけなくていいのかい? 泣いていたじゃないか!」

「怒りますよ。そういうのを下衆の勘繰りって言うんですよ」

 一度腰を浮かした数馬が何を思い直したのか、腕組みをして座り込んだ。それを二三度繰り返すといきなり立ち上がって、お佳代には何も告げず草履を突っ掛けた。

 お佳代が三味線の音合わせをしながら鼻に抜けるような声で「下衆でござんすからねぇ」と即興で節をつけて唄っている間に、ちょうど顔を出したお澄美とぶつかりながら数馬が飛び出した。

「そわそわしちゃってさぁ。落ち着かない先生だねぇ」

 お佳代とお澄美が同時に首を竦めて笑った。

「でもあの娘さん、泣いてたじゃないか? 何か粗相をして怒られたんじゃないのかい?」

 お澄美が笑いながら手を横にひらひら振って否定した。

「嬉し泣きよ。一生懸命に尽くしてたから大先生に褒められて嬉しかったのよ」

「それじゃあ……」

 ふたりの女は、剣は強いが女性には苦手な数馬が懸命に楓の機嫌を取っている姿を想像して、笑った。


 ひと月が過ぎると、墨田川の堤も桜の花で満開になった。

 楓も毎日根岸から通ってきて、男臭かった数馬の家もこざっぱり変貌していた。

 昼餉の準備が終わり、楓が帰り支度をしているところへ数馬が走って帰ってきた。

「魚屋の惣太の親が、鰻の蒲焼をくれたんだ。楓殿、一緒に食おう。たくさんあったので半分は文吉親分やその辺にいた長屋の連中にお裾分けしてきたが、それでもふたりでは食いきれぬ」

 躊躇った楓に兵庫も「そうしなさい」とすすめた。

 使っていない膳を出して、楓はご飯をよそい始めた。日頃、楓の洗い物が行き届いているお陰でもうひとり分の食膳をつくるのに時間はかからなかった。数馬が竹の皮に包まれた鰻をそれぞれの皿に盛り分けた。

 まず数馬が父の背を支えて据わらせると、息の合った夫婦者のように楓が箸で鰻の柔らかい部分をほぐし、兵庫の口に運んだ。兵庫の右手はまがったまま膝の上に置かれている。

 先に兵庫の食事が終わらせた後、数馬と楓はそれぞれの膳についた。

「おいしい……」

 一口鰻を食した楓が思わず声を出して、数馬と目が合うと顔を赤らめた。

「そうか、それはよかった。明日、惣太に礼を言っておこう。それに余るから持って帰るとよい。お父上と母上にも食していただければありがたい」

 楓は遠慮したが、数馬が鰻の残りを竹の皮に包み楓の前に差し出した。

「数馬、ちゃんと楓殿にお給金を払っておるのか? ひと月になるがそのようなところを私は見ていないぞ」

「父上、お金のことなど武士が口にすることではありません。心配召されるな。父上のお世話の分も含めてきちんと渡しております」

 間を空けずに取り繕った数馬だったが、喉に痞えた鰻をお茶で流し込んだ。楓も「きちんといただいております」と小さな声で数馬の嘘に合わせた。

 お澄美が小茄子の白味噌漬を持って入ってきた。

「お母っさんが浅草の河村屋で買ってきた漬物だけど、お口に合うかしら」

 食事中だったのを見てすぐに帰ったお澄美だったが、入れ替わりに表具師の女房が大根の煮た物をくれた。裾分けのお返しだった。楓はびっくりした顔で数馬に尋ねた。

「いつも長屋の皆様が、こんなにご親切になさってくださるのですか?」

「ま、煩わしいことの方が多いが、貧乏人は相身互いだ。このような暮らし、楓殿はお嫌いか?」

 楓は、指の先まで赤くして頭を振った。数馬も自分の何気ない言葉に顔が赤らむ想いがした。

「楓殿……」

 兵庫が少し身体を起こし、話したい言葉がすらすらと出ないもどかしさに動く左手を湯飲みに伸ばして口に運んだ。

「いかがなされました? 父上」

 茶を飲んで一息ついた兵庫が意を決すると楓に身体を捻った。

「楓殿、息子の嫁になってくださらぬか?」

 突然の言い様に数馬も身体が固まった。楓も箸を持つ手が胸の辺りで止まってしまった。

「ずっと楓殿を見ておった。実によく躾けられた娘さんじゃ。本来ならば私が楓殿のうちに伺い、ご挨拶せねばならぬところ、誠に申し訳ない……」

 楓が、突然泣き伏した。声を殺すことができないほどその場で泣き崩れた。数馬は楓の泣く理由がわからなかった。父親がいなければ、楓の肩に両手をかけ問い質したい気分であった。

