錬猫アーリーデイズ
由梨と理久が年齢一ケタのころの話。二人は母親同士が姉妹の従姉妹です。
「理久、いるかー」
「ノックから出直せばか兄貴」
理久は兄の額めがけて定規を投げつけた。
理久は四人兄弟の末っ子で、兄が三人いる。だが妹として可愛がられた記憶はほとんどない。兄たちは理久を弟のように扱っているのだ。普段は大して不満とは思わないが、九歳になる妹の部屋にノックなしで入る次兄・颯のデリカシーの無さだけは我慢ならなかった。
「だめだよ、理久。せめて消しゴムにしてあげなって」
「由梨ちゃんはやさしいな~。可愛い妹を持って幸せだわ、俺」
どうやら二人で宿題をしていたのだろう。理久と由梨はそれぞれ違う教科書とノートを広げていた。ここ数日、由梨は母親が出張中なので冬沢家で寝泊まりしている。
「由梨はいとこだろうが。妹は私だ」
「馬鹿言え。妹ってのは可愛いのが絶対条件だ」
理久の抗議に颯は平然と切り返す。実際、由梨は可愛い部類と言えた。クォーターの為か全体的に色素が薄く、顔もどこか日本人離れしている。さらに幼いころに父親と死別している境遇もあり、理久の兄たちは由梨を溺愛していた。ちなみに理久たちもクォーターだが、肌が白いことと手足が長いことを除けばみごとに日本人的外見だ。
「それで、どうかしたの颯お兄ちゃん。部活お休み?」
「ああ、そうだった。実は二人に意見を聞きたいんだよ。由梨ちゃんの意見なら絶対役に立つし、理久は……まあ、何かの間違いだとは思うが、一応は女だ。参考にならないこともないだろ」
「……定規じゃなくてコンパスにしとけばよかった」
意見と言うのは、先日できた彼女との初デートコースについてだった。颯は非常に惚れっぽく、常にだれかに恋をしていると言っても過言ではない。理久たち兄妹はその性質をあきれた目で見ているが、恋バナ大好きな由梨は大乗り気で意見を出した。
「あたしは、映画とかがいいかなー」
「映画か。最近は何かやってたか?」
颯はノートの切れ端(理久のノートから無断でちぎった)に(理久のペンケースから無断拝借したペンで)『映画』と書き込み、大きく丸で囲った。理久は思い出したようにぼそっと呟いた。
「駅向こうの文芸専門の映画館で面白そうなのをやってたっけ。このあいだ、図書館で原作読んでみた」
「駅向こう! いいんじゃないかな。最近、駅向こうにケーキが美味しいカフェができたらしいし」
「だが文芸専門か……いや、知的アピールするのにはいいかもな。何ていうタイトルだ?」
「『人形の家』」
目を輝かせる由梨に手ごたえありと感じたのだろう。ノートに切れ端に『駅向こうの映画館』『最近できたカフェ』『人形の家』と加えていく。
「わ、なんかファンタジーな感じ」
「どんなあらすじなんだ? 簡単に頼む」
「旦那に可愛がられるだけだった女が、自立するために旦那と家庭を捨てる話」
空気が凍りついた。どう考えても高校生の、しかも初デートに見る内容ではない。もちろん理久もそれはわかっている。単なる嫌がらせだ。小学生が読む本ではないというツッコミは不可だ。理久は暇さえあれば本を読むタイプで、ジャンル問わず。年齢制限さえなければ何でも読む。
「……え、えーっと、映画だけがデートじゃないし。そういえば理久の理想のデートコースはどんな感じ?」
「私? ……小学生だぞ。そんなの考えたことない」
内心冷や汗を出しつつ由梨が軌道修正を試みるも、理久の反応は冷たい。基本的に恋愛に興味が無い性格なのだ。それを知っているからか、颯も疑わしそうな目で理久を見ていた。
「でも、出かけてみたい場所とかあるでしょ? そんなのでいいから」
「出かけたい……来月、博物館である特別展に行こうかなとは思ってる」
「妹名乗るならもっと可愛いアイディアの一つも出せ!」
由梨のフォローに、ようやく理久が意見らしきものを出す。可愛げも色気もないそのプランにさすがに我慢がならなかったらしい。颯は理久の眉間に指を突き付けた。
「じゃあ、美術館でやってるピカソの特別展か、大学博物館の化石展。そういえば今度、三十年に一度の御開帳するお寺があったっけか。あとは……」
映画の件とは反対に、こちらは理久としてはかなり本気の意見である。家族旅行の時も遊園地より博物館や旧跡に行きたがる、とことん何かがずれた子供。それが理久である。
「どうしてもそっちなんだ。もっとこう、可愛い感じのない?」
「なら水族館。先週から深海魚の特別展やってるんだよ」
しぶしぶといった感じで言ったそれに、ようやく颯が安堵のため息をついた。
「なんだ、お前もやればできるじゃねえか! よっしゃ、それが無難だろ。イルカショーもやってるしな」
「うんうん。あそこ、お土産も可愛いのいっぱいだもんね。そうしなよ、お兄ちゃん」
「由梨ちゃんも賛成なら大丈夫だろ。 そんじゃ、邪魔したな」
どうやら水族館で決定らしい。颯は鼻歌交じりに部屋を出て行った。その背中を理久は冷ややかに、由梨は期待をこめた目で見送った。
「颯おにいちゃん、うまくいくといいねー」
「一カ月もたない方に来月の小遣い全部」
「理久ひどい……」
しかし、理久は過去の経験から自分の予測が当たると確信していた。
さて、結果だが。デート自体はうまくいったらしかった。しかし二人は一週間ともたなかった。なんでも彼女の方が転校生に一目ぼれしたのだそうだ。理久はそのせいで盛大なやつあたりを喰らい、『恋愛とはハタ迷惑でばかばかしいものだ』と魂に刻み込むことになった。