「父上、おやめください。困っておられるではありませんか? 明日から楓殿が来なくなったらどうするのです」

「楓殿、数馬のことはお嫌いか? 手習い指南所の師匠では、不足であろうか?」

 兵庫は、息子の制止を無視して楓に声をかけた。優しい声だった。数馬も兵庫を止めたものの楓の返事が気になった。既に、楓と一緒になってこの長屋で暮していることを、頭の中に想い描いている数馬であった。

 しかし、楓は畳に手をついたまま頭を横に振った。

「できませぬ。そのようなことできませぬ。実は、父に恩あるお方から縁談を持ち込まれ、今年の秋には祝言を挙げる運びとなっております」

 楓の言葉に数馬の身体中の血が引いてしまった。実は、父が死んでしまった後なら、叔父上も楓殿のことは、許してくれるのではないかと勝手に思いを巡らせていたほどである。初めて聞く婚礼話に数馬は、楓も自分のことを好きだと勝手に思い込んでいた自分を恥じた。

「そうか……ならば仕方がないの。残念じゃが、楓殿ほどのよい娘をやはり世間はほっておかぬようじゃな。それでは楓殿が嫁ぐその日まで我が家のことをよろしくお願いしますぞ」

 兵庫の優しい声に楓も頷いた。数馬は箸を下ろした。いや、箸を持つその手の力が抜けた。口の中で鰻の味も消えた。楓と目を合わせて美味いと言った鰻であったのに、噛んでも噛んでも味がしなくなった。


 文吉はいきなり数馬から深川の縄暖簾へ誘われた。理由も言わず数馬が浴びるように安酒を飲む。

「もう、およしになった方が……」

 文吉が制止しようとすればするほど、数馬は意地になって熱燗を頼んだ。

「父上の馬鹿者が!」

 数馬はそう繰り返すばかりで文吉がいくらそのわけを聞いてもその度に黙り込んだ。

 いい加減にしやがれと心の中で吐いた文吉は、半ば数馬に背を向け手酌で飲み始めた。実は文吉にも飲まずにいられないことがあったのだ。

 今朝小塚原の刑場で斬首に立ち会った時のことだった。

 首を切られたのは居合いの名手であり三人を殺した吉川八左衛門。市中引き回しの上の斬首であった。騙した中村検校を斬っただけなら情状の酌量もあり遠島ぐらいで済んだかもしれないが、あとの二人のことでは、到底お上の御慈悲も入る余地がなかった。さらに牢内で悔い改めた八左衛門が強く切腹を希望したが受け入れられなかった。

 身内に限って遺体を引き取ることができる。文吉は梅乃屋に知らせに行ったが、千勢は小塚原に行くとも行かぬとも答えなかった。鏡に映った自分の顔のさらにその向こうを見透かすような目をして、櫛で髪を梳かし続けるだけであった。文吉は、拒否されていると思った。それとも父親との関りを拒絶していたのだろうか?

「辛かったら別に来なくってもいいぜ」と文吉が腰を上げると、千勢は文吉の顔も見ずにゆっくり頭を下げた。

 だから文吉は、遠くに群がる野次馬の中につい目がいった。

 そこに、八左衛門を睨みつける千勢の姿が見つけた。髪を無造作に束ねただけで解れた鬢を風にまかせ、能面のように表情を消して腕組みをしたままじっと見据えていた。八左衛門の首が飛んだ瞬間、千勢の顔が微かに笑ったように歪んだ。すぐに姿が消えたので追いかけてみたが、見つからなかった。千勢は身内であることを名乗り出ることもせず、姿を消した。千勢ではなかったかもしれない。

 いや、あれは確かに千勢だ。梅乃屋の千勢に間違いない。武士として父を殺せと叫んだ千勢を忘れたことはない文吉である。弟は既に殺され、これで天蓋孤独の身の上になった千勢が、何故笑ったのだろうか? 泣いた顔が笑ったように見えたのか?

――いや、確かに笑いやがった。てめぇの親父の死に様を見て、どうして?

 しかし、それを確かめるために梅乃屋の玄関まで行きながら文吉は躊躇った。どれほど同じ場所でうろうろしていたのかわからない。切腹で武士としての最期を迎えさせることができなかった文吉の負い目だろうか。理由を話して慶吾から上に掛けあってもらったが駄目だった。

――帰ってきちまった。とんだ度胸なしだぜ、あの女に会うのが怖ぇのかい?

 悔やむ気持ちにいくら盃に酒を満たしても、頭が冴えるばかりで酔えなかった。女郎として生きる覚悟を決めた千勢の冷たい笑顔が頭から離れなかった。文吉は苦いだけの酒を飲みことをやめて、一本二文の豆腐の田楽を口に運んだ。あとさばの味噌煮とすっかり冷めたおでんが一皿、肴として文吉と数馬の前に置かれてあったが、数馬は手酌で酒を呷り続けるばかりであった。

 店頭にぶら下がる提灯の火を店の女将が消して、暖簾を降ろした。四つを大分過ぎていた。もうじき木戸が閉められる刻限である。店の中は、文吉と数馬以外に客はいない。他の客は数馬の酒癖の悪さに早々と引き上げていた。

「帰りますぜっ!」

 文吉は、まだ酒の追加を大声で頼む数馬の肩を支えて、引きずり出した。

「おととい来やがれってんだ!」

 すぐに女将が手に盛った多量の塩を数馬に投げつけて店の戸を荒々しく閉めた。

 数馬が泣き上戸であることを知った。

「泣きてぇのは、こっちだぜ」

 酔い潰れた数馬を背負って達磨横丁の長屋まで帰るのに、文吉は難儀した。途中何度も背中で暴れるので隅田川へ投げ捨てようかと思ったくらいだ。とにかく数馬の口から毀れる言葉を繋いでみた。

 楓が嫁に行ってしまう、俺は何もできぬ、父上が余計なことをしてくれた……

「女先生が嫁に行ってしまうのか」

 楓は、指南所を掃除しているうちに、子供たちからそう呼ばれるようになっていた。数馬より優しく丁寧に教えてくれるので、特に女の子たちからの評判がよいのだ。

 長屋に着いた。

 もう遅いと判断した文吉は、病の兵庫を憚り自分の棟に数馬を投げ込んだ。

「しっかりおしよ!」

 普段見たことのない数馬のだらしなさにお澄美が堪らず井戸から水を汲んできて、絡んでくる数馬の頭に向かって手桶ごと投げつけた。


 お佳代とお澄美が家の前で立ち話をしている横を楓が会釈をして通り過ぎた。その楓が数歩歩いた所で引き返してきた。

「お澄美さん、ちょっとお話が……」

 楓の元気のない声にお澄美はにっこり笑って頷くと、「立ち話はなんだから」と、浅草の団子屋に誘ってくれた。耳をそばだてていた井戸端のかみさん達の顔が仲間外れを抗議するように膨れるのが見えた。

 暖かい日差しを浴びて隅田川河岸は青柳も緑鮮やかに、遠くの方は桜色を照り返した霞がぼんやりと棚引いていた。

「まあ、楓さん。何かいいことがありそうですよ」

 緋毛氈を掛けた床几に腰掛けて草団子を注文したお澄美が穏やかに笑った。

 楓の目前に差し出された茶碗の中には茶柱が立って浮かんでいる。今もこの茶屋の主人から二人ともこの店の看板娘として働かないかと誘われたばかりだった。文吉の態度がはっきりしなくて、まだ正式な祝言を挙げていないお澄美は眉を剃っていなかったし、鉄漿で歯も染めていなかった。

 屈託無く笑うお澄美に対して、楓は自分でもわかるほどお義理の力ない笑顔を返すのがわかった。

「楓さん、そんな暗い顔してちゃ、看板娘になれないですよ」

 楓は蓬餅を頬張る明るいお澄美が眩しかった。

「三味線のお師匠さんは、お澄美さんのお母様ですか?」

「ええ、似てる?」

「……芸者さんなのですか?」

 口には出さないが、楓にとって芸者という職業に対しては卑賤な思いがあり、躊躇いがちにお澄美に聞いた。

「う~ん、ただ私が生まれるずっと前、自分じゃ日本橋一の売れっ子芸者だったっていっつも言ってるけどね。お父っつあんが三日と空けず半年通い抜き、一緒にならなきゃ死んでやるって泣き落としたの。だから今でもお父っつあんは、番頭さんや手代にいくらおっかない顔したって、おっかさんには頭が上がらない」

 口を押さえて笑うお澄美に楓は目を丸くして驚いた。楓はお澄美のことをまったく知らなかったことに気づいた。ただ八丁堀のお手先のおかみさんで情に細かくて明るい人だと思っていただけである。

「お澄美さんの家は、商家なのですか?」

 お澄美は、相生やと染め抜かれた前掛けを両手でヒラヒラさせながら、小間物問屋なのと笑った。楓は心の中でお澄美の母親を蔑んだことを恥じた。大店の女将さんではないか。

「お澄美さんって、あの相生屋のお嬢様?」

「お嬢様って柄じゃないけどね。はねっかえりはおっかさん譲りかも。口よりも先に身体が動いちまう。文さんに事情があってうちの店を辞めたとき、おかみさんになるって店を飛び出しちゃった」

 お澄美が舌を出して笑ったのと、楓が団子を喉に詰まらせて咳き込んだのが同時だった。楓には信じられない話だった。大店の一人娘が店も継がず、八丁堀のお手先のおかみさんになるなんて、そんなことが許されるのだろうか? 誰も反対しなかったのだろうか? そんなに自分の気持ちのまま世の中を渡って行くなんて、私にはできない。

「そう言えば、楓さんも今年の秋には祝言挙げるんだってね。うちの人から聞いたわよ。どんな人? お侍さん、それとも……」

「お澄美さんが羨ましい。わたくしもあなたのように生きてみたい。でも、そんなことわたくしには……できません」

 楓が目頭を押さえた。そして嘘なのだと言った。何のことかと訝るお澄美に祝言の話は嘘だと告げた。確かに去年その話はあったのだが、乗り気にならず返事を延ばしているうちに立ち消えになったという。

「どうしてそんなこと言ったの? 数馬様じゃ嫌?」

 楓が首を横に小さく振って膝の上に置いた手に視線を落とした。お澄美は残っていたみたらし団子を一個頬張った。

「この前の晩、たいへんだったのよ」

 お澄美が、数馬と文吉が連れ立って深川に飲みに行った時の事を話して聞かせてくれた。

「数馬様、風邪ひいてるでしょ。あれはあたしのせい。あんまりしつこくグダグダ言うから頭から水ぶっかけてやったの」

 楓は体が熱くなり、顔が赤らむのを感じた。数馬の気持ちは、薄々知っている。

「父上からやんちゃな頃の数馬様のお話をずっと聞かされていました。このたび数馬様が根岸の家に初めてお越し下さった時もずっと昔から存じ上げていたような気がいたしました」

「楓さんの心の中でずっと育ってきた数馬様と初めて会った数馬様は、楓さんの期待を裏切らなかったわけね」

「いやです。お澄美さん、そんな言い方しちゃ」

 楓は恥ずかしくて軽くお澄美の肩をぶった。だが、すぐに気が沈んだ。

「でも上意討ちをする側の息子と受ける側の娘が一緒になるわけには、まいりません」

 お澄の呆れた顔から楓は思わず目を逸らせた。たぶんにわざとらしかったが、この世の不幸を一身に背負ったように肩を落として今にも泣きそうな楓とは対照的だった。

「何年前の話に縛られてるのよ。好きな人と一緒になれなくて、一生その人を胸に秘めて生きていくつもり? あ~っ、やだやだやだ、わたしならそんなのまっぴらごめんだね」

 楓は自信なさそうにお澄美を見上げた。お澄美は笑いながら片方の手を楓の肩に置くと、優しく声をかけた。

「楓さんのお父上は、大切な人を守りたくて刀を抜いたんじゃないの。悪いのは、藩のえらい人の方じゃない。楓さんはお父上を誇りに思っていいはずよ」

「でも兵庫の小父様は、まだ上意討ちを……」

「まかせて。大先生はわたしの言うこと何でも聞いてくれるのよ。わたしがビシッと言ってあげる。いつまでもそんな昔のことに拘っていないでって。だって楓さんのお父上と大先生は親友だったんでしょ?」

 楓はお澄美に手を引かれて立ち上がった。

「善は急げ、大先生の所に行くよ」

 楓は今にも泣き出しそうになるのを我慢して、お澄美に引張られた。

 その時、来た道から文吉と佐平が血相を変えて一人の男を追いかけて走ってくる。三十前後の遊び人に見える男の足は速く、懐手に何か握り締めているようだった。丁度逃げる男が立ちはだかったお澄美を払いのけようとした時、すかさず楓が男の腕と肩を押さえ捻りながらその場に倒した。男は一回転して宙を飛んだ。

「すまねぇ、人通りが多くなって、掏りも増えちまった」

 息を弾ませながら寄ってきた文吉が、押さえつけている楓からその男を受け取りお縄にした。

「お為ごかしにご隠居の婆さんから財布を抜き取るなんざ、許しちゃおけねぇ。ふてぇ野郎だ」

 佐平が道に唾を吐き捨てながら掏りの男を引っ立てて行った。

「……楓さん、すごいっ! それよ、数馬さんも大先生も投げ飛ばしちゃいなさいよ」

 お澄美が目を丸くして驚いている。

「父は、男の子が欲しかったのでしょうね。小さい頃から、剣術の稽古などさせられていましたから。はしたない所をお見せしてしまいました」

「改めて御礼にお伺いいたしやす」

 頭を下げて番屋へ向かう文吉に、いってらっしゃいとお澄美が手を振りながら明るい声をかけていた。そんなお澄美を眺めているうちに楓の心の中に勇気がわいてくるような気がした。

――はい、投げ飛ばしちゃいなさいよ、ですね。


「わたくしは、嘘をついてしまいました。皆様を騙しただけでなく、自分の心を欺こうとしておりました。申し訳ございませぬ」

 兵庫の枕元で畏まって正直な気持ちを話す楓の隣で、お澄美は同じく兵庫に並んで正座している数馬に片目を瞑って見せた。時々懐紙で鼻をかむ数馬は、まだ目の前で起きていることを把握できないで、内心の乱れが戸惑いとして態度に表れている。

 楓は、胸の痞えをおろすように、何故牟礼藤九郎の娘であることを隠し、毎日通って来ていたのか、隠し立てなく率直に話した。それは、数馬への想いを告げることでもあった。

 兵庫は別段楓の話を聞いて驚く風もなかった。途中から数馬に支えられて身体を起こしていた兵庫は、穏やかに、そして気遣うように楓を労わった。

「楓殿が藤九郎の娘であることは知っていたよ」

 楓の表情が変わりお澄美を一瞬睨んだ。お澄美は慌てて手を顔の前で激しく振って否定した。楓の咎めるような視線に数馬も自分ではないと首を大袈裟に傾げた。

 兵庫が苦笑する。

「寝ていても、長屋の皆さんの噂話は聞こえてくる。お捨さんの声は大きいからね。まことに美しかった寿津代殿の若い頃にそっくりじゃな。寿津代殿は本当に良い娘御を育てられた」

 兵庫は目を細めて楓を見詰めた。

「父上もお人が悪い。知っていて黙っていたなどとは、言語道断。楓殿に謝るべきです」

 声の上ずる数馬を微笑み返して兵庫が楓に深く頭を下げた。

「藤九郎と久しぶりに話がしたい。ぜひ、この陋居にご足労願えないだろうか」

 緊張の解けた数馬がふうっと大きな息を吐いて、目に涙を一杯に溜めた楓を見つめた。

 翌日には楓に導かれて藤九郎と寿津代が吾妻橋の長屋を訪れて来た。

 土手に咲いた桜の花弁が風に吹かれて明り取りの窓から一枚入ってきた。

 娘の楓から話は聞いていたものの、藤堂兵庫の変わりように牟礼藤九郎は言葉が出ない様子であった。

「会いたかったぞ」

 寝たままでよろしいのではという数馬に手伝ってもらった兵庫は、何年ぶりかに枕屏風の後ろへ蒲団を隠し、羽織袴姿で正座していた。

 申し訳なかったと藤九郎は、隣に並んだ寿津代とともに頭を下げた。

「良き娘御を育てられたのう、藤九郎」

「数馬殿との件、娘より聞き申した。しかし、……」

 頭を上げた藤九郎が寿津代とその後ろに座っている楓と目を合わせた。しかし、藤九郎の思惑など無視するように兵庫が話を進めた。

「私は、かつて江戸に出てきたばかりの頃、おぬしを見たことがある。あれは、品川宿であった」

「昔、あのあたりに住んでおったことがある」

「ふむ」

 兵庫はその品川宿で、まだ生まれたばかりの楓を抱く寿津代と藤九郎を偶然見かけた。上意討ちを拝命した身なれば、その場に斬り込むべきかとも考えたが、もし、藤九郎を討ち果たした時、幼子を抱えた妻女のことを思うと忍びなかった。また反対に自分が返り討ちに遇えば、幼い数馬はひとりで残される。そんな考えが頭をよぎった瞬間、兵庫は武士であることに懐疑を抱いた。武士としての生き方への背信である。

 そして十五年の年月が流れた。月日は、兵庫と藤九郎の髪に白いものを増やしただけではない。

「六間堀にある我が藩の中屋敷をご存知か。江戸に来てどれほど時が過ぎたであろう。偶然近くを通りかかった時、旧知の中村新十郎に会った。藤九郎も知っておるであろう。御徒目付の中村だ。ここでは憚れると近くの茶屋に連れて行かれた」

 兵庫が藩を出て間もなく城代家老が失脚したと中村が告げた。その城代家老は、藩主派で事あるごとに藩主の弟の不祥事を隠蔽してきた。牟礼藤九郎の一件を利用した藩主の叔父に組する一派が藩主派の追い落としを謀り、一掃したという。藩主の叔父は自分の子を次期藩主に据えようと画策していたという。藩の情勢に疎い兵庫には全く別の世界の話であった。それに藤堂兵庫が藩主派に属していたわけではないが、剣術指南役の座も主権を取った一派の道場主に取って代わられたという。首尾よく上意討ちを果たし、帰藩しても兵庫にはもう居場所がないと教えてくれた。

「ならば、彼等にとって藤九郎は恩人ではないか、せめて上意討ちの藩命を取り下げよ」と御徒目付の中村に迫ったが、人を斬った罪は罪だと取り付く島もなかった。兵庫も藤九郎も体よく捨てられたのだ。少しは呵責する気持ちがあったのだろう、新藩主派となった中村新十郎は、茶屋の代金はよいからと、無邪気に膳の上の初鰹にむしゃぶりつく幼い数馬を一瞥して帰って行った。

 兵庫が軽い卒中で倒れたのはそれからすぐであった。初めの頃は新十郎も寝たきりになった兵庫を見舞い、幾許かの金を置いていったが、やがてぷっつりと来なくなった。江戸詰めの知り合いも多くいたであろうに誰も見舞いに来るものはいなかった。

「実は……拙者も頭に血が上っており、冷静な判断ができなかったのでございますが、その時の拙者を煽った者がいた。徒目付支配の者でござった。藩のため、奴は斬られねばならぬと」

 藤九郎が利用された悔しさに腿の辺りの袴をクシャクシャに握り締めた。

「お互い政事には、不向きなようじゃな」

 兵庫が寂しそうに我が身を笑った。十五年前の風化しそうな話である。藤九郎も声を出さずに力なく笑った。

「我々は何をしたのだ。そして、今まで何をしていたのだ」

 数馬には、目の前の二人が急に小さく哀れに見え始めた。あれほど颯爽としていた藤九郎も今は兵庫同様ひどく年寄りに見えてきた。二人の気の抜けた虚しい笑い声を聞いているうちに憤りが心の奥底から沸いてきた。

「何故、そのことを私に話してくれなかったのです」

 数馬の口調が詰問するように父を責めた。

「すまぬ」

「それにどうして、私を叔父上の元に遣わしたのですか? 叔父上には叔父上の暮らしがある。そっとしておけば良かったではないですか? 危うく私は叔父上と殺し合いをするところでしたよ」

 数馬の声が徐々に大きくなってきた。

「しかし、おぬしは刀を抜かなかった。吾妻橋で居合いの達人を竹光で倒したことを聞いて、おぬしの剣技が尋常でないことを知った。文吉親分からそのときの様子を聞いた時、わたしの最も手が良かったときよりもはるかに力が上だと感じた。藤九郎も年だ。若いころより手があがるはずもない。だからおぬしを藤九郎に向かわせたのよ」

 楓が入れてくれたお茶を兵庫は一口飲んだ。落ち着いた物腰の兵庫とは正反対に数馬は苛立っている。

「私を試したのですか?」

「そうではない。おぬしなら私が何もできずにいた十五年の決着をつけてくれると信じていたからだ。おぬしは武士としてではなく、人として生きておるではないか」

 諭すように訥々と話す兵庫の言葉に、数馬の顔色が変わった。

「だが、私はまだ武士という生き方を捨てられず迷っていた。妻の里久を呼び寄せるべきかどうか迷っているうちに里久は死んでしまった。だから後生大事に上意討ちの書状を捨てられなかったのかもしれぬ。だが、おぬしは破って捨てることができたではないか」

「兵庫殿!」

 藤九郎が膝をすすめて兵庫の手を取った。

「拙者は、兵庫殿を誤解していた。いつ上意討ちに兵庫殿が現れるのか、毎日そのことだけを恐れていた。なんとか寿津代と楓の三人の暮らしを守ろうと心の休まる時はなかった。もっと早く兵庫殿を捜し出し、会いに来るべきであった。許してくれ」

 兵庫は莞爾として藤九郎の手を握り返した。右手の力は入らなかったが、思いは伝わった。

「私ももう先がない。私が何もできずぐずぐずしていたのを数馬が救ってくれた。愚息は身の程も考えずどうやら楓殿を好いておるらしい。無粋な拙者が見ていても意気地の無さは目に余り歯痒くなるほどじゃ」

「父上っ!」

 数馬が父を制止しようとするが、兵庫は意に止めようとはしなかった。

「どうかその出来損ないの数馬に楓殿を娶らせてもらえぬであろうか? ずっと苦労をかけた息子へのせめてもの償いでござる。楓殿をぜひ藤堂家の嫁に迎えたい」

「何を申す。私の方こそ是非数馬殿にわが娘を……ふつつかで気の届かぬ娘でござるが、よろしくお願い申す」

 楓は畳に手をついて俯いたまま、声を出さずに泣いていた。数馬はそんな楓を盗み見た。震える小さな肩がいとおしかった。

 外の騒がしさに気づいた数馬は、「やれやれっ」と立ち上がると訝る楓の手を取り、表へ出た。立て付けの悪い障子を開けると、長屋の店子達が皆好奇心に溢れた顔で二人を取り巻いた。ずっと中の成り行きを見守っている。

「しょうがねぇなあ、紹介するよ。こいつが俺の女房だ。よろしくな!」

 数馬に肩を抱かれた楓が涙の止まらぬ笑顔で深々と頭を下げた。

「いよっ! 御両人っ」

 大向こうからの掛け声に皆がどっと笑った。大声は大工の女房のお捨だ。

 文吉の隣でお澄美が手を振っている。無口な楓と父を取り持ってくれたのは誰なのか、数馬も知っていた。

「俺が高砂を謡ってやろうか」

 一際背の高い鍾馗様のような大男が数馬の目の前に立った。

「ご迷惑ですよ。あなたが唸ったら長屋中の糠味噌が腐ります」

 その男の妻であった。正装をしている。

「八丁堀の旦那、どうしてここに?」

「文吉とお澄美の仲人を頼まれちまってよ。今日はその挨拶だ」

 なるほど、文吉とお澄美の後ろに相生屋の女将と旦那の姿も見える。

 島岡慶吾が数馬と楓の肩を叩いて豪快に笑った。腕の傷はもう完治したようだ。

 歓声がいつまでも止まない中、佐平が息を切らせて駆け込んできた。

「てぇへんだ! 文吉兄い」

 みんなの物好きな心が誘い出されて視線が佐平に集まる。小さなことでも大きくしてしまう佐平の毎度の台詞に文吉が苦笑いをして振り向いた。

「辰蔵親分が殺されるのを見ていたやつがいた」

 長屋中がざわめいた。文吉よりも慶吾が早く反応して人を押し分け佐平に近づこうとした。笑顔が消えて八丁堀の顔に変わっている。みんなに聞かせる話ではないと判断した文吉は、慶吾がいるとは知らずに飛び込み凍りついた佐平の袖を引くや吾妻橋に向かって駆け出した。

 それでも隅田川の運ぶ暖かい風は変わらず桜の花弁を吹き散らしている。

 

 

 

 

 

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― 新着の感想 ―
[良い点] 江戸下町の情景はこういうものかと想像することができ、ある意味、人情噺として読ませていただきました。 [一言] 素朴な疑問ですが、御用聞きは十手を持てなかったと覚えています。同心からして、「…
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